入学編 1話 赤が深く染めた
今見ている景色は何かの間違いなのだろうか。
四方八方から建物が崩れ落ちる音と人々の泣き叫ぶ声が、鼓膜を叩きつけられたかのように聞こえた。
街の至る所から炎が上がり、燃えた発生した黒煙がただでさえ曇りで澱んでいた空を、黒く覆い包んでいる。
炎と血と悪魔の赤色が、灰によりモノクロに塗りつぶされた世界の中で、余計に目を引いた。
崩れた建物の下から伸びる赤い腕が、助けを求めているのか、彼自身をも引き摺り込もうとしているのか。それが分からないほどに、混乱を極める状況だった。
この景色を地獄と言わないのならば、悪人が死んだ後に行く黄泉の世界というものは、一体どんなものなのだろうか。
壮絶な光景を目の当たりした彼の心は壊れ、泣き叫ぶ人達を前にしてそんなことを考えていた。もはや正常な判断をする思考などは、彼には残されていなかった。
これまでの平和という常識が、世界と共に目の前から崩れ落ちて行く。
そんな中、彼はただ立ち尽くすことしか出来なかった。
頬が熱い。
ガラスに反射した彼の顔は煤で灰で汚れている。
そのことに理解をしてはいるものの、まったく気にならなかった。
何もかも終わりを迎えようとしていた。
――もう……どうでもいいのかもしれない……
彼の心の奥底で、そんな言葉が浮かび上がっていた。
もはや、目の前にたたずむ悪魔でさえ、彼はどうでもいい事の一つにしか過ぎなかった。
過去を思い返そうとするも、彼は自分の母親の顔を思い出すことが出来なかった。
このような時に限ってどうでもいい事ばかり思い出してしまうものだ。
例えば――
――なぜだろう。どうでもいい事すら思い出せなくなってしまっている。
そうか――もはや自分が自分の存在を、どうでもいい物だと思ってしまったようだ。
短い人生……悔いが無いと言えば大嘘になる。だが、嘆いたところで何が変わる。何が変えられる。祈りはいつだって届くことを知らない。
悪魔は彼へと足を進めていった。一歩踏み出す度に、地震が起きたかのように地面は揺れた。
待ち受ける絶望に対して、彼の表情は安らかなものに見えた。生き物は死を恐れる。だが、死を覚悟した人間は、案外本能に従順なのかもしれない。
目の前に立ちはだかる強者に対しては、いつだって無力なものである。
歪な形をした腕を、悪魔は振り上げた。
腕が高くなるにつれて、彼の表情は安らかに……なることは無かった。むしろ逆である。どんどんどんどん強張っていった。
目の前に差し出された死に、改めて彼の本能が歯向かった。
……まだ……死にたくはないと。
歯を強く食いしばった。勢いあまり、唇の端も噛んでしまい血が流れ出た。
暖かい。その温かさに、彼はまだ実感が出来た。まだ自分は生きていると。
――僕はまだ!死ぬわけにはいかない!
その時、彼の目の前にいた悪魔の上半身に、斜めに切れ目が入った。切れ目を沿うようにして、悪魔の体は地面へと滑り落ちていった。
唐突の出来事に理解が出来ない彼は、恐怖のあまりに地面へとへたり込んでしまった。
座ったまま、ずり落ちた悪魔へと目をやった。どうやら鋭利な物に斬られたようで、断面は凹凸一つ無い平らな断面が見えた。
何が起きたのか分からない彼の前に、一人の人間が姿を現した。
その者の手には、全長二メートル程の大きな鎌が握られていた。鎌の刃には、大量の赤黒い悪魔の血が塗りたくられていた。
おそらくその鎌で、さきほどの悪魔を一刀両断したのだと、即座に理解した。
背を向けていたために表情は分からなかったが、体型的に女性であることは間違いなかった。
彼はようやく立ち上がって、彼女にお礼を告げようとしたが、突如彼女は彼の前から姿を消した。いや、消えたのではない。彼の目には追えないスピードであった。
彼が気づいた時には、彼女はそこら中にいた悪魔どもを一瞬の隙の内に、大鎌で切り刻んでいた。
躊躇うことも留まることも知らずに、彼女は大鎌を振り回し続けた。そこら中にいた悪魔が、僅か数秒で全て跡形も無くなった。
彼女は、悪魔どもの死骸の上に立つと、手に持っていた大鎌を屍たちへと突き刺した。赤黒い液体が飛び跳ねると、裂けんばかりに開いた口で、歪な笑顔を見せた。
彼女は街を救った張本人であり、本来ならば讃えられるべき称号を与えるべきだ。
救世主。英雄。ヒーロー。どれも彼女には与えられるべき称号であったが、どれも彼女には似つかわしいものではなかった。
彼は彼女の姿を見て思っ称号はもはや真逆のものであった。
大きな鎌。悪魔の死体で笑う姿。もはや彼には「それ」にしか見えなかった。
――彼女は……まるで……まるで……
死神のようだった。
◇◇◇
この世には二種類の人間が存在している。
「選ばれた人間」と「選ばれなかった人間」。
例外など無く、必ずこのどちらかに振り分けられる。
しかも自分の意思など関係なく。
一言で選ばれた人間と言っても、存在するのは人間に選ばれた者だけではない。
「運命に選ばれた人間」
現在彼が向かっていたのは、その者たちが集う場所であった。
この世界は文字通り、血で血を洗う戦いを繰り広げる世界なのだ。
◇◇◇
座席に座っていた彼は、突如発生した頭部の痛みによって目を覚ました。
嫌な夢でも見ていた気がするが、今は頭の痛みの方が気になった。
頭痛のような内面的なものではなく、何かに叩かれたような外面的な痛みであった。
目を開くと、目の前には真っ白な壁がぎりぎりに迫っていた。
この時ようやく思い出した。
新幹線へと乗った彼は、車内の快適さ故に睡魔に抗えなかったようだ。
携帯を取り出して電源を付ける。
四月二日、午前十時前。もう少しで目的地へと到着するようだ。とは言っても準備をするにはまだ早いために、再び座席へと深く腰を掛けた。
彼を乗せた新幹線は満席に近い状態であった。にもかかわらず、車内は静まり返っており、列車の揺れる音だけが響いていた。そんな音を心地よく感じた彼は、列車の揺れる音を子守歌代わりに、眠ってしまっていたそうだ。座席もいい感じで倒れている。この状況で寝てしまうのも無理はない。
謎の言い訳をして、自分に言い聞かせた。
あらためて、早めに席を窓側の席を取ることができたという僅かな優越感に浸りながら、彼は窓の外に視線を向けた。列車の揺れる音に耳を傾けながら、高速で流れてゆく街並みへと目をやる。
左から右へと、建物が流れるように過ぎ去っていった。その中には大量の民家が見えた。
あの家にはどんな家族が住んでいるのだろうか。あの家には、どんな者が済んでいるのだろうか。自分の家族の事を知らない彼方は、残りの待ち時間を、妄想へと費やした。
――彼方……
窪田彼方。それが彼の名前であった。
どこか頭の奥底で、誰かが彼の名前を呼んでいるような気がした。昔の記憶だろうか。しかし、彼にはそのことを知る術など、何もなかった。今の彼に出来ることは、精々窓の外を眺めていることくらいであった。
どうでもいい昔話を思い出した。「かなた」という呼び方自体はよくあるが、漢字で「彼方」と書くのは珍しいと、よく言われた。
彼方――意味としては離れた場所や方向、向こう、あちらなど。何度も調べるうちに、頭の中にこびりついていた。
何度も名前の意味について、考えたことがある。しかし、答えは出ることが無かった。
