01
白い光など、どこにもない。巨乳の女神が無限の空間に響き渡る声で導いてくれることもない。あの忌々しいトラックすら走っていない。
あるのは、胃液の強烈な臭いと、ハラワタが裏返ったような不快感だけだ。
「……オ゛ェッ!」
陽太郎は激しく嘔吐した。酸っぱい胃液が『Vans』のパチモンのスニーカーに飛び散り、ただでさえ擦り切れたキャンバス地を黄色く染める。彼は地面に手をついた。いや、地面ではない。それは湿ってヌルヌルとした岩肌で、苔とカビ、そして硫黄の臭いを放つ黒い泥に覆われていた。
「カァット!……」陽太郎は喉を鳴らし、電波の悪いラジオのような掠れ声で言った。「監督はどこだ? このシーンの繋ぎ、最悪だぞ」
制服の袖で口元を乱暴に拭う。目が沁みる。天井の岩盤に張り付いた発光キノコが放つ薄暗い光の中で、必死に焦点を合わせようとする。空気は重く、湿度と錆びた鉄の臭いが肺にまとわりつくようだ。
突然、視界を遮るように、ネオンブルーの長方形が網膜の直前で激しく明滅した。あまりにも乱暴なポップアップだ。
【システム通知】
対象:風間 陽太郎 (Kazama Yotaro)
状態:生存(一時的)
クラス:[データ破損] -> スカベンジャー (清掃人)
ユニークスキル:[ERROR 404]
「最高だな」陽太郎は低く唸り、目の前の幻影をハエでも追い払うかのように手で払った。「2000年代のUI/UXデザインかよ。フォントも文字化けしてるし。明らかに低予算ゲーだ」
膝を震わせながら立ち上がる。恐怖ではない。転移のショックに対する生理的な拒絶反応だ。ズボンのポケットを探る。スマホ? 紛失。財布? あるが、ここではただのゴミだ。家の鍵? そのまま残っていた。二度と開けることのないドアを思い出させる、冷たい金属の遺物として。
『ザリッ……』
前方の闇から音がした。危機を告げるBGMなど流れない。威嚇の咆哮もない。ただ、湿った岩を爪が引っ掻く音だけ。
闇の中から、ある生物が姿を現した。大きさはマスチフ犬ほどだが、その生物学的構造は創造主による悪質なジョークとしか思えなかった。皮膚はなく、爛れた肉が剥き出しになり、赤い筋肉が脈打っている。長く伸びた鼻先からは緑色の体液が滴り、白濁したその両目には焦点がなく、ただ純粋な「飢え」だけが宿っていた。
RPGにおけるドブネズミ(ラット)枠か? いや、そんな可愛らしい名前で呼ぶには、あまりにもおぞましい。
奴が、跳んだ。
スローモーションにはならない。
陽太郎は悲鳴を上げなかった。B級映画とRPGに何千時間も費やして汚染された彼の脳は、自動的に防衛シナリオを起動していた。だが、身体が追いつかない。
自分の吐瀉物に足を滑らせた。
その無様さが、彼の命を救った。
怪物の黄色い牙が、一瞬前まで彼の喉があった空気を噛み砕く。だが、その質量が陽太郎の胸に激突し、彼を冷たい岩肌に押し付けた。腐肉と下水の悪臭が鼻腔を直撃する。
「失せろッ!」
陽太郎は引きつった声で叫び、パニックの中で手を振り回した。
指先が何かに触れた。硬い、錆びた鉄の棒。おそらく古い配管の残骸だ。
彼はそれを掴んだ。剣道の技術などない。必殺技の名前を叫ぶ余裕もない。
ただ、突き出した。
『ズブリ』
鉄の棒が怪物の眼窩を貫き、湿っぽく、そして退屈な音を立てた。悲壮な断末魔はない。怪物は痙攣した。ドス黒い血液が陽太郎の顔に噴き出し、熱さと粘り気を残す。怪物は彼の上でバタバタと暴れ、爪が制服を引き裂き、皮膚に焼けるような痛みを刻み込む。
やがて、それは動かなくなった。死んだ。ただの重苦しい肉塊へと変わった。
陽太郎は死体を押し除け、荒い息を吐いた。勝利の栄光など微塵も感じない。「レベルアップ」のファンファーレも聞こえない。ただ、気持ち悪いだけだ。顔を拭うが、血糊を広げただけに終わった。
「グラフィックエンジンだけは無駄にリアルだな……」彼は震える声で皮肉を漏らした。「だが、ゲームプレイはクソ(糞)だ」
