第1話(第一部)
戦闘服を着た男が、透明な柱の中で血まみれになっていた。
「殺してくれ」
スコープ越しに見える口の動きはそう言っているようにしか彼には見えなかった。
照準を心臓に合わせて、距離を頭の中で計算する。そうしている最中でも彼の目は口の動きばかり見ていた。引き金を引く。うなだれる頭。死亡したのを確認してその場を離れる。
これが八尋速人が繰り返し観る夢の内容だった。たったこれだけ。今朝もこの夢で目覚めた。
くそっ、いつまでこいつがつきまとうんだ。汗がびっしょりのシャツに気がつきながら速人は布団から出た。すぐに起きないとまた一日中、考え続けることになる。また何もしない一日になる。
汗に濡れたシャツを無造作に脱ぎ捨てる。均整のとれた体と、左腕の裂傷とその上にあるタトゥーが露わになる。新しいTシャツを探し、部屋の中を見回してみるとまた暗澹とした気分になった。元来、速人はきれい好きな方だった。これほど自分の部屋が荒れ果てているのは今が初めてだなと思う。時計を見ると十時近い。
ここ数ヶ月は彼にとってひどい時期だった。クラブ戦役から帰還して、英雄扱いされて各地でお偉いさんと握手し、ただ座ってるだけの講演やら何やら色々と引き回された。自分が英雄なんかじゃないことを誰よりも知っている速人には拷問に近い物だった。そのうち精神をやられ、強迫性障害やら鬱病やら、今までの自分では考えられないような病気になったりした。心療内科での受診、カウンセリング。何事も一度はやってみろ、とよく言うけれど経験なんかない方がいいに決まってる事柄はたくさんある。
そしてある日、必然としか言いようがないのだけれど、退役が決まった。彼の所属していた日本国海兵隊、通称J・M・C(Japan Marine Corps)の上司は、彼が隊に残れるように色々と手を尽くしてくれたが本人が無気力状態では手の打ちようがなかった。その頃には病状も一番ひどくなり、周囲の人間のみならず、自分自身ですらおのれをもてあますようになった。そして最終的にある事件を引き起こし除隊が決定したのだ。
速人は除隊の手続きをするために最後に駐屯地に行った日のことを思い出した。あれは全て手続きが終わった帰り道のことだった。ここに来るのも最後か、と思い正門前の喫煙スペースで煙草を吸っていた時、速人の訓練教官だった曹長に会ったのだ。偶然を装ってはいたが、明らかに嘘だった。その教官は厳しい人だったが、公平な人物で、訓練時にはかなり世話になった。怒鳴られたことは数え切れないが、いじめられた記憶は全くない。古き良き下士官。奥さんとののろけ話をよくする人だった。
「おう、久しぶりだな」
いつも挨拶は簡潔だ。
「お久しぶりです。曹長」
「辞めるそうじゃないか。まあ、色々あるだろう。お前のような男がいなくなるのは少し寂しいがな。まあ元気でやれよ」
「はい、曹長もお元気で。色々お世話になりました」
煙草を消し、その場から立ち去ろうとする速人の後ろ姿にもう一言やってきた。
「俺がお前らに教えたこと、覚えてるか? 馬鹿でも覚えられるように一つだけ忘れるな、と言ったことだ」
速人は振り返り、絞り出すような声を出した。覚えてる。そして俺たちは実践したさ。
「戦い続けろ、ですよね」
「覚えていたか、お前にしちゃ上出来だ。そしてだな、お前らはよくやったよ。本当に」
「どうでしょうか? 今はなんとも。いつそう思えるのかもわかりません」
「お前は昔から可愛げの無いことばかり言ってたよ。死んでいった仲間のことは忘れられないだろうが、その原因はお前のせいじゃない。いいか、お前のせいじゃないんだ。お前はまだ若い。まだこれからなんだ、言ってること、わかるな」
ただこれだけの会話をするために待っていてくれたのだ。もっともっと話したいことはたくさんあった。でも二人ともわかっていたのだ。今はその時期ではないと。それきり曹長には会っていない。
俺のせいじゃない、か。みんなにも言われた。自分でも言い聞かした。俺のせいじゃない。こういう状態になっている人間が自分一人ではないことも知っていた。世界中で何人いるだろう? あのくそったれなカニどものせいで。
