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私との復縁が決まっているそうですが、初耳です

作者: パリトン
掲載日:2026/10/25

私との復縁が決まっているらしい。

 そう教えてくださったのは、元婚約者ではなく、私に新しく縁談を申し込んでくださった方だった。朝食のあとに届いた手紙を、私はもう一度、最初から読み直した。差出人はトリスタン・ベルネ様。末尾には、お二人のご幸福をお祈りします、とある。


「お母様。私、リュシアン様と復縁するのでしょうか」


 向かいで茶を飲んでいた母が、カップを置いた。


「あなたが私に聞くことなの?」

「お返事をした覚えはないのですが」

「お申し込みは?」

「そちらもありません」


 母は差し出した手紙を読み、途中で眉を寄せた。私は膝に広げていたナプキンを畳む。角を合わせたつもりなのに、一枚だけずれていた。やり直しているうちに、指先が冷たくなってくる。

 トリスタン様は五日前、両家を通して私に面会を申し込んでくださった。婚約解消からまだ日が浅いので、急いだ返事は必要ないと添えて。父も母も、まずは私がどうしたいかを聞いてくれたので、少し考えているところだった。

 その間にリュシアン様が、彼に伝えたという。私たちは復縁することになっている、と。


「こちらから先にお返事をしていれば、こんなことには……」

「考える時間を取ったあなたが悪いわけではないでしょう」


 母の声に、私はナプキンから顔を上げた。


「何も決まっていないのでしたら、ベルネ家にはそうお伝えします。あなたはどうしたい?」


 どうしたい。

 昨日も考えていたことなのに、今日はずっと答えやすかった。このまま手紙を片づけたら、私が会いたいと思ったことまで、なかったことになる。それは嫌だ。


「お会いしたいです。私から、お返事を書きます」


 母は頷き、手紙を返してくれた。

 部屋へ戻り、便箋を出す。復縁の予定はないこと、お待たせしたことへのお詫び。それから筆が止まった。これだけでは、トリスタン様は礼儀正しいお返事をくださって、この話を終わりにしてしまうかもしれない。

 私はインクをつけ直した。

 もし、まだお気持ちが変わっていなければ、一度お会いしたいと思っております。

 書いてしまってから、胸がどきどきした。求婚をお受けすると書いたわけでもないのに、すぐ封をする勇気が出ない。三年前の婚約は家同士で話が進み、私は、リュシアン様がよろしいのでしたら、と答えただけだった。


 そのリュシアン様に婚約を破棄されたのは、ひと月前だ。

 侯爵家の令嬢と縁談が進んでいると、私の家の応接間で告げられた。彼女とは話が合うのだと。それが両家にとっても望ましいことなのだと、リュシアン様は落ち着いた声で説明していた。

 私は、膝の上で両手を重ねて聞いた。席を立つ前に一度だけ、考え直していただけませんか、とお願いした。


『気持ちは変わるものだ。君にも分かってほしい』


 彼は困ったように眉を下げていた。私が頷くと、安心した顔になった。

 帰ったあとで泣いたことは、彼には知られていない。翌朝、目を冷やす布を持ってきてくれた母に、しばらく部屋にいてほしいと頼んだことも。指輪を箱に戻すのに、何度も蓋を開け直したことも。

 けれど、指輪は返した。両家で婚約解消の手続きも終えた。毎週書いていた手紙もやめた。彼に話したくなることはまだあったけれど、そのたびに、もう届ける相手ではないのだと思い直した。

 あの日、引き留めた。それがどうして、今も待っているという話になるのだろう。

 私は便箋を読み返し、封をした。封蝋が固まるまで待つ間にも、書き直そうかという考えは浮かばなかった。


     *


 トリスタン様は、約束の午後、我が家を訪ねてくださった。

 母が同席する中で事情を説明すると、彼は私の話が終わるまで口を挟まずに聞いた。以前、知人の家で会ったときと同じ、少し背筋の伸びすぎた座り方をしている。こちらまでかしこまってしまい、私はカップを両手で持った。


