NN《ノーネーム》〜監獄で快適といったら優しくされた〜
シュリズッセンブル監獄。
言わずと知れたユースブリュン王国の古城奥地に設置された悪名高い監獄である。中でも地下牢獄に入れられたら最後、骨にならないと地上へは戻れないと噂され、いつからかこの国最大の恐怖の対象となった。
地下牢へ訪れた人間は皆、その不気味さからここを地獄の入り口と錯覚するほどである。
あらゆる人の闇が渦巻くその空間には、例え囚人が居なくとも何処からともなく呻き声が聞こえてくるという。それはここで拷問を受けた者の魔力が強い衝撃によって定着し、残されているからである。
そんな場所に入れられようものならば、いかに凶悪な犯罪者だろうと数時間で許しを乞い、半日で精神が崩壊する。
しかしここ数日、暗く澱み、荒廃したこの世界に似つかわしくないほどの騒音が断続的に響いていた。
この激しく肉を打つような音の発信元は地下の通路の奥にあり、そこへ向かうに連れて血の香りが濃くなる。
数メートル毎に配置された燭台の蝋は切れているが、取り替えられることもなく燭台の上に塵が厚く積もったまま放置されている。
当然窓もなく、換気されるほどの構造でもないため澱んだ重苦しい空気が肌にまとわりつく。わずかに残された闇を照らす蝋燭の火が、時折音に合わせて揺らいだ。
鉄柵の向こうの薄闇を眺めながら、少年は静かに横たわっていた。
この部屋に置かれたランプは闇に慣れた少年の目にはやや眩しい。この地域では見かけない薄い灰色の瞳をした少年は眼を少し細める。
ランプが設置されてしばらく経つが、この明るさにはあまり慣れないようだ。ランプは自分の上に跨る男が持ってきた物だった。
バキッ
「おら!さっさと吐かねぇか!」
男が再度振りかぶった棍棒の先端にはベッタリと染み付いた赤黒い血痕。あれは自分の血だろうか。
だとしたら自分の命はそろそろ尽きるだろうと予測する。
痛覚は意識から切り離されている。痛みに悶えることもないから、冷静に思考することができていた。
静かに死を迎えつつも、少年はいまだにこの痛めつけてくる巨漢が何を求めているのか分からないでいる。
理由のない暴力に慣れきった少年は、暴力を止める条件なんて気にならない。繰り返される行為をただ受け止めるだけだ。終わりが来るまで。
痛みは感じないように育てられてきた。まして死への恐怖などないのだ。
そんな状況でも、この男が暴力と並行して何らかの条件を提示しようとしていることは把握できた。ただ、何を吐くのか分からないでいる。
吐けと言われても、そもそも血をたくさん吐いているじゃないか。それとも、これではまだ足りないのか。
と、少年は答えのズレた思考を当てどころなくする程度だ。
きっと自分が死ぬまで繰り返されるだろうこの行為をただ無言で耐え続けているのだ。
陽の光の届かないこの闇に閉じ込められて、ずいぶん経つ。
それでもまだ死ぬまでは、少し間があるようだ。
ふと考えてみる。
ここに来て何日経っただろうかと。
巨漢の背後には黒く冷たい鉄柵が並び、開け放たれた牢の入り口がある。それを眺める。
自分を痛めつける男も数時間毎に交代しているが、一定時間の睡眠が許されるし、わずかだが食事も出された。
時折、魔力の残滓が物音を立てるが、そんな実害のないものが少年に効くはずもない。これまで、それ以上の死線を生き延びてきたのだから。
3日?いや、もう少し経った気がする。4回ほど食事が出たので、3日と半分くらいか、あるいは4日か。
推測してみたけれど、果たしてこの耐えた日数に何の意味があるのか。
しかし数日間全く同じ応えようのない言葉を吐きかけられて、暇だ。更に思考を進める。
きっと、俺はもう用済みにされている。
この牢獄を隙を見て、あの入り口から抜け出したところで待っているのは処分だけだろう。
少年の予測は間違っていない。
今まで逆の立場として少年自身が処分を執行してきたのだ。
一度捕まったイヌは顔が知れている上に、探知魔法がかけられている可能性がある。任務に支障をきたすどころか組織を危険に晒すなど、百害あって一利なしだ。処分に例外はない。
脱獄者がジムへ辿り着く前に処分しなければ、今度はこちらが追われる側に代わる。
鍛えられたイヌを狩るのは通常であれば難易度も高いが、比較的優秀と組織の中でも評されるこの少年には苦もないことだった。
イヌの中でも重宝されてきた方だが、結局はそれだけだ。イヌであることに変わりはない。寧ろ任務漬けの日々であり、こんなに暇な時間を持て余すことなどなかった。
それももう終わったのだ。この先辿る運命は変わらない。
ここで死ぬか、抜け出して死ぬか。
容易く答えは出た。
ゆっくりと、死に近づくこの場所に少年は身を委ね、逆らう兆しは見せない。
なけなしの魔力でも奥の手の力を振り絞れば、牢獄自体は抜け出せる。でも、そのあとがない。少しでも長く生きたい理由もない。
地面から見上げると、石畳の壁や床へ彼の血がポツポツと散らばっていた。
視界に映るこれらは、いつの血痕だろうか。初日から殴られ続けカサカサに渇いたものもあれば、赤黒いが怪しくギラつくものも混じっている。
肉を打つ音毎に揺れる視界が、徐々に潰れていく。目の上下が鬱血し、腫れ始めたらしい。もう、回復のために身体強化の魔力を施す余力もない。
恐らく最期の視界になるはず。
微かに瞬き、すぐにでも消えてしまいそうな蝋の光を目に焼き付ける。
燭台の火が、少し塵に移ったようだ。風もないはずなのに燃え移った小さな煌めきが、宙に舞って消えていく。
ああ、この光で終わるのか。
夕陽の沈む頃、全ての輪郭が曖昧に代わる瞬間に似た灰色の景色は、少年の瞳の色とよく似ている。
最期に眺めるものとして綺麗と呼べるかは分からない。
バカみたいに燦々と降り注ぐ昼間の陽射しよりは、居心地が良いけれど。
ーー居心地?
初めて行き着いた思考だった。
「----!ーー!!」
先ほど床へ頭を打ちつけた時から耳鳴りが酷い。自分の身体へ衝撃を与え続ける相手の声が何か悪態をついていることはわかるが、もうまともに聞こえそうにない。
そろそろ、死ぬのか。
今、ここの居心地が良いということをやっと知ったというのに。
彼の生涯で居心地や命について考える余裕はなかった。
綺麗とか、美味いとか、好きだとか。
あの言葉は結局何だったのか、知り得る術も時間も限られていた。
彼の環境には死というものが常にそばにあり、惜しむものではなかったし、そんな余計なことを考えている者から死んでいった。
身体が動かなくなるその時まで任務を全うするように叩き込まれ、何が悪で何が善なのか、倫理さえも教えられることはなかった。
運と能力が良ければ生き残り、人殺しは息をするのと同じくらい必要なことと教えられ、多くの命を葬ってきた。
任務以外に考える余裕は許されず、失敗すれば罰を受け、任務を執行する。
失敗による罰はちょうど今されていることと大差ない。長ければ一週間閉じ込められて同じような事をされる。
少年は見えなくなった視界ではたと気づいた。
居心地というものを理解したことで、死を前にして、初めて自我が生まれたのだ。
何のためにこれまで捕まらないように生きてきたのだろう、と。
ここも、今までいたところも、大差ないのだ。
よく考えれば、ここは任務で雨風に耐えることもなければ、身体強化魔法が切れると壊死するほど寒くもない。
腐臭はするが、それは彼のいたジムも似たようなものだ。あそこは腐臭の代わりに錆びた鉄の香りが濃い。身体を洗おうにも水は凍りつき、任務から引き上げてきた返り血は一晩そのままにするより他なかった。
当然物心ついた時からあるその臭いにこだわりはないし、血の匂いも腐臭も気にならない。
食料はここの方が食べると身体を壊すものが紛れている。後ろ手に拘束されているので取り除くのに苦労するし、量も少ない。
ただ、それももう終わる。
これから死ぬのに、食べても意味がないことは分かる。時間がかかって鬱陶しかったが、一つ一つ口に含んでは選定して吐き出す作業をもうすることはないだろう。
こんなに悠長に考えてられるのも、身体に与えられる衝撃が一定で致死ほどの強さでないからだろう。
ここは死ぬまでが長い。死へと近づく時間はこんなにも穏やかなのか。これまでの殺伐とした生活から離れて、まるで眠るように死を迎えている。
組織のイヌの処分は一瞬だ。
死について考える間もなく命が消える。
そうか、俺は幸運だ。今まで葬ってきた奴らとは違って死にゆく時間がある。
ここの方が快適だと気づいた。居心地が良いと分かった。
