第9話 人が触れてはいけない領域
カリスト侯爵家の隠密は、もはや人間としての限界を凌駕していた。
原生林を枝から枝へと飛び移るそのスピードは、恐怖という劇薬によって動かされている。
背後に『何か』がいるわけではない。だが、あの峠で目撃した『事象』が、彼の本能に一秒でも早くここから離れろと叫ばせ続けていたのだ。
わずか一時間。常人ならば二時間は要する距離を駆け抜け、彼は影のように侯爵の執務室へと滑り込んだ。
「……お前か。何の騒ぎだ。テティアに何かあったのか」
書類に目を落としていたゾルは、隠密の異様な様子――全身から噴き出す冷や汗と、ガタガタと止まらない震え――に気づき、不機嫌そうに、しかし微かな不安を込めて身を強張らせた。
「はっ……。テティアお嬢様の件で、至急の報告を……。お嬢様の馬車が、峠にて大規模な襲撃を受けました」
「ほう…襲撃か、襲撃者は聖教会の懲罰部隊の連中か?それで、テティアは殺されて、あの、呪われた忌み子はどうなった」
ゾルは嘲笑いながら立ち上がった。その声には、冷徹な貴族としての仮面の裏に隠しきれない、実の娘への歪んだ嫌悪と侮蔑が混じる。
「いいえ、お嬢様、侍女、そして赤子も無傷です。襲撃者は……山賊に偽装しておりましたが、その正体はアーレス公爵家の騎士団。団長を含む十六名。しかし……」
「チィッ!死ななかったか、煩わしい…しかし、なんだ」
「……騎士団長イオを除く十五名が、一瞬にして『消滅』いたしました。死体も、装備も、血の一滴すら残さず、空間から削り取られるように……」
「騎士団が、消滅……? 一瞬でだと?」
ゾルは絶句し、力なくソファに沈んだ。
アーレスの騎士団といえば、王国でも屈指の精鋭だ。それを『一瞬』で屠るなど、並の魔法師にできる業ではない。
「……いつの間に、そんな強力な護衛を。生きていれば、公爵を利用できるというのに、これでは話が変わる。……他には、何を見た」
「……極めて、不可解なことが。放たれた術式には二種類の魔力が混在しておりました。一つはテティアお嬢様の『火』。ですが、もう一つは……正体不明。まるですべての生命を等しく圧し潰すような、あまりに濃密で異質な魔力。あれは、人の練り上げる魔力ではございません」
馬車に乗っていたのは三人だけだ。だとしたら、目に見えぬ『守護者』がいるのか。ゾルが顎に手を当て、公爵への対策を思案し始めた、その時だった。
「っ、が、あぁ……っ!!」
突如、隠密の体が弓なりに反り返った。
彼の眼球が白を剥き、全身の毛穴から血が滲むほどの圧力が室内に吹き荒れる。
ゾルが助けを呼ぼうとした瞬間、隠密の背後の空間が裂け、そこから黄金の幾何学模様を描く術式陣が淡く、しかし太陽のような輝きを放って出現した。
「なっ……なんだ、これは!?」
異様な威圧感に、ゾルは背後の壁に叩きつけられるように仰け反った。
隠密の意識は完全に消失し、その口から漏れ出たのは、鈴の音のように透き通った少女の声――しかし、銀河の果てから響くような、圧倒的に尊大な響きを伴っていた。
「――お主がゾルか。そして、この矮小な者が、妾の母 …いや、庇護者を監視していた密偵か?」
その声が響いた瞬間、執務室の窓ガラスがピキピキと音を立ててひび割れた。
ゾルは直感した。目の前にいるのは『娘を守っている何か』ではない。これは、人の姿を借りて現れた化物だと。
「そ、そうだ……。私は、娘を案じて隠密を……」
「ほう。確かに、この男の記憶にあるのは下らぬ執着と監視の念。明確な殺意は感じられぬな。……では、あの峠にいた羽虫どもの襲撃とは無関係なのだな?」
「……無関係、とは言えん。襲撃したのは娘の元夫、アーレス公爵の飼い犬どもだ…」
「ふむ、あやつか。ならば、まずはそちらから片付けるとしよう」
「待て! お前は、一体何者なんだ! 聖教会の敵か、それとも――」
隠密の体を借りた『それ』は、クスクスと不敵に、そして残酷に笑った。
「お主のような器が知る必要はない。……ただ、これだけは覚えておくがよい。妾の大切な者に指一本でも触れようとするならば、その時は一族の血を最後の一滴まで、この世から消し去ってやる。精々、届かぬ神に祈りながら震えて待つがよい」
次の瞬間、膨大な魔力が爆縮し、隠密は糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
「…………っ、はぁっ、はぁっ……!!」
ゾルは狂ったように酸素を求めた。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。今の会話は、わずか数秒。しかしその間に、彼は自分の魂が天秤にかけられ、辛うじて『生』の側に置かれたことを理解した。
(今の化け物は……アーレスの元へ向かったのか?それに今『母』と言ったな…もしや…いや、まだ、赤子だ…しかし…)
あの『何か』が今、娘を傷つけた元婿の元へ、死神として向かったのだ。
もし、自分が娘に危害を加えようとしていれば、今この瞬間、侯爵家は地図から消えていただろう。
「……馬鹿な男だ、アーレス公爵。貴様は、触れてはならない死神の尾を踏んだのだ……」
ゾルは顔面蒼白のまま、震える手で羊皮紙を広げた。
これはもはや、あいつを利用するとか関係ない、この国を巻き込む『滅亡』の引き金を引いてしまった愚か者への、最初で最後で唯一の警告だ。
「早馬を出せ! 今すぐにだ! アーレス公爵に、何をしてでも、どんな屈辱に塗れてでもテティアと赤子に許しを請えと伝えろ! さもなくば、我らすべてが滅ぶとな!」
ゾルの絶叫に近い指示と共に、警告の手紙を携えた使者が夜の帳へと駆け出していった。
それが、後のアーレス公爵と強いてはアーク王国の存続に繋がるのである。
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