「お返事をいただく前に、話を終わらせようとしてしまいました。申し訳ありません」

「いいえ。あのようにお聞きになれば、仕方ありません」

「昼食会で、あなたに面会を申し込んだと話したのです。彼は最初、まだ早いと笑っていました。あなたは今も自分を待っているから、と」


 私はカップを持ったまま、彼の顔を見た。


「それで、復縁すると?」

「いいえ。私が、ご両親には取り次いでいただいたと答えてからです。彼は笑うのをやめて、もう返事が来たのかと聞きました。まだですと伝えると、待つ必要はない、復縁が決まっているからと」


 母が私を見た。私は首を横に振り、カップを置いた。そんな話は、一度もしていない。

 別れを惜しんだ私を、彼は今もそのまま待たせているつもりなのだろうか。私はひと月かけて、手紙を書くのをやめ、休日の予定を自分で立てるようになった。その間に、彼から連絡はなかった。

 次の相手が現れた途端に、私の返事を勝手に決める。これでは戻っても、私が何を望むかは聞いてもらえない。


「復縁するつもりはありません。リュシアン様にも、そうお伝えします」

「承知しました。では、私の申し込みについては、改めてあなたのお返事をお待ちします」


 そこで話を終えようとなさったので、私は慌てた。面会をお願いしたのは、訂正だけをするためではない。


「その、お返事の前に、もう少しお話ししてもよろしいですか」


 彼の肩が、わずかに下がった。


「もちろんです。私も、そのために来ました」


 ようやく目が合って、二人とも少し笑った。母がお茶を勧めてくれたので、私はもう一度カップを取る。さっきまで熱くて飲めなかったのに、今度はちょうどよかった。

 トリスタン様とは、春の観劇会で一度、長く話したことがある。芝居の幕間、登場人物が隠れた戸棚について、あれは狭すぎるのではないかと私がこぼしたのだ。彼は舞台の端を見て、奥の壁が動くのでは、と答えた。母を待つ間、二人で真剣に戸棚の幅を考えた。

 思い出して話すと、彼は笑いながら頷いた。


「帰ってから弟に話したら、見るところが違うと言われました」

「私も、お母様にそう言われました」

「私は、あなた方が何をそんなに楽しそうに話しているのか、気になっただけよ」


 母が口を挟み、トリスタン様まで声を出して笑った。

 あのときも、彼は私の話を面白がってくれた。婚約者がいる身で長く引き留めてはいけないと思い、すぐに母のところへ戻ったけれど、帰りの馬車では、もう少し話したかったなと思ったのを覚えている。


「あれから、何かご覧になりましたか」

「いいえ。来月の喜劇は、見に行こうかと思っています。あの戸棚の役者さんが、今度は宿屋の主人を演じるそうで」

「それはまた、何かに隠れそうですね」

「今度は人を隠すほうかもしれません」


 筋書きの載った小冊子が机にある。持ってこようとして、私は一瞬ためらった。リュシアン様なら、そういう芝居は子どもっぽいと言っただろう。二度誘って断られてからは、彼の前で話題にしなくなった。

 けれど、今向かいにいる人は、宿屋ということは部屋がいくつもあるのだろうか、と尋ねている。私は小冊子を取ってきた。挿絵を見せながら、部屋を間違えた客たちが騒動を起こす話らしいと説明する。