欲を言えばもう少しまだ知らない事を考えてみたかった。
生まれて初めて任務とは関係ない思考をし始めたのだ。
でも、この身体もそろそろ耐えられそうになくなってきた。ヒューヒューと浅い呼吸が身体に響く。
魔力を肺に集めて永らえようとしても、やはり食料の摂取量が低いせいか魔力の巡りが遅い。まだ方法はあるが、そうまでして生きたい明確な理由もない。ただ考えたかったなという心残りがあるだけだ。
じんわりと濡れた床には自分の血が伝っているからか、不思議と温かい。
温かいはずなのに、寒気が身体を襲う。
何故寒いんだろう、打たれた場所は熱いし、床も今は俺の体温がうつって温かく感じるのに。ましてやジムでの凍えるほどの寒さでもないはずなのに。
誰も教えてくれなかった死が、近づいている。
そんな風に本能的に理解した。
闇に溶けるように、意識が離れそうになった時、変化があった。
コツコツと硬い靴の振動が頬に伝わってきたのだ。もう一人こちらへ近づいている。それも駆け足で。
「ちょい!おい、こらぁ!!尋問しろっつったのに痛めつけすぎじゃねーか!!ガキ相手に何やってんだ、力入れ過ぎだってぇ!!これじゃぁ死んじゃうだろ?!」
地下牢の雰囲気からかけ離れた溌剌とした成人男性の声が耳に届く。
何故だろう。
声が聞こえる。耳鳴りが酷いはずなのに……ああ、癖で聴力強化をしていた。
死にかけていても訓練通りのことには反射的に動く自分の身体に苦笑いをする。
あれほど回復のためには遅かった魔力も、情報察知のためには死の淵にあるなけなしの魔力でもスムーズに操れるみたいだ。
「た、たたた、大佐?!な、何故、こんな所に?!」
「このバカ!せっかく生け捕りにしたのに、情報も碌に聞き出さずに殺すとか、ねぇよ!」
「しかし、コイツ、いくら痛めつけても、うんともすんとも……聞き出そうと関節を曲げても、指を何本折っても悲鳴すらあげねぇし、すぐ回復しちまうんでさぁ。いくらやってもキリがねぇ……」
「だから殺すってか?!イカれてんのか?!やり過ぎだろが!!」
どうやら回復してはいけなかったらしい。
看守の求めていたものと真逆のことをしていたと気付かされた。
魔力がある限り、身体強化の応用で回復が出来る。
少しでも破損があれば任務に響くため、怪我の回復は隙があれば行うほど必須である。寧ろそうしなければ生き残れなかった。
更に少年は不思議に思う。
情報を聞き出すも何も、これまで自分を痛めつけてきたこの巨漢たちは、初めから何も尋ねていないのだ。
ただ食事を持ってきては殴り、愉悦の混じる汚れた笑顔で少年の身体を傷つけては去っていく。
その間、何か訊かれたことがあっただろうか。
思い返してみても、下卑た表情で発される言葉は「これでどうだ」や「いい加減吐け」だけだ。
そうか。
あの吐けという言葉は文字通りの嘔吐ではなくて、何らかの情報を言えということだったのかも知れないと気づく。
でも、何を言えば良かったのだろう、分からない。尋ねられてもないことを、どうやって答えろと言うのか。
「あーもう、いい、いい。あとは俺がやっから、一旦お前は席外せ。このままだとガチで死んじまう」
「へえ、すいやせん」
少年の上にズッシリと乗っていた重みが消え、去っていく。
牢屋に静けさが戻ってきた。
ヒューヒューと不規則な少年の呼吸だけが弱々しく微かに音を立てる。
「……さて。お前、起き上がれるか?見たところ俺らの会話を聞くくらいの余力はあるみてぇだけどよ。耳に集中してる魔力を腹に移動出来るか?」
「…………」
魔力の可視化が出来るのは上位の魔法師と聞いている。ということは、今いる奴は先ほどのデブとは身分だけでなく実力も違うらしい。
魔力を読み取れるのなら寝たふりどころか死んだふりも見破られるだろう。
少年に選択の余地はない。
言われた通りに魔力を移動させて起き上がる。
「ゲホッゲホ」
肺に血が溜まっていたようだ。吐血する。
「ったく、ひでぇよなぁ?俺がいったい、どれだけ苦労してお前を捕まえたと思ってるんだあいつら。もうマジで瀕死じゃねぇか。ガキにここまでするとか、相当正気じゃねぇぜ」
起き上がってみると、先ほどまでの耳鳴りが片耳だけだったことに気づく。右耳からは声が聞こえる。
でも、だからなんだというのだろう。
この少年の微かな自我は、死を目前にしていたから生まれたに過ぎない。
あのまま眠るようには、死ねなかったみたいだ。
このまま放置されると、あと数時間くらいは保つかもしれない。まだ、考える余裕はあるだろうか。
「ひとまず、目が見えねぇことには魔法もどうにもできねぇな。ちょっと血を出すから動くなよ」
目の横に刃物の冷たい感触があたると、ドロっと頬に血が伝った。流れるような速さで割かれた浅い傷のおかげで両目に隙間が出来て淡く視界が広がる。周囲の眼圧の関係か、まだ視力が安定しない。
「よし。ひとまずこれで押さえろ」
大胆にもこの男、両目に出来た傷へ布をあてながら少年の後ろ手にあった拘束具を外し、少年自身の手で押さえさせた。
少し開けた視界に、不用心にも開放された鉄柵の出入り口と横に座る若い男性が映った。
男の服装は、厚手の皮を鞣した上等な騎士服だ。
先ほどのデブよりは身綺麗な格好をしているが、少年の血飛沫が微かに彼の服に飛んでいた。
黒髪に濃い色の瞳が少年の顔を収めると、目を細め、ニヤリと笑って見せる。
「ほら。いつでも逃げれるぜ?」
言われた通り、少年と出口の間には何も阻むものがない。
ここまでお誂え向きにされたら、弱りきった少年の魔力でも、しようと思えば瞬間的に肉体強化をかけ、この牢から抜け出せそうだ。
極力使いたくはないが、この残りわずかになった魔力を補う方法もある。
隣にいる男の実力は未知数だが、瞬間スピードで自分に敵う者は限られていると自負している。
結論でいうと少年の多くの経験測から、脱獄は不可能ではないとわかる。
きっと自我の芽生える前の少年であれば、出口が見えたと同時にこの場を後にしたはずだ。
しかし今、少年にその気配はない。
目の横を言われた通りに手で押さえ、大人しく床に座り込んでいる。
「……逃げねぇのか?」
「うん」
大佐と呼ばれる男が、少年の返事に眉を寄せた。
報告ではこの少年は鍛え抜かれた兵士でも号泣する拷問を無言で耐えてみせ、手足が砕かれようと悲鳴一つあげないとあった。男が関与しないうちに回復薬で無理やり回復させてはそんな拷問を繰り返されたらしい。いつ精神が錯乱してもおかしくはない。
大人が子供になんて事をしてるんだと報告を読んで目を疑ったが、見たところ少年に精神崩壊の様子はない。
しかし、少年がここに来て初めて発した言葉が、逃げないという意思なのもおかしな事態だ。
「何故だ?」
男の問いかけに、少年は男へと視線を移し、静かに見つめる。
まだ視界はところどころ不鮮明でよく見えないが、この青年は典型的な魔法騎士寄りの体つきだ。やはり、逃げ切るには物理的に骨が折れそうである。
そんなもはや本能化してしまった力量の測定をしながら、先ほど問われた回答を考えてみる。
生まれて初めて、考えて言葉にするのだ、時間がかかる。それでも数秒の後に口を開いた。
「……ここが快適だから」
「は?」
大佐はポカンと口を開ける。予想だにしない応えだった。
数日間殴られ続け、体のいたるところに致命傷を受けた死にかけの者の言葉とは到底考えられない。
まず、前提としてこの牢屋は人間の考えつく限り最低の環境である。いや、わざわざそのように作られている。
陽の光に当たることはなく、空気も澱み、腐臭も漂う。
日に一度の食事はカビたパンと味のないスープ。基本的に具材は腐っている上にろくに加熱もしないため、まともにスープを食せば腹を下し、体が衰弱する。ちょうど向かいの牢にいる囚人の様に身体に蛆がわき、腐っていく光景もザラである。
それが、いったいどうして快適という言葉に結びついたのか。
「せっかく喋ってくれたが、わかんねぇ。どう見ても不衛生極まりないし、お前は死にかけてるだろ。なんで快適なんだ?」
当然の質問である。
「……雨が降らないし、あまり、寒くない。飯も、だいたい同じ時間に食える」
口の中の腫れが酷くなってきたため、滑舌がおぼつかなくなるが、何とか発言する。
少年にとっては、日に一度の食事は珍しくもない。任務によっては何日も食べ物を断つことはよくあることだった。
食える食えないは別にして、安定して食事が出されるのは、少年の中で高評価の様だ。
「何だそりゃ」
呆れたように肩をすくめた男が、そっと少年の頬に手をやるとポウッと光が漏れた。
これは、回復魔法?
