第10話 権威と執着
アーレス公爵の執務室は、もはや人の住まう空間ではなかった。
室内を満たす空気は物理的な質量を伴って重く沈殿し、居合わせた者たちの肺を圧迫する。
その中心で、騎士団長イオの体から噴出した魔力は、視覚化されるほどの濃密な燐光となって渦巻いた。
重力という法則をあざ笑うかのように、イオの体はふわりと宙に浮き上がる。
ゆっくりと、だが不可避な断罪の歯車のようにその身を回転させ、アーレス公爵の正面へと向けた。
そこにいたのは、公爵が知る忠実な騎士ではなかった。
見開かれた両眸は、深淵の奥底で燃える恒星のような輝きを宿し、射抜かれた者の魂を凍らせる。
不敵に弧を描く口元は、人間という種そのものを見下ろしているかのような、絶対強者の傲慢さに満ちていた。
「お主が犯人だったかぁ。妾の大事な者を害そうとするとはのぉ。相応の報いは受けてもらうぞ」
発せられたのは、凛としていながらも、どこか鈴の音のように透き通った少女の声。
しかし、その響きには大陸の歴史すべてを足し合わせても足りないほどの、圧倒的な『重み』があった。
「……イオの姿をした貴様は誰だ。イオに何をした!?」
公爵は絞り出すように声を上げたが、その声は恐怖に震え、無様に掠れていた。
「そう急かすな。妾の庇護する大切な者を害そうなど、万死に値する。この体の男に指示を出し、貴様の部下を使って……母っ、……いや。妾の庇護者殿を襲撃するとは。この屋敷ごと……いや、この街ごと消し去ろうかのう」
その瞬間、エリスの脳裏に母テティアが受けた不遇、冷酷な離縁の記憶がよぎった。静かな怒りが彼女の輪郭を揺らす。
ドォォォォォン……!
突如、大地が悲鳴を上げた。屋敷全体が『意志』を持ったかのように、恐怖に震えだす。『ゴ・ゴ・ゴゴゴゴゴゴッ』という重低音の地鳴りが響き渡り、壁には亀裂が走り、豪華な装飾品が次々と砕け散る。
それは魔法ですらなかった。ただそこに存在する『神気』が、世界という器を歪めているに過ぎない。
「っ……あああああぁ!!!」
絶叫すら上げられず、護衛の騎士たちが、メイドたちが、白目を剥いて次々と崩れ落ちていく。
魔力に敏感な者ほど、その『格の違い』を本能で理解してしまった。それは、蟻が竜を見上げるような絶望。
異変は屋敷に留まらなかった。
街のはずれの森では、百獣の王たる魔獣たちが、序列を無視して一目散に街から遠ざかろうと地を駆けた。
近隣の村々では、逃走する魔獣の群れが「モンスターパニック」を引き起こすが、魔獣たちは人間など眼中にない。ただ、背後に現れた『死そのもの』」から逃れることだけに必死だった。
執務室の中、アーレス公爵は膝をついていた。
冷たい汗が滝のように顎から滴り、床に水溜りを作る。立ち上がるどころか、頭を上げることすら許されない。
首筋に冷たい刃を突きつけられているような、あるいは巨大な重機の直下に寝かされているような、凄まじいまでの圧迫感。
「お~、妾の威圧が強すぎて喋れんかのう……。ほれ、これでどうじゃ?」
エリスがわずかに指を弾くと、空間を支配していた重圧がふっと霧散した。
「はぁっ、はぁっ、……っげほっ!」
公爵と執事は、まるで水面に顔を出した溺死者のように激しく空気を求めた。全身の筋肉が強張りを解かれ、ガタガタと震えが止まらない。
彼らは悟った。目の前にいるのは交渉が通じる相手ではない。抗うことさえおこがましい、文字通りの『神ような存在』なのだと。
諦念が、公爵の瞳から光を奪った。彼は崩れ落ちた姿勢のまま、虚空を見つめて語りだした。
「……テティアを、……妻を、連れ戻したかったのだ。だから、忌み子と馬車に乗るすべての者が消えれば、彼女は私の元に帰ってくると思った。我が領の騎士を使い、山賊を装い、馬車を……襲わせたのだ」
「忌み子を殺して、妻を攫い、この公爵家という檻に閉じ込めておきたかった。カリスト侯爵邸を追い出されたと聞いた時、好機だと思ったのだ。だが、お前のせいで失敗した……」
狂気にも似た執着を吐露する公爵に、エリスは冷ややかな視線を向ける。
「浅はかじゃのぉ。その忌み子とやらを、共に見守る度量があれば、彼女は去らなかったのではないか?」
「……いや、忌み子は置いておけない。あれは、呪いなのだ」
公爵の脳裏にあるのは、聖教会の教え。黒髪、黒目は『不吉』の象徴。しかし、エリスが知る世界の記憶では、それはかつての魔王や冥王の証であった。
「お主、聖教会の権威をそれほどまでに恐れるか。忌み子はお主の子ではないのか? 愛した者との結晶だと聞いたが……命に代えても守り抜く気概すら、その公爵の誇りには含まれておらぬのか?」
震える父親の背中を見下ろし、エリスは深く、深く嘆息した。そのため息ひとつでさえ、公爵には自らの命を刈り取る死神の鎌のように、鋭く、恐ろしく響くのだった。
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