両親は今どこにいるのかすら知らない。だがその顔だけはハッキリと覚えている。
彼はどういう訳か、断片的な過去の記憶しか有していなかった。以前医師から言われた話を思い出した。
彼方は一種の記憶障害のようなものを持っており、十歳以前の記憶が、作りかけのジグソーパズルのように、一部分が剥がれ落ちてしまい、断片的な記憶しか残っていなかった。それ以降の記憶はちゃんと残っている。
両親の顔。
断片的な記憶しか持っていない彼方に残された、数少ない記憶の内の一つであった。生きているのならば、なぜこの名前にしたのか、いつか聞いてみたいものだ……なにより、話し合ってみたいものだった……
そう思いながら、上着の右ポケットへと手を突っ込んだ。何か硬いものが指先に触れる感触があった。
親指と人差し指の先でつまんで、ポケットから取り出して、顔の前へと持っていった。
小さな銀色のバッチが車内の照明に照らされて、キラリと光った。
中央に描かれた金色の杖。その杖を囲うように二本の赤い蛇が、巻き付いていた。その上には、天使のような輪っかが浮かんでいた。
彼方の行く高校の組織から送られてきた小さなバッジであった。それが入学照明のような役割を果たすと、バッジと共に送られてきた書類には書かれていた。
バッジを眺めながら、どのような高校生活を送っていくのかを楽しみに考えていた。
『まもなく、終点 東京です――』
景色を眺めながら追憶にふけっていると、アナウンスが車内に流れた。目的地近くへとかなり近づいていたようだ。
新幹線が止まると各々が席を立った。他の乗客がいなくなるのを確認すると、彼方はようやく席から立ち上がった。車両の後方へと進んで行き、荷物置き場から自分のキャリーバッグを取り出した。
キャリーバッグを転がし、駅の改札口を通った彼は一度携帯を取り出して、時刻を確認する。
慎重な性格であった彼は、もしもの時のためにかなり早く行動していた。通常であれば一本後の新幹線に乗れば、丁度いい時間であったが、少々待ち時間が出来てしまった。
だが早めに行動して損は無いと、彼は自分に言い聞かせて駅の中を見回ることにした。初めての東京に、彼は少々浮かれ気分でもあった。
駅の中には大量の人が溢れ、何度も通行人とぶつかってしまった。その度に彼は、律儀にも全ての相手に頭を下げていた。
そんな彼に目もくれず、人々は川のように流れていった。
人ごみをかき分けて、ようやくお土産売り場に到着した。帰省するわけではないのだが、せっかくだから一つ買っていこうと思い、店の中へと入っていった。
中はかなり広いようで、遥か先まで道が続いており、道なりに大量の店が立ち並んでいた。どれもテレビで見るような有名店に彼は心を躍らせた。
いろいろな店を見ている中、彼はキーホルダーなどの小物売り場へと来ていた。東京をモチーフにした有名なキャラクターたちが、棚には飾られていた。
「うわっー!凄い!『東京さん?』だー!」
キーホルダー見ていると、隣から少女の元気な声が聞こえてきた。
つい彼は雑貨から彼女へと目線を映した。
首筋で切ったボブカットの茶髪。明るく元気な声と笑顔。身長はかなり大きいようで、一八〇センチ以上はあるように見える。スラッとしたモデル体型で、つい彼女に見惚れてしまう程のスタイルだった。
彼女は目をぱぁっと輝かせて、手に握っていた人形を眺めていた。
彼女の持っている「東京さん?」とは、各県で販売されている謎の人物「○○さん?」を各県の名所をモチーフにして作られる、小さな人形であった。
「東京さん?」は、中銀カプセルタワービルの形になっていた。
――この建物伝わるのか……
彼方は疑問に思いながら彼女が持っていた人形を見ていた。
この時、彼に見られていることに気づいたようで、取り乱していたことを隠すように、目を泳がせながら口先をとがらせて口笛を吹いた。だが音は鳴っておらず、すーすーと空気が出されているだけであった。
このままこの場にいては、彼女に気を使わせてしまい悪いだろうと思った彼は、別の店を見ることにした。
◇◇◇
三十分ほど駅の中を見て周った。何個かお菓子も購入して、荷物が増えてしまった。
だが、もう少しで約束の時間だ。
彼は東の出口へと向かっていった。
外に出ると、春の陽気な太陽光が差し込んできた。今日は雲一つない快晴であった。まさに入学日和だ。
少し足を進めて広間へと出ると、東京の街――都市というものを眺めた。
目を疑いたくなるほどに巨大な建物が、駅を囲うようにして立ち並ぶその姿に、目線を上げながら圧倒されてしまった。
これが都会なのだ。彼は一目で理解した。彼が出発した駅は、いまだ閑散としておりこんなにも建物はならんでいなかった。正反対の光景であった。
ズボンのポケットから携帯を取り出して、待ち合わせ場所を確認する。ここから歩いて十分ほどの駐車場であった。
待ち合わせの場所に行くために、地図を確認しながら進んでいった。
歩いていくと大きな横断歩道へと到着した。
これほど大きな横断歩道に加えて、幅の広い道路を見たのは初めてで会ったために、またしても彼は都会の規模の大きさに圧倒されてしまった。
横断歩道が赤く光っていたために立ち止まって、他の者と同様に信号を待った。
周囲の者は携帯を見て、信号を待っていた。
目の前では、大量の車が次から次へと流れていった。
慣れない大量の車による排気ガスにより、ついつい彼は咳込んでしまった。周囲の者は鳴れているようで、何一つ嫌な顔をしていない。
これが都会人というものなのか。彼は感心してしまった。
しばらく左右に流れていく車を見ていると、対となる歩行者用の横断歩道の青いランプが、ようやく点滅した。
点滅を終えると、赤いランプが光った。
順番通りに、自動車用の信号の黄色いランプが光った。
道路の車たちは少しづつスピードを緩めていき、赤のランプが点灯する頃には、全ての車が動きを止めた。
正面の信号が青く光ると同時に、音が流れ始めた。信号を渡るときの何とも言えない鳩時計のような音。あの音が、彼は少し気に入っていた。
前の人達が進み始めたのを見て、彼は人の流れに沿うようにして、青信号を渡ろうと足を進めた瞬間であった。彼と同じ場所で信号を待っていた者に、彼は目を引かれた。
皆が同じようにして、横断歩道を渡るために歩いていく。
その中で彼の前に立っていた一人だけが――異常だった。
群衆の中で一人の男が、血を浴びた様な赤黒い色に染まっていた。
赤黒く染まった男の近くにいた者達は、誰一人疑問に思うことなく、平然と横を歩いていた。
それも当然である。
男が赤黒く見えているのは、この場において……いや世界中でただ一人、彼だけであった。彼の目にだけが、男が赤黒く染まっているように、見えただけであった。
塗りたくられたというよりは、オーラに近いようなものであった。男にかかる赤黒いモヤは、男の動きに合わせて形を変えた。
異様な色を持った男を気にしつつも彼は、男の背に歩み寄っていった。
着々と男との距離を縮めていった。段々と大きくなっていく男の背中に、彼は固唾を飲んだ。
まだ背中鹿見ることは出来なかったが、男から感じられるただならぬ雰囲気に、息を殺してしまっていた。