「……すみません。私ばかりお話しして」

「まだ聞いています。そこの、窓から出ようとしている人は?」


 彼の指が挿絵の隅を示す。私はもう一度冊子を覗き込んだ。そんなところに人がいたのは、気づかなかった。

 お茶が二杯目になり、帰りの馬車を呼ぶ時間になってから、私はようやく言えた。


「もしよろしければ、ご一緒しませんか」


 トリスタン様は、立ちかけていた腰を戻した。


「そのお芝居に?」

「はい。お好きでなければ、ほかのものでも」

「それがいいです。あなたの話を聞いて、見たくなりました」


 私が誘って、彼が来たいと言ってくれた。

 それだけなのに、顔が熱い。母を見ると、澄ました顔で空の菓子皿を侍女に渡していた。


「では、公演日を確かめておきます。次の土曜日、叔父の夜会にいらっしゃいますか」

「ええ。母と伺います」

「そこでご相談しましょう。……あなたがお嫌でなければ、一曲も」

「はい。そちらも、ぜひ」


     *


 リュシアン様には、父から彼の父君へ、復縁の話は事実ではないと連絡してもらった。私も、復縁の意思はないことと、トリスタン様に伝えた話を訂正してほしいことを手紙に書いた。

 返事は夜会の前日に届いた。

 そんなに意地を張らなくてもいい。土曜日に会って話そう。

 読み終えて、私は封筒の表を確かめた。間違いなく私宛てで、筆跡も見慣れたものだ。こちらの手紙を読んで、この返事を書いたのだと思うと、どう説明し直せばよいのか分からなくなる。

