3)秘密の婚約
エルゼリがお茶を飲み終えるころ。
「こちらに来なさい」
と陛下に促され、隣室に向かった。
応接間とはがらりと雰囲気が違う。殺風景で重厚な雰囲気の部屋には中央にどっしりとした卓が置かれ、卓と揃いの彫刻が施された硬木の椅子があった。
卓の上には書類が几帳面に重ねられて載っている。
「エルゼリ・ルディエ。クレイ第一王子の婚約に関して決め事を話す。その前に、契約魔法で守秘契約をしてもらう。異存は無いな」
王に威圧的に告げられた。
「わかりました」
とエルゼリは淑女の礼をして答えた。
ふわりとエルゼリのスカートがゆれる。
異存ありますなんて、言えない雰囲気だ。言う気もまるきりないけれど。不敬罪うんぬん以前に、小娘が王家に逆らうなどできるわけがない。
「こちらへ。署名しなさい」
「はい」
エルゼリは示された椅子に座るとペンを手に取り署名した。
「血判を」
契約魔法に関しては以前、執事から聞いていた。
おかげで、びびることもなく用意されていたナイフを手に取り指に突き刺した。
一滴、署名の横に垂らす。途端に、契約書類が瞬いた。
魔法契約がなされたのだ。凄い魔法だ。
エルゼリは消えていく魔法の瞬きに見惚れた。
王妃自らエルゼリの傷ついた指に綺麗なハンカチを巻いてくれ、エルゼリは「ありがとうございます」と小声で答えた。
あとで治癒をかけよう。エルゼリは水魔法系の治癒を持っているが、王族のいるこの場で魔法を使う気はなかった。
陛下は書類を検めた。
「これでこの部屋で話されたことは、今この場に居たもの以外には話すことはできない」
陛下の厳かな言葉に「はい」と頷く。
「では、話をしよう」と王が視線で促すと、王妃と王子も隣に座った。
「君がクレイの婚約者に決まった。元から君が最有力候補だったが、前回の茶会で決定した。発表はクレイが成人するころになる。それまでは表向き婚約者候補の一人とする。見せかけの候補者たちはそのまま置いておく。だが、エルゼリが婚約者であることは揺るがない。マローナ・ルディエ侯爵夫人もすでに書類に署名している」
陛下が指をトンと置いた卓を見ると、母の署名がなされた書類がある。
この書類に関してはジークから予め話があった。
母はなにも理解しないままに署名した。母が執事に言われた書類を読み返したことなどない。九歳のときから侯爵家の仕事を手伝っているから知っている。
愚かな母だが見知らぬ不審者の書類には署名はしない。弁護士に厳しく言われているし、どうせ無効だ。母には動かせる財産はない。
ジークは「王家からの婚約申し込みは、決定のようです」と曖昧な言い方をした。ジークでさえもわかり難い書類だったらしい。
婚約の書類も「ピンキリ」だという。事業計画絡みの面倒なものもあれば、「いついつまでに婚姻することを約します」というシンプルなものもある。
王家の書類は、婚約が解消される場合の条件が細かく幾つも幾つも書かれていて、どれに牴触しても解消だ。
ゆえに、「婚約の候補から一歩進んだ程度のもの」とジークは推測していた。エルゼリもそう理解した。
ところが、陛下の言い方だともう決定している。
「わかりました」
エルゼリは頷く。
「それから、これから話すことが王家の秘密の主要なものとなる。第一王子、クレイは、魔力をほとんど持っていない」
エルゼリは意外に思った。王族は皆、高魔力持ちだと思っていたからだ。けれど、個人差があるのだろう。
エルゼリは「わかりました」と答え、さらなる陛下の言葉を待った。
なかなか次の言葉が話されない。
エルゼリはわずかに首を傾げたが、そのまま黙って待った。
陛下はしばしのち話を続けた。
「エルゼリ。君がクレイの婚約者に選ばれた理由は、一つめは魔力だ。魔力が候補たちの中でもっとも高かった。さすがルディエ侯爵家。大魔導師を祖先に持つ家系だ。我が王家には魔力をわずかしか持たない者がたまに現れるが、その者の子供はなんら問題なく魔力を持って生まれる。けれど、母親は魔力の高いものである方が良い。ゆえに、エルゼリに伴侶となることを求めたのだ。その他の条件も王子の相手として満たしている」
「はい」
エルゼリは反射的に答えながら「なるほど、そういうわけか」と納得していた。
だからエルゼリのような、家格はともかくとしてその他が全部、底辺の令嬢が選ばれた。
これは完全な政略結婚なんだ、とエルゼリは知った。まさか、あんな貧しい家の娘が政略結婚相手に選ばれるなど、誰が想像するだろうか。しかも、相手は王家だ。
愛する夫と細やかでも温かな家庭を、というエルゼリの夢は消えてしまった。そのことは堪らなく寂しい。でも贅沢は言えない。まず大切なことは命の危険回避だ。