跳ねる心臓を抑えようにも、鼓動は収まることを知らなかった。
少しづつであるが、男との距離は縮まっていった。
腕を伸ばせば、指先が男の背中に触れるほどの距離であった。
彼は、なぜ自分がこんなことをしているのかは分からなかった。
単なる好奇心なのか、はたまた別の感情なのか。
ただ一つ、言える事があった。
それは……
――とてつもなく嫌な予感がする……
男との距離が縮まっていくたびに、胸のざわつきが肥大化していった。
すると、突如男の足の動きが止まった。
あろうことか横断歩道のド真ん中で、立ち止まったのだ。
男との衝突を防ぐために、背を追っていた彼方も足を止めて男の背中を見つめた。
横断歩道で立ち止まる男、その姿をみつめる少年。
二人の横を通り過ぎる者達は不審に思いながらも、二人を後にして横断歩道を渡っていた。
周囲の者には、異様に見えた。だがそんなことを気にせず、二人は立ち止まっていた。
鳩時計のような音が止まり、青信号が点滅を始めた。にも関わらず、男は一向に動こうとしなかった。
人々は横断歩道を渡り終えて、交差点の中央に立っていたのは彼方と男だけになっていた。
信号を渡り終えた者、車で信号待ちしている者。周囲の者達は、二人へと疑問の目を向けた。
依然として、男は色を変えずに赤黒いままであった。
男の色を見ているだけでも、どんどん海の底へと沈んでいくような感覚に彼方は陥ってしまっていた。
その時、近くの車からクラクションが鳴らされた。その音でようやく、彼方は我に返った。
すでに横断歩道の信号は点滅を終えており、赤いランプが光っていた。自動車用の信号も既に黄色が点灯している。
このままこの場で立ち尽くすわけにはいかない。
急がねばという衝動にかられた彼方は、 目の前の男から目を逸らした。クラクションを鳴らした車の運転手に一礼すると、 反対側へと向かって走り始めた。男の横をするりと通り抜けた時、男の顔を覗こうとして目線だけを動かした。
帽子をかぶっていたために、暗く見づらかったが、男は不気味にもニヤリと笑みを浮かべているのが確認できた。
何を考えているのかが分からないその表情に、身体中の血液を凍り付かせるような寒気が全身を巡った。
キャリーバッグを引きずりながらも、彼方は走って反対側へと向かった。
横断歩道を渡りきる直前、彼方は後ろをチラリと振り返った。
依然として、男はポケットに手を入れたまま立ち止まっていた。遠くからでも、虚無に満ちた様な男の薄笑いが見えた。
まるでそこにいるのが当然かのように、男は佇み続けていた。
ようやく彼方は横断歩道を渡り終えようとした。
最後の白線を越えた時、男はわずかに上がっていた口角を更に上げて、不気味な笑顔を見せた。
男の笑みに彼方が戦慄をしたのも束の間。
男がポケットから手を取り出すと、レーザーのような強い光が彼の手から放たれた瞬間、雷鳴のような轟音を鳴り響かせて、男を中心に巨大な爆発が発生した。
「っ!」
台風の様に強い爆風に襲われた彼方は、信号機の柱の影へと隠れた。飛ばされない様に、座り込んで思いっきり柱へともたれた。
爆発により発生した衝撃で、車や建物の窓ガラスは、男に近い物から順々に砕け散っていった。
道路沿いに植えられた街路樹の葉は、爆風に飛び散り、大量に待った火の粉によって穴が開いた。
男を中心として、コンクリートで舗装された地面でさえも、ひび割れて飛び散って行った。
驚異的な威力を見せた爆発に、周囲の人々はパニックへと陥った。
彼方の耳には、突き刺さる様な悲鳴、叫び声、泣き声が聞こえてきた。
事態は混沌を極めた。
周囲がどうなったのか、状況を把握しようと首をあらゆる方向に振ったが、夏の積乱雲の様に立ち込める黒煙に、彼方の視界は黒一面で埋め尽くされてしまっていた。
まだ、先ほどの男がどこにいるか分からない。無闇に動くこともできずに、黒煙の中でただ立ちすくむ事しかできない。
あの男は一体何者なのか、奴の狙いとは一体なんなのか。色々と気になることばかりで、彼方自身も冷静を取り戻すのには時間を有した。
その時彼方の目に、再び赤黒いモヤのようなものが見えてきた。
段々と色濃く、ハッキリとしたモヤが見えてきた。背格好からして、先ほどの男であると間違いない。彼方はそう確信した。
黒煙をかき分ける様にして、彼方の読み通りの男が姿を現した。
重たい瞼により瞳が半分ほどしか見えず、やる気が剥がれ落ちたような表情をしていた。口も半開きになっており、倦怠感が溢れ出ていた。
男はの右手にはナイフが握られており、左手を鉤爪のような形にして開いていた。左の手首には、ナイフで切りつけた様な傷が出来ていた。
左手の傷から溢れ出た血液は、手のひらを辿り、指先を伝って、爪の先まで落ちていった。流れ出た血液は大きな雫の形を作り出して、風に揺られた。重力に耐えきれなくなった赤い雫は、指先から離れる様にして地面へと落ちて行った。
赤い雫が地面へと衝突しようとした瞬間、雫は火花わ飛び散らさせて小さな爆発を引き起こした。爆発に戦慄した彼方は後方へと尻餅をついて、地面へと座り込んだ。
爆ぜる血液。
先ほどの大爆発は、彼の血液により引き起こされた事に理解した。
それと同時に理解した。
《スペック》持ちであると。
───
三十年前に突如出現した、血液による特殊能力。
通称
全人口の内の0.01%の人間だけが持っているとされている、血液中に含まれる特殊な細胞『SPC』細胞。
singular――並外れた、稀に見る
particular――特別な、異常な
cell――細胞
中に「cell」が入っているにも関わらず、人々は口を揃えて「SPC細胞」と呼ぶ。いわゆる「頭痛が痛い」の様な二重表現になっているが、そこまで気にしていない。ただ言いやすいだけなのだろう。
スペックを持つ人間はこの細胞を糧として、様々な特殊能力を使う。
使い方も様々で、自身に傷を付けて出血させる事でスペックを発現する者や、傷を必要とせずにスペックを使う者も存在している。
その能力は血液型によって、大きく変化してくる。
A型は「生成型」と呼ばれており、個人によって差はあるものの、あらゆる物や形を生成することができる。生成すると固くなるという傾向があるが、全員ではない。体から切り離しての操作は難しいと言われており、ほとんどの者が体との密着させて使用をする。ある程度の操作は可能であるが、ほとんどが決まった形を作り出して、自由な形にはほとんどは変えられない。
B型は「操作型」或いは「変化型」と呼ばれており、操作を基本としながらもA型には無いほどに、自由な形へと変形させられるスペックを持ってている。A型との一番の違いは、体から切り離したスペックの仕様が可能である。
O型は「身体型」と呼ばれており、血液が自身や他人の体に影響を及ぼす、又は血液そのものが特殊な効果をもたらす力である。例を挙げれば、血液による身体能力向上や、血液による治癒などを行う。
AB型は特殊型と呼ばれており、他の血液型は一線を画すような、異質な存在感を持っている。力としては、A型や、B型、O型へと分類できない様なスペックを持っている。現時点では、そうとしか言えないほどに、特殊な血液型である。
