第11話
茜はシャワーを浴びに行ったので、速人は一人、テレビをつけてソファーに座っていた。さっきはヤバかったなと思い出す。最後の男を倒したとき、つい習慣で追撃しようとしてしまった。相手が倒れた瞬間、低い位置にある顔面を蹴り飛ばす。素人に対しては明らかにやりすぎに思える。ギリギリで止めることができた。誰も大怪我せずに済んだのが、彼には満足だった。やつらにもいい薬になっただろう。
しばらく一人でスポーツニュースなどを眺めていると、茜がシャワーから出てきた。濡れた髪が妙に艶っぽく、風呂上がりでも少しだけ化粧をしたのだろう。元々厚化粧ではなかったので、さほど違和感を感じなかった。それでも茜は恥ずかしそうに、こっちを見るなと言う仕草をした。
「八尋君も入って来なよ。何かピカピカ光ってて楽しいよ」
言う通りにして、シャワー室へ向かった。服を脱ぎ、浴室へ入る。確かにピカピカしていた。ジェットバスのボタンを押すと、七色に光るライトが点灯し、泡や飛沫と相まって幻想的な空間を作り出す。体の汗を流しながら、ふと腕のタトゥーに目をやった。
NEVER SAY NEVER。決して諦めるな。苦笑しながら、これを腕に刻んだ時のことを思い出す。あの頃はまだ何もわかっていなかった。速人の部隊は、海兵隊の中でも特に精鋭揃いで、各地に派遣された。東南アジアのある島で、ひどい劣勢状態の時、現地の住民がその言葉を教えてくれたのである。それで速人のような若い隊員たちが粋がって腕に彫ったというわけだ。ニコの腕にも同じものが彫ってあった。
今ではこれを見るたびに、仲間たちを思い出す触媒のようなものになっていた。かといって消してしまうのは絶対に嫌だった。ここらへんの心情は自分でもよくわからない。今の速人には辛い過去だったが、同時に誇りでもあったのである。
シャワーから出ると、茜はベッドの上で胡座をかいていた。いつの間にか眉毛などが整えられている。気にしなくても充分、可愛いのにと思ったが黙っていた。ベッドのヘッドボードにコンドームが二つ置いてあるのが見えたが、見えない振りをした。
「俺、ソファーで寝るからさ」
「えっ、別にいいのに。それ寝づらいでしょ」
「ソファーが好きなんだ」
我ながら訳がわからないと思ったが他に気の利いたことを言えなかった。
しばらく他愛の無い話をしていたが、やがて電気を消し、お互いにオヤスミと言って寝ようとする。速人はしばらく目を瞑っていたが、眠気は一向にやってこなかった。それでもそのまま暗闇の中で過ごす。茜の髪の匂いが鼻をくすぐった。
やがて我慢ができなくなった茜が口を開いた。
「ねえ、こっち来ればいいじゃん。あたしなら平気だよ。そんなとこに寝させてたら、あたしだって眠れないよ」
少し悩んだが、速人は立ち上がり、ベッドに入った。なるべく触れないにしたが、茜の方から近付いてくる。だが速人は目を瞑り、眠るふりをしていた。茜はジッと速人の顔を眺めている。
数分そうしていたが、薄く目を開けると、彼女がこっちを見て笑っていた。その瞬間を待っていたようだった。
「寝られないんでしょ? あたしだってそうだよ。さっきあんなことがあったから、まだ興奮してるのかも」
そう言って両手を出し、上を向いていた速人の顔と体を自分の方に向けさせた。
お互いが向き合う形になり、その距離はとても近くなっていた。
「だから色々、話そうよ」
そう言って彼女はニッコリ笑った。
「そう言えばお互い、聞いてなかったけどさ。彼女とかいるの?」
それは速人も気になっていたことだった。誘われたりしたので、彼氏がいないのかと思っていたが、知れば知るほど、そんな筈は無いだろという気になっていたのだ。本来なら最初に聞くべきだったが、急にこういう事態になるとは思っていなかったので、とりあえず棚上げしておいたのだ。
「俺はいないよ。ここ最近ずっといない」
「そっか。よかった。彼女いたらこれ問題だよね。って今更か。あたしはね……」
そこで彼女は意味深に押し黙った。
「ちょっと待ってよ。何か怖くなってきたよ。もしかして……」
「ふふ、冗談だよ。あたしもいないよ」
「本当に? そんな風に見えないけどね。だってモテるでしょ?」
速人は普通に聞いてみたのだが、何気ないその言葉が、ほんの少しだけ茜の表情を曇らせた。
「どうかした?」
「聞きたい?」
「差し支えなければ」
きっと話したいのだろうと思い、そう答える。