王家との婚約なのに「贅沢は言えない」などと考えている時点で贅沢ではあるが。これであの父親の魔の手から逃れられる。
とはいえ、「顔だけ親父」は本当に頭が悪いから、それでも娘の命を狙ってくるかもしれない。自衛は必要かな、と思う。うっかり油断しないようにしないと。
陛下の話がゆっくりなので、エルゼリはそんな風に考える余裕があった。
「それで、だ。クレイは第一王子だが、魔力を持たないので王太子候補ではない。第二王子のレインが王太子となる予定だ。王子は二人しかいないのでクレイが王太子となる可能性もあるが、あくまでレインの次だ。けれど、そのことは王家の秘密だ」
なるほどね、とこれも納得だ。我が国は魔導師が建国した国だから、魔力を崇める傾向がある。魔力の高さは、それだけでその人の価値までもを高めてしまう。
エルゼリの個人的な考えでは、歴史はどうあれ、魔力よりも能力や人柄が大事だと思う。
あのヒロイン気取りの母親も魔力は高い。でも、魔法は使えない。才能以前に、努力など欠片もしなかったからだ。「それでも魔力が大事なの?」としか思えないが、国や王家の方針に口を出せるものではない。
つまり、クレイが魔力を持たないことと、本当は王太子候補ではないことは極秘なのだ。だから、契約魔法でエルゼリを縛ったのだろう。この秘密が決して漏れないように。
万が一、エルゼリが拷問されたとしても魔法で縛られているために話せない。契約魔法のおかげでうっかり口を滑らせる恐れがなくて本人も安心だ。
それに、これはエルゼリにとっては朗報だ。王妃などという重責のある地位に就かなくて済む。
考えてみれば、もともと無理だった。エルゼリは「死なずに済むかも」という思惑だけでお見合いにのぞんだが、コネもツテも金もない家の、淑女の教育も受けていない娘が王妃など、今さらながら冷や汗が出る。
とんでもなかった。
全てを理解し、エルゼリは深く頷いた。
「わかりました。よくよく心得ました」
エルゼリがしっかりとした口調で答えると、王と王妃と、それに王子が僅かに目を見開いた。
「そうか。心得たか」
国王陛下が安堵したように頬笑む。優しい笑みだ。
エルゼリは陛下のその笑みで緊張がわずかに解けた。
「はい」
国王陛下に畏れ多くも頬笑んで答える。
「ありがとう」
なぜか王妃に礼を言われた。
それからエルゼリは王妃に「二人でお話したら良いわ」と朗らかに提案され、王子に手を引かれて庭園の温室に行った。
王宮の温室はさすがに美しい。手入れは細部にまで行き届いている。温室の中に敷かれた煉瓦の小道ぞいに幾鉢もの花が置かれていた。
咲き乱れる花々に見惚れていると、王子に「そこに座ろう」と誘われた。
白いベンチで一息をつく。
「王妃になれなくて、残念とは思わないのか」
ふいにクレイに尋ねられた。
思いも寄らない問いに、エルゼリは目を瞬いた。
「いえ、私のような粗忽な者には重責すぎますから」
社交術一つ学んだことがないエルゼリに務まるわけがないではないか。これまでの面接でわからなかったのだろうか。
ポンコツな令嬢であることを隠そうとしたのに失敗した自覚は大いにあった。
この王子はもしかしたらエルゼリのことを、そんな大それた野望を持つ娘だと思っているのだろうか。魔力だけで選ばれたエルゼリが、変なことを考えていないか尋ねたのだろう。そうだとしたら勘違いもはなはだしい。
「そうかい? 国の頂点のほど近くで皆に羨まれ、傅かれるのだぞ」
王子は訝しげな顔をし、さらにしつこく問い詰めてくる。
彼は、おそらく本音では、エルゼリが嫌なのだろう。でも魔力が高かったから、仕方なく妃にしたいのかもしれない。
「そんな風に難なく思える人は、ほんの一握りの自信満々な令嬢だと思います。私は小心者ですから一言の失言で国が後ろ指をさされてしまいかねない立場は無理です。王妃の座も無理ですが、実のところ、王子妃も自信がないですわ。そう考えますと、ホントに私が選ばれてしまったのは災難かと。まぁ、後で修正されることも」
「ハハ。修正はないよ。エルゼリが私の妃になる」
クレイは笑いながら答えた。明るい自然な頬笑みだった。茶会で見たのは社交用の作られた笑顔だったらしい。
そんなに笑う要素があっただろうか。
「そう、ですか」
「それとも、魔力なしの私の妃は嫌かい」
王子が気まずそうな顔をする。
「いえ、別に、そんな風には思いません」
エルゼリは首をふった。
「君は、陛下から私の魔力はほとんどないという話を聞いたときに、あまり驚かなかったね」
「少しは驚きましたわ。意外でしたから。でも、個人差があるものなんだな、と了解しました」
「個人差というレベルのものじゃないけどね」
クレイが苦笑する。