 母は、夜会を休んでもよいと言ってくれた。私は、トリスタン様との約束があるからと答えた。


 会場で彼を見つけたのは、二曲目が終わる頃だった。挨拶の輪から抜けてきたトリスタン様は、私の前で足を止め、少しだけ迷ってから言った。


「こんばんは。とても……その色が、お似合いです」

「ありがとうございます。私も気に入っています」


 彼がもう一度杏色のドレスへ目を落としたので、選んでよかったと思う。

 一曲踊り終え、母のいる席へ戻る途中だった。トリスタン様が公演日を確かめてきたと言いかけたところで、聞き慣れた声が割って入った。


「イネス。来ていたのか」


 リュシアン様だった。濃紺の上着も、胸元の留め具も、以前と同じ。私は反射的に彼の腕から手を離しかけ、それがトリスタン様の腕だと気づいて指を戻した。


「こんばんは」

「ちょうどいい。少し話そう」


 私が答える前に、彼はトリスタン様へ顔を向けた。


「先日、お伝えしたはずですが」

「その件なら、私からも伺いたいことがあります」


 トリスタン様は足を止めたまま、私を見た。私は彼の腕から手を下ろし、リュシアン様に向き直る。


「私と復縁が決まっていると、お話しになったそうですね」

「ああ。余計な行き違いにならないようにね」

「初耳でした。私がお断りした手紙は、お読みになりましたか」


 近くにいたご夫婦の会話が途切れた。リュシアン様はそちらを一瞥し、笑みを作る。


「イネス。その話は二人でしよう」

「トリスタン様に誤ったお話をなさったのですから、こちらで訂正してください」

「彼女は、まだ怒っているんです」


 私ではなく、トリスタン様に向けた声だった。


「婚約のことで傷つけたのは、私も分かっています。少し時間を置けば落ち着くと思っていたのですが」


 頬が熱くなった。私は問いかけているのに、その私をなだめる方法を、目の前で別の人に説明している。

 胸元の飾りに手が触れた。指先を下ろし、私は息を吸った。


「怒っているから、今のお話をしているのではありません。復縁を承諾していないので、訂正をお願いしています」

「だが、君だって別れたくないと言っていただろう」

「はい。婚約を破棄された日に、一度だけお願いしました」


 そこを否定することはできない。私は本当に好きだったし、彼との結婚を楽しみにしていた。ここで認めるのは恥ずかしい。けれど、なかったことにする必要もない。


「そのあと、あなたのお気持ちは変わらないと伺い、指輪をお返ししました。それから私が、復縁をお願いしたことはありますか」


 リュシアン様の笑みが薄くなった。


「だから、これから話し合おうと——」

「まだ話し合ってもいないことを、決まったとお伝えになったのですね」


 彼は口を閉じた。隣で扇を閉じる音がしたが、私はそちらを見なかった。

 トリスタン様が口を開く。


「私は、イネス嬢がお受けになったと聞いたので、申し込みを取り下げようとしました。ご本人の承諾は、なかったということでよろしいですか」

「……少し、先走った言い方をしたのかもしれません」

「復縁は決まっていないのですね」

「そうです。まだ、決まってはいません」


 まだ、という言葉が耳に残った。私は頷かずに答えた。


「私は復縁を望んでおりません。昼食会でお話しになったほかの方にも、訂正をお願いいたします」


 リュシアン様の視線が、私の後ろで止まった。振り返ると、母と、この夜会の主催者であるベルネ伯爵がこちらへ来ていた。


「昼食会なら、私も同席していたよ」


 伯爵はリュシアン様の顔を見て言った。


「おめでとうと申し上げてしまった。先方にお返事もいただいていない話とは、思わなかったのでね」

「伯爵。それは」

「甥だけに訂正すれば済む話ではないだろう。明日、同席者には私からも知らせておこう」


 母が私の隣に立つ。リュシアン様は何か言おうとして、母の顔を見ると声を小さくした。


「大げさにするつもりはなかったんです」

「娘の縁談が一つ、なくなるところでした」


 母はそれだけ答えた。

 私のことで母が怒っている。その声を聞いたら、急に喉が詰まりそうになった。今泣いたら、まだ好きだからだと受け取られるかもしれない。それが嫌で、私は指を握り込む。

 トリスタン様が、私の少し先へ歩いた。


「お席へ戻りましょうか」

「はい。……それから、公演のお話を伺っても?」


 言うと、彼の表情が和らいだ。


「もちろんです。土曜日の昼の回があるそうです」

「その日がいいです。終わってからも、お話しする時間がありそうですもの」


 リュシアン様が私を呼んだ。


「イネス。君から誘ったのか」


 振り返ると、彼は私とトリスタン様を交互に見ていた。


「はい。ご一緒したかったので」

「だって君は、最近、出かけたいとも言わなかっただろう」


 二度断られた芝居のことを思い出した。興味を失ったのだと思われていたのか。私は、トリスタン様の手にある公演案内へ視線を戻した。


「行きたいものは、ありました」


 彼が何か言いかけたが、言葉にならなかった。私は会釈をして、席へ戻った。

 母の席へ戻り、腰を下ろすと、握り込んでいた指が痛んだ。トリスタン様に見られないように膝の上で開く。彼は小卓の水を私の近くへ寄せてから、席を一つ空けて座った。


「先ほどのお誘いですが」


 私は急いで顔を上げた。また断りたいと言われたら、今度こそ泣いてしまうかもしれない。


「はい」

「お母様のお席も一緒に取ってよろしいですか。それとも、どなたかほかに」


 力が抜けて、私は笑ってしまった。


「母にお願いしたいです。私たちが舞台の戸棚ばかり見ていたら、あらすじを教えてもらわないと」

「今度は私も戸棚が気になってしまうわ」


 母が困ったように言った。私は水を一口飲んで、次の土曜日の相談を始めた。


     *


 リュシアン様からの面会の申し込みは、その三日後に届いた。

 復縁はしないと返したが、話しておかなければならないことがあるという。両家の間でも、これ以上本人の意思を確認せずに話を進めないよう、念を押したばかりだった。父が同席することを条件に、一度だけ会うことにした。