海から最初の生物は生まれたという。その生き物も海からやって来た。下半身はタコに似た八本から十本の足が生え、上半身はまさしくカニだった。従来のカニと違うのは四本のハサミを持ち、背中に透明なゲル状の袋を全ての個体が背負っていた。身長は足が地面に広がった状態で二m近くあった。体重は二百キロを超す。接近すればそのハサミで人間なら真っ二つにされてしまう。
その危険な生物はいきなりオーストラリアとノルウェーの沿岸部に現れた。数百匹の奇妙で巨大なカニの群れがいきなり海岸から町に上陸し、大混乱と化した。それぞれの町の警察組織もあっという間に駆逐され、町は数時間でカニに占拠された。軍隊も出動し、爆撃でカタをつけようとしたが、偵察隊が持ってきた情報がその決断を困難なものにする。カニの背中にあるゲル状の袋に捕らえられた人間が入っているという信じられないような話だった。透明なので外からでも見えるのだが、確かに動いている人間もいて、まだ生きている可能性が高かった。それに加えカニはその袋を切り離し地面や建物の壁などに立て、人柱のようなものを町のあらゆる場所に作っていた。
生きた人間をカニが盾にしている。本能的な物であるのか、悪魔が知恵を授けたのかは、今に至っても分かっていないが、その不思議な人柱のために昔ながらの陸上戦力、歩兵隊が出動することになる。完全武装の歩兵隊なら、やつらと互角に戦えた。士気も高かった。現代戦において歩兵隊が存分に力を発揮する機会はほとんどない。しかも相手が人間ではなく未知の怪物。シチュエーション的には最高だった。カニの甲羅は硬いがアサルトライフルやマシンガンなどで十分打ち破れた。真正面から数人で弾幕を張ればカニも近付けなかった。
しかし運悪く最初に派遣された部隊は、カニにも飛び道具があることを知らなかった。ハサミの付け根、二本の爪の間に直径五センチほどの空洞があり、そこからカニの体内で硬質化された物質が、銃弾ほどではないが、人から命を奪うには十分なスピードで発射されたのである。防弾チョッキなどで防護しても助かる可能性は半々より少しましな程度であった。
住民たちもやられっぱなしではなく車で突撃したり、重機を操縦して叩きつぶしたりと戦ったが被害はどんどん拡大した。最初は獣や害虫駆除の延長の気分で出動した軍も戦争を意識するようになる。こうして後にクラブ戦役と呼ばれる戦いは始まった。
カニの背中の袋に入っている人間は、運良く救出されれば命は助かった。ショック死したりしてなければだが。兵士たちは背中に弾が当たらないようにと命令を受けてはいたが、目の前に簡単に人をバラバラにしてしまう生き物が現れた場合、普通、そんなことは忘れる。射撃の名人がどこにでもいるものでカニの飛び出した目や甲羅の継ぎ目などを効果的に撃ち抜き簡単に倒した例もあった。
人柱も救出が早ければ無事に至る例もあった。大体、三割から四割の確率で人柱や背中に背負われた人間は命が助かったのである。逆説的に言えば、それがもしほとんど助からないという確率であったなら、徹底的に空から爆撃を行い、兵士の被害はほとんど無しに近かったのではないかという皮肉な説もある。だが兵士という職業はその国の市民を守るのが建前の組織である。歴史的には前例はほぼ皆無に近いが。
人類以外との戦いにおいて、少なくとも個々の兵士たちは民衆を守るという建前を貫き通した。ノルウェーもオーストラリアもかなりの死者を出したが、上陸したカニどもは全て殲滅し、全ての人柱も回収した。最前線でカニと戦った兵士の三割から四割の兵士が戦死したのだが、この確率がカニに捕らわれた人間の生存率に近かったのは世界の人々の議論の種となった。
だが、これで終わりではなかった。パプア・ニューギニア、アメリカ西海岸、イタリア、南アフリカと世界各地でカニの上陸が始まった。その後も色々な沿岸でカニの姿が見られるようになる。アメリカ等は海兵隊や沿岸警備隊が即座に対応し、比較的に被害が少なく殲滅したが、そのような先進国ならまだしも発展途上国においては対応が後手後手にまわり被害が拡大するという事態に陥った。そこで国連主導で世界規模の軍が組織されることになる。何と言っても相手は人間ではないので、ほぼ無条件に各国が参加した。世界の歴史上、初めて人類が結束したのである。
