第2話 異世界転生
かたかた。
キーボードを打鍵する音が、八畳一間の空間に木霊する。
パソコンのモニターが二つ。
その片方ではMMORPGの画面が光を放っている。
部屋には足の踏み場もない荒れ模様。
ラノベやマンガ、そしてゴミの山が、そこに住む者の精神を現している。
ここに住む五部林太の精神は病んでいた。
毎日、自慰行為をしてギリギリの精神を保っていた。
「主人公がなんだ。俺だって……」
グズってもしょうがない。
ゲームに集中する。
俺はゲームの中なら主人公なんだ。
誰になにを言わせようとも、俺だって必死に生きているんだ。
『リン、よくやった』
ゲームの会話ログに隊長からのメッセが届く。
『やっぱりリン君すごいよ!』
『さすが次期リーダー』
そうゲームの中ならみんなに頼りにされる最高のプレイヤーなんだ。
「リンタ、醤油買ってきて!」
「母さん、今ゲーム中」
部屋の前で母さんが呼びかけてくる。
そんな母さんに苛立ちを覚える。
醤油くらい自分で買ってこいよ。
「今日は刺身なのに……。残念ね……」
刺身。
その言葉にぴくっと指が跳ねる。
「お父さんも帰ってくるから、せっかくコハダのいいところ、もらってきたのに」
コ ハ ダ
「わかった。行くよ」
俺はゲーム仲間に一時離脱を告げると久々に私服に袖を通す。
ボサボサになった頭を少し整えて財布を握りしめる。
近くのスーパーは徒歩で片道十五分くらい。
俺にとっては長い道のりだ。
母さんにお金とエコバッグを受け取ると、玄関脇にある自転車、海王丸にまたがる。
「五部林太、行きます」
情感たっぷりめに言うとペダルを漕ぎ出す。
晴れやかな夏の空。
湿り気のある風を全身で浴びながらスーパーに着く。
「あれ? 五部じゃん」
話かけてくる他校の制服を着たギャルが一人、歩み寄ってくる。
誰だ?
「あーしだよ、あーし」
ギャルはこれで分かると思っているらしい。
あーし詐欺には気をつけよう。
「わかんないかー。広瀬菜由だよ! 一緒に海水浴行ったじゃん!」
何が可笑しいのか、ケラケラと笑う広瀬。
「広瀬……」
その名前には心当たりがある。
昔仲良くしていた部活仲間だ。
まあ広瀬がモテすぎて、仲間のほとんどが仲間割れ。解散に至ったのだけど。
当時からモテない俺には関係ない話だった。
「あははは。あーしのこと覚えていないとか、初めてなんだけど!!」
「いや、まあ……」
ニタニタと笑うと広瀬はぼけっとしている。
「笑い方キモいかも」
「ほうっておけ」
俺は苛立ちを覚える。
笑い方くらい好きにさせろ。
「じゃあ……」
離れようとすると広瀬はしたり顔をする。
「ははん。あーしには見せたくないもの買うのかな?」
「え。醤油だけど?」
「じゃあ、もうちょっと一緒でもいいよね?」
どういうことだ。
俺と一緒にいてもメリットなんてないのに。
「い い よ ね?」
圧が強くなった。
笑顔が怖い。
「はい」
豆腐メンタルかつ陰キャな俺はそう答えるしかなかった。
広瀬と一緒に買い物をし、帰り道を歩く。
「あんた、なんであーしのこと避けているのよ?」
「え。いや、ええっと」
俺は困ったように眉根を寄せる。
「陽と陰の、違い、かな……?」
「なにそれ。誰が決めたのよ」
寂しそうに呟く広瀬。
「あーし、アニメの話をしたいんだよ?」
「えっ……」
オタクに優しいギャルなんて本当にいるん?
