表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

08

二人がグレーゾーンのマンホールから這い出した時、空は泣いていた。魂を浄化するようなロマンチックな雨ではない。弱酸性の雨だ。それは錆びたはりのように肌を突き刺し、ジリジリと焼いた。


陽太郎は泥の中に倒れ込んだ。もう立ち上がる力は残っていない。胸に抱えたブラックボックスが、折れた肋骨を圧迫し、天を衝くような激痛を走らせる。


「起きろ」ザルがつま先で彼の足を小突いた。彼女は水死体のように見えた。髪は胃液でベトベトに固まり、破れた服の隙間からは化学熱傷で赤くただれた肌が覗いている。「クライアントはお待ちかねだ」


彼らは廃倉庫でボブと落ち合った。彼は破れたソファに深々と腰掛け、人工バニラの甘ったるい香りがする安葉巻をふかしていた。


ザルはブラックボックスをテーブルに放り投げた。腐った木のテーブルが悲鳴を上げる。


「ブツだ」ザルの声はガラガラだった。「9号線は完全に崩落した。あそこには二度と行かねえぞ」


ボブは片方の口角を吊り上げ、片眼鏡モノクルを装着して箱を検分した。金属の表面をコンコンと叩き、封印シールを確認する。


「上出来だ。損傷はない」ボブは頷き、アタッシュケースを開けた。B級エネルギーパック5個と、軍用アドレナリン2シートを取り出し、テーブルに放った。


「他の二人はどうした? くたばったか?」ボブは明日の天気を聞くような口調で尋ねた。


「死んだよ。ブーマーは床に食われ、ニードルは爆死だ」ザルは即座にアドレナリンのシートをひったくった。


「ならば……」ボブはテーブルの上のエネルギーパックを2個、手元に戻した。「……奴らの分はキャンセルだ。契約書には『本人への手渡し』と明記してある。受け取る手がなけりゃ、支払いは発生しねえ」


陽太郎は目を見開いた。脇腹の激痛を忘れ、怒りがこみ上げる。


「ふざけるな! あの人たちは、あんたのために命を捨ててこのゴミ箱を持ってきたんだぞ! ニードルなんて、自爆して道を切り開いたんだ!」


ボブは哀れむような目で陽太郎を見た。


「小僧、これはビジネスだ。テメェがまだ息をしてるだけでも幸運だと思え」


彼は立ち上がり、ブラックボックスを提げた。


「一体その箱には何が入ってるんだよ!」陽太郎は絶望的な声で問いかけた。せめて、この犠牲に何らかの意味を見出したかった。「国家機密か? 大量破壊兵器の起動コードか?」


ボブは振り返り、冷笑を浮かべた。


「運行データだよ。鉄道会社が乗客の遺族への補償を回避するためのな」


彼は箱をポンと叩いた。


「この箱は、404号列車の事故原因が『線路の整備不良』ではなく『運転士の操作ミス』だったことを証明してくれる。お前らのおかげで、企業は大金を節約できたってわけだ」


彼は闇の中へと消えていった。


陽太郎は崩れ落ちた。二人の命。それが、大企業が賠償金を踏み倒すための道具として消費された。


「無意味だ……」彼は震える声で呟いた。「何もかも、無意味だ」


「哲学ごっこは止めろ」ザルは残った報酬の中からエネルギーパックを1個、陽太郎に投げつけた。「行って肋骨を治してこい。テメェが息をするたびに骨が擦れる音を聞くのはうんざりだ」


……


彼らが向かったのは、屠殺場の地下にある闇診療所だった。


医者は、脱獄ジェイルブレイク済みの旧式ロボットだった。ドクロの落書きがされたボディから4本の作業アームが生えている。メス、ペンチ、工業用タッカー(ホッチキス)、そして灰皿を持っていた。


