1)プロローグ
エルゼリに王家からの婚約話が持ち上がったのは十二歳のときだ。
エルゼリは思った。これで屋敷から逃げられるかもしれない。死なずに済むかもしれない、と。同時に「無理に決まってるわよね」とも思った。
エルゼリの両親は、普通じゃなかった。
でも、やるだけやってみようという健気な気持ちで、母の古いドレスを侍女に工夫してもらい精一杯のお洒落をしてお見合いの茶会にのぞんだ。
□□□
魔力持ちの中には「前世では俳優だった」とか、「前世で薬師をやっていた」とか、そんな記憶を持っている者がいる。
大抵の場合、前世の記憶があるといってもほんの少しだ。「舞台で優男を演じた。でも、あらすじは覚えていない」みたいな風に。
エルゼリの記憶も曖昧だ。ただ幾つか現世では聞かない事柄を知っていた。
それから、物語を知っている。図書室には無い本の物語はエルゼリの今の境遇に似ていた。
登場人物は貴族家の夫人と跡継ぎの娘。それに、婿入りした男。
男はクズだった。結婚した早々に愛人を作った。
夫人は後に事故死。
男は愛人とその娘を屋敷に連れてくる。そして愛人の娘に侯爵家を継がせようとする。
侯爵家の血筋は死んだ侯爵夫人の娘だけだ。愛人の娘など侯爵家とは関係が無い。国の法律で決まっている。
ところが、男と愛人親子は侯爵家の乗っ取りを企てる。正統な跡継ぎである娘を暗殺し、自分の愛人の娘に継がせる。上手くいったかはわからない。夢はいつも娘が死んだところで終わる。
そういう物語だった。
思い出し始めたのは九歳くらいのころだ。
跡継ぎの娘が殺される場面を思い出したときは震えながら一晩中、布団にくるまっていた。
その頃、エルゼリの側にはいつも祖父と祖母がいた。
祖母は様子のおかしくなった孫に問い質し、エルゼリは嫌な物語をみたと話した。
祖母は「その話はお母様には言わないように」と口止めをした。
もとより、エルゼリは母に話そうとは思っていなかった。
母マローナは変わった母親だった。母から話しかけられたことも抱きしめられたことも、頬笑まれたことさえない。エルゼリは母には近付きたいと思わなかった。祖母たちのほうがずっと好きだ。
マローナが母親だという意識もあまりない。エルゼリを育ててくれたのは乳母と侍女たちだったからだ。
祖父母がエルゼリの話からなにを思ったのかわからないままに年月が過ぎ、エルゼリは歳を重ねるにつれ、記憶にある物語の通りになることを怖れるようになった。あの通りになりたくないと祈った。
二年が過ぎ、エルゼリは十一歳になった。この年、祖父が亡くなった。
昨年、祖母が亡くなってから、ルディエ侯爵家では祖父が領主を務めていた。ルディエ家はガゼリア王国では珍しく女系の家だ。古くから続く家であり、初代は戦時に活躍した女魔導師だった。
その血筋ゆえか、あるいは呪いか、ルディエ家の長子は女児が生まれることが多く、女系で代々、継がれてきた。
祖父は母が頼りないために暫定的に領主の座についていた。それが祖母の遺言だった。
祖母は他にもこと細かく遺言をし、亡き祖母の言葉が確実に行われるよう著名な弁護士がついていた。
祖父の死後は、長女である母マローナが侯爵家を継いだ。
父アランは婿で、本来ならアランはもっと婿らしく控えめにしているべきだろう。けれど、美男の父に惚れていた母はアランの我が儘を許し続けた。
マローナは夫を立てる大人しい女だった。か弱く儚げで、おまけに夢見がちな少女のような侯爵夫人だ。
エルゼリは容姿は母方に似ている。美貌の叔母や母と同じ金茶色の髪に若葉色の瞳だ。