 彼は花束を持ってきた。以前、私が誕生日に欲しいと言った白い花だ。侍女に渡さず、応接間まで自分で運んできたので、私は受け取らないまま向かいに座った。


「侯爵家との話は、断った」


 父が口を開く前に、彼が言った。


「昨日、父と一緒に伺って、正式にお断りした。もう、ほかに縁談はない」


 私は隣の父を見た。父も驚いているようだったが、私に頷いてみせる。答えは自分でよいということだ。


「そうですか」


 リュシアン様は少し待った。私が続きを言わないので、花束の持ち方を変える。


「もう、君が気にすることはないということだよ」

「私が、ですか」

「気にしていただろう。私が彼女を選んだことを」


 あの日は、それ以外に考えられないほど気にしていた。私といるときも彼女を思い出していたのか。私が話すより彼女の話のほうが面白かったのか。答えの出ないことばかり、夜になると浮かんできた。

 けれど、今はその続きを聞きたくない。侯爵家の令嬢がどのようなお返事をなさったのかも、私が尋ねることではなかった。


「あなたの縁談は、あなたがお決めになることです。私の返事は変わりません」

「意地を張らないでくれ。向こうには頭を下げてきたんだ」


 父が、肘掛けに置いた手を動かした。私は小さく首を振った。ここで父に話を代わってもらったら、彼は、父が怒っているから私も断っているのだと思うかもしれない。


「私がお願いしたことではありません」

「だから、私が自分で決めてきた。君とやり直したいと思ったから」

「どうして、今なのですか」


 彼はすぐには答えなかった。花束の包みを指で押さえてから、顔を上げる。


「夜会で、彼を誘っていただろう。私の話が終わるのを待ちかねたように」

「お約束がありましたから」

「前は、私にそうしていただろう。いつ会えるかと聞いて、都合がついたと言えば、嬉しそうにして」


 私は黙って聞いた。彼は私の返事を待ち、何も言わないと分かると、目を伏せた。


「手紙が来なくなっても、落ち着いたらまた来ると思っていた。ほかの男に、同じように笑うなんて……」


 そこまで言って、彼は口をつぐんだ。

 私から離れたくなったのは、彼だった。それなのに、私の気持ちだけは、前と同じところに残っていてほしかったのか。


 リュシアン様は花束を卓上に置いた。私の側へ押し出すようにしてから、上着の内側へ手を入れる。

 小さな箱が出てきた。開かれる前に、何が入っているのか分かった。


「おしまいください」


 蓋にかけた指が止まる。


「イネス。せめて話を聞いてほしい」

「伺っています。ですが、指輪は受け取りません」


 彼は箱を閉じたまま持ち、膝へ下ろした。

 初めて指輪をはめてもらった日は、眠る前に何度も指を曲げて見た。あのときの自分を思い出せるのに、今、手を差し出したいとは思わない。


「今度は、君の希望も聞く。結婚式の日取りも、行きたいところも」

「ありがとうございます。でも」

「旅行にも行こう。前に話していただろう。湖のある街に」


 私は顔を上げた。

 覚えていたのだ。結婚したら一緒に行きたいと、小さな案内図まで用意した。忙しいから先のことは決められないと言われ、机の引き出しにしまったままのものだ。

 私が反応したので、彼は身を乗り出す。


「君が行きたい時期でいい。仕事も調整する。今まで、少し後回しにしすぎた」


 少し。

 私は、膝の上で組んだ手を見た。案内図を広げたあの日に、そう言ってくれていたら、きっと何か月でも楽しみに待っただろう。


「今は、あなたと行きたいと思いません」


 彼の口元が動き、そのまま止まった。


「……君が望んでいたことだろう」

「はい。以前は」

「だったら、何が足りないんだ。ちゃんとすると言っている」


 父が低く彼の名を呼んだ。リュシアン様は背を引き、すみません、と答える。私は父の制止より、彼の言ったことを考えていた。

 何が足りないのだろう。約束をもう一つ足してもらえば、好きだった頃へ戻れるのだろうか。旅行も花も指輪も、あの人と一緒だから欲しかった。今はどれを並べられても、受け取ったあとの自分が浮かばない。