なぜこの様な特殊能力が発現するようになったのかという事については、研究が日頃から続けられており、人類の進化の途中段階や突然変異の一種のようなものなどの、様々な説が言われている。しかし、未だ明確な理由は解明できていない。
ちなみに彼方の血液はO型である。
───
男は自分の血液を、爆発の燃料にしているのだと、彼方は理解した。
しかし、そんな事を理解した所で彼にどうこうできる力など無い。
無理もない。彼方はスペックを持っていなかった。もしスペックを持っていたとしても、目の前の男に立ち向かう勇気は無かったかもしれない。
今の彼方彼に出来たのは、ただ立ちすくむ事だけであった。
変わらず至る所からは、阿鼻叫喚が響き渡っていた。
その声達が耳障りだった様で、男は舌打ちをしてボリボリと耳の裏を掻いた。
「あぁ……うるせぇな……」
男から発せられた、低く地面を震わせるような声に、彼方はより恐怖を感じた。
首を前に傾けていた男は、顔を上げた。男の事を注視していた彼方は、男と目が合ってしまいドキッとした。もちろん恋愛的な事ではない。むしろ逆だ。命の危機にかかわる様なことである。
男の半分ほど閉じた陰鬱な目に睨まれると、金縛りにあったように動けなくなった。
――殺される……
その感覚だけが少年に残された。彼の目の前に、狂気というナイフが突きつけられた。
恐怖に引き攣った顔をしている彼の事など、いざ知らず周囲にいた人々は叫びながら逃げていった。
それに対して彼は、身体の中心に鉄の柱が刺さったかのように、動けなくなっていた。
ボロボロの街、叫び狂う人々、眼前の恐怖。
彼方は一度、同じ様な光景を見た事があるような気がした。だが、あらゆる脳内の引き出しを弄ってみたが、それに思い当たるようなな記憶は見つからなかった。
座り込んで怯える彼方の前に、男は立った。いつのまにか、彼方が足を伸ばせば届くほどの距離にまで二人の距離は詰められていた。見下ろしてくる男の目には、光が無かった。まるで、絶望を映し出しているかの様な目をしていた。
彼方はどうすればこの場を切り抜けることができるのかと、脳をフル回転させて考え込んだ。戦闘、逃亡あらゆる手を考えたが、成功するビジョンが見えなかった。
何をすべきかを考えていると、彼方の前で男は足を開いてしゃがみ込んだ。
低くなった視点で目を合わせると、爆発の直前の時の様に口角を吊り上げた。
開かれた口の隙間から見える白い歯、嘲笑うかのような目。まさしく不気味。その言葉に限った。
「……っぁ……」
言葉にならない恐怖が彼方の口からこぼれ出た。彼方の目にはもはや活力などは無く、諦めに近い様な目をしていた。
そんな彼方を前にして、男はゆっくりと口を開いた。
「よぉ……探したぜ……」
彼方の中で、一瞬、時間が止まったかのように感じた。
――探していた?まさか……僕のことを……?
一瞬聞き間違いだろうかと思った。
訳がわからなかった。見ず知らずの男に街中で突如大爆発を起こされた挙句、探していたなどと言われたらパニックである。
しかし事実なのかと聞き返す余裕など、今の彼方には無かった。
男は言葉を続けた。
「ようやく会えたなぁ……長年探し続けた甲斐があったが……そりゃそうだよな。お前が選ばれねぇはずがねぇよな……もっと早く気づくべきだったなぁ……」
聞き間違いでは無かった。
男は彼方との邂逅を待っていたようで、男の笑顔からは嬉しさが垣間見えたような気がした。
なんのために自分を探していたのだろうかと考えた。
駆け抜ける様にして、自分の記憶を辿った。だが、一種の記憶障害を持っているために、思い当たる様な記憶などは何一つ無かった。
もしかしたら、剥がれ落ちた記憶の中で、自分はこの男と出会った事があるのではないかと考えた。
どうして僕を探していたのか……
尋ねようとしても口が上手く動かせなかった。
恐怖で言葉が出せない彼方に、男は顔をグイッと彼方へと近づけた。
息が詰まりそうになりながらも、水を飲み込む様に酸素を吸い込んで、呼吸をした。
地面との設置面の手のひらにできた汗が、乾いたアスファルトへと染み込んでいくのが分かった。
男に集中していた彼方は、自分の腕に出来た傷が不自然にも急速に治っていったことを知る由もなかった。傷跡は跡形も無く消え去っていた。
その姿を見て、男は再びニヤリと笑った。
その時、逃げ惑う人々の中から二人の元に向かって走っていく人影があった。
「はぁっ、はぁっ!」
息を荒らげながら、川の水のように流れにて来る人々をかき分けて、群衆の流れに逆らいながら走って行った。
手に握られていたご当地人形をポケットにしまい、大きく腕を振って走り続けた。
パニックに陥った群衆が押し寄せる中、少女は短めの髪を揺らして、人混みをかき分けていった。
「それにしても意外だな……」
男は彼方との話を続けた。
人影は止まる事なく走り続けた。
「まさかこんなガキが――」
離れた位置から地面を蹴り上げて、上空へと高く飛び上がった人影があった。
男が何かを言おうとした瞬間、口を閉ざした。
飛来して来る人影に気がついたようで、顔を上げた。
だが、ワンテンポ遅かった。
黒煙の奥から二人の元へと、飛んで向かってくる人物の姿があった。
煙を通り抜けて、二人の前に姿を現した時、彼方は気づいた。
突入してきたのは、先ほどお土産屋さんで出会った少女であった。
オレンジ色の髪を揺らして、二人の元へと飛んでくるように向かってきた。
彼女は男を視界に捉えると、空中で腕を引いて拳を構えた。
「はぁぁあ!」
気合いを入れるかのように声を上げた少女は、男に拳を突きつけた。
気づくのがわずかに遅れた男は、手に傷をつける事に間に合わず、ガードの選択肢を取った。右腕を曲げて、上腕で彼女の拳を受けた。それからカウンターを繰り出そうとしたが、想定外の事態が発生した。
男は少女に殴られた勢いに負けて、後方へと飛ばされていった。
その時に散った男の切り傷柄発生した血しぶきが、彼方の頬を掠った。
刹那の出来事に何が起きたのか、彼方には理解ができなかった。
殴り飛ばされた男は足に力を入れて踏み留まろうとするも、全く止まる気配が無かった。
――あのガキ……なんつぅーパワーだ……
男は勢いそのままに、ビルの外壁へと叩きつけられた。その衝撃により、壁のコンクリートが崩れて宙へと舞った。
一方で彼方の元には、男を殴り飛ばした少女が彼方の前へと、ふわりと着地した。
まるで天使が舞い降りたかのような姿に、彼方は少女に見惚れてしまった。
お土産屋で見た時のような無邪気な様子は一切感じられず、仁王立ちして殴り飛ばした男を見つめる姿は、男らしく勇敢な立ち姿であった。
「いやー、まさかこんな所にスペック持ちが現れるなんてね。たまたま近くにいて良かったよ」
砂埃の中から、お土産屋で出会った時の様に明るく天真爛漫な声が聞こえてきた。
「あ、今更だけど大丈夫?」
踵を軸として身体の向きを変えて、彼の方へと振り返った。
お土産屋で見た、明るく陽気で雲一つない快晴のような笑顔が、再び彼方の目に映った。
彼女に見とれてしまっていた彼方は、振り返った彼女と目が合うと、自然と頬が熱くなっていっていた。
鏡で確認することはできなかったが、顔が赤くなっているのは明白であった。
美しく可憐でありながらも、どこか無邪気さを孕んだ。そんなような少女であった。