叔母は「私に似ているわ」と言って喜ばせてくれたが、お世辞ではないかと疑っている。父には「見るからに生意気な娘だ」と罵られ、母からは「可愛げが一つもないわ」と嘆かれているのだから。
父は、母が文句の一つも言えないのを良いことに家から金を持ち出し愛人に貢いだ。
父の愛人は娘を産み、父は愛人親子のもとに通い詰めている。物語と同じだ。
クズ以外の何物でも無い父を、母はじっと耐えている。
馬鹿だろう。父もクズだが、母は輪を掛けて愚かだ。
エルゼリはこの家で苦労したせいか、あるいは前世の記憶のおかげか、精神年齢が少々高い。両親を見ていて苛々する。とはいえ、十一歳の娘にはどうすることも出来なかった。
エルゼリは考えた。下手に逆らっても駄目なのだ。
母は、根っこから根腐れした青菜みたいなものだ。
間もなく葉の部分も腐って土に返るだろう。今更、侯爵夫人として毅然としようとしても無理だ。
エルゼリは何度か子供らしさを装いながら、
「お母様、お父様をどうにかしたら?」
などと言ってみた。
「まぁ、いけません、そんなことを言っては!」
その度にこの世の終わりのような顔をされた。
エルゼリは悟った。母マローナは、不治の病だ。名付けて「ヒロイン病」。母の役どころは「冷たい夫に耐える健気な妻」。苛々するが、病だと思えば少しは耐えられる。クズが理想の夫に見えるのだから、目も病んでいる。
母は怠け者で、屋敷の執務もできない。いったい毎日何をやっているのかといえば、恋愛小説を読んだり、侍女に愚痴をこぼして過ごしている。貴族夫人は優雅でいいよな、と思う。自分も貴族令嬢だが、エルゼリがしっかりしないとこの家は終わる。
マローナは自分を悲劇のヒロインに見立てて酔っている。
エルゼリはクズな父親も嫌いだが、ヒロイン病の母親も嫌いだった。
未来の不安に突き動かされるように魔法の修行や護身術や体術の修行にも励んだ。家が潰れたときに困らないよう、時間さえあれば本を読んだ。
侯爵家の仕事を覚えるために執事のジークについて出来ることを手伝いもした。親から教わるなど到底、無理だからだ。
さらに月日が過ぎ。エルゼリが十二歳のころ。
叔母が亡くなった。
叔母は傾国の美女と誉れ高い美麗な女性だった。公爵家の嫡男に見初められ嫁入りした。この年に流行った悪性の感冒にかかり亡くなった。
それから父の素行がさらに酷くなった。父アランはエルゼリに手を上げるようになった。
今までは公爵夫人だった叔母がときおり心配してエルゼリに会いに来てくれていたので、アランは大人しく控えていたらしい。
足を蹴ったり、茶器を投げつけたりするのから始まり、とうとう平手を打ち付けてきた。
エルゼリは咄嗟に避けた。熱心に体術を習っていたのが役に立った。避けた拍子にうっかり転んでしまったが。
椅子にぶつかり、賑やかに音がした。
マローナが悲鳴を上げて逃げ出し、執事が「旦那様!」と止めに入った。
このときはこれで済んだ。
母はさめざめと泣くばかりで父を諫めようとしない。
エルゼリはさらに悟った。
この両親は駄目だ。わかっていたつもりだったけれど、甘かった。
母は父を止めない。決して止めない。娘に暴力を振るおうとも。自分は逃げ出して、エルゼリは置き去りだった。
優しい母だと思っていたが、単に娘には興味がないだけだった。エルゼリに対する愛はない。そもそも教育もお座なりで、浪費癖のある父親を放っている時点でわかれば良かった。
母は自分を愛しているだけだ。酷い夫に耐えている健気な自分に酔い、ヒロインになったつもりでいる。
最悪だ。
エルゼリはさらに勉強に身を入れた。体術の他にナイフを使った護身術も密かに習った。武術の教師はもと傭兵で、執事が見つけてきてくれた。週に一度だけだが、熱心に習うエルゼリに親身に指導してくれた。