数秒して気づいた少年は、ゆっくり瞬きを一回する。目の横の傷のひりつきが、すぐに暖かい魔力で覆われる。清流のような魔力が自身の魔力に融合しながら頬を通して顔全体、喉に伝わっていく。
初めての感触だ。
回復魔法は使える者が少ない。いや、覚えようとする者が少ないのだ。回復魔法に必要な魔力が自己治癒の魔力の3倍ほどと言われる。魔力量が多い者にしか適さないし、効率がかなり悪いのだ。
当然ながら少年のいた組織に回復魔法使いは存在しなかった。魔力の効率の無駄もさることながら、そんなに魔力発現が大きければ居所を察知される危険性も高まる。
使い捨ての自分達に回復魔法を使用するのはデメリットしかなかった。
怪我をしても自力で治癒するか、回復薬で治る範囲であればそれで治し、それ以上の損壊があれば処分される。
何故、俺に回復魔法を?と思ったが、そう言えばこの男は尋問をすると言っていたことを思い出す。だから最低限、話せる様に回復させているのかもしれない。
効率的な思考は少年の今までいた組織と同様であるため、理解しやすい。
「でも、こんなに痛めつけられたろ。それでも快適なのか?」
男がじんわり汗を額に浮かべて言葉にする。やはり、回復魔法は効率があまり良くないんだなと改めて少年は感じた。時間がかかるし魔力消費も激しそうだ。
問われた内容は少年がちょうど今、その答えを考えていた所だった。
「任務がない。あと、寒くない」
答えている間に男の魔力が胸に広がり、手足にもじんわりと温かさが伝わっていく。
「?」
少年が不思議そうに回復していく自分の手足を見つめた。
最低限の回復じゃないのだろうか。このままだと全身が回復してしまうが。
「ったく。死にかけのくせに、快適なわけねーだろ。何言ってんだよ」
「死ぬのと快適は一緒に成り立たないのか?死んだら快適じゃないのか?」
素朴な疑問だ。
先ほど思考を始めたばかりの少年には、判断がつかない。
死が怖いものだと教えられていないこともある。
常に死と隣り合わせの任務に、その恐怖は無用の長物である。
ただ、何度も死を拒む者たちを見てきたのは事実だ。
殺しが専門の少年の相手は多岐にわたる。
老人、若い男女、子供に至るまで。時に同僚のイヌでさえもその恐怖を顔に浮かべて見せたが、その理由が「完成品」とされる少年には分からないでいた。
熱いのに寒いあの感覚……その先がどんなものかは分からなかったけど……。
率直に言って少年には、死へ向かう瞬間が大して嫌だとは思わなかった。
「いや、そんなの知らねぇよ。考えたことねぇから分からねぇし」
「…………」
分からないのか。
死んだ後が快適じゃないから、嫌がる人が多いのかと思ったのに。
初めての思考の海は、少年にとって広く、深すぎる。分からないことが多すぎて、何が分からないのかも曖昧だ。
目を伏せて考えようとするけれど、何も浮かばない。
「にしても、一刻も早くここから出たくて皆んなゲロるってのに、快適とか言われちゃぁ意味ねーな。はぁ、どおりで尋問が捗らねぇわけだよなぁ?どんな屈強な奴もこんな場所は勘弁してくれって泣いて縋るってのに。ここに数日入れられてケロッとしてるのは、お前くらいだぞ」
回復魔法をあらかたかけ終えた男が自身の膝に頬杖をついて、ため息混じりに愚痴る。
この男の魔力はなかなか高いようだ。
非効率な回復魔法でかなりの魔力を消費したはずだが、軽くジョギングでもしてきたかのような飄々とした態度である。
「自分もああなるって、怖くねーのか?」
顎でさし示した方向は、対面の牢屋。唯一ここから見通せる場所だ。
中には死んでしばらく経った死体が転がっている。
「あれは生きてない。意識がないのにどうやって怖くなるんだ」
「なるほどね」
どうやらこの少年にとっての怖さという言葉は、恐怖と脅威の言葉を足して10倍くらいに薄めたような認識しかないようだ。
生きた人間に対してしか、怖さを感じない性質か。
「はぁ。ったく、どう育てたらこんなやっかいな子が出来上がるんだ?」
この牢屋の対面にある死体は尋問の最中に持病で急死した遺体を流用している。
自分の末路でも暗示させて恐怖を煽る手法だったが、この少年には全く意味ないようだ。
丹念に作られた恐怖の場が、全く空回りしていることを知らされたのだ。
ため息も数度つきたくなる。
そもそも快適さも知らない相手に、ここで何をしても効果があるはずないのだ。
暖簾に腕押し状態である。
あとであの遺体を回収するよう指示しなくては。
「ちっ。しゃあねぇ。まずは快適が何か教えてやるしかねぇか」
その後、またここへ戻して拷問なりすればいい。
この少年が生きる限りどんな些細なことであっても情報が手に入る可能性があるのだ。
みすみす殺すことは出来ない。先ほどの死よりも残酷な未来が、この子供には待ち受けている。
到底、十にも満たない子供にすることではないと分かっているが、この国にとって、いや、周辺国にとっても、今追う組織の情報が重大事項である。特にここ数年、この少年の所属する組織による被害が甚大なのだ。
既に各国の重鎮を始め、自衛の戦力として不可欠な将軍家を次々と失ってしまった。
男にもわずかに残る良心の呵責はあれど、この少年の背負う業が重い事は魔力の可視化ですぐに分かった。
人を殺せば死んだ者の魔力が黒い塊となって相手に張り付く。これを業と呼ぶ。
相手の魔力を可視化出来る魔法師であれば対面した人間が人をどの程度殺したかどうか、この業を見ることで判断できる。
それを見れば、この子供は数え切れないほどの人間をあの世へ送ってきたようだ。ヘドロのごとく真っ黒な業が大量にまとわりついている。
数多の戦場を駆けた将軍でさえ、ここまでの業にならない。当然、十歳かそこらの人間が纏うにしては信じられないほどの夥しい量だ。
償わせるとまでは言わないが、心は傷むが実益のためには上げて落とす作戦も必要だろうと自己肯定する。
「しゃぁねぇ、場所を替えるか」
少年を肩に担ぎ上げ、地下牢をあとにする。
「どうだ、こっちのが快適だろ?お貴族様御用達だぜ?」
「……物が増えた」
いくら悪名高い監獄と言えど、貴族や相応の身分の者を地下牢に入れたら大変なことになる。一応牢獄にもそれなりにランクがあるのだ。
少年が肩から降ろされた牢屋は、先ほどよりもはるかに澄んだ空気が流れ、壁や床に至るまで一目で清潔と分かる。
そして何より、少年の背丈の半分にも満たない大きさだが天井に近い位置に鉄格子の窓が取り付けられ、空が見える。
窓越しに空を見上げると、今は夜らしい。小さな星と半分消えた月が覗く。
床には厚手の敷物が隅々まで敷かれ、裸足の少年の足を柔らかに包む。水の入ったタライが2個と用を足すためのツボ、机の様な台と椅子、白いシーツのかかったベッドがある。
先ほどの牢屋には全てなかった代物だ。少年の言った感想も間違ってはいない。
ただ、少年は記憶のある限りベッドを利用したことがない。常に床で座して寝てきたので、何故ここにあるのか分からないでいる。
少年のベッドの認識といえば、暗殺の際ここに対象がいる時が楽に任務を実行できるという程度である。用途は知っているが、まさか自分のためにここに置かれているとは予想もつかないのだ。
よく分からない家具に囲まれてはいるが、悪くないとも思う。
四隅にある燭台がキラキラとしていて、その装飾を眺めるだけでも見応えがある。
居心地の良さを少し感じた。
「飯も美味いから楽しみにしてろ」
「美味い……?」
食事は魔力補給のための行為である。
美味いかどうかは回復効果に作用しないので味を意識したことがない。食あたりを起こすか、起こさないか、ただそれだけが関心事項だった。
この男が言うのを汲み取るに、美味いというものについて考えることを許されそうである。
どうやら自分にはまだ色々考えるための時間があるみたいだ。
せっかく自我が生まれても、死ねばそこで終わっていただろう。隣のこの男のおかげで死なずに済んだらしい。
男の服の裾を無意識につまむ。
美味い……いったいどんなものだろうか。
「はは。その顔、喜んでんのか」
未知の思考のタネを知り、少年の気づかないうちに頬が緩んでいたらしい。
男は苦笑いしながら少年の頬を軽くつねる。
顔周りは完全に回復されているため、痛みはない。
「俺、喜んでた?」
少年は自分をつねる男の手をそっと被せる様にして触り、不思議そうな顔を見せた。
やっと垣間見えた年相応のあどけない表情とは対照的に、男の表情が曇った。
これから束の間の快楽を味わわせ、地獄に突き落とすのだ。その落差が大きいほど、情報は手に入るだろう。これまでも何人もの犯罪者を尋問、拷問してきたのと同じことをこの子にするのだ。
苦い虫でも食べたような気分だ。
「お前、名前は?」
「…………?」
少年は不思議な言葉の組み合わせに、そう言えば人間には個体を表す言葉があったと思い出した。任務の対象には基本的に名前があった。
ただ、自分という存在と名前が結びつかない。
任務の時は総じてイヌと呼ばれる。でも、流石に少年もこれが個を現す名前ではないと知っている。
恐らく個体名はあるはずだ。
ただ、少年には知らされていない。任務の時は各個人の部屋で直接概要を受取るだけだ。イヌ同士の交流は皆無なので呼び名もない。
処分の時は相手の身体的特徴だけで、相手のイヌの名前も知らないまま殺してきた。
彼の中で名前がないことは当たり前だったのだ。
「……あーっと?俺はユースだ。お前は?」
この男は軽薄そうな見た目によらず根気強いらしい。少年の視点までしゃがみ込むと正面から視線を絡め、少年が答えなかったことを気に留めるそぶりもなく、同じ質問を繰り返した。
地下牢の看守であれば、少年は殴り飛ばされ、拷問という名の虐待が始まったはずである。
いや、地下牢ではそもそも質問自体がなかったのだが。