「実はね、三ヶ月前くらいに別れたばかりなんだ」
そしてそのまま、彼女は自分の過去を話し始めた。
「看護師だったって言ったでしょ? 同じ病院で働いてた人だった。事務員ね。今、思えばしょうも無い男だったけど、あたしっていつもそうなの。彼はね、あたしの方が収入が多いことを嫌がってた。あたしは全然気にしなかったけど、そういう男の気持ちはよくわかったの。だからいつも彼を立ててたつもりだったんだけど、それがよくなかったのかもね。いつからか彼にはあたしのすることがすべて気に入らなくなってた。何かして欲しいくせに、してあげると怒るの。ちょうど看護師の仕事が嫌になって辞めようと思ってたから、色々と一気に変えちゃったって訳」
言い終える頃には元の茜に戻っていたので速人は安心した。同時に達也ならここで気の利いた台詞を言うのだろうなと思う。そう思いながらも何も言えないでいた。
そのまま見つめていると、茜の少し厚めの唇に視線が向う。速人は自分の心臓が脈打つのを感じた。
二人とも無言になり、静寂が訪れる。
どちらとも言えずに二人の顔は近づき、唇が重なる。
何度もキスをして、速人の右手が茜の胸に伸びた。大きくて柔らかいそれに円を描くように手の平で触れる。しかし、彼の脳がその行為に集中することを妨げた。頭の中で色々な思い出がフラッシュバックした。やっぱりダメだ。結局、ここからは何も出来ないのだ。速人は茜の顔から自分の顔を離し、悲しそうな顔で彼女の顔を見つめる。
「どうしたの?」
何が起こったかわからない茜は、不思議そうに問いかけた。
「できないんだ」
怪訝そうな顔をする彼女に向かって繰り返した。
「だからさ、無理なんだよ」
極力、強い口調にならないように言う。当然だ。君に問題があるんじゃない。俺に問題があるんだよ。
「誰か、好きな人でもいるってこと?」
茜は速人の事情まではわからないのでとんでもない勘違いをしている。これ以上、彼女を悩ませるわけにはいかない。
「使い物にならないんだ。俺のは」
かなり露骨な言い方だったので流石に茜も意味を理解したようだった。
「それって、体の問題ってことだよね?」
彼女は言葉を選ぶように尋ねる。
うん、とだけ頷き、速人はベッドの上で胡座をかき、両手を前に投げ出して茜を見た。茜も目の前に座り直す。視線が一瞬、重なり合ったが速人はすぐに目を伏せた。
茜も子供ではないので速人の言う意味を理解していた。体の問題。そこで彼女は気が付いた。あたしったら。いつのまにかそういうことになっていたことに驚く。今まではこんなことは一度も無かった。何故だか、この目の前の男性には簡単に体を委ねてもいいと思ってしまっていたのだ。
「ずっとってわけじゃないでしょ? 体調とかの問題?」と聞いたが、彼は何も答えなかった。
茜にはわからないが、男にとってはとてもつらいことなのだろうと彼女は思う。それならそれでも別にいいのに。さっきは確かに、そのまま抱かれてもいいと思った。だが、それはあくまでも成り行きでそうなっただけで、それだけが目的なんかじゃない。そんなことで彼には傷付いて欲しくなかった。
どうしようと悩んでいると、ふと茜は速人の瞳を以前どこで見たのか思い出す。
時折、見せる悲しそうな瞳。
以前、看護師として働いていた時、事故や急病で亡くなった人をたくさん見ていたが、そこで同じような瞳を見ていたのである。
大切な家族が、いきなり事故で死んでしまったことを受け入れられない人の顔。
恋人が世界から消えようとしているのに、為す術もない時の絶望した顔。
子供が病気で苦しみ、まさに死を迎える時、代わってあげたいと真摯に願う親の顔。
それらの人たちの顔に、いつも浮かんでいた瞳だった。状況や立場は違えど、みんな見送るしかない無念さを秘めた目をしていた。諦めきれないことを諦めなければならない思いがそこには滲み出ていた。
そして茜は戦場から帰ってきた兵士たちも見たことがあった。体より心がズタズタになっている人もたくさん見てきた。彼らはそろって同じような悲しい瞳をしていた。
何故そんなに悲しい瞳をしているのだろう。
それについて知りたい気持ちはあったが、何も聞かないことにする。自分から話し出すのを待つつもりでいた。それよりも今の彼がどんなに屈辱的な気持ちでいるのかが気になり、少しでも早くそれを打ち消してあげたかった。どうしたらいいの?