「何かを増やしていただきたいわけではありません。結婚したいという気持ちが、もうないのです」


 彼は箱を握り直した。膝の上に置いた親指が、蓋の縁を行き来する。


「トリスタン殿のことか」

「私の気持ちのお話です」

「まだ、彼と結婚が決まったわけではないんだろう」

「はい」


 そこで、彼はようやく息をついた。私は、その安堵がつらかった。私の返事を聞くたびに、別の意味に置き換えられてしまう。


「だったら、まだ間に合う。彼との話をいったん断ってくれ。私たちには三年ある。彼とは何度会った?」


 思わず数えそうになった。春の観劇会、先日のお茶、土曜日の夜会。数で答えたら、その少なさを理由に私の気持ちを否定されるのだと気づき、口を閉じる。


「トリスタン様との縁談がなくなっても、あなたとは結婚しません」


 リュシアン様の手から、箱が膝の上へ滑った。床には落ちなかった。彼は拾い上げて、卓上の花束の隣に置いた。

 私はそこを見ないようにして、彼の顔を見た。


「私がお断りしているのは、あなたとの復縁です。ほかの縁談があるかどうかで、変わることではありません」


 しばらく返事がなかった。廊下を歩く靴音が、扉の前を通り過ぎていく。父も口を開かず、リュシアン様が答えるのを待っていた。


「君は、私のことが好きだった」

「はい」

「別れたくないと、言っただろう」

「言いました」


 その返事は変えない。彼の顔から、少しずつ表情がなくなっていく。


「それなのに、どうして」


 私は一度、息を吐いた。胸の奥が痛んだが、泣きたいとは思わなかった。


「あの日、お返事をいただいたからです」


 彼は何も言わない。


「あなたは私とは結婚したくない。気持ちは変わるものだから、分かってほしいと。私も、分かろうとしました」


 指輪を返し、婚約を解消し、来なくなった手紙を待つのをやめた。最初から平気だったわけではない。けれど、その間に彼へ助けてほしいとは頼まなかった。

 リュシアン様は花束の包みを見つめている。白い花が一輪、卓上に触れていた。


「……終わりにするつもりだったのか」


 私は頷いた。

 終わらせたのは彼のはずなのに、ここで初めて知らされたような顔をしている。


「少し、時間がほしい」


 声が低くなった。


「君が急にいなくなるなんて、考えていなかった」

「急ではありません。あなたにお別れを告げられた日から、私は少しずつ、あなたを待つのをやめたのです」


 彼は言い直そうとして、私を見た。


「また会いたい。縁談の話はしなくていい。以前のように、二人で」


 私は首を横に振った。

 彼の望む以前には、戻れない。私が何を考えているか聞かずに決めてしまうところも、断った言葉を意地だと受け取るところも、このひと月で初めて気づいたことではなかった。ただ、好きだった頃には、そのたびに自分の伝え方を考え直していた。