もちろん日本も国防軍創設後に組織された旧自衛隊の水陸機動団改め日本国海兵隊、通称、J・M・C(Japan Marine Corps)を派遣。日本でも本土はもちろん小笠原諸島や日本海の舳倉島などの孤島にもカニが現れ、これを撃退した。このころからこの人類の敵は英語でカニを意味する「クラブ」や「デビルクラブ」「ゴッドクラブ」などと呼ばれるようになる。
このクラブ戦役は人道的な理由から爆撃が有効に使えず、歩兵隊が主力となり戦うという時代を逆行させる戦いとなったため各地で兵士の被害は増えていった。しかしそれは捕らわれた民間人を救うという理由があったため、兵士たちの士気は高かった。そして気高い兵士たちが多く死んでいったが、クラブももっと多く死んでいったのである。最初に現れてから二年近くたち、兵士たちもクラブとの戦いの経験を積み、ほとんどの場所で圧倒するようになった。そして新しい場所での上陸がほとんどなくなった。潜水艦などを駆使して海中捜索を強化し、その兆候がほとんど見られなくなくなり、ついに国連はクラブ戦役の終結を宣言したのである。
人類にとっては初めての団結であり、世界規模での共同作業であり、地球に住む人類という感覚を初めて感じさせる出来事であった。これをきっかけに世界は平和に向かって進むだろうという気運が高まっていた。
その一方で、帰還した兵士たちは色々な戦場でのトラウマに悩まされた。助けきれなかった民間人の死体の山。カニの人柱にされたまだ小さな子供。戦友がカニに真っ二つにされた光景。相手が人間ではなかったため、人を殺したという悩みはなかったが、相手が人間でなかったために、その残酷さは比類ないものであったのである。
そしてある種の人たちにはある考えを芽生えさせた。あのカニどもはどこから来たんだ? 科学者は深海にて突然変異を起こしたとか言ってるが、ちゃんちゃらおかしいぜ。あれは地獄からの来訪者に決まってる。地獄があるってことはそこに住む化け物はいるってことだ。あの狂ったカニどもと比べたら吸血鬼だってゾンビだって可愛いもんだぜ。異形のものは確かに存在するんだ。そうだ、そうに違いない。
そういう考えが世界的に広まった。
そろそろ新しい何かをはじめなきゃな、と八尋速人は思っていた。とりあえず現状は安定した仕事を失ったわけだ。今はまだささやかな貯金があるから大丈夫だが、そのうち尽きるだろう。しかし何をする?
速人は有名な大学を中退し、海兵隊に入隊した。そして戦いに行き、今に至る。正直、何ができるのか見当もつかないというのが本音だった。
死んだ方がよかったかな、と思う時も彼にはあった。しかし思った瞬間、打ち消す努力を始め、自分が生き残るために散っていった命があるのを思い出す。さらに憂鬱になるが、それでも生きる力をそこから絞り出そうとしていた。その繰り返しを続けてきたが、もう終わりにしたいと彼は思っていた。
もう普通に生きなきゃ。
時計を見るともうすぐ午後三時になろうとしていた。そろそろだ。数時間前に友人の福永達也から三時ころに家に来るという電話があった。達也は週に五回は速人のところに様子を見に来る。病院に行くのも、酒に溺れて延々と続く愚痴の海で泳ぐのもずっと付き合ってくれている親友であった。年齢は速人が二十五で達也が二十六だが学年は変わらない。幼馴染みとかではなく知り合ってから一年に満たないが、出会いが特殊な状況だったため昔ながらの親友のような存在になっていた。
チャイムも鳴らずにガチャッとドアが開き、勝手に達也が部屋に入ってきた。
「あら、おはよう。何も食べてないだろう?」
そう言ってコンビニ弁当の入った袋を軽く持ち上げる。
「おはようじゃないよ。とっくに起きてる」
速人は無遠慮にその袋を掴み取り中身を見る。速人は確かに朝から何も食べていなかったので空腹だった。買ってきてくれた弁当を食べながら、昨日の野球がどうだのと他愛のない会話を始めた。ほとんどいつもと同じ流れだった。
「速人さ、これからどうすんの? 仕事とかさ」