「別に大丈夫だよ。何かごめんね。そんなつもりじゃなかったのに。ちょっと勢いがついちゃった」
よくわからないことを口走ってしまう。でも〝大丈夫〟という言葉は本心だ。
その言葉を聞いた速人は驚いたように目を上げ、少しだけ怒った口調で言った。
「何で謝るの? 俺が悪いのに。それにさっきは、二人で一緒に始めたんだよ。普通のことさ。俺が普通じゃないだけで」
「そんな風に言わないで」
彼女はそれだけしか言えなかった。そんな顔をしないでと思う。見ていられない。
駅前でならず者と揉めた時の彼とは別人のように見える。さっきの彼は、何事にも動じない男に見えた。刃物を出されても、笑みすら浮かべていたのだ。
それが今では、小さな男の子が迷子になって途方に暮れているように見える。茜は抱きしめてあげたくなる気持ちを抑えなければならなかった。今はやめておいた方がいい。
「とにかくさ、何も気にしなくていいよ。とりあえず寝ようよ」
今はその方がいい。きっと彼は眠れないだろうけど、これで少しは気が楽になるはず。
時には一旦放置した方がいい場合があることを茜はよく知っていた。
二人とも上を向き、眠るふりをして時間を過ごした。そのうちに速人は落ち着きを取り戻し、隣にいる茜に感謝していた。根掘り葉掘り聞くこともなく、ともすれば非常に気まずい事態になるところを軽く受け流してくれた。年の功かなと失礼なことを考えるが、一つしか年齢は変わらないのだ。きっと性格なんだろうと思い直す。
速人は自分の体が恨めしかった。正確には命令を出している脳が憎かった。不思議なことに自分でする時は大丈夫なのだ。自慰行為と性行為に何の違いがあるのかは速人には全くわからなかったが、女性を相手にすると使い物にならなくなるのであった。性的興奮で気持ちが高まってくると、脳がそれを妨害するように、戦場の記憶を引っ張り出してくるのだ。銃声やうめき声、中隊長の口元。頭の中がそんなもので渦巻いているうちにすっかり冷め切ってしまう。まるで脳が〝自分でするのは許してやるが、女は抱かせない〟とでも決めているかのようだった。
同じように眠ってないのだろうと思い、茜の方に顔を向ける。彼女は目を閉じていたが、気配を察してゆっくりと目を開けた。そして彼の方を見て小さく笑みを漏らした。包み込むような雰囲気が速人の口を自然と開かせた。
「俺はさ、人を殺したんだ」
ポツリと呟くように速人は言った。
いきなりのその言葉に茜はひどく驚いたが、そのまま黙って話を聞く。
海兵隊員としてクラブ戦役に赴いたこと、そして虹森島での戦い。順を追って速人は話し続けた。
「島について、俺たちは海岸に向かった。情報では十分対処できる数のはずだったんだ。俺たちは、いつものように成功を疑ってなかった。でも十五分後には仲間の血にまみれてたよ」
噛みしめるように話し続ける。ずっと茜は静かに頷き続けた。
「そのうち中隊長らもやってきたんだ。状況は最悪で全滅は必至だった。でも俺たちはそこから逃げ出すことはできなかったんだ。少しでも時間稼ぎをしないといけなかった。死ぬとかは意識しなかったよ。無我夢中で戦い続けてた。そのうち無線で呼ばれたんだ。そこへ行くと、まだ生きていた士官や古参の下士官が集まっていた。そして中隊長は海岸から撤退して、民間人の避難を誘導するよう俺に命令を下した」
今でも鮮明に思い出すことができた。反発する速人に向かってある一等軍曹が言ったのだ。
〝ここからは大人のパーティーなんだ。お前らガキ共はお断りだとよ〟