彼方は自分で理解していた。目の前の少女に惚れたのだと。
惚れたと言っても、恋愛的なものでは無い。
かっこよくもあり、美しくもある。だが、その中にも可憐さを持ち合わせている。女性としてではなく、人として彼女に惚れてしまったのだと。
まさかこんな少女に助けてもらうとは予想だにしていなかった。
そんな二人をよそに、男はビルに叩きつけられたまま動かなくなっていた。
コンクリートに埋まりながらも、壁の凹みと瓦礫を利用して、座るようにして壁にもたれかかっていた。
ぶつかった衝撃によって男の頭部にできた傷から、タラリと血が流れ出た。
ぐったりとしているが死んだわけではない。むしろ彼にとってはかすり傷程度にしか過ぎなかった。
「あぁ……ったく……」
ダルそうに口を開き、低い声を小さく発した。衝突した際に発生した砂ぼこりによって、未だに視界は良好ではない。だが、彼方と少女の部分は埃が晴れており、互いが互いを視認することが出来た。
ギロリと眼球を動かして二人を見つめると、男は右手を埋まった壁から取り出して、血が垂れた額へと手をやった。
ジワリと手に着く温かい感触を感じながらも、そのまま髪をかき上げて顔の前へと手を持っていった。赤く染まった自分の手のひらを眺めると、男は狂気の笑みを浮かべた。
「あぁあ……厄介なガキが産まれる時代になっちまったなぁ……」
独り言を呟くと、手首を外側に向けて振った。手に付着した血液が、遠心力によって指先から離れていく。
小さな赤い液体が宙を舞い、綿毛のように風に乗ってどんどん男から遠ざかっていった。血液が男から十分に距離を取ると、男はニヤリと笑った。
その瞬間、宙を舞った血液が内から光を放って爆発を起こした。
最初の大爆発ほどではなかったが、周囲にいた人間の視界を遮るほどの砂埃を発生させるには十分の爆発であった。
その間に、壁にもたれるようにしていた状態から体を起こして、のっそりと壁から背中を離した。
「ったく……邪魔が入っちまったなぁ……」
彼方達には聞こえ位ほどの小さな声でボヤキ続けた。
「まぁいい……今に急ぐことじゃねぇか。いつかまた会おうじゃねぇか……」
二人を見つめたまま、男は砂ぼこりに紛れて姿を眩ませた。
砂埃によって視界が遮られたために、これ以上追いかけはしなかった。
男を殴り飛ばした彼女自身も、彼方には表情一つ変えていなかったが、男から感じる嫌な気配を感じ取っていた。
今この場で追うのは危険。そう判断して、この場を離れないことを選んだ。
あの男は一体何だったのだろうか……
疑いの目を向けていた少女は、男が去った後もしばらくその場を見つめ続けた。壁からはまだ破片がちらほらと落ちている。やがて彼女はゆっくりと壁から視線を外し、後方へと目を移した。
座り込んでいる彼方に歩み寄り、そっと手を差し伸べた。
「大丈夫?」
彼は差し出された手を取り、彼女に引かれて立ち上がった。
握ったその手は、女性のものとは思えないほど硬くてしっかりしていた。
「だ、大丈夫……ありがとう」
男が吹き飛ばされた方向を見ても、彼の姿は既に見当たらなかった。彼の赤黒い色彩すらも、彼方には目にすることはできなかった。気がつけば、彼はすでに姿を消していたようだ。
「逃げられちゃったね……」
少女も男がいなくなったことに気づいたようだ。彼女の瞳には悔しさが宿り、静かな言葉がこぼれた。
「それにしても凄いね……あんな強い力……」
改めて彼方は、殴り飛ばされた男の方向を見た。男が飛ばされた時に強く足で踏ん張って耐えようとして引きずったのか、道路のアスファルトがめくれ、二本の長い溝がビルにまで続いていた。男が衝突したビルの壁は深くめり込んでおり、大きなひび割れが出来ていた。ひび割れたコンクリートの破片が舞い落ち、彼方は静かにその光景を眺めた。
たった一撃のパンチだったが、彼女の破壊力は人間離れしていると感じた。
「いや〜昔からこういうことは得意でね~」
少女はまんざらでもないような表情を浮かべて、照れくさそうに頭を掻いた。
その時少女は何かを見つけたようで、彼方へと顔を近づけた。
緊張した彼方は、彼女が何をするのかを見守っていたが、少女は彼方の顔の横を通り過ぎて、地面に落ちたバッジを指でつまんで拾い上げた。
真剣な表情でバッジを細かく見つめると、突如少女の顔が一気にパアッっと明るくなって、バッジから彼方へと目線を映した。
「もしかして、君も英血高校に入るの!?」
これから向かおうとしていた高校の名前を言われて、彼方はドキッとした。
───
三十年前に発生した特殊能力であるスペックは、人々の生活を便利にすると同時に、その力を人に傷つけるためにも使用された。
凶器は使いよう。
どんな物でも、命を奪う凶器にも、命を守る防具にもなる。
スペックを持つ者たちの中には、その力を使って人々を守るために戦う者もいれば、その逆に、凶悪な事件を起こす悪人たちも台頭するようになった。
人々に凶刃を向ける者達に対抗する為、スペックを持った人間達によって十年前に組織化されたのが『レッドクレスト』という組織であった。
東京の汐留に『エデン』と呼ばれる組織の本部を置き、現代技術で建造された建物ばかりであったが、中央には大きな庭園などが設けられていた。
地上五十階のビルを中心として周囲には訓練場や住居、戦闘時の指揮本部など、様々な建物が作られていた。
その他にも、主要な都市には支部が設置されており、常時数百人近い組織の人間が各地に常駐していた。
構成員の役割としては大きく三つに分けられていた。
現場にて敵との戦闘を行う実動部隊。
実動部隊を補助をして、周囲の人々への指示などを行う補助部隊。
スペックや悪魔、血液などの研究を行う研究員との大きく三つに分けられていた。
組織が立ち上げられてからは、驚くべき活躍を見せて多くの信頼と実績を掴んできた。強力なスペックを持つ人間が増加し、警察をも凌ぐ信頼を得るまでに至った。実質的には組織の方が、警察よりも権限的に上回っているとさえネット上では言われている。
警察に代わる治安維持組織とまでも、呼ばれているほどの活躍を見せてきた。
それも全ては、現在の組織のトップの手腕のおかげである。
組織は、強力な能力を持つ人々を結集し、悪魔を討伐し、危険な者から人々を救う使命を果たしていた。その活躍により、多くの企業から信頼を得てスポンサーとなり、莫大な資金を手に入れ、人員の増加や研究の進展を促進していったのだった。
組織が結成してから僅か二年で、これまでに例を見ない民間治安維持組織としての活躍を達成した。その驚異的な実績は、もはや人々の注目を引かずにはいられなかった。
今や、組織のトップが政治にも影響を及ぼしているのではないかという噂が広まっている。組織の巨大化ぶりは、その証拠であった。
彼方が行こうとしていたのは、三年前から設立された、「国立英血高校」という名の組織の育成機関であった。
十二歳の際に行われた血液検査にて、組織から将来の見込みがあると判断された者だけが選抜され、十六歳を迎える際に招待される、特別な教育機関であった。
教育プログラムは、現場での戦闘や救助などの実践訓練に焦点を当てたものであり、ほとんどが現場に出ても支障がないような教育を強いるものであった。校という名前がついているが、どちらかと言えば士官学校に近いものであった。