その年。
エルゼリは第一王子クレイの婚約者候補に選ばれた。年齢と家格の釣り合う令嬢として条件が揃っていたためだ。
ルディエ家には二か月ほど前から、王家より第一王子の婚約に関する打診が来ていた。
おそらく、というよりも、確実に王家では、王子の婚約者候補について長年に渡って検討が重ねられていたのだろう。その上での打診だ。婚約者の決定はまだ先としても、候補になるのはほぼ確実だろう。
とはいえルディエ家の方では、エルゼリが婚約者に選ばれることはない、と関心もなかった。
候補の令嬢はあまりにも数多くいる。
王子の婚約者として少しでも可能性のある貴族家では、クレイ王子がお生まれになった途端、子作りに励んだ。おかげで、年齢的に条件の合う令嬢はたくさんいる。ちなみに、ルディエ家でエルゼリが生まれたのは偶然だ。
それに、エルゼリは一人娘でルディエ家の跡継ぎだ。第一王子の婚約者は、未来の王妃候補でもある。エルゼリがルディエ家を出たら誰が家を継ぐのか。
叔母が息子を二人産んでいるので、養子を貰う当てはあったが、わざわざ嫡子を選ぶ必要はないだろう。
そういったエルゼリが選ばれない理由は幾つかあるとはいえ、ルディエ家は侯爵家で爵位としてはそれなりに可能性があるのに、なぜ最初から諦めてるのかというと親の都合だ。
母親のマローナは自分の悲劇にしか興味がない。娘が王子の婚約者になるなどそんな重圧を受け止めるのは無理な女だった。
王宮から手紙が来たときも、
「我が家に王宮から手紙が届くなんて」
と、なぜか打ちひしがれていた。
そのため、王宮との応対はすべて執事がした。
父アランは相変わらず愛人宅に入り浸りなので、王宮から手紙が来たことも知らない。
どちらにしろ、マローナがルディエ家の家長なので、アランの署名は必要なかった。
一月後には王宮の茶会に呼ばれた。
明らかにお見合いのための茶会なのだが、表立ってはただの「新春の茶会」だった。その割に参加者は令嬢ばかりが八人ほど。あからさまに見合いだ。
どうやら、数多の婚約者候補の中から書類選考をすり抜けたのはこの八人らしい。
場所は王宮の庭園だった。
新春などといっても、まだ雪が解け始めたばかりの季節だが、この庭園は魔導具の結界で暖かさを保持しているらしく、まるで温室の中にいるようだ。
エルゼリはごく静かに茶会の席にいた。知り合いの令嬢など一人もいないので黙っているしかない。それに喋ると失言する怖れがある。
二つのテーブルに分けて座らされたが、王妃と王子の周りは公爵令嬢で占められている。
公爵令嬢が三人、侯爵令嬢が三人、伯爵令嬢が二人という中で、ルディエ家は家柄としては真ん中だ。王宮での影響力や財力、人脈などは最下位だとしても。
隣のテーブルなので、王妃たちの話の輪には物理的に入って行けない。
王妃と王子との会話に熱心に食いついている令嬢たちは笑顔を振りまき、話しかけられれば嬉しそうにお喋りしている。
家柄の良い令嬢たちほど目がぎらぎらしている。あるいは、淑やかに品良く艶めいた笑みを浮かべている。まだ少女だというのに。雰囲気がもう修羅場だ。
エルゼリはすっかり気圧されてしまった。
緊張とさまざまな思惑と、小鳥のような少女の声、鈴が転がるような笑い声。茶器が触れ合う微かな音。これぞ貴族の女の戦場。
無理だわと、エルゼリは早々に悟った。王子の隣に立つために、さぞかし教育を受けてきた令嬢たちなのだろう。
それに比して、エルゼリはただ生き残るために魔法や体術に打ち込んできた。エルゼリの敵は愛人に入れ込むアホで性悪な父親だった。こちらの戦い方は学んでなかった。
一人寂しく菓子を摘まみ、闘う前から負けを確信した。