「結局、俺は残っている部下を連れてその場を離れるしかなかった。議論をしてる時間なんてないんだ。それに誰かが戻って、民間人を逃がさなきゃいけないのも理解できた。凄くうしろめたかったけどね」
何故、俺を選んだんだと速人はずっと考え続けていた。年齢、能力など色々な理由はあったにしろ、自分も残って仲間たちと一緒にいたかったという思いが離れることはなかったのである。
そして達也との出会いから、一週間の逃走生活に話が及ぶ。
そう、その時、俺は人を殺したんだ。
「その時、俺は一人だった。一人の方が見つかりにくいし、早く移動できる。弾薬が乏しくなってたし、無線が欲しくて海岸に向かったんだ。戦死者のが落ちてるはずだから。そこに着いた時、心底、来なきゃよかったと思ったよ。人柱って知ってる?」
クラブの人柱。茜は何かの雑誌で見たことがあると言った。透明のヌルヌルした小さなオベリスク。
「中には人が入れられていて、卵を産み付けられるって本に書いてあったわ。なんて恐ろしいことなのって思ったのを覚えてる。あれって本当だったんだ」
「本当さ、エイリアンの卵みたいにね。そこら中に、それが立ってた。中身はみんな仲間なんだ。中から食い破られてるのもたくさんあった。叫び声をあげそうだったけど、必死で我慢したよ。スコープでみんなの顔を見てたんだ。嫌で仕方がなかったんだけど、やめられなかった。みんな目を閉じて眠ってるみたいでさ。そして中隊長を見つけたんだ」
左腕は切断され、腹部はおびただしい出血で赤く染まり、ほとんど死体のように見えたのが思い出される。彼のあまりに変わり果てた姿は速人の脳裏に焼き付いていた。
彼は大尉で素晴らしい士官だった。通常、兵士と士官の間には壁があるものである。しかし彼の場合、それが存在するにしても、極めて薄いものだった。速人も部下の一人として可愛がられていた。三十五歳で子供は男の子が一人と女の子が二人。最高の上官だった。
「俺はジッと彼を見続けた。そしたら彼の目が見開いたように見えたんだ。意識があったとしてもこっちに気付くはずはないのに。そして口が動いていた。何度も何度も同じように。〝殺してくれ〟って」
その時、咄嗟に助けに向かおうとしたのを覚えている。しかしそれは不可能だった。周囲には数十匹のクラブが蠢き、見つかれば人柱が一本増えるだけだったろう。そうは思いながらも、本当に不可能だったのか? ビビってただけじゃないのか? とそれを思い出すたびに自問し続けてきた。
「撃たなきゃいけないって思ったんだ」
そしてその後を続けようとしたが、言葉が出なくなる。
「撃ったの?」
「撃った。銃声で場所がバレそうだったけど、そんなこと構っちゃいられなかった。そしてすぐにその場を離れたんだ」
まるで犯罪を告白しているかのような表情を浮かべて、速人は軽く息を吐き下を向いた。
茜は何も言わずに、下を向いて俯く速人の手をゆっくりと両手で包み込んだ。
何と言っていいかわからなかった。速人の手を包んだ自分の手を見つめる。
時間がゆっくりと進んだ。
「よくわからないんだ」
速人がやっと口を開いた。
「それから夢を見るようになった。同じ場面なんだけど、〝殺してくれ〟と言ってたり〝助けてくれ〟と言ってたりする。今ではどっちだったかわからない。隊長の口が動いていたことすら確信できないんだ」
絞り出すように言葉を紡ぐ。彼の目から大粒の涙が落ちていた。
無理もないと彼女は思う。たくさんの仲間の死。自分たちだけ助かったという罪悪感。さらに自分が慕っていた人間の命を絶つという残酷な経験。一人の若者がこれだけの重荷を背負わせられているのだ。
