08
二人がグレーゾーンのマンホールから這い出した時、空は泣いていた。魂を浄化するようなロマンチックな雨ではない。弱酸性の雨だ。それは錆びた鍼のように肌を突き刺し、ジリジリと焼いた。
陽太郎は泥の中に倒れ込んだ。もう立ち上がる力は残っていない。胸に抱えたブラックボックスが、折れた肋骨を圧迫し、天を衝くような激痛を走らせる。
「起きろ」ザルがつま先で彼の足を小突いた。彼女は水死体のように見えた。髪は胃液でベトベトに固まり、破れた服の隙間からは化学熱傷で赤くただれた肌が覗いている。「クライアントはお待ちかねだ」
彼らは廃倉庫でボブと落ち合った。彼は破れたソファに深々と腰掛け、人工バニラの甘ったるい香りがする安葉巻をふかしていた。
ザルはブラックボックスをテーブルに放り投げた。腐った木のテーブルが悲鳴を上げる。
「ブツだ」ザルの声はガラガラだった。「9号線は完全に崩落した。あそこには二度と行かねえぞ」
ボブは片方の口角を吊り上げ、片眼鏡を装着して箱を検分した。金属の表面をコンコンと叩き、封印シールを確認する。
「上出来だ。損傷はない」ボブは頷き、アタッシュケースを開けた。B級エネルギーパック5個と、軍用アドレナリン2シートを取り出し、テーブルに放った。
「他の二人はどうした? くたばったか?」ボブは明日の天気を聞くような口調で尋ねた。
「死んだよ。ブーマーは床に食われ、ニードルは爆死だ」ザルは即座にアドレナリンのシートをひったくった。
「ならば……」ボブはテーブルの上のエネルギーパックを2個、手元に戻した。「……奴らの分はキャンセルだ。契約書には『本人への手渡し』と明記してある。受け取る手がなけりゃ、支払いは発生しねえ」
陽太郎は目を見開いた。脇腹の激痛を忘れ、怒りがこみ上げる。
「ふざけるな! あの人たちは、あんたのために命を捨ててこのゴミ箱を持ってきたんだぞ! ニードルなんて、自爆して道を切り開いたんだ!」
ボブは哀れむような目で陽太郎を見た。
「小僧、これはビジネスだ。テメェがまだ息をしてるだけでも幸運だと思え」
彼は立ち上がり、ブラックボックスを提げた。
「一体その箱には何が入ってるんだよ!」陽太郎は絶望的な声で問いかけた。せめて、この犠牲に何らかの意味を見出したかった。「国家機密か? 大量破壊兵器の起動コードか?」
ボブは振り返り、冷笑を浮かべた。
「運行データだよ。鉄道会社が乗客の遺族への補償を回避するためのな」
彼は箱をポンと叩いた。
「この箱は、404号列車の事故原因が『線路の整備不良』ではなく『運転士の操作ミス』だったことを証明してくれる。お前らのおかげで、企業は大金を節約できたってわけだ」
彼は闇の中へと消えていった。
陽太郎は崩れ落ちた。二人の命。それが、大企業が賠償金を踏み倒すための道具として消費された。
「無意味だ……」彼は震える声で呟いた。「何もかも、無意味だ」
「哲学ごっこは止めろ」ザルは残った報酬の中からエネルギーパックを1個、陽太郎に投げつけた。「行って肋骨を治してこい。テメェが息をするたびに骨が擦れる音を聞くのはうんざりだ」
……
彼らが向かったのは、屠殺場の地下にある闇診療所だった。
医者は、脱獄済みの旧式ロボットだった。ドクロの落書きがされたボディから4本の作業アームが生えている。メス、ペンチ、工業用タッカー(ホッチキス)、そして灰皿を持っていた。
「第4肋骨骨折。軽度の気胸。皮膚感染レベル2」ロボットはノイズ混じりの無機質な声で診断した。「『保険適用コース』か『節約コース』か?」
「節約で頼む」陽太郎は胸を押さえて言った。「パック1個しか持ってない」
「『節約コース』承認:麻酔なし。形成外科処置なし。リサイクル資材を使用」
陽太郎が抗議する間もなく、ロボットはペンチのアームで彼の肩をガッチリと掴み、血の染み込んだ手術台に押し付けた。
「待て! せめて何か噛むものを!」
ロボットは軽く洗っただけの灰皿を陽太郎の口にねじ込んだ。「噛め」
『バキッ』
ロボットアームが無慈悲な力で肋骨を元の位置に戻した。陽太郎は絶叫したが、声は金属の灰皿に阻まれた。涙が弾け飛ぶ。痛みはHPバーの減少などではない。脊髄を焼き尽くす白い雷撃となって、全ての感覚を麻痺させた。
『バスッ! バスッ! バスッ!』
タッカーの発射音が響く。ロボットは縫合などしない。突き出した骨で裂けた皮膚を塞ぐため、工業用のステープルを直接肉に打ち込んだのだ。
「完了」ロボットは灰皿を引き抜いた。「破傷風の治療はサービスしておく。またの来院を待っている」
陽太郎は手術台の上で荒い息を吐いていた。胸には再生品らしい薄汚いガーゼが巻かれている。その下には、冷たい金属の針が肉に食い込んでいる。一生消えない、醜い傷跡だ。
ザルは入り口の壁にもたれ、シートから取り出したアドレナリン錠剤を飲み込んだところだった。彼女の体が震え、濁っていた瞳孔が収縮し、鋭い光を取り戻していく。
「なんで……こんな仕事をしてるんだ?」陽太郎は弱々しい声で聞いた。「あんたなら、用心棒でも軍の傭兵でもなれるだろ……」
ザルは自分のスレッジハンマーを見つめた。
「軍隊は肌に合わねえ。命令を聞くのが嫌いだからな」ザルは奇妙なほど穏やかに言った。「それに、俺はこの感覚の中毒なんだ」
「勝利の感覚か?」
「違う」ザルは薄く笑った。「『生存』の感覚だ。あの地下で、死神の鎌が首筋に触れている時……過去も未来も消え失せる。俺はその瞬間だけに存在する。頭の中が静かになるのは、その時だけだ」
彼女は歩み寄り、陽太郎の処置されたばかりの肋骨を軽く叩いた。陽太郎は顔をしかめた。
「おめでとう。最初の傷跡だな。これでもう『観光客』じゃねえ。テメェもこのどん底の住人だ」
二人は屠殺場を出た。酸性雨はまだ降り続いている。だが今回、陽太郎は頭を覆わなかった。雨が顔を焼く痛みを、そのまま受け入れた。
システムウィンドウが、ノイズ混じりに点滅した。
【実績解除】
名称:生命の価値
説明:仲間の命を一人あたりエネルギーパック1個で換金した。
報酬:スキルツリー[無慈悲 (Ruthless)] 解放
陽太郎はポケットの中のエネルギーパックを握りしめた。微かに暖かく、脈打っている。これが、人の命一つの値段だ。
そして彼は知っている。このたった一個を得るために、これからも多くのものを切り捨てなければならないことを。
「ラーメン食いに行こう」陽太郎は乾いた声で言った。「でも、目玉入りの店はパスだ」
ザルは口の端を歪めた。それは、いつもより少しだけ人間らしい笑みに見えた。
「いいだろう。ゴキブリ粉の練り込み麺を出す店を知ってる。あそこなら生臭くはねえはずだ」
こうして二つの影――ハンマーを担いだ巨躯と、包帯を巻いた痩身――は、死せる街の灰色の雨の中へと溶けていった。治ることのない傷口に巣食う、しぶといバクテリアのように。