「どういう、ことだ……?」
「そのまんまの意味だよ。あーしの友達、みんなアニメ嫌いでさ」
広瀬は遠くを見つめるような声で語り出す。
ついでにアニメの話をする。
「おお。あの実妹、可愛いよな!」
「そうそう!! あの子健気でかわいんよ」
うんうんとうなずき、アニメキャラのことを語り合う。
あれ。これ意外と楽しいかも。
「もうこんな時間だ。また学校で会おうよ」
「俺は……」
ずっと通っていない学校への誘い。
みんなの冷たい視線が怖い。
「大丈夫だよ。あーしがなんとかする」
広瀬の言う通りになると思う。
スクールカースト上位だし。
彼女の言葉なら、聞いてはくれるだろう。
「あーし。あんたともっと話したいんだよね」
広瀬は嬉しそうにはにかむ。
「……わかった。行くよ」
「本当!?」
広瀬は勢いよく俺を抱きしめる。
「ありがと! えへへへ」
嬉しそうにギュッと強めてくる。
「ええっと。広瀬、さん……?」
戸惑いしか覚えていない俺。
はっとした顔で身体を離す広瀬。
「ご、ごめん。嫌だったよね?」
いやむしろ眼福ものでした。
柔らかな双丘に、いい匂い。華奢な身体。
すべてが俺の脳髄を刺激した。
とてもいい経験だったと思う。
「じゃあね」
広瀬はそう言い遠くから手を振っている。
手を振り返すと嬉しそうに駆けていく。
俺はその手を見つめながら、自宅へと向かう。
醤油片手に。
いやいい経験をした。
今後も楽しみがありそうだ。
ルンルン気分で歩いていると、目の前にトラックが現れる。
「やばっ」
かわさなくちゃ。
そう思ったが、身体が思うように動かない。
身体を衝撃が襲おう。
飛ばされた身体が見た景色は酷く酔う。
地面を転がり、目を開けたときには全身の痛みが襲ってきた。
やば。
痛い。
でも明日は広瀬との約束があるんだ。
陰キャから脱却する瞬間が待っているんだ。
俺はこれから広瀬と素敵な時間を過ごすんだ。
そしていつか友達と、恋人と、楽しい時間を過ごして、そして。
「大丈夫か!?」
近くにいたらしいおじさんやお姉さんがしきりに話しかけてくる。
もう何を言っているのか、聞き取れない。
彼らは何を言っているのだろう。
耳が遠くなる。
血の気が引いていく。
全身から力が抜けていく。
これが――。
死。
死ぬんだ。俺。
何もしていないのに。
ああ。そういえば広瀬と一緒に転生もののアニメの話をしたっけ。
あれって伏線になんねーかな。
俺も次世代に転生できねーかな。
俺、まだ死にたくないよ。
広瀬と一緒に想い出を作りてーよ。
くそ。うごけ、動いてくれ。この身体!
気合いをいれても、何も変わらない。
何も変えることなんてできやしない。
ここは……どこだ……?
俺は目を覚ますと異様に真っ白い世界に居た。
丸机と丸椅子のそろった綺麗な白亜の世界に。
「あら。人間がここに来るのは久しぶりね」
揚々とした口調でしゃべり出すのはこの世界の主。
丸椅子に腰をかけた、まるで十七歳くらいの女子。
彼女は綺麗な金髪を腰まで伸ばしており、美しすぎるほど整った顔立ちをしている。
着ているものは上品で白と青を基調としたもの。透けてみえる布地も見える。
とても静かで神々しい姿をしている。
「ふふ。そんなに怯えなくても大丈夫ね」
「失礼ですが、あなたは?」
「わたくしは、女神ノルン。運命の人ね」
運命?
「俺は導かれた、ということか?」
「そうね。でもそれは世界の調停者という意味ではないね」
調停者?
よく分からないことを言うな。
「ふふ。安心しなさい。あなたは新しい世界で、新しいことをすればいいわ」
「新しいこと?」
上擦った声を上げる。
ここまでの事態を飲み込めずにいた。
俺は誰と話しているんだ?
「きみはわたくしの僕になるわ」
「はい。わかりました」
自分の意思とは別に身体が答える。
どうなっている。
この身体は自由に動かないぞ。
「さ。新しい世界で、あなたの欲望をぶちまけなさい」
「了解。俺は欲望のままに生きる」
そう言って女神ノルンの導き通りに、ブラックホールへと飛び込む。
「そうそう。あなたには素敵なプレゼントをしてあるわ」
プレゼント?
そんなものがなくても、俺は次の世界で転生し、すべてを奪ってやる。
思考が分散していく。
ああ。俺は野蛮人なんだ。
すべてが酷く憎い。
「はかい、する……」
それが最後に発した言葉だったかもしれない。