「ええ。陛下が極秘だと仰るのでそれも理解しました。まれに我が国の王家にあるという話でしたね。それで、ロシアンルーレットという言葉が思い浮かんで」
「ろしあんるーれっと? とは?」
「あぁ、そうでした。私は、前世の記憶持ちです」
「エルゼリは魔力が高いから、そういうものもあるんだろうね」
魔力持ちがたまに持っている「前世の記憶」については案外、知られていた。
「はい。私の前世は、どうやらかなり遠方の僻地の生まれで、おまけに年代も古いらしいです。浮かんでくる記憶の言葉は聞いたこともないような単語ばかりです。あとは、前世で読んだ物語の記憶があるくらいで。あまり役に立つことのない記憶ですわ」
と、エルゼリは首をふり、話を続けた。
「それで、ロシアンルーレットというのは、前世の国にあった危険なゲームです。その国には武器がありました。威力のある弾が発射される武器です。ゲームに参加したものは、武器の弾を格納するところをぐるぐると回すんです。込められた弾は一つだけ。六発か七発くらいのうちの一つです。その弾がいつ発射されるかわからないように、ぐるぐると回します。それから、その武器を自分の頭に向けます。こうやって」
エルゼリは、武器をこめかみに押し当てる様をやって見せた。
クレイは息を呑んだ。
「それから、弾を発射します。もし、弾の装填されていないところに当たったときは弾は発射されません。弾が出なければ無事に次の人に武器をわたします。順繰りに弾が発射されて誰かが死ぬまで武器を回すんです」
「ずいぶん野蛮で恐ろしいゲームだな」
クレイは嫌そうな顔をする。
「でも、ゲームに参加した者たちは勇気があるとみなされます」
「愚かだ」
と、クレイは首を振った。
「今の我が国の感覚ではそうかもしれませんが。過酷な戦争をしているような国では、自分の勇気を維持するために必要なゲームだったのかもしれません」
「なるほど。そう言われると心情的にはわかる気もするが。令嬢に理解できる人がいるとは驚きだ。それで、その『弾』が王家の魔力なしだと言いたいのかい?」
「似てるところがあるかと。ロシアンルーレットのほうは、勇気を示すために武器を発射しました。殿下は王子としてお生まれになって、そうして、偶然に運命を背負った。命を落とすか、あるいは、秘密を守る重荷を負うか。負わされるものは違いますが」
エルゼリが淡々と説明をする。クレイは、武器で頭が吹き飛ぶよりは魔力なしのほうがましだな、とつい思った。本気で思ってしまったことに自分でも驚いた。
王子のくせに魔力なしなど、これ以上にひどいことはないと思っていたからだ。
「似てる、のかな。でも、興味深い考え方ではあるね。エルゼリの記憶にある前世の話は面白いな」
「面白い話ばかりでもないんですよ。物語を覚えていると申しましたでしょう」
「ああ、どんな物語だ?」
「予知の物語ではないんですけれど。なんだか、私にとっては、不吉な物語なんです。それは、ある貴族家の物語です」
エルゼリは話した。
女の家長が死んだのち、婿入りした男がその家の娘を暗殺。愛人に生ませた娘に継がせ、家を乗っ取る物語だ。
「ルディエ家には当てはまらないだろう。国がそんなことは許さない」
婿の愛人の娘など、血筋は赤の他人だ。国の法律違反になる。例外があるとしたら、その婿がなんらかの偉業をなしとげ、王から爵位を賜ったような場合だ。
授爵した爵位が婿入りした家の爵位と同等であれば、その家の家長となっても良いと認められることがある。実際に過去にあった例だ。
だが、アラン・ルディエはそんな例には当てはまらない。
「まぁ、そうですわね」
エルゼリは答え難く感じ、適当に相づち打った。
「エルゼリ。その物語みたいになりそうな予兆でもあるのかい」
「私の父は暴力的な人です」
エルゼリは迷ったのちに正直に答えた。
それでも曖昧な言い方しか出来なかった。やはり家を背負っているという意識が恥をさらすことに抵抗していた。
「そうか。わかった」
クレイ王子があっさりと認め答えてくれたことに、エルゼリは少々驚いた。
クレイは労るような目でエルゼリを見詰めていた。
我が家のことをご存じなのだろうか。知られていても不思議ではない。父はかなり派手に暴力を振るっている。体術を習っているおかげで避けるのは得意だ。おかげで酷いことにはなっていないが、唇を切ったり避けて転んだ拍子に痣を作ったりとかはしょっちゅうだった。
若い侍女はお喋りなものだ。漏れている可能性はあった。調べようと思えばわかる。
エルゼリはこれで実家の問題を蔑まれて婚約が頓挫するとしても、今さら隠すより潔いだろうと思った。
ありがとうございました。明日も夕方20時に投稿いたします。