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20分か? それとも2時間か?


犬が石を喰い、鶏が砂利をつつくようなこの場所では、時間という概念は食品衛生法と共にゴミ箱へ放り込まれていた。陽太郎はザルの後ろを足を引きずりながら歩いた。『Vans』のパチモンはとっくに汚水でぐしょ濡れになり、足を上げるたびに『グチョ、グチョ』と不快な音を立てる。かかとにはマメができている。鈍く、地味だが、極めてリアルな痛みだ。


「おい……」陽太郎は枯れた声で喘いだ。「このクソゲー、ファストトラベル機能はないのか? せめてオートラン機能くらい……」


ザルは振り返りもしない。彼女は人間の、あるいは猿のものかもしれない頭蓋骨を蹴り飛ばすのに忙しかった。陽太郎は直視しないようにした。


「口を閉じて足を動かせ」彼女は低く唸った。「コープス・フライ(死体蠅)どもが目を覚ます時間だ。奴らの朝食になりたけりゃ、そこでマップのロードでも待ってな」


陽太郎は自身のHPバーに視線をやった。黄色く点滅している。


【HP: 45/100 (状態:空腹、軽度の感染症、ストレス)】

【スタミナ: 12/100】


「スタミナの減りがテック株の暴落よりえげつないぞ」彼は冷たい岩壁に肩を預け、悪態をついた。「ゲームバランス崩壊してんだろ」


二人は少し開けた洞窟の空洞に出た。そこには生命の痕跡――あるいは、かつて生命だったものの痕跡があった。燃え尽きた焚き火の跡、冷たい灰。そして、一人の人間。


それは輝くフルプレートアーマーを着込んだ男だった。ハーレムアニメで主人公が着ていそうな、ドラゴンの腹から出てきても汚れ一つないタイプの鎧だ。だがここでは、その鎧はトラックに轢かれたアルミ缶のようにひしゃげていた。


その『勇者』は岩壁に背を預けていた。腹部の巨大な裂傷から紫色に変色した内臓がはみ出し、異臭を放っている。だが、彼はまだ生きていた。二人を見ると、その目は狂気じみた光を宿した。


「た、助けて……くれ……」男は掠れた声で言い、ガントレットに包まれた手をザルの方へ伸ばした。「私は……サー・ガルドリック……白金宮の騎士だ……魔神の復活について……極秘情報が……」


陽太郎は足を止めた。これだ。プロット・フック(物語の導入)だ。ここでメインクエストを受注する流れだ。ゲームのロジックで言えば、彼を介抱し、最期の言葉を聞き、復讐を誓い、そして強力な武器を受け継ぐ場面だ。


「ザル、待てよ」陽太郎は前に出た。「こいつは重要なNPCだぞ。レアアイテムを持ってるかも……」


『ゴウンッ』


ザルは止まらなかった。彼女は騎士の元へ歩み寄ったが、極秘情報を聞くためではない。彼女は騎士の兜を思い切り蹴り上げたのだ。頭が岩壁に激突し、乾いた音が響く。


騎士は黙った。腕がだらりと落ちる。死んだ。


感動的な遺言もない。魔神の秘密もない。ただ、スイッチが唐突に切られただけだ。


「なっ……何してんだよ!?」陽太郎は叫び、ショックで後ずさった。「まだ話の途中だったろ! フラグが折れたらどうすんだよ……」


ザルは死体の横に膝をつき、平然と騎士の腰にある革袋を漁り始めた。手が騎士の血で汚れることなど気にも留めない。


「こいつは2時間前から死んでたんだよ。ただ、自分の死体に気付いてなかっただけだ」ザルは冷たく言い放ち、カビの生えた硬貨数枚と、石のように硬いパンの欠片を取り出した。「極秘情報じゃ腹は膨れねえ。こっちの方が役に立つ」


彼女はパンの欠片を陽太郎に投げつけた。それは汚れた地面を転がった。


「食え。それとも餓死するか。役作りは好きにしろ」


陽太郎はパンを見つめた。そして、ほんの10秒足らずで命と最後の尊厳を剥奪された騎士の死体を見た。


「お前のキャラ設定、バグってないか?」陽太郎はパンを拾い上げ、埃を適当に払った。「アンチヒーローなのか、それともヴィラン(悪役)なのか、どっちなんだよ」


「俺はサバイバー(生存者)だ」ザルは立ち上がり、硬貨をポケットにねじ込んだ。「それと、その間抜けはいい教訓だ。立派な鎧。カッコいい称号。その末路が、下水道の野良犬死だ」


『ブゥン……ブゥゥゥン……』


不快な羽音が響いた。歯医者のドリル音のように重く、神経を逆なでする音。


死んだばかりの騎士の空っぽの眼窩から、何かが這い出してきた。ハエではない。握り拳ほどの大きさがある、黒光りする甲虫だ。ヌルヌルとした粘液を纏っている。二匹目が口から這い出る。三匹目が腹の傷口から。


