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旅立ち

本来は短編の予定でしたが、思っていたよりも長くなったので分割しました。

 

 気候の穏やかな春が過ぎて梅雨に入った。

 じめじめとした暑さを少しでも和らげる為、昨日までの装いを夏服に切り替えた日の昼。

 俺は昼食を求めて街をぶらつく。


 今日は色々と新しい一日。

 気分も一新して、いつもと違う店を開拓してみようと思い立った。


 暑い日だから冷たいものという考えはよろしくない。

 俺の胃腸は意外とデリケートなのだ。

 かといって辛いものや麺類もパスしたい。

 熱過ぎる汁系は、汗かきで加齢臭が気になりだした俺にはちとキツイ。

 午後の職場でバイオハザードが起これば、女子社員から苛烈な精神攻撃を受ける事必死だ。


 そんな事を考えながら、結局いつもの店に行こうかと思い始めたとき、一軒のイイ感じに小汚い定食屋の立て看板が目に入った。


 『今日のオススメランチ 500円 ご飯大盛り可・おかわり一杯まで可』


 給料の安い中小企業の一サラリーマンとしては、とてもアリガタイ価格設定で、いつもの定食屋よりも180円ほどお安く、しかも大盛りはともかくおかわりが自由では無いにしても一杯でも可能というのは成人男性にとって頼もしい味方だ。


(これは良い店を見つけたな。今日はここにしよう)


 いつもの店よりも少し遠いが、もしあちらと同等以上の満足感を得られるならば、これからはこちらをご贔屓させてもらうかもしれない。


 ちょっとした発見の喜びと期待を噛み締めながら日除けの暖簾をくぐり、年季が入って少し重くなったガラスの引き戸をガラリと開いた。


「いらっしゃい!お一人様ですね、奥の席が空いてますよ!」


 店のおばちゃんが大きな声で誘導する。

 ウェイトレスなんて気の利いたモノは存在しない。

 年の行った夫婦が2人で切り盛りしているようで、作り手と配膳係りを兼任していた。


 狭い店内は人が多くてかなり込み合っており、列こそ出来ていないものの、空き席はおばちゃんが示してくれた壁と向き合う形のカウンターが一席分だけだった。


 お冷はセルフで冷水機から入れるタイプの店で、何度も御代わりを要求するのが気が引ける水飲みの俺としては、2~3人で一つの水差しを共用したり、おばちゃんに直接頼まなくて良く、他人を気にしなくて良い分だけ好感が持てる。しかも勧められた席は冷水機近くのベストポジションだ。


(こいつはさっきから運が良いな。この込み方なら不味いって事はないだろうし、並ばずに済んだのもラッキーだ。あとは今日のランチとやらが何か次第だが、今のところは俺の理想に近い店だ)


 箸休め用の黄色い刻みタクアンとキュウリの醤油漬けが置いてあるのも非常にポイントが高い。

 どれも毒々しいまでの着色料の色をしていたが、こういうチープな味こそが定食屋の醍醐味で、昨今では経営が苦しい為か置かれていない定食屋も増えてきている。


(これは食後にお茶を頼まなければな)


 置き漬物がある場合の定番として食後に茶漬けをするのが、男にとって甘味よりも余程気の利いたデザートである。

 問題は、湯飲みが無いのでお茶がもらえないかもしれない事だが、その時はご飯をお代わりせずに大盛り一杯で済ませるだけの事だ。


「お客さん!注文!何にします?」


 先ほどのおばちゃんがこちらも見ずに、料理を作りながら大声で御用聞きしてくる。

 本来なら重大なマナー違反。と言いたい処ではあるが、店内の状況・営業形態・客層を見るに、ココはそういうのがウリの店であると判断する。

 水すらセルフにしなければならないのだ。本来はもっと込み合って忙しい店なのかもしれないし、この方が効率的で、結果としてお客様を待たせないというサービスに繋がっている。

 虚飾を廃し、実利でお客様を満足させようという店側の経営理念を垣間見たような気がした。


「『今日のランチ』をご飯大盛りでお願いします」


 慌てて俺はメニューも見ずに反応してしまった。

 一瞬、後悔の感情が胸中を過ぎるが、


(いいや、それで良い。それが昼時の定食屋における最良の選択なのだ)


 下手にメニューを見てしまえば、折角格安のランチで済ませようとしているのに、高額の注文をしてしまって損な気分を味わいかねない。

 それにこういう店は回転率こそが命だ。

 そもそも『今日のランチ』とか『日替わり定食』などというものは、作業の効率化と食材フローの簡易化とロスの削減の為に開発された画期的システムだ。

 店は忙しい昼の時間帯に客を回せて薄利多売で損益を減らせて嬉しい。

 客は安くて早く、大量生産ゆえの安定した味を保障されて嬉しい。

 ウィンウィンの関係。

 他の客より高価なメニューを頼む事で優越感を得ようとするのは、愚行の極みと言うものだ。


「ランチ1つご飯大盛りね!少々お待ちください!」


 オーダーが通った。

 短い昼休みのひととき。通常、待ち時間は苦痛でしかないのだが、今は全く気にならない。

 何故ならこの店は作り置きをレンジでチンする様な意識の低い店では無いからだ。

 その証拠に耳を澄ませば、厨房から油がパチパチと跳ねる元気の良い唄が聴こえて来る。

 恐らく今日のランチは揚げ物。

 しかもあの揚げ音から察するに、肉では無く魚介系。

 水分を多く含む魚介系は、油の中に入れた瞬間に素晴らしいソプラノを奏でるのだ。

 それが分かるからから待ち時間すら楽しめる。

 かつてある文豪は、『うなぎ屋は待ち時間こそ楽しむもの』と言ったそうだが、この一見安っぽい定食屋にも、それに通ずる価値があるのだと理解している常連も多いはずだ。


 壁を見詰めながら、待ち時間を背中から響いてくる揚げ物の歌声に聞き入り、無意識に置き漬物に手を伸ばしハタと気付く。


(ああ、水を未だ汲みに行っていなかったな)