入学する条件は、血液検査で特定の条件を満たしている事であった。そのために完全な推薦制度となっている。英血高校へと集まった全員が、日本全国から選りすぐられた人間たちであった。
それゆえに、英血高校に選ばれた人間のことを、組織の人間は「エリート」と呼んだ。
英血高校。一般人が知るはずもない名前であった。その名前は、組織に関りがある者しか知らないはずであるので、その名を知っている者は関係者であることは明白であった。入学条件は血液検査で特定の条件をクリアすることだけだった。だからこそ、完全な推薦制度が採用されていた。英血高校に集められた全員が、日本全国から選りすぐられた人材であるのだ。
産まれながらにして選ばれた存在。言い方は悪くなってしまうが、言わばガチャ運が良かった。この学校に選ばれるのはそういうことだそうだ。
そのため、英血高校に選ばれた者たちを、組織の人々は「エリート」と呼んでいた。
英血高校のような、血統によるエリート選抜制度については、組織内でも様々な議論が行われている。
一部の人々は、優れた血液を持つ者が、優れた能力や才能を持つ傾向があると考える一方で、他の人々はこのような制度が偏見や差別を助長する恐れがあるとも懸念をしている。また、血統によるエリート制度が社会における不平等や排除を助長する可能性も指摘される恐れ存在しているとも考えている。
そのことに関して、組織のトップである「総理事」の役職に就く人間が結論を出した。
「我々にはエリートの素質を見極める術が存在してる。ならばそれを利用しない術など存在しません。血統に基づくエリート制度が公平かどうかについては、個々の人々の能力や努力を正当に評価するかどうかが、全て制度、および測定機器にかかっているという懸念が存在するという考えはよく分かります。現在の様な測定法では、性格などの内面的な情報を判別材料にすることが難しいかもしれません。ですが皆さんはお気づきのはずです。公正な機会均等を保ちつつ、能力や努力に基づいた評価や機会の提供が必要。それがあなた達、そして私の仕事なのではないでしょうか。制度に頼りすぎず、上手く活用する。そうやって人間は時代と共に進化を遂げてきたのです。いつの時代のでも、人の目による判別は必要。だが全てを手作業で行ってしまえば途方もない時間がかかる。人間は時にズルをしなければ、壊れてしまいますよ。まぁ要するに、血統によるエリート制度に対する考え方は様々であり、その制度が個々の人々の能力や努力を適切に評価し、公正な社会を実現するためには、慎重な議論と配慮が必要です。それをゆっくりとやっていこうではありませんか」
総理事の言葉によって、これ以上の議論は行われなかった。
彼の手腕に疑念を抱く方が、よっぽど無駄であることを、改めて実感したのだ。
こうして英傑高校というエリート制度は、三年間続けられてきたのだった。
───
「君も……ってことは……」
「うん!私も呼ばれたんだ!すっごい嬉しいよね!だってエリートだよ!エリートってなんか凄くない!?」
かなり舞いあがっており、会話も要領を得ない者になってしまっている。
何より、こんな所で同じ高校へと向かう者に出会えたことで、彼方はホッと胸を撫で下ろした。
正直名前などほとんど聞いたことのなかった「英血高校」が実在しないのではないかと、僅かではあるが疑念を持っていた。
しかし、彼女も呼ばれたということは、実際に存在している。それが知れただけでも大きかった。
だが、ここで彼方には疑問が浮かんだ。
あまりにもひ弱な自分と、圧倒的な力を持った彼女が同じ高校へと推薦を受けたのか。
先ほどの彼女の動くを間近に見て、自分と彼女では同じエリートとしても差がありすぎるのではないのかと。
彼方には彼女のような勇敢さも力も持ち合わせてはいない。
なぜ自分がエリートと呼ばれたのかが、理解が出来なかった。何かの手違いが起きたのかもしれない。きっとそうだろうと思い、今はそこまで気にしないことにした。
「とりあえず約束の場所に行こうか。言われた駐車場で待ってるみたいだし……さっきの事を急いで組織の人に連絡しておかないと」
少女に提案をすると、不思議そうな表情を浮かべた。
「そういえば私ここらへんでいいですよね!って連絡したはずなんだけど……それっぽい人が見つからないんだよねー」
「どんな感じの人?」
「えっとねぇ……確かショートカットの髪型で、髪が淡い紫っぽい色で、黒のスーツを――」
彼女が説明をしている最中、まるで花火が打ち上げられたかのような、空気を裂く音が二人の耳に響いた。
説明を止めて、耳を澄まして音を聞いていた。
――何の音……
不意に静寂が訪れたかと思うと、二人の視界がほの暗い世界に包まれた。驚きと疑問が心をかすめる間もなく、二人の存在を無視するかのように、天から巨大な影が落ちてきた。その落下物は、地に堕ちる際に轟音を立て、地面を揺るがせた。
二人は、目を見開きながら、ゆっくりと落下してくるものに目を奪われた。その出来事は、まるで小説の中のような非現実的なものだった。
有名な言葉が頭をよぎった。
「事実は小説よりも奇なり」
彼方はこの言葉の意味を再び実感した。落ちてきたものは、人のようでありながら、人でない生き物――
「生き物」そんな生優しい言葉で表せない――「化け物」であった。
赤黒く染まった体に、人のように腕と足がニ本ずつ生えている。頭部はあちこちにぶつけて壊れた人形のように、至る所が凹み、不細工な形になっている。
人ならざる異形の怪物。
〈悪魔〉と呼ばれる存在。
三十年前、日本中で悪魔と呼ばれる体中が赤黒く染まった異形の怪物が現れ始めた。
悪魔は三つの種類に分類される。
人の姿を模した《人型》
動物の形を模した《獣型》
どちらにも属されない《異形型》
悪魔は人々を襲い、街を破壊していった。人間はその脅威に怯えつつも、生活を続けてきた。
そんな悪魔の出現に呼応するかのように、人間に発生したのがスペックであった。
スペックを持った者はレッドクレストという組織によって集められ、悪魔と戦うための戦力としても活躍していた。
しかし、悪魔の出現についての解明は進んでおらず、奴らの目的も出自も謎に包まれたままであった。悪魔はどこにでも出現し、日本だけでなく世界各地で目撃されていた。
英血高校に通う生徒たちには、悪魔の討伐を組織から命じられていた。
だが、自分たちよりもはるかに巨大な悪魔を目にした瞬間、二人の身体から汗が噴き出した。呼吸もままならず、瞬きすらままならないほどの恐怖に襲われた。まるで時間が凍りついたかのように、身動きすらとれなくなってしまった。
微動だにせず立ち尽くす二人を前に、悪魔は大きな口を開け、荒々しい雄叫びを上げた。
彼方と少女はお互いに抱き合い、絶叫した。恐怖が羞恥心を上回り、周囲の視線など気になる余裕もなかった。
目の前に立ちはだかる悪魔にただ怯えることしかできなかった。
その瞬間、群衆の中から赤い糸が飛び出し、悪魔の肩に刺さった。
糸が放たれた場所からは、黒いスーツを着た女性が現れて、糸を辿るようにして宙へと舞った。
