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第1話 胎動〜誕生と忌避

 アーレス領での忙しくも充実した日々。テティアは、自身の胸に秘めた女神との出会いの記憶を大切に育んでいた。


 領地へ来て三ヶ月が過ぎた頃、わずかな体調の変化を感じた彼女は、専属医師の診察を受ける。


「テティア様、ご懐妊おめでとうございます! 三ヶ月でございますよ!」


 専属侍女のメアリーが、自分のことのように顔を綻ばせる。テティアは慈しむようにお腹を撫で、そっと微笑んだ。


「……ありがとう、メアリー」


 その報告を受けた夫、ベスタの喜びようは凄まじかった。


 執務室から飛んできた彼は、軍服姿のままテティアの手を取り、その瞳を熱く見つめた。


「テティア! 本当におめでとう! 私たちの子供だ!」


「ええ、ベスタ様。お医者様も太鼓判を押してくださいましたわ」


 はらりとレッドブロンドの髪を揺らし、頬を染めるテティア。


 二人の絆は一層深まり、領民からも「おしどり夫婦」と羨望の眼差しを向けられるようになった。


 日に日に大きくなるお腹に、テティアは何度も語りかけた。


(私の女神様、愛しているわ。元気に生まれてきてね)


 手の甲に浮かぶ八枚翼の紋章を確認するたび、彼女は自身の決意を新たにする。


 宿る赤子は、家族の愛という最高の養分を得て、健やかに育っていった。


~~~~~~


 そして、ついに臨月の時を迎える。


「テティア様、もうすぐです! 頑張ってください!」


 メアリーが汗を拭い、テティアの手を握りしめる。


 屋敷全体が騒然となり、産婆や助手が慌ただしく立ち働く。


 扉の外では、ベスタ公爵が右往左往し、執事に「旦那様、落ち着いてください」と窘められる声が響いていた。


 産気づいてから六時間余。


 限界に近い疲労の中、テティアは最後の力を振り絞っていきんだ。


 ――次の瞬間、産婆の手に小さな命が収まる。


 間を置かず、元気な産声が部屋中に木霊した。


 無事な出産。だが、室内の空気は一瞬で凍りついた。


「おめでとう!?ご、ござい、ます……っ」


 メアリーの祝いの言葉が、震え、小声となり、掠れていく。


(えっ!? ま、まさか翼が生えて産まれてきたの!?)


 侍女たちの異様な硬直に、慌てたテティアは、心臓を跳ねさせた。


 産婆と助手だけが、事務的に、しかし迅速に赤子を洗い、産着に包んでいく。


 他の者たちは、まるで「見てはならないもの」を見るかのように、赤子を凝視して動けないでいた。


「メ、メアリー……どうしたの? 何か変よ、あなたたち…何か生えてた…?」


 動悸を胸に、息を切らしながらも、テティアは平静を装って尋ねた。


「い、いえ……何も生えてはおりません。女の子です。ですが……」


 助手がそっと、赤子をテティアの腕に預ける。


(なによ、普通じゃない。……ああ、なんて愛らしい!)


 テティアの目に映ったのは、漆黒の髪と黒い瞳を持つ、凛とした赤子の姿だった。


 かつて夢で見た女神アフロディーテそのものの神秘を宿した娘。


「ああぁ! 夢に見た綺麗な黒髪……生まれてきてくれてありがとう!」


 テティアが満面の笑みで愛おしそうに頬を寄せると、周囲の者たちは一様に怜悧な、あるいは憐憫の混じった表情を浮かべた。


 耐えきれなくなったメアリーが、震える声で告げる。


「テティア様……聖教会において、黒髪黒目の子は……『忌み子』。悪神の生まれ変わりとして、即座に教会へ引き渡す決まりに……」


 その言葉に、テティアの記憶が呼び覚まされる。


 この世界の歪んだ教義。世界に呪詛を撒く不幸の象徴。闇に属する色を徹底的に排斥する異端審問の歴史。


(そうだったわね。でも、この子が女神様である以上、そんな理屈は関係ないわ)


 テティアは我が子を抱き締める力を強めた。


(使い方はまだ分からないけれど、私には加護がある。この子を奪おうとするなら――)


「私からこの子を奪うというの!聖教会が、何だというの?」


 テティアの口から漏れたのは、氷のように冷ややかな声だった。


「私の愛しい女神を奪いに来るというのなら……全身全霊を持って聖教会を『滅ぼす』わ!」


「「「「ほ、ほ、滅ぼす……?!」」」」


 絶句する者たちへ、テティアは一切の慈悲を捨てた眼差しを向けた。


 温厚で優しいテティアが豹変したのを見て、皆が皆顔色を悪くした。


 その時、手の紋章が密かに熱を発し「慈愛」「希望」、「酷薄」「絶望」の権能がテティアの想いに応えたのだった。


 普段の可憐な公爵夫人からは想像もつかない、濃密な魔力圧と、文字通りの「殺気」が部屋を支配する。女神の加護を得た彼女の怒りは、もはや人間の域を超えていた。


 誰もが冷や汗を流し、手足を震わせる。


 この時、人々はまだ知らなかった。


 一人の母親によるこの宣戦布告が、後に世界の理を根底から覆す、凄絶な歴史の第一歩になることを。

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