前へ
薬を捨てて三日が経った。
世界は、もう美しくなかった。
草原は枯れ、空は鉛色で、風は腐臭を運んでくる。
いや、違う。世界は変わっていない。変わったのは俺の目だ。
薬という名の呪いが解けて、ようやく本当の世界が見えるようになった。
俺は北へ向かって歩き続けていた。
手には聖剣。ポケットには破れた遺書。
それだけを持って、一人で。
道中、何度も魔物……いや、人間と出会った。
彼らは俺を見ると怯え、武器を構えた。
「く、来るな!勇者が来たぞ!」
「逃げろ!あいつは悪魔だ!」
悪魔。
そうだ、俺は悪魔だ。
何の罪もない人々を、魔物だと思い込んで殺してきた悪魔。
だが、もう戦わない。
俺は剣を鞘に収め、ただ歩き続けた。
彼らは不思議そうに俺を見ていたが、やがて道を開けてくれた。
ある村を通りかかった時のことだった。
村人たちが俺を見て、恐怖で凍りついた。
「ゆ、勇者……」
「また虐殺しに来たのか……」
虐殺。
その言葉が胸に突き刺さった。
「俺は……」
何を言えばいい?
すまないと言って、許されるのか。
殺した人間が生き返るのか。
「俺は、もう戦わない」
俺はそう言って、村を通り抜けようとした。
だが、一人の老婆が俺の前に立ちはだかった。
「待ちなさい」
老婆は杖をついて、俺を睨んでいた。
「あんたは先月、隣の村を襲ったね」
「……ああ」
「私の息子も、そこにいた」
老婆の目から涙が流れた。
「あんたが殺したんだよ。私の大切な息子を」
俺は何も言えなかった。
「なんで……なんでそんなことをするんだい?」
「俺は……騙されていた。息子さんが魔物に見えていたんだ」
「魔物?」
老婆は笑った。乾いた、悲しい笑いだった。
「息子は優しい子だったよ。畑を耕して、家族を養って、誰にも迷惑かけずに生きてた」
「すまない……本当に、すまない……」
俺は膝をついた。
「謝って済むことじゃないよ」
老婆は俺の頭を杖で叩いた。
「でもね、あんたも被害者なんだろう。その目を見ればわかる」
老婆は俺の顔を覗き込んだ。
「あんたは、もう人を殺さないと誓えるかい?」
「誓う」
「なら、行きな。そして、あんたを騙した奴らを止めな」
老婆は道を開けた。
「ありがとう……ございます」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。
そして、再び歩き始めた。
### 3
夜、俺は森の中で野営していた。
焚き火の前で、一人座っている。
仲間はいない。リオンもいない。
ただ、一人だ。
俺は破れた遺書を取り出した。
何度も読んだが、読めない部分は相変わらず読めない。
「リオン……お前は何を伝えようとしたんだ」
風が吹いて、木々が揺れる。
まるでリオンが答えているようだった。
だが、声は聞こえない。
「もし、もう一度会えたら……」
何を言うだろう。
ありがとう、か。
それとも、なんで真実を教えてくれなかった、か。
いや、違う。
ただ、一緒に酒を飲みたい。
昔みたいに、他愛ない話をしながら。
「馬鹿な……」
俺は遺書をポケットに戻した。
もう、リオンには会えない。
ならば、せめて彼の願いを叶えよう。
人間として生きる。
そして、真実を知る。
### 4
翌日、俺は山道を登っていた。
魔王城は、この山脈の向こうにあるという。
道は険しく、岩だらけで、何度も転びそうになった。
だが、止まらなかった。
やがて、峠にたどり着いた。
そこから見える景色は、壮絶だった。
荒れ果てた大地。
焼け焦げた森。
崩れた村々。
これが、戦争の跡だった。
これが、俺が作り出した地獄だった。
「くそっ……」
俺は拳を握りしめた。
この景色を、二度と生み出してはいけない。
俺は山を降り始めた。
### 5
山を降りて二日後、俺は奇妙な場所に出た。
そこは、まるで二つの世界が交わる境界線のようだった。
片方は緑豊かな草原。もう片方は灰色の荒野。
その境界線に、検問所のようなものがあった。
そこには、王国軍の兵士が数名立っていた。
「止まれ!」
兵士が槍を構えた。
「お前、勇者じゃないか」
「ああ」
「何をしている?任務を放棄したのか?」
「任務は終わった」
俺は冷たく言った。
「何?」
「俺はもう、人を殺さない」
兵士たちは顔を見合わせた。
「お前、正気か?勇者の任務は魔王を倒すことだぞ」
「魔王なんていない。いるのは人間だけだ」
「何を言ってる!」
一人の兵士が剣を抜いた。
「お前、薬の効果が切れたな。すぐに司令部に戻れ。調整が必要だ」
調整。
まるで機械みたいな言い方だ。
「もう戻らない」
俺は聖剣を抜いた。
兵士たちが身構える。
「通してもらう」
「させるか!」
兵士が斬りかかってきた。
俺は剣でそれを受け止め、柄で兵士の腹を突いた。
兵士は倒れ、気を失った。
「くそっ、こいつ本当に狂ってる!」
他の兵士たちも襲いかかってきた。
俺は全員を、殺さずに倒した。
気絶させただけだ。
もう、殺さない。
俺は検問所を通過した。
灰色の荒野へと、足を踏み入れた。