人ごみの中から飛び出した彼女に右手には、様変わりした銃が握られていた。持ち手の部分は通常の銃と遜色ない雅たちをしていたが、銃口部分が平らに広がっている銃を手にしていた。
糸を手繰り寄せながら、女性は悪魔の肩に足を置き、そこに立ち上がった。そして、指から新たな赤い糸を引き出し、悪魔の肩に刺して自らを固定した。
女性は悪魔の後頭部へと銃を突きつけ、冷酷な表情で引き金を引いた。
銃口から放たれたのは弾丸ではなく、強力な爆発であった。
しかも、その威力は先ほどの威力とほぼ同等のレベルのものであり、彼方達の元までも衝撃が響いた。
爆発により悪魔の頭部は吹き飛び、消え去っていた。頭部を失った体は、動くことを止めてゆっくりと前方に傾いていった。
女性は悪魔の体からワイヤーのような物を外すと、後方へと飛んだ。
悪魔の体が地面へ伏すと同時に、女性は地面へと着地した。
その時に揺れた胸元の大きな二つの球体に、彼方は目を逸らしたのに対し、少女は感嘆の声を漏らした。
それが純粋な感動からきたものなのか、単なる憧れからきたものなのか、彼方には分からなかった。
女性は悪魔の頭部を吹き飛ばした際に、スーツに付着した血を手で払い落した。
悪魔の体は、活動を停止すると自然に消滅し、完全に姿を消すため、洗濯などの手間をかける必要はない。時間が経てば、勝手に汚れが落ちて綺麗になる。したがって、急いで処理する必要はない。
必要なのは、壊された建物などの修理費であるが、それは全て国土交通省に丸投げする。それが組織の取り決めであった。
周囲には、黒いスーツに身を包んだ人々が姿を現し、一帯を封鎖して侵入禁止の措置を取った。同時に、この場からの退去を命じて、人払いを進めていった。
女性は腰に付けられたポーチのような収納ケースに銃をしまうと、彼方達の元へと進んでいった。二人は抱き合った際に掴んでいた互いの手を離して、女性へ体を向けた。
女性は携帯を取り出して、画面を見つめていた。彼方達には見えなかったが、その画面には二人の顔写真が映し出されていた。
アナログな方式ではあるが、実際に見て二人の顔を確認する。言わば顔認証の様なものだ。
確認が取れると、携帯をしまって姿勢を正した。
「初めまして。雨宮ひょうり様、窪田彼方様でお間違いないでしょうか」
女性の言葉に二人は背筋を伸ばして「はい!」と答える。
彼方は女性の言葉に、お互い自己紹介をしていなかったことに気づかされた。
雨宮ひょうり。それが彼女の名前なのかと、頭に入れた。
横をちらっと見ると、ひょうりはなぜか敬礼していた。軍隊ではないので、そんな敬礼は全く必要ないのに。
「この度お二人の送迎を任されました、鈴城鈴城です。よろしくお願いします」
「「よ、よろしくお願いします!」」
二人は意図していなかったが、同時に言いながら頭を下げた。
「もう少しで送迎用の車が到着いたします。それまでこの場でお待ちください」
その時、鈴城の携帯が鳴った。画面を一眼だけ見ると、彼方達へと視線を戻した。
「話の続きは、また後ほどで」
電話の対応をする為に、鈴城は二人から離れていった。
緊張から解き放たれた様で、ひょうりは猫のように大きく伸びをして、両手を伸ばした。
「んー!」
この場で何か会話をしなければならないと、彼方は思った。だが、どのように話を始めればいいのか分からずに、言葉が出てこなかった。
なんて話を始めよう。好きな食べ物は何か、どこから来たのか。どうでもいいような話題でもいいのに、緊張から言葉が出てこなかった。
「ねぇ!窪田彼方君でいいんだっけ!?」
鈴城が去ったのを見て、ひょうりは腰を曲げて、横から彼方を覗き込む様にした。
「え……」
先に話を振られて、彼方は焦りから、口が上手く回らなかった。
「う、うん。えっと……君は――」
「雨宮ひょうり!よろしくね!」
ひょうりは手を胸に当てて、あらためて自己紹介をした。
彼方は彼女の名前を言おうとしたが、先を越されてしまったことに、なぜか申し訳なく感じてしまった。
彼方はその満面の笑みを見て、彼女が純粋な少女であることを感じ取った。屈託のない自然な笑顔を見るのは、彼方には今日が初めてだった。
「窪田彼方です。よろしく」
彼女だけに自己紹介をさせるのが悪いと感じた彼方は、自分も改めて自己紹介をした。
太陽のように明るい彼女に対して、彼方は時々目を逸らしながら自己紹介をしてしまった。このこと自体が少し恥ずかしいが、目を見てする方がもっと恥ずかしいから仕方がない。
ひょうりが握手を求めるように手を差し出した。男子との接触に全く抵抗がないようだった。握手をするかどうか一瞬迷った彼方は、ひょうりの顔を見ると、変わらず屈託のない笑顔を見せていた。
彼女のそんな顔を見て、自分の考えが馬鹿馬鹿しいと感じた彼方は、ひょうりへと手を差し出した。
硬くて頑丈な手に再び触れ、握手を交わした。彼女の笑顔はより一層輝きを増したことに、彼方はその心の清らかさに感動した。
「これからよろしくね!彼方君!」
「よろしく。ひょうりさん」
二人は挨拶を交わすと、握手をしていた手を解いた。
彼女のおかげで、彼方の心の緊張の糸は完全に解れた。
今度は話を色々と聞けるかもしれない。
ちょうどそう考えたその時、遠くでクラクションの音が聞こえ、二人は音のする方へと顔を向けた。やがて、一台の車が二人のもとへと静かに滑り込んできた。
車が到着し、運転席の窓がゆっくり下がると、中から鈴城が顔を出した。
「お待たせしました。どうぞお乗りになって下さい」
鈴城の指示に従い、後部座席の扉を開くと、右側にひょうりが乗り込み、彼方は左側へと座った。
シートに腰を下ろすと、その柔らかさが心地よく感じられた。彼方は車について詳しくはなかったが、使われている素材の高級感は明らかだった。
シートベルトを背後から取り出して、固定しようとした時、同じくシートベルトを締めようとしていたひょうりと、指先同士が触れてしまった。
「あ、ごめんね!」
突然の出来事に顔を上げた彼方は、思わずひょうりと目が合ってしまった。
まるで少女漫画のような出来事に、彼方は緊張を覚え、耳が赤くなっていくのが、自分でもわかった。
外で話していた時ですら緊張していたのに、車でこうやって隣同士で座ると余計に心臓の鼓動が早くなっていった。ここ最近女子との会話があまり無かったたまに、余計に緊張を加速させた。
そんなことを考えている間に、車は出発していた。
補助員達が道を開いてくれたために、難なくこの場を離れることが出来た。
しばらく車を走らせて、落ち着いてくると鈴城が口を開いた。
「あらためて雨宮様、窪田様、初めまして。この度皆さんのクラスの副担任を任されました、鈴城優奈です。今後ともよろしくお願いします」
鈴城の自己紹介に彼方達も「よろしくお願いします」と返す。
バックミラー越しに、鈴城のキリッとした目が伺えた。
真っ黒なスーツを着こなしている姿からも、クールで仕事の出来る女性という雰囲気を彼方は感じ取った。
それもあって車の中には程よい緊張感が走っていた。
すると、ひょうりが前の座席を掴んで、シートベルトを引っ張る様にして前へと体を傾けた。
「鈴城さん、私たちの先生なんですよね」
「えぇ。そうですよ」
キリッとした表情で鈴城は答えた。