しかしユースのそれは尋問というよりも近所の子供に対して接する時の眼差しだ。
困るのは少年の方である。答えようにも答えを知らないからだ。
「……知らない」
この手がそのまま自分を殴り飛ばすだろうか。
少年は、自分の頬を包むように広げられた手に身構えた。
だが、少年の顔半分を包むその手が激しい衝撃を与えることはなく、ゆっくりと親指が少年の目元を撫でるように左右に動く。
とくとくと、少年の心臓部が落ち着かなくなる。
「そうか、知らねーのか。せめて番号とかで呼び合ったりしねぇのか?」
あぁ、それは答えに困らない質問だ。少しホッとする。
「呼ぶ時もある。でも任務ごとに変わる」
「なるほどなー。じゃ、何か呼ばれてぇ名前はあるか?」
一応考えてみる。が、少年にとってそれは酷く難しい質問だった。そもそも呼ばれたいと思ったことがない。
答えに窮していることが伝わったのか、ユースは質問を重ねる。
「……好きなものとかねえか?」
「すき……」
でた。分からない言葉だ。
好きとは何なのか。
好みを考えることなんてなかった。つい先ほど気づいた居心地の良さに近いものだろうとは予想がつくけれど。
具体的に自分に好きというものがあるのか、まだ分からないでいる。
「あー。じゃあ大事なものとかは?……常に持ち歩いてるものとか?」
男の方も少年の反応から、難しい質問をしているらしいと気づくが、噛み砕いて問いかけてみる。
ちょうど、報告書に常に書かれるNNという文字が気になっていた所だった。
そもそも少年の組織がまだ無名なのだ。
最近やっと別々に起きている事件が共通の組織らしいと結びつき、コードネームを作成している最中だった。
そんな中この少年が捕まり、何がどちらのNNを指しているのか、煩雑を極めており、すでに混乱を招いているのである。
その弊害としてこの少年に関する報告書がユースの手元に届くまで3日もかかってしまったのだ。あの苛烈な拷問は初めからユースの意図するところではなかった。
そこで、名前である。こちらで勝手に名付けても良いが少年に希望があればそうしてやろうと思ったのだ。
こんなことで少しでも良心の呵責を収めようというのだろうか。
ユースは自問してみたが、答えは出ない。
「……短剣なら、いつも持ってた」
今は当然ながら没収されているけれど。
「あぁ、あったな」
ユースの指示でこの少年の短剣を始め、服を含めた所持品は全て仕入れ元を探しているところだ。微かでも手がかりとして役に立ちそうな情報が入ればいいのだが、そんなことで尻尾を掴ませる組織ならここまで手を焼かない。
だが、思い返すとあの短剣はよく手入れのされた逸品だった。
「まあ、しゃーねぇ。短剣って呼ぶけど良いか?」
これは、許可が必要なものなのだろうか。
そもそも少年は許可する立場にない。
文字通り固まった少年に、ユースは何となく少年の思考傾向を掴み取る。
雪のように真っさらだ。よく言えば純粋。
従順で、命令に忠実な魔力を持った生物。
組織の情報を傍受した時に使用されていた言葉を借りると、理想的なイヌである。
いや、イヌよりも自我が著しく欠如している。簡単な問いかけにすら、こうやって固まってしまう。いかにこれまでまともな人間と関わってこなかったかが見て取れる。
これじゃぁイヌと言うより、生きた人形だな。
自我がないから自分を操る主人さえも認識していないのか、敵であるはずの男に対しても忠実に答えを返そうとする。
あの尋問官たちと相性が悪いはずである。
少年の頬から直に伝わる魔力は安定していて隠し事をしている気配はない。分からないことは本当に分からず、言葉にも表せない。
今はただ単純な困惑が彼を支配している。
魔力を読み取られてることには気づいているはずだが、振り払うことさえもしない。
それとも、さっき回復してやったから多少懐かれたのか。
「あ、やべ、そろそろ行かねぇと。じゃあな、キンシャル。その水桶と布を使って身体を拭いて、今日はゆっくり寝ろ。また今度様子を見にきてやるから、良い子にしてろよ」
頬から手を離し、頭をクシャッとひと撫でしてから外へ向かう。少年に背を向けた男は苦虫を噛み潰したような表情になる。
これ以上居たら情が移りそうだ。
すぐに元の飄々とした顔に戻ると振り返って牢の鍵をかけた。鉄柵越しに中の少年に向かって笑顔で手を振る。
一方キンシャルと名がついた少年は、ユースの動作に対して何か反応することもなくぼんやりと見送った。
良い子にするって、どうするんだろうか。
街の人が言う、悪いことなら知っている。
人を殺してはいけないとか、人のものを盗んではいけないとか。実感として分からない言葉があるだけで、言葉や道徳を認識してはいるのだ。
それでいくと、自分は既に悪い子なのだが。
たくさん殺してきたし、たくさん盗んできた。今更何をしたら良い子に変化するのだろう。
男の気配が完全に消えるまで微動だにしなかったが、暫くしてノソノソとキンシャルは言われた通りに身を清め、ベッド脇の床に座り込んだ。
キンシャルにとってはこれが睡眠の体勢である。
体育座りに足を抱えて、顔を埋めながら自分の手を見遣る。頬に触れていたあの男の手を思い出し、自分の手で自分の頬に触れてみた。
「何であんなに温かかったんだろ」
回復魔法はすでに終わっていたし、されていたのはせいぜい魔力感知くらいだろう。
あんなに長く他人の皮膚に触れたことがないから、人間の皮膚があれほど温かいとは知らなかった。
今日は初めて気づいたことが多い。
ここの明るさに多少は慣れたキンシャルの目は、ゆっくりと閉じられていく。宵闇の風が優しく彼の髪を撫でるようにして消えていった。
「よっ!キンシャル元気にしてたか?」
鉄柵越しにユースが明るく挨拶を投げかけると、ずっと定位置で座っていたキンシャルが立ち上がってユースの立つそばに近づいてくる。
前回ユースが去ってから5日ほど経っていた。
キンシャルの身体は完全に回復しきっているようで前回よりもずっと血色がいい。
通常の人間であればユースの回復魔法をもってしても、あと1週間は寝込む怪我が残っていたはずだが、いかに自己治癒力が高いかが伺い知れる。
「うん、殴られないから元気」
ユースにとっては耳の痛い、率直な返しである。
「はは、そうだな。あ、飯は?美味いだろ?」
「…………」
無言である。
キンシャルに出された食事は日に2度、貴族向けのコースだった。デザートこそないものの、平民であれば寧ろここから出たがらないほどの豪勢な食事である。
ただ、この監獄の管轄としてユースは最高位に居るが故に、囚人の食事報告まで受けることはない。そのため知る由もないことだったが、貴族御用達の牢の管轄の看守もまた、地下牢の尋問官同様に逸脱した嗜好の持ち主である。
食事の際は常に地面に皿を置き、犬のようにして食べるよう強要してくるのだ。それでもキンシャルにとっては実害がなく、どうでもいい行為のうちに入る。
少年の抱える問題はもっと根本的な部分だ。
痛覚と同様に味覚も意識から切り離されているのだ。
それはこれまで飲んできた薬物のためか、あるいは別の精神的なものによるのかは彼自身にも分からない。彼の味覚は口に入れて身体に害があるかどうかの判断しか出来ないでいる。
辛い、酸っぱい、苦いは分かる。
でも知覚することと、それを心地良く感じる心理的部分とが切り離されてしまっているのだ。
そのため美味いというものが何か分からないでいる。
「美味いって、俺には分からなかった」
「マジかよお前、舌が肥えてんな」
ポツリと返される言葉に、ユースは苦笑いである。
鉄柵の合間に手を突っ込み、キンシャルの頭を軽く撫でる。
当然、舌が肥えているとは思っていない。地下牢のドブから掬い上げたような飯を平気で平らげる少年が、味音痴なのは既に予想していた。
「んじゃ、一応聞くけど、こないだの地下牢とここ、どっちが居心地良いんだ?」
頭に置かれたユースの手を自分の片手で触れて、キンシャルは考える。
「……殴られないからここの方がいい。けど、ここは狭いから地下牢の方でも良い」
「はーぁ?その程度か」
普通の感覚でいくと決定的な差があるはずなんだが、キンシャルにはこのまま地下牢へ戻されても何ら嫌がることのない差しかないらしい。
ユースは残念そうに振る舞う一方で、ほっと一息ついた。
上げて落とす作戦も、落差がないならあまり意味もない。再度あの地下牢へ戻す意義が無いということは、ある意味ではユースにとっては心が軽くなる。
「狭いからってことは、じゃあ、広いところが好きなのか?」
「身体を動かした方が鈍らない。ここは狭いから5回くらい回らないといけないのに、やってる時に何回か忘れる」
「確かに、5回だと途中で分かんなくなりそうだな」
報告によると、およそ十時間毎に魔力負荷をかけた状態で牢の中を4〜6周歩き回っているらしい。地下牢の時も、尋問の合間の短い休息時に身体が動けるようになり次第、2周同じ行為をしていたようだ。
この部屋は地下牢と違って部屋全体に魔力制御機能がある。この魔力制御機能は、地下牢の拘束具と同じ役割なため、ここでは後ろ手に縛られることなく過ごせる。
魔力制御された状態だと、体外へ放出された魔力が分散される。そのため、体表面に放出される身体強化や魔法は基本無効化される。
そんな状態で身体強化の一種である魔力負荷をかけるという馬鹿げた行為が出来るのは、キンシャルの特異な魔力量によるところが大きいだろう。
通常であれば魔力負荷をかけるどころか、体内の魔力を身体表面に向けて操作した時点で例に漏れず掻き消えるのである。
一度、組織が利用する子供の実力を見ておくのも良いかもしれない。ユースは目的を定めると、キンシャルの牢の鍵を開けた。
