表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/45

第9話 人が触れてはいけない領域

 カリスト侯爵家の隠密は、もはや人間としての限界を凌駕していた。


 原生林を枝から枝へと飛び移るそのスピードは、恐怖という劇薬によって動かされている。


 背後に『何か』がいるわけではない。だが、あの峠で目撃した『事象』が、彼の本能に一秒でも早くここから離れろと叫ばせ続けていたのだ。


 わずか一時間。常人ならば二時間は要する距離を駆け抜け、彼は影のように侯爵の執務室へと滑り込んだ。


「……お前か。何の騒ぎだ。テティアに何かあったのか」


 書類に目を落としていたゾルは、隠密の異様な様子――全身から噴き出す冷や汗と、ガタガタと止まらない震え――に気づき、不機嫌そうに、しかし微かな不安を込めて身を強張らせた。


「はっ……。テティアお嬢様の件で、至急の報告を……。お嬢様の馬車が、峠にて大規模な襲撃を受けました」


「ほう…襲撃か、襲撃者は聖教会の懲罰部隊の連中か?それで、テティアは殺されて、あの、呪われた忌み子はどうなった」


 ゾルは嘲笑いながら立ち上がった。その声には、冷徹な貴族としての仮面の裏に隠しきれない、実の娘への歪んだ嫌悪と侮蔑が混じる。


「いいえ、お嬢様、侍女、そして赤子も無傷です。襲撃者は……山賊に偽装しておりましたが、その正体はアーレス公爵家の騎士団。団長を含む十六名。しかし……」


「チィッ!死ななかったか、煩わしい…しかし、なんだ」


「……騎士団長イオを除く十五名が、一瞬にして『消滅』いたしました。死体も、装備も、血の一滴すら残さず、空間から削り取られるように……」


「騎士団が、消滅……? 一瞬でだと?」


 ゾルは絶句し、力なくソファに沈んだ。


 アーレスの騎士団といえば、王国でも屈指の精鋭だ。それを『一瞬』で屠るなど、並の魔法師にできる業ではない。


「……いつの間に、そんな強力な護衛を。生きていれば、公爵を利用できるというのに、これでは話が変わる。……他には、何を見た」


「……極めて、不可解なことが。放たれた術式には二種類の魔力が混在しておりました。一つはテティアお嬢様の『火』。ですが、もう一つは……正体不明。まるですべての生命を等しく圧し潰すような、あまりに濃密で異質な魔力。あれは、人の練り上げる魔力ではございません」


 馬車に乗っていたのは三人だけだ。だとしたら、目に見えぬ『守護者』がいるのか。ゾルが顎に手を当て、公爵への対策を思案し始めた、その時だった。


「っ、が、あぁ……っ!!」


 突如、隠密の体が弓なりに反り返った。

彼の眼球が白を剥き、全身の毛穴から血が滲むほどの圧力が室内に吹き荒れる。


 ゾルが助けを呼ぼうとした瞬間、隠密の背後の空間が裂け、そこから黄金の幾何学模様を描く術式陣が淡く、しかし太陽のような輝きを放って出現した。


「なっ……なんだ、これは!?」


 異様な威圧感に、ゾルは背後の壁に叩きつけられるように仰け反った。


 隠密の意識は完全に消失し、その口から漏れ出たのは、鈴の音のように透き通った少女の声――しかし、銀河の果てから響くような、圧倒的に尊大な響きを伴っていた。


「――お主がゾルか。そして、この矮小な者が、わらわの母 …いや、庇護者を監視していた密偵か?」


 その声が響いた瞬間、執務室の窓ガラスがピキピキと音を立ててひび割れた。


 ゾルは直感した。目の前にいるのは『娘を守っている何か』ではない。これは、人の姿を借りて現れた化物だと。


「そ、そうだ……。私は、娘を案じて隠密を……」


「ほう。確かに、この男の記憶にあるのは下らぬ執着と監視の念。明確な殺意は感じられぬな。……では、あの峠にいた羽虫どもの襲撃とは無関係なのだな?」


「……無関係、とは言えん。襲撃したのは娘の元夫、アーレス公爵の飼い犬どもだ…」


「ふむ、あやつか。ならば、まずはそちらから片付けるとしよう」


「待て! お前は、一体何者なんだ! 聖教会の敵か、それとも――」


 隠密の体を借りた『それ』は、クスクスと不敵に、そして残酷に笑った。


「お主のような器が知る必要はない。……ただ、これだけは覚えておくがよい。妾の大切な者に指一本でも触れようとするならば、その時は一族の血を最後の一滴まで、この世から消し去ってやる。精々、届かぬ神に祈りながら震えて待つがよい」


 次の瞬間、膨大な魔力が爆縮し、隠密は糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。


「…………っ、はぁっ、はぁっ……!!」


 ゾルは狂ったように酸素を求めた。


 心臓が破裂しそうなほど脈打っている。今の会話は、わずか数秒。しかしその間に、彼は自分の魂が天秤にかけられ、辛うじて『生』の側に置かれたことを理解した。


(今の化け物は……アーレスの元へ向かったのか?それに今『母』と言ったな…もしや…いや、まだ、赤子だ…しかし…)


 あの『何か』が今、娘を傷つけた元婿の元へ、死神として向かったのだ。


 もし、自分が娘に危害を加えようとしていれば、今この瞬間、侯爵家は地図から消えていただろう。


「……馬鹿な男だ、アーレス公爵。貴様は、触れてはならない死神の尾を踏んだのだ……」


 ゾルは顔面蒼白のまま、震える手で羊皮紙を広げた。


 これはもはや、あいつを利用するとか関係ない、この国を巻き込む『滅亡』の引き金を引いてしまった愚か者への、最初で最後で唯一の警告だ。


「早馬を出せ! 今すぐにだ! アーレス公爵に、何をしてでも、どんな屈辱に塗れてでもテティアと赤子に許しを請えと伝えろ! さもなくば、我らすべてが滅ぶとな!」


 ゾルの絶叫に近い指示と共に、警告の手紙を携えた使者が夜の帳へと駆け出していった。


 それが、後のアーレス公爵と強いてはアーク王国の存続に繋がるのである。

ここまで読んでくれてありがたいのじゃ!

よかったらのぅ評価もお願いしたいのじゃ⭐

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