「何かしなきゃとは思ってるんだけどさ、よくわからない。雇ってくれるところがあるといいんだけどな。ただの戦場帰りだからなあ、俺」
「まあまあ、そう言うなよ。確かに役立たずだけどさ。向こうじゃあんなに役に立ってたのにな」
「役立たず言うな。確かにそうだけど」
速人は苦笑しながら言う。
「実は今日は耳寄りな情報を持ってきたんだ。これ見てみて」
達也は尻のポケットからネットからプリントしてきたらしき折り畳んだA四の紙を取り出し、広げながら手渡した。
「S&Sカンパニー? ああ、最近よくTVCMやってる会社だろ。何か冴えないおっさんが歩いていて、画面にキーボードのSHIFTキーが出てきて、急にスーツ姿のビジネスマンに変わるやつ。大企業じゃん。何やってる会社か知らないけど。まあ俺には縁のないとこだろう。お前が受けるの?」
「そうじゃないんだ。ここ金融とか物流とかネットビジネスとか色々やってる会社らしいんだけどね、帰還兵とかを一定の割合で雇用してるらしくてさ。こないだ国から勧告があったじゃん。そのお達しをちゃんと守ってるらしい。それでどうかなって思ってさ」
速人は軽く頷きながらそのプリントを見る。特に興味は引かれないが、初任給が海兵隊で貰っていた給料より高かった。と言ってもあっちは衣食住つきだったが。少なくともこの会社ならカニに殺されることはないだろう。
「仕事の内容を選ぶ必要もないだろ? 何だってやれるよ、お前なら。俺も何だっていいしね。ニコにも声かけようぜ」
「ニコに声をかけるって? あいつが会社員? ありえないだろ。大体、試験なんか受けるとは思えない」
ニコとは田上雅夫という男のニックネームである。彼は速人の戦友で、今では速人と同じく退役している。
「実はもう連絡してあるんだ。速人が受けるならニコもやるってさ。どうせ暇だからって言ってたよ」
「それにしてもお前が受ける必要なんてないだろ。親父さんに頼めばいくらでも就職なんてできるだろ?」
達也は上目使いに速人の方を見ると同時に軽く首を傾げる。
「だったらお前のことも親父に頼んでいいか? それなら別にいいんだけど。こないだそれを言ったらダメだって言っただろ。うちの親父に迷惑かけたくないって。確かにお前はたまにとんでもないことをしでかすからな。だから探してきたんだよ。それになるべくなら俺も家には頼りたくないんだ」
確かにそういう会話をしたのを速人は覚えていた。達也の言う〝とんでもないこと〟にも心当たりがある。
福永達也は大財閥である福永コンツェルンの末息子だった。兄が二人、姉が二人いる。一番上の兄とは一回り以上、年が離れているのもあって両親から大分愛されて育ったらしい。だが金持ちにありがちな嫌みさはなく、むしろそれがいい方に影響した数少ない実例だった。大らかで人に優しく、俗に言う器量が大きい人間なのだ。兄弟もそろって立派な人物らしいので福永家の教育は大成功と言える。
「家に頼りたくないだって? そんなこと初耳だぞ。大体、自分の家なんだから別にいいじゃないか。どんどん頼れよ。親父さんだってその方が嬉しいだろ」
速人は一度だけ達也の父親に会ったことがあった。
ある事件を起こし、その後始末を達也の父親がしてくれたのだ。もちろん速人が頼んだわけではないが、それでも一言お礼を言いたくて彼の家へ赴いたのだった。
その時、速人が思ったことは一つ。金持ちが嫌なやつだって思い込むのはやめよう。
「初耳だとは思うよ。初めて言ったから。別に変な意味じゃないんだ。家は好きだし、親父も尊敬してる。だけど俺もたまには自分の力で仕事を探して働いてみたいんだよ。まあ金持ちの息子の思いつきってやつさ」
幾分かは本心が入ってるとは思うが、それを額面通りに受け取るほど速人は頭の回転が鈍くなっていなかった。医者に色々な薬を飲まされ、悪夢に悩まされ続けても。
速人は友人の優しさを素直に受け入れることに決めた。
そうと決まればやることは早いほうがいい。採用されれば、四月からは会社員。それも悪くない。
「で、こいつはネットから申し込みができるのか?」
達也がニヤッと笑みを浮かべ、PCの起動スイッチに手を伸ばした。