 ご飯も水も無い状態で置き漬物に手を伸ばすのは、砂漠に水無しで挑むようなもの。

 醤油漬けの甘塩っぱさは、水やご飯というおおらかな受け手が居てこそ生きるのだ。

 己の不明を反省しながら、冷水機にプラスチックの透明なコップをセットして給水ボタンを押した。

 

(うんっ?おお、なんということだ!?)


 注ぎ口から流れる液体の色は無色透明――ではなかった。

 驚いた俺は周囲を見渡し他の客のコップを確認するが、その全てが黄金こがね色に輝いていた。

 

(これはまさか、もしかして!?)


 俺は恐る恐るコップの中の液体に鼻を近づけ、その匂いを嗅ぐ。

 香ばしい匂い。そう、これは麦茶だ!只の冷水では無く麦茶が入っていたのだ。

 なんというサプライズ、そしてなんという心遣い。

 しかもコレが『麦茶である』という事は、先ほどの俺の心配事も解消されているという事を意味しているのだ。


 そう。


 これで誰に気兼ねすることなく『食後のお茶漬デザートけ』を楽しむ事が出来るのだ。

 微に入り細に入った数々のもてなしに畏敬の念を覚え、来るべき『今日のランチ』との邂逅を想うと踊る心が止まらなかった。


「お待たせいたしました!『今日のランチ』ご飯大盛りね。おかわりが要る時は声を掛けて下さい」



―――――



(ご馳走様でした)


 俺は心の中で最大限の感謝を送った。

 全てが完璧。

 究極にして至高。

 俺の定食人生最大のビッグインパクト(重複表現)だった。

 

(満たされた。心も胃袋も)


 心地よい食後の倦怠感に包まれながら、至福の一服。

 もっと長くこの感動に酔いしれていたかったが、残念なことに店の外には列が出来始めていた。


 定食屋での長居はご法度。

 先に食べ終えたものは者は、どんなに名残惜しくても後に続く者に席を譲らねばならないのが定食屋の常識。それはこの店においても同じである。


 後ろ髪を引かれる思いに別れを告げる為、いざ支払いとズボンの尻ポケットに右手を伸ばして気付く。

 いつもズボンの尻ポケットに収まっているはずの膨らみが無いことに。

 

(落とした!?……いや、違うッ!)


 おぼろに記憶を辿って行くが、俺は今日ココに至るまでに一度も財布を出してはいない。

 そもそも今になって気付いたが、最初から財布の重みが無かったような気すらする。


(そうだ、衣替えだッ!!)


 今日は暑いから夏服に着替えた。

 その時財布は何処にあったか?


 もちろん『昨日まで履いていたリビングの椅子に掛かっているであろう厚手のズボンの尻ポケットの中』だ。


 通勤用の定期券と財布を別にしていた事が祟った。

 財布に定期w入れていれば、駅に着いた時に気付けたはずだった。


 今日が月曜ジャンプでも水曜サンデーでもない事も裏目に出た。

 この時まで一度も財布を出さずに済んでいた事が、この醜態に繋がっている。

 

(ダメだ!このままではお金が払えない。無銭飲食になってしまうッ!!)

 

 それは余りにもおぞましい事だった。

 無銭飲食――人としてあるまじき最低の行為だ。

 おいしい食事と至福の時間を頂いておきながら、その代償も感謝も払わずに踏み倒す。

 店の好意と尊厳を踏みにじる悪魔の所業だ。


(そんなつもりはなかったんだ!)


 心の中で葛藤するが、そんなのは所詮こちらの都合。

 故意であろうと無かろうと、店にとってはどちらでも等しく同じ行為であり、償うべき罪である。

 このままでは確実に警察を呼ばれてしまう。

 ……いや、そんな事が重要なのではない。

 俺はここまで尽くしてくれた店主達を悲しませる事こそが許せなかった。


(そうだ!携帯で連絡してお金を持ってきてもらおう!)


 なんでそんな簡単な事に気付かなかったのだろうか。

 同僚にでも連絡して借りれば良いのだ。

 確かに恥は掻くかもしれないが、それはほんの一時の事。

 恩に報いることの出来ない痛みに比べれば何と言う事もないのだ。


 そして早速連絡しようとしてポケットに手を伸ばした瞬間、とんでもない事実に気付いた。


 そう。

 尻ポケットは左右併せて2つある。

 俺はいつも右のポケットに財布を入れている。

 そして左のポケットには――携帯電話を入れているのだ。


 孤立無援。万策尽きた。

 

(誰か、誰でもいい、神でも悪魔でもなんでもいいから俺を助けてくれ!!)


 俺は目を瞑り、必死になって奇跡が起こる事を望んだ。

 

 願いはナニカに聞き届けられた。


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