宴も進むと一度、席が替わり王子がエルゼリたちのテーブルについた。エルゼリは他の令嬢とともに型どおりのお辞儀をした。
綺麗な王子だった。銀の髪に淡い水色の瞳をしている。髪も瞳も透き通ってまるでガラス細工のようだ。
エルゼリの一つ年上で十三歳。背はすらりと高く、まだ少年らしく肩とかは華奢だが、青年の歳に成長しつつある大人びた姿は魅力的だと思う。けれど表情は固く、笑顔は作り物めいていた。
この人がいつか王になるのか、こんな冷たい感じの人が。エルゼリは寒寒しく思った。
身近に最悪な夫婦がいるせいで、エルゼリは「優しい夫と温かい家庭」が夢だった。婚約者になどなれるわけがないけれど、あまりなりたくないな、と思った。
でも、万が一、婚約者になれたら、あの家から出られるかもしれない。それは魅力的だった、命の危険回避的に。
エルゼリは侯爵家の跡継ぎだ。それなのに、第一王子の婚約者候補に名をあげられているわけがそもそもわからないのだが、王家ともなれば力業でなんとかなるのだろう。
王子と令嬢たちと軽いジョブのような世間話が交わされたのち、王子が「この庭園に咲く深紅の花は隣国から取り寄せたものだ。何処の国からかわかるかい」と、見合いの茶会の場に相応しい問いを投げかけた、
令嬢たちは一斉に考え始め、一人ずつ答えた。
憶測を述べてみたり、わからないと正直に答えたり。なかなか令嬢たちの性格がわかる問いかけであった。
王子は聡明な方だな、とエルゼリは関心した。王家が用意した設問かもしれないが。王子の考えた問いのように勘違いさせたのだとしてもなかなかの手腕だ。
エルゼリが答える番になった。
庭園の花に関してはわからなかったが、似た花を知っていた。
「あの花はボタンに少し似てますね。お隣のローゼルノ王国ではボタン科のシャクヤクの栽培が盛んで輸出されていると本で読んだことがあります」
なんとか上手く答えられたんじゃないかと思う。答える順番が後の方で、考える時間があって良かった。
王子は「皆、花については詳しいのだね」と頬笑んだ。
それから、なぜか話題が強制的に変えられ、正解は教えて貰えなかった。もしかしたら、自信満々に答えた令嬢がいたので、彼女に恥をかかせないためだったのかもしれない。
エルゼリの見立てでは、彼女はだいぶ見当外れな珍回答をしていた。
そろそろお開きというころ。王妃が、
「素敵なものを見せて差し上げますわ」
と、皆に声をかけながら立ち上がった。
茶会は花の溢れる中庭で行われていたのだが、テラス窓から瀟洒な応接間に招かれ、令嬢たちはしずしずと中に入った。
王妃が指し示したテーブルには水晶の花が置かれていた。薄紅色の大輪の花が水晶の中に閉じ込められている。
それは見事なものだった。どうやって作られたのだろう。
「まぁ綺麗」
「素敵」
口々に令嬢たちが声をあげる。
水晶の花の台座も淡く金に輝く水晶のような透き通った石で、エルゼリはそちらにも目を引かれた。
「どうぞ、もっと近くに寄って。触れてみてちょうだい。東の果ての国では水晶には心を浄化して癒やす効果があると言われているのですって。さぁ、どうぞ。本当に癒やされるような心地がするのよ」
王妃に薦められ、近くにいた令嬢から一人ずつ水晶に手を触れた。
すると、ほわりと水晶が瞬く。
「癒やしの光ですわ」
王妃が自慢げに頬笑む。
「綺麗!」
令嬢たちの頬笑みも輝く。
一人一人、水晶に手を触れていく。
八人全員が水晶に癒やしをもらい、その日のお茶会は終わりとなった。
エルゼリは、なぜ水晶の輝き具合に個人差があったのだろうと不思議だった。
まるで「魔力測定」の魔導具みたいだった。