「もう一度、好きになってもらうこともできないのか」


 問いかけが、ようやく私へ向けられた気がした。

 でも、今それを聞いてくれたからといって、好きには戻れない。


「そのお約束はできません。お待ちにならないでください」


 リュシアン様は目を伏せた。箱に手を伸ばしかけ、花束に触れ、それから両手を膝に戻す。何を持って帰ればよいのか、分からなくなってしまったようだった。

 父が立った。


「娘の返事は聞いていただけたと思います。今後、本人の承諾のない話をなさることは、お控えください」


 彼は父を見上げたが、何も頼まなかった。花束と箱を持って立ち上がり、扉の手前で振り返る。


「イネス」


 私は椅子のそばに立ったまま、頭を下げた。


「お越しいただき、ありがとうございました」


 彼はそれ以上、私を呼ばなかった。


     *


 土曜日の芝居で、宿屋の主人は戸棚に隠れなかった。大きな洗濯籠の中へ押し込まれた。

 私は隣のトリスタン様を見てしまい、彼もこちらを見たので、二人そろって笑いをこらえ損ねた。母には幕間に、あなたたちが何を予想していたのか分かったわ、と言われた。

 終演後、劇場の階段を下りながら、トリスタン様にリュシアン様の訪問を話した。復縁はしないと、もう一度はっきり伝えたことも。

 彼は最後まで聞いてから、頷いた。


「話してくださって、ありがとうございます」

「お聞きになりたいことは、ありませんか」


 何を言われたか。私が何と答えたか。どれくらい一緒にいたのか。説明するつもりで来ていたので、私は少し戸惑った。


「あります」


 やはり、と思って足を止める。


「今日の芝居は、次の週も見たいくらいでしたか。それとも、別のものを探しましょうか」


 彼は劇場の看板を見上げていた。


「今、聞くことではなかったでしょうか」

「いいえ。……いいえ、聞いていただきたいです」


 あの人の話を終えても、この人と話すことはある。それが嬉しかった。私は看板を見て、もう一度考える。


「同じお芝居を、もう一度。最後の入れ替わり、いつ起きたのか分からなくて」

「私は二幕目だと思っています」

「でも、そのとき鍵は女主人が持っていましたよ」


 彼が、確かに、と顎に手を当てた。母は先に馬車へ乗り、二人とも、続きは中でどうぞ、と私たちを呼んだ。


 その後も、トリスタン様とは会うようになった。

 二度目の観劇では鍵が渡る瞬間を見つけられたが、二人で少し得意になって母に説明したら、私は初日に分かったわよ、と言われてしまった。彼はしばらく黙ってから、では次の芝居は三人で答え合わせをしましょう、と真剣に提案した。

 彼といると、うまく答えられないことも楽しい。分からないと言って、一緒に考えられる。私が話している途中で言葉に詰まっても、次の話へ移らずに待ってくれた。

 ある午後、待ってくれるのが嬉しいと伝えると、彼は驚いた顔をした。


「続きが気になるだけですよ」


 私は笑って、それまで話していたことを、初めから少し話し直した。


 リュシアン様からは、一度だけ詫び状が届いた。復縁が決まったと話した相手には、すべて訂正したと書かれていた。読み終えた私は、父に確認をお願いして、引き出しへしまった。返事は求められていなかったので、書かなかった。

 その午後は、トリスタン様へ手紙を書いた。話題にしていた劇作家の新刊が届いたので、読み終えたら貸したい。次に会う日までに読み切れるだろうかと、本の厚みを確かめた。


 季節が変わる頃、トリスタン様から、改めて結婚を申し込まれた。

 家の庭で、母は少し離れた場所にいた。彼がいつもより緊張しているのは、座ったときから分かっていた。私も、今日はきちんと伝えようと思っていたので、互いに話し始める機会をうかがって、お茶が冷めてしまった。


「イネスさん。初めに申し込んだときより、ずっと、あなたと一緒にいたくなりました」


 胸がいっぱいになった。私も同じことを言おうとしていた。


「私と結婚していただけますか」

「はい。私も、あなたと結婚したいです」


 答えたら、彼は目を閉じて、長く息を吐いた。私まで力が抜けて笑ってしまう。彼は笑われたことにも構わず、もう一度聞いても、と言った。


「何度でもお答えします。あなたと結婚したいです」


 差し出された手に、自分の手を重ねた。今度は私が、彼の指を握る。

 そのまま母のところへ報告に行こうとして、私は大事なことを思い出した。


「トリスタン様。結婚したら、お願いしたいことがあるのです」


 彼が改まった顔でこちらを向く。


「芝居を見た夜は、帰ってからも少し起きていてくださいませんか。いつも馬車を降りるところで、お話が終わってしまうので」


 トリスタン様は笑って、それから、少し困った顔になった。


「私も、同じことをお願いするつもりでした」


 今日はまだ、帰りの馬車が来る。

 けれど、もう少ししたら、話の途中で別れなくてもよくなる。私はその日を楽しみにしながら、彼と手をつないで母のところへ歩いていった。


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