「俺の狩場を汚してんじゃねえよ」
頭上から声が降ってきた。冷たく、カミソリのように鋭い声。
陽太郎は顔を上げた。一段高い岩場に、人影が立っている。発光キノコの光が逆光となり、擦り切れた革鎧のシルエットを劇的に浮かび上がらせていた。
少女――そう呼べるならだが――は、錆びたナイフで適当に切り揃えたような短い髪をしていた。こめかみから顎にかけて走る長い傷跡が、片側の表情を引き攣らせている。もっとも、彼女が笑うことがあるならの話だが。
彼女は杖も剣も持っていなかった。コンクリートの壁を破壊するような巨大なスレッジハンマーを、まるで小枝のように肩に担いでいる。
「モブ(端役)か?」陽太郎は目を細め、恐怖を疑心で覆い隠そうとした。「それともチュートリアルのNPC?」
少女は答えなかった。彼女は飛び降りた。鉄のブーツが岩盤を打ち、汚水が跳ねる。彼女は怪物の死体に歩み寄ると、無造作にハンマーを振り上げた。
『グシャッ』
怪物の頭部が、腐ったスイカのように粉砕された。彼女は素手をその汚らわしい肉片に突っ込み、小さく濁った石ころを取り出した。
「F級コア。ゴミだな」
彼女は舌打ちし、石をポケットにねじ込むと、ようやく陽太郎に目を向けた。その視線は、まだ分別の済んでいないゴミを見るような目だった。
「テメェは何だ? 召喚術師か? それとも異次元からの廃棄物か?」
陽太郎は立ち上がり、努めてクールに振る舞おうとした。服を払うが、手についた怪物の血が状況を悪化させるだけだった。アニメのようなキザな挨拶をしようとしたが、途中でぎこちない会釈に変わった。
「陽太郎だ。高校生。このクソみたいなシナリオに拉致された被害者だよ」
少女は、彼が握りしめている錆びた鉄パイプをじっと見た。そして、彼の顔を見た。
「俺はザル(Zal)だ」歓迎の色など微塵もない声で彼女は言った。「テメェは俺の狩場に突っ立ってる。あのロット・イーター(腐食喰らい)がテメェを殺すのを待ってから追い剥ぎするつもりだったが……まあ、完全な役立たずってわけでもなさそうだな」
「思ったより運が良かったみたいだ」陽太郎は頷いたが、心臓は早鐘を打っていた。「で……クエストはあるのか? 近くの町まで案内するとか。普通、このタイミングでチュートリアルが入るだろ」
ザルが近づいてきた。彼より頭一つ分背が高い。彼女からは機械油と硝煙、そして乾いた汗の臭いがした。彼女は陽太郎の制服の襟首を掴み、瞳の奥の血管が見えるほどの距離まで顔を近づけた。
「チュートリアル?」
ザルは口の端を歪め、金属で補強された犬歯を剥き出しにした。
「いいだろう。最初のレッスンだ。ここには『リスポーン(復活)』なんてねえ」
彼女は陽太郎を乱暴に突き飛ばした。陽太郎はよろめき、冷たい岩壁に背中を打ち付けた。
「レッスン2」ザルは背を向け、ハンマーを地面に引きずりながら歩き出した。金属が岩を削る耳障りな音が響く。「そのワケの分かんねえ寝言をもう一度吐いたら、テメェをゴア・ハウンド(血塗れ犬)の餌にする。あいつらは、妄想癖のあるガキの肉が大好物だからな」
陽太郎は、闇に消えていくザルの背中を見つめた。手元の鉄パイプに視線を落とす。重く、無骨で、汚れている。
再び、システムウィンドウがポップアップした。
【クエスト更新】
目標:今後10分間生存する。
報酬:死なないこと。
「クソ脚本め」
陽太郎は血の混じった唾を岩場に吐き捨てた。鉄パイプを握る手に力が入り、関節が白く浮き出る。
ヒーローになどなりたくない。世界も救いたくない。ただ、脚本家にクレームを入れたいだけだ。
だが、まずはあのハンマーを持った狂人について行かなければならない。背後の闇から、先ほどとは違う『カサカサ』という音が、より多くの数、より強い飢えを孕んで響き始めていたからだ。
陽太郎は歩き出した。その足取りは覚束なく、救世主のそれではない。この最悪な映画のエンドロールまで、どうにか這いつくばろうとする、不本意な生存者の姿そのものだった。




