最後の散歩道
その犬は、雨の日に拾われた。
まだ祖父が生きていた頃の話だ。商店街の軒下でずぶ濡れになって震えていた茶色い雑種犬を、祖父は傘も差さずに抱き上げて帰ってきた。「ハチ」という、ありふれた名前をつけた。ありふれているからこそ、長く呼び続けられる名前がいいと祖父は言った。
私が物心ついたときには、もうハチは老犬だった。祖父の隣で丸くなって眠り、祖父が縁側でお茶を飲むときは決まって足元に伏せていた。祖父とハチは、言葉を交わさなくても通じ合っているように見えた。まるで長年連れ添った夫婦のように。祖父が箸を止めるだけで、ハチはもう立ち上がって玄関を向いていた。散歩の時間を、ハチは時計よりも正確に知っていた。
祖父が倒れたのは、私が小学四年生の冬だった。救急車が来るまでの間、ハチは祖父の顔のそばを離れず、低く鳴き続けていたという。祖父は病院で三日間眠り続け、そのまま目を覚まさなかった。
私は、その死をうまく理解できなかった。大人たちが泣いているのを見ても、涙は出てこなかった。かわりに、いつも通りランドセルを背負って学校に行き、いつも通り給食を食べた。あとになって知ったことだが、子どもの悲しみはそうやって、時間差でやってくることがあるらしい。実感が追いつくまで、心はわざと鈍くなって自分を守るのだ、と。
葬儀の日、ハチは家の中に入れてもらえず、庭で一日中、玄関の方角を見つめていた。誰かが声をかけても振り向かなかった。ご飯にも口をつけなかった。大人たちは「犬にもわかるんだねえ」と口々に言ったけれど、私はそのとき、自分よりもハチの方がずっと正直に悲しんでいることが、少しだけ悔しかった。
それから、ハチの散歩は私の役目になった。
最初は義務感からだった。母に「あんたがやりなさい」と言われて渋々リードを持った。ハチは私の歩く速さになかなか合わせてくれず、祖父が歩いていたはずの道――河原沿いの土手を、何度も立ち止まっては振り返った。まるで、そこに祖父がまだいるかのように。私はその都度苛立って、リードを強く引いた。
そんな日々が半年ほど続いたある夕方、ハチが土手の途中で急に座り込んだ。私が焦って引っ張っても動かない。仕方なく隣に座ると、ハチは私の膝に顎を乗せて、深いため息をついた。その体温が、ズボン越しにじんわりと伝わってきた。
「じいちゃん、もういないんだよ」
自分でも驚くほど、するりと言葉が出た。半年間、誰にも――母にも、友達にも――言えなかった一言だった。口に出した瞬間、ずっと鈍っていた何かが、堰を切ったように動き出すのがわかった。ハチは答えない。ただ、濡れた鼻先を私の手のひらに押しつけてきただけだった。その温かさに、なぜか涙が止まらなくなった。悲しいのとは少し違う、もっと柔らかい何かがこみ上げてきて、私はハチの首元に顔をうずめて泣いた。ハチはじっと動かず、私が泣き止むまで、身じろぎ一つせずそこにいてくれた。
あとで知ったのだが、言葉にできない感情は、誰かに――あるいは何かに――受け止めてもらって初めて、輪郭を持つものらしい。ハチは何も言わなかったけれど、あの日ハチがいてくれたから、私はようやく祖父の死を、悲しみとして自分の中に置くことができたのだと思う。
その日を境に、散歩は義務ではなくなった。夕方になるとハチの方から玄関でリードを咥えて待つようになり、私も自然と土手の道を選ぶようになった。祖父の話をハチにするようになったのもその頃からだ。「じいちゃんはここでよく立ち止まってたよね」「ここの土手、じいちゃんが好きだった夕焼けが見えるとこだ」。ハチは何も言わないけれど、耳をぴくりと動かして聞いているのがわかった。話すたびに、祖父との記憶は色褪せるどころか、少しずつ鮮やかになっていった。
ハチが動けなくなったのは、それから七年後、私が高校を卒業する春だった。獣医は「もう長くはない」と静かに告げた。私は毎日学校帯を最短にして帰り、ハチの隣で夜を過ごした。今度は、あの冬のように悲しみを遅らせることはしなかった。悲しいときには悲しいと、ハチの耳元でちゃんと言葉にした。
最後の夜、ハチは弱った体を引きずるようにして、玄関の方へにじり寄ろうとした。散歩に行きたいのだと、すぐにわかった。私はハチを抱き上げ、リードもつけずに土手まで歩いた。春の夜風が河原の草を揺らしていた。腕の中のハチは驚くほど軽くなっていて、その軽さが、これが最後なのだと私に静かに教えていた。
「じいちゃんによろしくね」
そう言うと、ハチは私の腕の中で、まるで頷くように小さく頭を動かした。それが最後だった。
あれから十年が経つ。私は今、自分の子どもと一緒にあの土手を歩いている。子どもが「ワンワンいないね」と河原を指さすたび、私は少しだけ目を細める。
いないはずなのに、夕暮れの土手を歩くと、今でも隣に温かい何かがいる気がする。祖父と、ハチと、私と。悲しみは消えてなくなるものではなく、こうして誰かと歩き続ける中で、少しずつ形を変えていくものなのかもしれない。三人でずっと、あの道を歩き続けているような気がするのだ。




