第2話 殺迫
「まあ、お――ォ前には都合悪いかも知らねえがな。」
正直、〈那暈〉を視界に収める余裕すらなかった。普段なら、わざわざ高所で拳を交えることなどないから。慣れが足りない。
「戦る分には、もう合意――ィしたろ?んじゃあ――」
いい加減奮って前を向かなければ、 否すでに後れを取っているのでは?
先制されるのを覚悟したが、〈那暈〉のとっているあの姿勢。
「――ィィいくぞオオォォォ!」
半身を後ろに引いて、渾身の拳打を狙う姿勢。しかもこれが、信じられないくらい緩慢に備えられていく。
拍子抜けされられる。どれだけ拳そのものが速くても、これなら十分無力化できる。
〈那暈〉のとる姿勢の緊張が最高に達するより早くに、懐に潜り込んでしまえた。打ち込める位置も反射で決めるでなく、ゆったり吟味できる。
「てッ――」
しばらく考えて、ひとまず私が蹴りを打ち込んだのは、胸の日輪。
姿勢を崩すため脛に打ち込んでもよかったが、ぼんやり照る彫刻が「是非ここに打ち込んでくれ」と訴えるようだった。
ゴツッ。
思った通り効かない。反撃の対処を焦っても居ないし、別に効かないでもよかった。
遅れて〈那暈〉の正拳が、背後、遠くで空を切る。あの拳の速さを見ればまともに受けないでよかったと思う。
先に次手を打つのも私。さすがに何度も無駄弾を撃つような真似はしたくない。
正拳打ちのとき地に踏み込まれた〈那暈〉の腿、これを足場に頭の方へと跳び登り、造りの細い首に私の踵を打ち込――。
「――ぐぅっ。」
拳打のあと伸びきったままの〈那暈〉の腕が、姿勢が崩れるのも厭わず、そのまま横薙ぎに私を叩いた。
地面……ビルの屋根を転がる。
このまま猛攻が続くのを許してはならない。急いで立ち上がる。
「……?は、え?」
こんな簡単に立ち上がれるはずじゃなかった。
私が追撃を焦ったのは確かだった。だがこの身に降りかかった代償はあまりにも軽いのではないか?
肋とか腕の骨とかが砕けるのを覚悟したが、それどころかほんの少しの出血や、尾を引く痛みさえ無い。
〈那暈〉はすでに前蹴りの準備を終えつつあった。
今度は懐に入る暇などない。ならば受けるか、往なすか?
「ゥォォおおオオォォ――――ッ!」
一たび〈那暈〉に打擲を許した時点で、どの策であれ、そもそも間に合いはしない。そんなことはすでに分かっているだろう!何を逡巡していたのか!
そしてこの傷!また、相変わらずこの傷!
石材の上を転がるときに生じる取るに足らない傷を除けば、ダメージは無い。〈那暈〉の攻撃そのものに全く威力がないことのいい証拠!
すさまじいはずの一撃が、なぜにこんなに軽い?
〈那暈〉の、人間ならば持ちえない巨躯、見た目に違わない岩の硬度、そして振り抜かれる速い肢。
本来なら薄皮が剥がれ、血が噴き出て、肉と骨が曝され、この世のモノと思えない惨死体が出来上がるはずなのだ。
動揺が消えてきて、受け身が取れるようになる。これ以降、私が傷を負うことはなかった。
こうして立ち上がり、体勢が整うまでの間に〈那暈〉が打ち込んでくることはない。ただし、それが完了した瞬間に拳が、掌が、肩が、肘が、脛が、足底が繰り出される。
成す術なく蹂躙されるわりに、その証の一切が身体に残らない。このままほとんど受け身の練習と化した戦いを続けていれば、そのことへの惨めさと疑問がだけが思考を支配したままとなる。
きっと、そこから何物にも転じない。
抑えつけるように瞼を閉ざす。
眼窩に蛆がのたうつような感覚、これが収まるまで待って、改めて見開く。
「――っ。」
〈那暈〉に視線を向けたまま、それとは逆の方へ、石畳を蹴って跳び退いた。
両掌をかざし立ち止まる。〈那暈〉の姿が、私の掌に隠れる。降伏のための合図なら本来、ここから更に掌を掲げるものだが、〈那暈〉がこれを飲むかどうか。確信が持てなかった。
「ぬ?……止ァ――めるなら『止――」
「――『止める』!」
話が早くて助かった。
意気揚々と挑んでおいて敗走など、恥を晒すことこの上ない。だが〈那暈〉自身が許すなら、この情けを受けない理由はない。
「逆に、その……。」
〈那運〉の持つ理性に、意図を汲ませる形になった。人外どころか畜生ですらないのに、私はそいつの理性に甘えた。
「戦るのは楽しいがァ――だからといって楽しみのために戦ってるわけじゃないんでな。」
中層ビルの狭間に落ち、元の位置に戻ろうとする〈那暈〉が発するのは、「待ってる――ゥぞ」との叫び。
「止めるのは一時だから!次は必ず……!」
返答無し。私の方は、降りる手段を探さなければ。こんなところに連れ出しておいて放ったままとは、まったく。