キンシャルに逃走の意思がないことは疑っていないのか、無防備が過ぎる。ユースは騎士服を着ているだけで剣すら持っていないのである。
尤も、彼の側近たちが居合わせていれば、丸腰で牢を開けるなど卒倒ものだろう。幸いにして、鬱陶しくも忠義に厚い彼らはこの場に居ない。
ユースの目論見通り、キンシャルは牢が開けられても微動だにしない。ただ、こちらの意図を汲もうとしてるのか、パチリと一回瞬きをしてユースを見上げた。
「ちょいと運動しに行こうぜ。広い所に連れてってやるよ」
ほら、と差し出されたユースの手をキンシャルはじっと見つめる。
「ほら、手、貸せよ。流石に拘束してねぇと後からうるせぇやつが何人かいるからよ」
手と手を繋ぐ行為を果たして拘束と言えるのか。
流石に少年にもその言い訳は無理があるだろうと感じる。縄の一つでも手にかければいいだろうに。
しかし、ちょうどキンシャルもユースの手が気になっていた所だ。断る理由もない。
ユースの手へ軽く触れると、ユースはグッとキンシャルの手をしっかり掴んで牢から連れ出した。
しっかり握られているが、振り解くには簡単そうな強度である。歩きながら自分の手の2倍はある大きな手を見つめた後、隣を歩く男を見上げた。
こういうのを街で何度か見かけたことがある。自分がその立場になるなんて予想もしていなかった。
やっぱり、温かい。
自然とその温かさを逃すまいとするように、キンシャルは両手でユースの手を包んでいた。
ユースは監獄の外に用があるらしい。
約1週間ぶりの外の空気に触れた。慣れない手の感触もあり、落ち着かない。
「緊張すんなって、お前の仲間も流石にこんな城の奥まで侵入して来れないだろ」
その心配はしてなかった。
しかし言われてみれば、その考慮を真っ先にすべきである。
侵入出来ないほどなら、抜け出すのにも苦労しそうだ……いや。抜け出す気はない。つい癖で考えてしまう。どうでも良いのに。
そんなことより今は、どうやったらこの手の温かさをユースがいない時にも感じられるのか、それを知りたい。
キンシャルがユースの手の感触を確かめている間に目的地に着いたみたいだ。
「ここは?」
五百平方メートルほどの土の敷かれた広場が目の前に現れる。
カカシの様な人型の木が地面に突き刺さっている区画もあれば、楕円形の線のみ引かれた所もある。壁にはいくつか的が並べて架けられ、何に使われるか想像に難くない。
「広いだろ?ちょうどこの時間は訓練兵も野外に出払ってるから、誰もいないんだ。好きに使えるぜ」
ユースが肩をすくめながらイタズラっぽく笑う。
確かに訓練兵もまさか囚人がここを使うとは思うまい。
キンシャルが眩しそうに灰色の瞳を細めて上空を見上げた。
広さもさることながら、一際目を引くのは、周りを囲む壁の高さだった。
天に向かって聳り立つ壁は、その形に切り取った青空を守るかのように影を落としている。高さは数十、いや、百メートルほどあるかもしれない。
無言で見上げるキンシャルに、ユースはニヤリと片方の口角を上げる。
「ここで、お前の実力を披露してくんねぇか?見せてくれたら褒美をやるぜ」
「ほうび?」
初めて聞く言葉だった。
任務は完璧にこなすことが普通であり、それに満たなければ罰がある。褒美などという制度は少年の所属する集団になかったからだ。
「まあ、とにかく良いものやるよってことだ。俺に攻撃してきても良いし、あそこにある人形を壊すでも良い。好きに披露してくれ」
余裕の表情で促してはみたものの、ユースの視線は硬い。相当な魔法の使い手であることは捕まえた時点で既に知っている。満を持して発動させたトラップが、危うく内側から砕けるところだった。
今回知りたいのは、目の前のこの少年の限界値だ。
イヌと呼ばれる集団が、どの程度の戦力なのか、またどのような傾向があるのかなど具体的に調べておきたい。
例として挙げた人形も、訓練兵向けに頑丈な作りと保護魔法が掛けられているが、この少年が本気で攻撃したなら破損する可能性の方が高い。高価だから壊すと後が怖いが、調査のためだと言い張れば何とかなるだろうと目論んでいる。
一方キンシャルは静かにこの練武場を見渡した。
ユースの意向に沿う方法を考えてみる。恐らく自分の最大限の力量を見せて欲しいはずだが、対人は相手の能力や魔力に依るところが大きい。
しかも隣に立つこの男は回復魔法を使うので、本職の戦士ではないはず。上位の魔法騎士と言えど、自分の属性とは別の戦闘をさせておいて、力を測るのは難しいように思う。
つまり、この場で対人戦は最大限の実力披露とは程遠い。
同様にあの人形を壊してみるのも、少し違う。動かない人形に何をしようと、本当の意味で力を示せるわけがない。もっと別の方法がいいだろう。
壁に囲まれた、快晴に見える空を再度見上げてみる。ここ数週間で一番明るいこの場所は、自分にとって一番居心地の悪い所だ。
早く帰りたい。
「戦う必要がない。見てて」
簡潔に返答し、ユースの手をそっと離した。
と、瞬きの瞬間に対面の壁に移動している。
およそ五百メートルを1秒にも満たないスピードで駆け抜けたらしい。身体強化の魔力を感知させる隙すらも与えなかった。
壁に取り付いても、キンシャルのスピードは衰えるどころか壁を適当な位置で蹴上げるようにして螺旋状に登っていく。流石に縦移動は重力のためか、先ほどの瞬間スピードからは落ちているが、人間技ではない。
「すげぇ、何だアレ」
ユースが目を見張りながら呟いた。
ほぼ垂直な壁を移動すること、更にそのスピードは凡人にはとても出来る芸当ではないが、ここで注目すべきは壁に一つも傷をつけない絶妙な身体強化をかけるその繊細な魔力操作だ。
このまま放っておくと天井まで到達し、脱走も容易だろう。
だが、ユースがこの場所をわざわざ選んだのにも理由がある。この練武場の壁は屋根として閉じることが出来るのだ。
万一の逃走を図る可能性も考慮しての場所の選定だった。
ユースがサッと合図を送ると壁が内側に傾き、天窓の空が速やかに閉じていく。
しかし……キンシャルの方が速い。ただでさえ速かったスピードが加速したのだ。
壁の頂上の隙間に少年の影が滑り込む。
ガゴンッ
「げ。やっべ、逃げられた?!」
慌てて外に出ようとして、違和感を覚えて再度振り返る。
天井が閉まると同時に魔法灯が付き、真上から影が落ちてきたのだ。
どういうわけかキンシャルは脱出もせず、完全に閉まり切る前に内側に向かって戻ってきたらしい。
しかし、あの高さからの落下は身体強化をいくらかけても無事では済まないはず。
「一応身体強化かけたけどよ……あれを受け止めるのは痛そうだなぁ」
力を見せろと言った手前、自分の都合で年端もいかない子供に怪我をさせるのも気が引けた。ユースが渋々影の真下で手を広げて構える。
いよいよ小粒の影からキンシャルの顔が見え始めた頃、落下速度が急に落ちた。実際に落ちてきてもユースの予想していた衝撃はなく、微かな風と共にフワリと腕の中に少年が収まった。
キンシャルが捕まえられた時、確か使っていた魔法は水だったはず。
「……お前、まさか、ダブルユーザーなのか?!」
抱き留めたユースは、同じ視点にいるキンシャルの顔を驚いた表情で見つめる。
薄い青灰色の瞳が、これといった感情も映さずにコクリと頷いて見せる。
「すげぇな、お前」
驚きの連続である。
魔力操作には個人差があるが、各々系統が決まっている。身体強化の魔力操作を行える者は一般的に多い。これは無属性の魔力と呼ばれ、訓練さえすれば優劣はあれど、誰でも行える。
そしてごく稀に各々の魔力の性質に近い自然を操作できる者もいる。これを一般に魔法と呼ぶ。
同じ自然でも、火、水、風、土、光、氷など魔力の性質によって操作出来る魔法は多岐に渡る。
しかし1人の人間が操ることが出来る属性魔法は通常1つ。一番自分の魔力と近い性質のみが使えるのだ。
中には数十年の鍛錬をかけて2つ、一生涯を魔法の探求に捧げた者が3つ自然を操ることができる。それも、才能があることを前提とした話だ。
キンシャルの身体強化の熟練度は、それだけで他に属性魔法を使用せずとも一流の騎士として肩を並べられる。同じ壁を登る行為であっても凡人は登るどころか激突するなり、傷をつけてどうにか数メートル駆け上がる程度だ。緻密な魔力制御があってこそ、あそこまでの芸当が成せる。
その一点だけでもユースの経験上、数年に1人の逸材である。
ましてや、この年齢でダブルユーザー。
当然ながら無属性の魔法を使うのとは比べ物にならないリスクと才能が必要とされる。
属性魔法を2つ発現出来るようになるには、自分の魔力を2属性に切り分け、魔法を使う時以外でも常にそれを維持し続けなければならない。
その切り分けのバランスが崩れると数日間どちらも使えなくなるリスクを含む。ただリスクがあれど同時発動も鍛錬次第では可能になり、その利点は計り知れない。文字通り天才にしか出来ない所業である。
いったい、どれほどの鍛錬を積んだのか。
これほどの身体強化の実力を持った者でも、この歳でリスクのある2属性魔法使いを選択するほど生き残れない環境だったのか。
キンシャルを抱えるユースの腕が無意識に強くなる。
当の本人は、居心地悪そうにユースの腕の中で身じろぎした。
「……やっぱり、鈍ってた。もうちょっと速かったのに。あと、たったこれだけで少し疲れた」
とんでもない披露をしたにも関わらず、納得がいかなかったらしい。疲れたという割には息も上がっていないが。
「いや、充分速かった。流石にさっきのは焦ったぜ」
ユースが抱き抱えたまま地面に胡座をかき、その上にキンシャルを座らせ自分の胸に寄せた。
「これまで、よく頑張ったんだな」
小さな子供をあやすように背中をトントン叩く。
最初は身体を強張らせていたキンシャルも、少しずつ力を抜いて、小さく長めの息を吐いた。