前を向きながらも、バックミラー越しでひょうりを見た。
「なら『様』とか、そんな固くなくても大丈夫ですよ!」
ひょうりは初対面の人でも距離を縮めようとするタイプのようだ。
こんなコミュ力を擁してないので正直にうらやましいと彼方は思った。
だが、鈴城が「様」を付けるのにも理由があった。確かに立場で言えば鈴城は教員であった上に、組織図的にも鈴城は上司であった。その為に鈴城の立場は上であるのは間違いない。
しかし、彼方達が集められた教室というものが特別なものであった。彼方達は生徒であると同時に、鈴城にとっては客人のような立場でもあった。
その為に、鈴城は「様」つけていた。
だがもう一つ理由があった。
「で、ですが……」
ひょうりの言葉に対して戸惑ったようで、話し方がぎこちなくなった。鈴城も鈴城なりに悩みがあるようだ。
「生徒のみなさんに舐められてしまったら困るので!」
変わらずキリッとした目をしていたが、口元が緩んでいるように、彼方には感じられた。
鈴城にとっては、どちらかと言えば、この言葉が本音であった。
彼女の悩みが彼方には垣間見えた気がする。
どちらにせよ、仮にもそれを生徒の前で言うのはどうだろうかと、彼方は感じた。
だが、それで折れるひょうりではなかった。
「そんなことないですから!むしろ、先生がそんな風だと、みんなと距離できちゃうかもしれないですよ!?」
ひょうりの言葉に熱が入った。
もうここまで来たら、何がなんでも「様」を外させるつもりのようだ。
この時の鈴城は葛藤していた。
本来の鈴城はこのようなタイプでは無かった。実のところ二人に良い様に見られようと格好つけていた。
その為に迷った。元の自分へと戻るべきか。或いは少女の言う通りにすべきか。
その時、ひょうりはわざとらしくため息をついた。
「はぁーぁ、私先生ともっと距離を縮めて仲良くなりたかったなぁ……」
ひょうりは残念そうにため息を吐きながら、つぶやく様に言った。演技がすぎると、彼方は感じていた。
もはや距離を縮めるどうこうよりも、崩れてきた鈴城を弄んでいるようにしか見えなかった。
そして、遂に決着の時が訪れた。
「ほ、本当ですか!?少しラフに接しても大丈夫ですか!?ぶっちゃけその方が楽なんですが!」
遂に鈴城が根負けした。これまでのキッチリとした雰囲気が消え去った。もはや同級生というよりも、後輩のように感じてきた。
「いゃぁー!やっぱ慣れないことはするもんじゃないっすね!普段通りにやらせていただきます!」
もうどっちが大人なのかがわからなくなってきた。舐められたくない気持ちはどこに行ったんだろうか……
そんな気持ちをかなぐり捨てたのか、意気揚々にタメ口で鈴城は話をしていた。
かしこまった表情も穏やかになり、自然な笑みが見られた。
ひょうりが彼方の肩を軽くポンポンと叩いた。
何かと思いひょうりへと目をやると、親指を突き上げてグーサインを見せた。
――何が!?
舌まで出して「やったね!」というような表情をしていたが、同意を求められても彼方は困った。
もはや今の状態の鈴城に不安に感じていた。
変わらずひょうりは、鈴城へと話を続けた。
「そういえば、私たちの他には全部で何人いるんですか?」
「今年は……全部で十五名ですね。」
ひょうりは嬉しさと楽しみから、胸の前で手を鳴らした。
「へぇー!他にも十三人いるんだー!早く仲良くなりたいね!」
そう言って、彼方へと顔を覗き込んだ。
「そ、そうだね……」
話す時に常に目を合わせてくるので、そのたびに緊張してしまう。
かといって、目を逸らすのも失礼と感じて、何もできないまま固まってしまっていた。首筋に緊張から出た汗が背筋へと流れ落ちていくのが感じられた。
「それにしてもびっくりしたなー。前にいきなり組織の人が来て、英血高校への入学が決まったって来たときは」
「電話ではできない話ですからね。実際に会わないと難しいですからね」
二人の話を聞いて、彼方は疑問に思った。
「えっと……ひょうりさん。組織の人が来たって……いつの話?」
「えーっと、二年前くらいかな」
その言葉を聞いて、彼方はより疑問が深まった。
「どうかされましたか?」
疑問に思った鈴城は、バックミラーで彼方を見た。
「あの……僕、この学校に入学するに当たって、この前来た書類でしか何も知らされてないんですが……」
二年前ならば、彼方の記憶は残っているはずだ。
でも、その記憶は見つからなかった。ならば、なぜ彼方には説明が無かったのだろうかを考え込んだ。
「事前に説明や、親御さんの承諾などは得ているはずですよ?」
鈴城の声が、微かに震えていた。顔も僅かに青ざめていた。
「何も聞いてないです……」
彼方はありのままの事実を鈴城へと伝えた。
その時、突如として鈴城の運転が荒くなった。
「仕事ミスした!」
ハンドルを握りながら、鈴城はうずくまるようにして顔を下へと向けた。
「鈴城さん!前見て!前!」
鈴城がひょうりの言葉に反応して急いで正面を向き直ると、運よく他の車が一台もなかったため、何とか事故を避けることができた。二人はほっと一息つきながらも、同時に命の危険を身に染みて感じた。
そして、「本当にこの運転手で大丈夫か?」という不安が心をよぎった。
「落ち着いてください!もしかしたら僕の方に何かミスがあったのかもしれないですから……」
そうかもしれないと思い、鈴城は気を持ち直した。
「それでは、彼方さんのご両親は?」
「二人とも物心つく頃には……すでに……」
「すいませんでした!」
聞いてはいけないことを聞いてしまったと思った鈴城は、再びうずくまった。
「鈴城さん!前!前!」
再びひょうりの言葉で、正面を向きなおした。
なんでこんな人が送迎係になってしまったのだろうか。
二人は再び不安に駆られた。
「で、でも書類で大抵のことは把握してるので大丈夫ですよ」
疲れ切って精神がズタボロの状態だったけれど、後ろを向いて、相手が気を遣ってくれたことに対し、鈴城は感謝の言葉を口にした。
「本当にありがとうございます……気まで使わせてもらって……」
ひどく疲れた様な声で告げた。
「前見て!前見て!」
何度繰り返すのだろうか。
少し車を走らせると、鈴城が一度「オホン」と咳払いをした。
緩まった空気を引き締めたかった様だ。
「あ、あの……ちょっといいですか……」
鈴城が震えた声で話しかけてきた。なぜかバックミラーでさえも、こちらを見ようとしない。
「ど、どうかしましたか?」
彼方は震える鈴城に尋ねた。なぜだか嫌な予感がする。
段々とスピードを緩めていくと、一度路上へと車を止めた。何か問題でも発生したのか。
二人が不安に思っている中、鈴城はゆっくりと後ろに顔を向ける。
「……迷っちゃいました」
どうやら先生はドジっ子属性がついてるみたいだ。
読んでもらえてとても嬉しいです!
私個人の感想で、下剋上や成り上がりとはまた違った作品を作りたいと思って、この作品を始めました。
生まれながらにして、エリートの名を背負わされる彼らがどのような物語を綴っていくのかを、楽しみにしてもらえるとありがたいです。
まだまだ入学編は序の序ですが、楽しみにしていただけると嬉しいです。
書くペースが遅いかもしれませんがよろしくお願いいたします。