「第4肋骨骨折。軽度の気胸。皮膚感染レベル2」ロボットはノイズ混じりの無機質な声で診断した。「『保険適用コース』か『節約コース』か?」


「節約で頼む」陽太郎は胸を押さえて言った。「パック1個しか持ってない」


「『節約コース』承認:麻酔なし。形成外科処置なし。リサイクル資材を使用」


陽太郎が抗議する間もなく、ロボットはペンチのアームで彼の肩をガッチリと掴み、血の染み込んだ手術台に押し付けた。


「待て! せめて何か噛むものを!」


ロボットは軽く洗っただけの灰皿を陽太郎の口にねじ込んだ。「噛め」


『バキッ』


ロボットアームが無慈悲な力で肋骨を元の位置に戻した。陽太郎は絶叫したが、声は金属の灰皿に阻まれた。涙が弾け飛ぶ。痛みはHPバーの減少などではない。脊髄を焼き尽くす白い雷撃となって、全ての感覚を麻痺させた。


『バスッ! バスッ! バスッ!』


タッカーの発射音が響く。ロボットは縫合などしない。突き出した骨で裂けた皮膚を塞ぐため、工業用のステープルを直接肉に打ち込んだのだ。


「完了」ロボットは灰皿を引き抜いた。「破傷風の治療はサービスしておく。またの来院を待っている」


陽太郎は手術台の上で荒い息を吐いていた。胸には再生品らしい薄汚いガーゼが巻かれている。その下には、冷たい金属の針が肉に食い込んでいる。一生消えない、醜い傷跡だ。


ザルは入り口の壁にもたれ、シートから取り出したアドレナリン錠剤を飲み込んだところだった。彼女の体が震え、濁っていた瞳孔が収縮し、鋭い光を取り戻していく。


「なんで……こんな仕事をしてるんだ?」陽太郎は弱々しい声で聞いた。「あんたなら、用心棒でも軍の傭兵でもなれるだろ……」


ザルは自分のスレッジハンマーを見つめた。


「軍隊は肌に合わねえ。命令を聞くのが嫌いだからな」ザルは奇妙なほど穏やかに言った。「それに、俺はこの感覚ハイの中毒なんだ」


「勝利の感覚か?」


「違う」ザルは薄く笑った。「『生存』の感覚だ。あの地下で、死神の鎌が首筋に触れている時……過去も未来も消え失せる。俺はその瞬間だけに存在する。頭の中が静かになるのは、その時だけだ」


彼女は歩み寄り、陽太郎の処置されたばかりの肋骨を軽く叩いた。陽太郎は顔をしかめた。


「おめでとう。最初の傷跡トロフィーだな。これでもう『観光客』じゃねえ。テメェもこのどんボトムズの住人だ」


二人は屠殺場を出た。酸性雨はまだ降り続いている。だが今回、陽太郎は頭を覆わなかった。雨が顔を焼く痛みを、そのまま受け入れた。


システムウィンドウが、ノイズ混じりに点滅した。


【実績解除】

名称:生命の価値

説明:仲間の命を一人あたりエネルギーパック1個で換金した。

報酬:スキルツリー[無慈悲 (Ruthless)] 解放


陽太郎はポケットの中のエネルギーパックを握りしめた。微かに暖かく、脈打っている。これが、人の命一つの値段だ。


そして彼は知っている。このたった一個を得るために、これからも多くのものを切り捨てなければならないことを。


「ラーメン食いに行こう」陽太郎は乾いた声で言った。「でも、目玉入りの店はパスだ」


ザルは口の端を歪めた。それは、いつもより少しだけ人間らしい笑みに見えた。


「いいだろう。ゴキブリ粉の練り込み麺を出す店を知ってる。あそこなら生臭くはねえはずだ」


こうして二つの影――ハンマーを担いだ巨躯と、包帯を巻いた痩身――は、死せる街の灰色の雨の中へと溶けていった。治ることのない傷口に巣食う、しぶといバクテリアのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