「よし、じゃぁ休憩がてら少し尋問でもするか」
茶目っ気を含んだ顔でユースはキンシャルに笑いかける。
あえて包み隠さず、尋問と言う。
これは少年に向けてと言うより、自分に対して身を引き締める意図が大きい。このままでは職務に支障をきたすくらいに肩入れしてしまいそうなのだ。
猫みたいに眩しそうに細められた眼は、ユースを静かに見上げている。
何歳なのか聞いたところで、キンシャルは自分の年齢を知らないだろう。
「ダブルユーザーになったのはいつからだ?」
「……覚えてない」
「最初に使えた魔法はどっちだ?」
「飲める方」
水魔法と言わないところで、気づいた。
「お前、まさか何か制約をかけられてんのか?」
……それもそうか、これまで闇に包まれていた組織だ。情報漏洩の対策をしないはずがねぇ。
しかし制約は魔法の構造的に自害などの強烈な効果は付与出来ないのが唯一の救いだ。せいぜい軽く内臓を傷つけるようなもの。タブーとされるキーワードを連発してしまうと重症になるだろうが、キーワードさえ避けて発言すれば大きな害はないはずだ。
見たところ、魔力操作の能力だけでなく、頭も悪くないようだ。時々ズレているが、うまく回避しながら答えてくれるだろう。
「どんな訓練したら出来るんだ?まさかお前みたいなんがゴロゴロ居るんじゃねぇだろうな?」
「毎日体を動かすだけ。同じやつはあまり居ない。見たことあるのは8人で、3人死んだ」
5人ダブルユーザーがいるとは言えないようだ。
「お前と同じ歳か?」
「……みんな俺より少し大きい。だから、俺を狙ったんだろ?」
少年の声が低くなった。
そのことに対して敵意はないが、恨んではいるような声音だ。
自分より歳上の者に混じっても遜色ないレベルのキンシャルにとって、越えられようのない壁。それに対する恨みだった。
「あ、気づいてたのか?益々すげぇな」
今回使用した捕獲魔法は、とっておきのトラップだったが、捕獲できる大きさに限界があった。球体の魔力でできた網が、ちょうどこの少年の大きさまでしか広がらないのだ。
この集団、仲間が捕まりそうになると自身を顧みず、その仲間を真っ先に攻撃して死に至らしめるのだ。武器に猛毒を仕込むほど徹底している。
身体の一部を部分的に捕えても、球体からはみ出たところで致命傷を受けて死んでしまえば意味がない。
だから、身体をすっぽり覆えるこの少年をターゲットに据えたのだ。この辺りで組織の一員として目撃報告の上がっていた背丈の小さい子供。
それがキンシャルだった。
「俺が一番小さくて、操作はうまかった。同じくらい出来るやつはあまり居ない。だいたい俺が勝つから……」
処分の役目が回ってくる、と言おうとして口をつぐんだ。
何故だか急に言いたくなくなった。
それは、このユースという男が仲間という存在を全く違って認識しているように感じたからだ。ここにくる途中、誰かとすれ違ったり、指示を出したりしていたが、その距離が近い。
キンシャルの知る仲間と根本で認識が違う気がした。
だからと言って何故、自分が言うのを躊躇ったのか説明がつかない。理由に辿り着けず、沈思する。
「そりゃぁ助かる。お前みたいなんが何人もいたら、それこそ戦争規模の軍隊が要るからな」
「……俺が速いのは身体が軽い小さいうちだけだって言われた。遅くなれば使えないから耐久として消耗させるって。魔法はまだあまり上手く使えないから」
淡々とその時のことを思い返して言葉にする。
先ほどの動きはギリギリだったから、もう消耗に回されてもおかしくない。
組織にいるわけでもないが、長年染みついた思考が勝手に換算する。
「は?お前の組織は高望みだなー。こっちはもっとどうしようもない出来損ない鍛えてヒーヒー言ってるっつうのによ」
上手くないと言ってのけた風魔法も、ユースの真上に落ちてきたのに巻き込まないよう完璧に制御されていた。しかも、もう片方の水魔法はトラップ破壊の一歩手前までいくほどの腕前のダブルユーザー。この歳でこれだけ使えるなら将来有望である。
「お前はすげぇよ。魔法なんてこれからいくらでも上達すんだから、使い捨てようとした奴らなんかこれから見返してやれ」
ユースは無意識にキンシャルの頭を抱き寄せて撫でていた。
こんな才能の塊を使い捨てにする組織にも嫌気がさすが、何よりもこの小さな子供が自分の末路を淡々と受け止めていることに行き場のない感情が沸く。
「そういや、褒美やるって言ってたのに忘れてたな。ほら、口開けろ」
「ん?何……」
ユースが思い出したように腰に下げていた巾着から何かを取り出し、指示する。唐突過ぎたからか、キンシャルは尋ねようしたが、口にコロンと何かが入り込んだ。
ペッ
「こら、吐き出すな。汚いだろうが」
吐き出したキンシャルの手の上には茶色い小指の先くらいの塊が転がっている。
「食べ物?」
「そうだよ、毒じゃねーから食ってみろ。美味いから」
促されるままに、この茶色の塊を不審そうな顔つきで口に入れた。
そしてひと噛みする。
「んぅ??!」
暴力的な甘味が口内に広がった。
ビックリした様に目を見張り、しがみつく様にユースの胸元の服を握り込んだ。
しかし、数秒もすれば口の中に溢れていた甘味に慣れ、甘い液体が喉の奥に消えていく。
「どうだ?美味いだろ」
「……初めて食べた」
「はは、気に入ったか?チョコって言うんだけどよ。甘かったろ?最近子供に大人気の菓子なんだぜ」
「ちょこ……あまい」
「好きか?」
「…………」
キンシャルは戸惑う。
甘いものは初めて食べたところだ。ただでさえ初めての感覚に処理が追いつかないのに、好きというものがどういうことか、まだよく分かっていないのだ。
しかも、ここで好きと言ったところで、何が変わるというのか。
「えぇと、もう1個いるか?」
ユースは根気強く聞き方を変えてくる。
おかげでキンシャルには分かりやすい問いに変わった。
「いる」
「はは、即答。気に入ってんじゃねぇか。それが好きってことだろ?」
そうなのか。
初めて沸いた感情の名前を知った。
ゆっくりと頭に刻み込む様に頷いて、ユースの手からチョコを受け取る。
「よく喋ってくれたからな。ご褒美な」
そっとチョコを口に運ぶキンシャルの頭をポンポンと優しく叩く様にして撫でた。
キンシャルは気づいた。
そうか。組織について話したらチョコが貰えるのか。
「もっと話す。もっと訊いて」
冬の海のような灰色の瞳が魔法灯を受けて煌めく。
「…………マジか。ノリノリかよ」
ユースもまさか普通の子供をあやすのと同じ方法が効くとは思わなかった。
チョコも気が向いたから持ってきただけなのに、そんなに気に入ったのか。もっと別の菓子も食べさせてやりたくなるなぁ。
「じゃ、組織の目的、アジトの場所、次の襲撃地とか?知ってる範囲でいい、言えるか?」
ダメ元で聞いてみる。
せっかく話す気になっているのなら一番の核心部分を聞かない手はない。
制約がかかってるとはいえ、この子なら上手く躱して答えてくれるはず。と、期待していたのだが。
「目的は知らない。アジト……ジムはこの近くだとシトレン森の北部のシェル川を東に下った先にある物見の塔。緊急事態に備えてシトレン森へ向かうカスティカ村北西の街道間にある赤煉瓦の倉庫、黒いバツのついた建物の右2つ。一番近いテルネ山麓の教会跡地の地下にもあるけど、もう俺が捕まったからそこは移動したかも知れない」
「え」
「次の任務……まだ終わってないのは下限三日月の夜にカシル・ヴァン・イサの召使いと協力して同名の対象を暗殺。その後南の街道に移動して適当な商業馬車へ乗り込んでポートテリアに入る。そこで下弦半月の夕刻、スルベニ国から来る使者団の襲撃、そして数刻後にセセラ王室近衛騎士団の団員数名の……ゲホゲホッ」
堰を切ったように情報が吐き出されていたが、読み上げられている最中にキンシャルの口から真っ赤な血が吹き出した。
「ちょ、え、は?ば、バカ?!お、おま、お前!?それ、制約ど真ん中の言葉なんじゃねぇか?何個タブー言ったんだ?!」
ユースの方が大慌てだ。
制約にあったタブーを発言する度に内臓が破壊を受ける。一回タブーにあたる発言につき発される制約の破壊は、数時間痛みに耐えれば自力で治癒できる範囲だ。
しかし、今のキンシャルの発言はほぼ全てがタブーだったと予想がつく。これほど一気に言ったのなら、とてつもない衝撃が身体の中を襲っているはずだ。
左手でキンシャルの身体を支えながら、右手を少年の薄い胸に当て、応急処置として回復魔法を最大出力でかける。
「団員数名を、仕留めたら、団長を、狙うフリして、王族のシャー、リィ・キリシファを、誘拐……うぐっ」
「もういい、喋るな。これ以上言ったら死ぬぞ」
「ケホッ、ねぇ。これで、何個分?」
ユースは自分の頭から血の気が引くのを感じた。
「お前、馬鹿。死んだらチョコ食えねぇだろ」
「……だい、じょうぶ」
回復魔法をかけているユースだから気づけた。
この少年、自身の持つ膨大な魔力で内臓に強化魔法をかけている。制約の魔法を弾くほどの膨大な物量で内臓が直接傷つかないように抗っているらしい。
こんな荒技が可能なのか。
身体強化の応用で無理やり自分を回復させるのとは訳が違う。そもそも強化保護の魔法は正確に自分の体内を把握していなければ成り立たないはずだ。
自分の目の前にいる少年がいよいよ化け物じみて見えてくる。
しかし主要内臓に保護がかかっているとはいえ、器官と器官をつなぐ血管にその分の負荷がかかって破裂している。
それもタブーをいくつも発言したからか、衝撃が反響して制約の攻撃が止まない。
「くっ、……死ぬなよ」
キンシャルの破裂していく血管を回復魔法で片っ端から修復し、繋ぎ、固定すること数十分。何とか制約の発動が止んだ。
ユースの身体中から滝のような汗が流れ、その魔力消費の大きさが伺い知れる。