「コープス・ビートル(死体甲虫)か」ザルは舌打ちした。恐怖などない。あるのは極度の苛立ちだけだ。「さっさと行けって言っただろうが」


彼女はハンマーを構えた。


虫たちが襲いかかってきた。予測可能な軌道など描かない。それらは顔へ、首へ、露出した肉へ、生体弾丸のような速度で突っ込んでくる。


陽太郎はパニックに陥った。錆びた鉄パイプを盲目的に振り回す。


「うわあああッ! 来るな! 俺の近くでレンダリングすんじゃねえ!」


一匹が彼の肩に張り付いた。棘だらけの脚が服に食い込み、皮膚を削る。陽太郎は悲鳴を上げ、鉄パイプを自分の肩に叩きつけた。


『ベチャッ』


甲虫が潰れた。黄色い酸性の体液が陽太郎の頬に飛び散る。タバコの火を押し付けられたような激痛が走った。


「ぐあああっ! 痛ってぇ! UIは!? ダメージインジケーターどこだよ!?」陽太郎は飛び上がり、罵りながら粘液まみれの死骸を払い落とした。


その横で、ザルは『作業』をしていた。そう、戦闘ではない。作業だ。彼女がハンマーを振るうたび、それは効率的な計算式のように機能した。彼女は個体を狙わない。ハンマーを地面に叩きつけ、その衝撃波で虫たちの平衡感覚を奪って地面に落とし、鉄のブーツで踏み潰していく。


『グシャ。グシャ。グシャ』


甲殻が砕ける音は、静かな映画館でポテトチップスを噛む音に似ていた。


オーラもエフェクトもない。壮大なBGMもない。ただの暴力的な害虫駆除だ。


一分後、洞窟に静寂が戻った。聞こえるのは陽太郎の荒い呼吸と、ザルが不幸な騎士の死体でブーツの汚れを拭う音だけだ。


陽太郎は地面に座り込んだ。酸で赤く腫れ上がった頬を押さえる。生理的な涙が滲んできた。悲しいからではない。死ぬほど痛いからだ。


不透明なガラスの小瓶が飛んできて、彼の胸に当たった。


「飲め」ザルは背を向けたまま、ハンマーのベルトを点検していた。「最低ランクの解毒薬だ。味はドブ水だが、顔が腐り落ちるよりはマシだろ」


陽太郎は小瓶を掴んだ。「俺にくれるのか? おとりにするんじゃなかったのかよ」


「腐った囮じゃ怪物は釣れねえんだよ」ザルは素っ気なく答えた。「新鮮な肉が必要なんだ」


蓋を開ける。鼻をつく刺激臭。陽太郎は顔をしかめたが、一気に喉に流し込んだ。苦く、吐き気を催す味。さっき食べたパンごとリバースしそうになる。


だが、頬の焼けるような痛みは少し引いた。


「サンキュー……」陽太郎は口元を拭い、呟いた。「セリフのセンスは相変わらず最悪だけどな」


二人は洞窟エリアを抜け、より広い空間へと出た。


「街へようこそ」ザルが言った。その声は皮肉に満ちていた。


陽太郎の目の前に広がっていたのは、白壁と赤い屋根の美しい城下町ではなかった。それは、居住可能な形に彫刻された、巨大なゴミ捨て場だった。


巨大な怪物の死骸を骨組みにして建てられた家々。肋骨が柱となり、皮が屋根となっている。至る所が錆びた鉄板で継ぎ接ぎされている。機械仕掛けのリヴァイアサンの内臓のように入り組んだ配管から、熱い蒸気が噴き出している。


意味不明なグリフ文字が明滅するネオンサインが、薄汚い路地を照らしている。獣人、ゴブリン、人間、そして『かつて人間だったもの』たち。住人の誰もが、薬物中毒者か絶望の淵にいるような顔をしていた。誰もが傷を持ち、誰もが身体のどこかのパーツを失っている。


そして、女神の像があるべき広場の中央には、巨大な機械の残骸がくすぶり続けていた。


【システム】

新ロケーション発見:スラム街『アイアン・グレイブ(鉄の墓標)』

安全性:12%

人口:減少傾向


「このワールドのアートディレクター、絶対鬱だろ……」陽太郎はため息をつき、錆びた鉄パイプをズボンのベルトに差した。「オーケー。で、セーブポイントはどこだ?」


ザルは歩き出し、悪臭と混沌の渦巻く人波へと消えていく。


「セーブポイントなんてねえよ、クソガキ」


彼女の声は、闇市場の喧騒にかき消されそうになりながらも響いてきた。


「ここにあるのは、少しだけ死ぬのを先延ばしにする場所だけだ」

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