ありったけの涙を流していいのよ。声は上げず静かに涙を流す速人に向かって心の中で言う。
彼はずっと後ろめたかったのだろう。残酷な記憶に圧迫され、自分のしたことや起こったことを受け入れられずにいるのだ。それが罪悪感や強迫的な記憶の反芻を産み出し、色々な形をとって彼を苦しめるのだと彼女は感じた。生きていていいのか? 彼はずっとそれを自分に問いかけているのだろう。
そして彼を助けてあげたいと強く思ったが、何が出来るのかわからなかった。私はただの元看護師でカウンセラーじゃない。
それでも何かしてあげたい。握る手の力を少し込める。
「あたしにはあなたの悩みは消してあげられないと思う。けどね、思ったことを言ってもいい?」
真っ赤な目で、彼は茜の顔を見つめ、そして弱く頷いた。
「どっちでもいいんじゃないかな。〝殺して〟でも〝助けて〟でも。あなたはその人を救ったのよ。苦しみから救ったの。苦痛を消してあげた」
茜は必死になって言葉をつらねた。自分が伝えたいことの十分の一でも彼に届いてと願った。
「俺は怖くて、助けに行きたくなくて、それで勝手に頭の中で正当化したのかもしれない。本当は助けを求めてるのに、殺してくれと言ったと思い込んだのかもしれない。わからないんだ。全然、わからない」
きっとずっとそれを恐れていたのだろう。彼の体が震えているのを感じた。
「そんなはずない。絶対にないよ。あまりに辛いことだったから、そう思っているだけよ」
速人は唇を噛んで、茜を見据えていた。何がわかると言いたげだったが、構わず続ける。
「もしあなたが海岸に残ってたらどうなってたの? もしあなたが隊長さんを助けに行ったら彼は生きて帰ってこれたの?」
「わからない。多分、俺も死んでたと思う」
「そう。あなたもここにはいないし、島の人だってもっと亡くなってたかもしれない。もしかして誰も助からなかったかもしれないわ。隊長さんがあなたを選んだのは、きっと理由があったはず。あなたはキッチリと民間人を逃がした。自分たちが犠牲になってもね。ちゃんと責任は果たしたのよ。それが出来る人と見込んで選ばれたの。その後だってそう。あなたがいなかったら福永君とかも助からなかったかもしれない。あなたが生き残ったのは他に誰かが犠牲になったからじゃないのよ。あなたの能力かもしれないし、ただ運が良かっただけなのかもしれない。何も引け目を感じる必要なんてないのよ。あなたが生きていてはいけない理由なんてどこにもないの」
こんなことは彼はもう数え切れないほど考えたはずだ。それでも茜は言わなければいけないと思った。他人の口から発せられる言葉によって、心が楽になることはいくらでもある。
「隊長さんのことは辛かったと思うわ。あたしなんかがいくら想像しても、あなたの本当の辛さはわからないでしょう。でもね、絶対に間違ってないわ。あなたは彼の願いを叶えた。何て言ったかなんて問題じゃない。彼を解放してあげたのよ」
速人はそれを聞いても何も言わなかった。涙が止まる様子はないが、目を見上げて茜を見つめていた。
「あなただってわかってるはずよ。何度も自分に言い聞かせたはず。けどね、自分だけじゃ無理な場合だってあるのよ」
速人は両手で髪を掴み、手の平を自分の目に押しつけた。それが切っ掛けとなり嗚咽を漏らす。
茜は彼に近付き、頭を抱え込むように抱きしめた。速人の顔は柔らかい胸の中に包まれる。彼はそのまま赤子のように彼女の胸の中で泣いた。
それから二人は何も言わずにずっと過ごした。