並の回復魔法師であれば当に魔力切れになっていただろう。この国随一と誉高いユースの回復魔法をもってしてもギリギリだった。
キンシャルはとっくに意識を失っている。だらんと投げ出された腕が深夜に浮かぶ月のように青白く映える。
「ふー。ったく、こっちの気も知らないで、ぐっすり寝てやがる」
意識不明でもなお維持された内臓保護の強化魔法が、キンシャルの化け物級の精神力を物語る。
少年を抱えるように抱き上げて頬を寄せる。小さく呼吸を繰り返すキンシャルの寝息に、ユースはようやく一息、長いため息を吐き出した。
こんな決死の状態で求めたものがチョコというのは、なんとも居た堪れない。
そんなに好きだったなら、褒美とか対価を求めずに全部やれば良かった。いや、様子も見ずに立て続けにあんな質問をするべきじゃなかったか。
これまで数多のスパイや犯罪組織の一員を尋問し、職務を全うしてきたユースにあるまじき思考である。
深いため息を吐くと、無駄に才能あふれたどうしようもなく向こう見ずな少年を抱えて立ち上がる。
ひとまず牢に戻って寝かせてやるべきだろう。大部分は回復魔法で何とかなったが、完全とは言い難い。身体負荷がかなりあったはずだ。
囚人には認められていないが、非常事態とか何とか言って中級エリクサーを飲ませた方がいいだろう。
牢に着く頃には、キンシャルの意識が戻った。
3日寝込むレベルのはずだが。目に映る魔力が大きく消耗していないところを見るに、この子供の潜在魔力は底なしかと錯覚しそうになる。
それでも、流石に自力で動くことは出来ないみたいだ。
ユースはベッドの上に横たえさせると、そっと布団を被せてやる。
キンシャルはパチリと瞬きした。
このベッド、俺がここで横になるためのものだったのか。
牢にあるこの大きな家具の使い方を理解した瞬間だった。
「色々言いてぇけど。お前の言ってた任務が予定通り実行されるなら時間がねぇ。机の上にエリクサー置いとくから、起き上がれるようになったら飲んどけ。良い子にしてたらまた来てやるぜ」
サラッとキンシャルの頭を柔らかく撫でつけると、ユースはすぐにその場を後にした。
最初にキンシャルの口から告げられた任務が正しければ決行は今夜だ。
急ぎ足で執務室へと向かっていく。
そんな後ろ姿をベッドの中から見送ると、牢の中はシンと静まり返る。この階にはキンシャルしか居ない。これはここに来た時からそうだった。
しかし、こんなに静かだっただろうか。騒がしく明るいユースが去った後だからそう感じる部分が大きいように思う。
天井を見上げながら、キンシャルの思うところは一つだった。
「良い子って、何をするんだ」
新しい言葉も理解してきたけど、まだ分からないものが多い。
数時間後、ある程度回復したキンシャルは起き上がって机にあるエリクサーを言われた通りに飲み干した。
独特のエグい味が口に広がり、吐き気を催させる。大の大人でもこの味が嫌でエリクサーの使用を拒否するものも多い。これを飲ませるだけでも拷問の一種と言われるほどだ。
しかしキンシャルは物心ついた頃から飲まされ慣れたものだ、特段この味に文句はない。ただ、少し喉につっかえるだけだ。
そして、机の上にはエリクサー以外にもう一つ見慣れないものが置かれていた。
焦げ茶色の巾着。ユースティルと角の方に赤い刺繍が施されている。
中を覗くと見覚えのあるものがびっしりと入っていた。
「……ちょこだ」
すかさず1つ摘み上げ、口に入れた。
甘い味が口いっぱいに広がり、先ほどのエリクサーの苦味が嘘のように消えた。
「あまい」
もうひとつ口に入れ、そして、はたと思い至った。
ユースは、エリクサーを飲めとは言ったが、このチョコを食べても良いとは言っていなかった。
だからと言って、ここにあるのだから食べたって文句を言われる筋合いはない。すぐに考えを改めて構わず手に取ったもう1つを口に含んだ。
「……あまい」
ーー美味いか?ほんと好きなんだな。
ユースの声が聞こるような気がする。
牢をキョロキョロと見渡すけれど、あの男の姿は当然見当たらない。
「甘いけど……」
何故だろうか。
先ほど練武場で食べたチョコよりも味が足りない。
一ヵ月が経った。
一日一粒、口にチョコを入れてきたが、当然減っていく。残り2粒が巾着の中を転がる。今日と明日で一粒ずつ食べれば、いよいよ袋の中は空になるだろう。この間、ユースは一度も来ていない。
そろそろチョコを食べる時間だ。
最初は適当に気が向いた時に食べていたが、ある時から練武場で食べた時間と同時刻を見計らって食べるようになった。
練武場で食べたあのチョコが一番甘かったから、条件を揃えてみたのだ。それでも足りない味は足りないままだ。
しかし時間が来ても、袋にある残り2つのチョコを食べる気になれないでいる。両手で袋の口を絞るように持って、じっとする。
置いておくと、甘くなるって聞いた気がする。
キンシャルの知識は偏った断片的なものであり、それが今手元にあるチョコにも適用されると考えたのである。チョコはいくら時を置いても味は落ちても甘くなることはない、そんなことは知る由もないのだ。
結局その日からキンシャルはチョコを食べなくなった。
ここの牢に来てから飽きもせず、ずっと続いている看守の嗜好。ここの看守は常にキンシャルを這いつくばらせた状態で食事を摂らせる。
この看守曰く、少年がイヌだからとのこと。
確かにイヌと呼ばれていたが、動物の犬とは違うとキンシャルは考える。それでも、それを言葉にするほどの謂れもない。
ここ最近はその看守の嗜好もエスカレートしていく傾向にあった。
「ほら、イヌ。もっと顔を突っ込んで食え」
下卑た笑い声が頭上から降ってくる。と同時に這いつくばる少年の頭に靴裏の硬い感触が乗った。
ガンッ!バシャッ!
今日もスープが飲めなくなってしまった。
毛布に染みていくスープと自分の血を無表情に見つめる。
咄嗟に歯を魔力で保護しなければ折れていた。歯は折れると回復出来ないから危なかった。
それにしても、これで2週間まともに食事にありつけていない。
昨日は熱湯のようなスープを出され、舌を保護しながらゆっくり舐めていると、3口ほどで下げられてしまった。
始めの方で1日2回出されていたパンや肉は、ユースが去った日からなくなり、出てくるのは1日一度のスープだけ。
この国の貴族用のスープにはゴロゴロとした具材がないのが特徴だ。それが返ってキンシャルの空腹を加速させているともいう。溢れてしまうと口にするものがなくなるのだ。
最初から飲めない状態ならまだしも、途中から飲めなくなるのは流石のキンシャルにとっても堪えるものがある。そしてここまで長く飢餓状態が続いたこともなかった。
また魔力があまり上手く動かなくなってきている。ポタポタと強化の間に合わなかった鼻から血が垂れていく。
既に1週間前、奥の手だった魔力の前借りを使ってしまった。
魔力の前借りは、この少年の周りにある業を自分の魔力として無理やり使用する方法である。これまで大量に殺してきた相手の魔力を飲み込むのだが、異物を体内に取り込むのと同義である。更にこの異物は当然ながら自分に対して怨みを持っているため、痛みに慣れた少年を持ってしても耐え難い激痛が身体を襲う。それでいて、あくまでも前借りなのである。
期限がくれば返さなければならない魔力。
もう一度アレをするとなると、身体が持たないかも知れない。
今日もこの毛布を吸わないといけないだろうか。吸ったところで微々たる栄養補給だが。
空腹で鈍りつつある思考と、小さな自我が葛藤する。
自我と言っても、ここまでして生きる理由があるのかという自問である。
あの男、ユースはもう来ないのだろうか。何故来ないのだろうか。
もう一度会ってみたかったのだけど。
そうしたらチョコも甘くなるような気がしたのだ。
腹の近くに抱えた焦茶色の巾着袋をギュッと握りしめた。
「おい、そういやずっと持ってるがそれは何だ?」
看守がヒョイとキンシャルの右手と一緒に巾着袋を持ち上げて眺める。
「おい!これ、ユースティル大佐のじゃないか!何でお前が持ってるんだ。その汚い手を離せ」
「……」
「俺が返しといてやるから渡せ」
「……嫌だ」
キンシャルが初めて抵抗をしてみせたことに、看守が驚く。
「どうせ、大佐と会った時に盗んだんだろ!」
「…………」
キンシャルは、違うと言い切れないことに気づいた。
置かれていただけで、盗んだわけじゃない。
しかし中身は勝手に食べてしまった。残り2つもいつの日かは食べようと自然と思っていたのだ。
練武場で食べた、あの甘いチョコが食べたかった。だからいつか残りの2個が同じくらい甘くなったら食べようと思っていた。
許可もなく相手の物を盗っていた。物を盗むのは悪いことだと聞いて知っている。
あ、そうか。俺が良い子じゃないから、ユースは来なくなったのか。
初めて思い至った思考に、ショックを受ける。目は開いているはずなのに、目の前が真っ暗になった。
「おら、手を離せ!」
看守がいよいよ頭にきたのか、腰に下げていた鞭を手に取り、振りかぶる。
鞭は困る。鞭は当たる場所の予測がしにくい。
万全の体力であればまだしも、ここまで空腹で魔力の動きが鈍い上に身体自体の強度も落ちている。保護もできずに当たれば致命傷になるだろう。
ダメだ、死んでしまう。
ギュッと身体をこわばらせて、目を閉じた。
しかし、くると思っていた鞭の衝撃がいつまで経ってもこない。
「ったく、何でここはイカれたやつばっかなんだ」
少し遠くから発された聞き覚えのある明朗な声音にキンシャルがピクリと反応した。
「あ、ぅ、この声は、た、大佐?!これは一体?!」
目を開けると、看守は振りかぶった体制のままぷるぷると小刻みに震えてはいるものの、不自然に固まっている。
魔法で拘束されてる……?
こんな魔法があるのか。
魔力の動きを観察しようとしたが、その前に解除されてしまった。
「てっきり快適に過ごしてると思ってたのによぉ。何だぁ?この有様は」
くしゃくしゃと自分の髪を乱暴にかき揚げながらため息を吐く男がいる。呆れと嫌気、そして小さな怒気の含んだ調子だ。黒髪に剣呑とした濃い瞳がキンシャルと看守を交互に見据えながら、コツコツと靴音を立てて歩み寄る。
キンシャルはユースの立つ柵の元へヨロヨロと四つ這いで近寄った。もう立ち上がるほどの筋力もない。
「……ちゃんと良い子にしてたんだな、もうちっと暴れても良かったんだぜ?」
ユースが少年の顔に右手を当て、回復魔法をかけた。左手ではハンカチで顔についた血とスープの汚れを拭き取る。
一連の動きの中で、キンシャルは微動だにせず、されるがままにユースを見上げたままだ。
「ん?何で固まってんだ」
あまりに無表情で固まるのでユースも訝しがる。
キンシャルが視線を落として、結局離さずに手に持ち続けた巾着袋を差し出した。
「俺、悪い子」
「あ?何で?何かしたのか?」
報告にはこの少年が何か問題を起こしたなど書かれていなかったはずだ。報告書は看守ではなく、ユースの腹心が書き記しているので信憑性はある。
看守による虐待について書かれていなかったのはいただけないが、基本的にこの牢での虐待は普通である。今更詳細まで特筆するものでもない。だからこそ、最初の地下牢の対処も遅くなった。
いや。やっぱ問題だったな。
帰ったら報告書のフォーマットを変えたほうがいいだろう。
ユースは眉間に皺を寄せて、酷いほどに痩せ細ったキンシャルの身体を見下ろしながらそう思考した。ただでさえ細かった身体が、今では骨と皮だけになっている。
「これ、食べてしまった」
「ん?あぁ、足りなかったか。もっと渡せばよかったな」
キンシャルの頭を軽く撫でていると、チョコの入っていた見覚えのある巾着が渡された。中を確認したら2粒だけ何故か残っている。
「ほんとはもっと早く来る予定だったんだけどよ、ガチでお前の言ってた任務の事件が起こって大変だったんだぜ?で、後始末に報告書に……もうこの二ヶ月で俺、けっこう老けただろ」
「……変わってない」
「そう見えるなら良かったぜ、若作り成功だわ。で?何でお前が悪い子なんだ?」
キンシャルが何を言いたいのか不明だが、ユースはしゃがみ込んで少年を抱え上げ、視線を合わせた。
「食っていいって言われなかったのに、これ、食べた」
「は!?変なとこ真面目だな。言ったろ?チョコは褒美って。お前はしっかり情報を言ったんだから、それはお前の報酬だぞ。食っていいに決まってんだろ」
少年の髪が大きな手にぐしゃっと乱される。
自分の頭に乗せられたユースの手に自分の手を重ねて、キンシャルの口が小さく開きかけて閉じた。何か言いたいけれど、何を言いたいのか自分でも分からず戸惑っているようだ。
待つついでに、先にやることを片付けるかとユースは視線を変える。冷たく、より鋭利なものへと。
「お前、職務怠慢で解雇な」
こっそりその場を後にしようとしていた看守を見据えて、ユースは告げた。綺麗に研ぎ澄まされた神剣が振り下ろされるかのように錯覚する声音だった。
「ひぃ?!な、な、何ですと?!大佐!私が、何を怠慢したと言うんですか」
「は、ここまでしといてよく言うぜ。俺は言ったよな、1日3回!しっかり食わせろって。何でスープしかこの場にねぇんだ?スープすらもまともに食わせてねぇ。お前が出してない分をどうしてんのか調べはついてるぜ」
どうやら1日2回の時点から盗られていたらしい。キンシャルはなんとも言えない顔をする。
「な、な、そんなわけが」
「いや。既に報告に上がってっから。流石に言い逃れできねぇぞ。テクー、見張りはもういいから連れてけ」
ユースが顎をしゃくると、どこからともなく現れた男性に看守が連れていかれる。
見張られていることには気づいていたが、その正体を見せられてしまった。
キンシャルは更に何とも言えない不安げな表情を見せる。
諜報系統の魔法は、一度正体に気づかれた相手には通用しにくくなる。警戒対象であるはずの自分に正体を見せて、良かったのだろうか。
いや、もしかしたら俺はもう処分されるという意味かも知れない。
「ああ、気にすんな。お前と言うよりあの看守を見張ってたのが八割だからな。アイツ、他でも色々やらかしてたらしい。クソ野郎め」
「そう」
少し、落ち着く。
弁明を性懲りも無く続けていた看守の声も聞こえなくなり、あたりはまた静けさを取り戻す。
キンシャルは、頭に置かれていたユースの手を自分の手元に下ろさせ、その親指を軽く握る。
ユースの手に比べて遥かに小さなその手が、細かく震えている。
栄養失調でカサカサに荒れた肌を見るだけで、これ以上は回復魔法ではどうにもならないと分かる。
ユースはすぐに何か食べ物を食べさせたいところだが、当の本人が何か言いたいことがあるようだ。はやる気持ちを抑えて、キンシャルの言葉を待つ。
「ゆーす」
「え。お前、俺の名前覚えてくれてたのか」
「……でももう、俺が、悪い子だから、来ないと思った。勝手に食べて、良い子じゃないから、もうこの手、握れないと思った。もう、ゆーすに会えないって……会いたかった」
ポタポタと水滴が手元に落ちる。
キンシャルの視界は池に潜ったように滲んでいる。
それを見て、いつも飄々として見せていたユースの目が見開かれた。
「ごめん。あぁ、ごめんな。来るの、遅かったよな」
真剣な顔でそう謝ると、静かに涙を流す少年の頭を抱き寄せた。
自分の気づかないうちに、この小さな子供の拠り所になってしまっていたようだ。たった2回しか会っていない人間に、こんなに懐いているとは思いもしなかった。
そのたった2回のなんでもない凡庸な接触さえも、この子には経験したことが無いことだったのか。
ただの挨拶みたいなくだらない言葉でさえ真に受けて、こんなにも傷つけてしまったのか。
強いと思っていた少年の心がこんなにも脆いとは。
ユースの目測がいかに浅はかだったか思い知らされた。
「ごめんな。俺が悪かった」
キンシャルが落ち着くまで赤子でもあやすように背中を叩いてやる。繰り返し謝罪の言葉をかけながら。
「……ゆーす」
「ん?何だよ、力強かったか?慣れてねーんだ、こういうの」
「どうやったら、この水が止まるのか分からない」
「水って、お前な。涙だよ。ゆっくり深呼吸して、好きなことを思い浮かべてみろ」
「…………好きなこと」
ユースの大きな手が、キンシャルの頬を伝う涙を優しく拭き取った。
「ほら、そういやチョコ残ってるじゃねぇか。これ食ってみろ」
「んぐ」
ユースによって口に押し込まれたチョコを味わってみる。
「どうだ?美味いか?」
このチョコは味が足りないどころか、練武場で食べた時より少ししょっぱい。そして、あの時よりも甘く感じる。
「……美味い」
キンシャルから自然と口をついて出てきた言葉に、自身でも驚いた顔をしてみせる。
「はは、ほんと、チョコ好きだな」
「……すき」
そこでふとキンシャルが気づいた。
「ねぇ、またしたくなるのが好きってことか?」
「ん?ああ、そうゆうのも好きって言うな」
灰色の瞳が輝いてユースの顔を真っ直ぐ映し、ユースの親指を握る手に力が入った。
「俺、ゆーすが好き」
「マジか」
流石に懐く相手を間違えすぎだ。二カ月近くもこんな過酷な環境に放置した相手にいう言葉じゃないだろ。
ユースは心の中で毒づく。
しかし、それでもキンシャルが自分を好きと言ってくれるなら答えは決まっている。
「奇遇だな、俺もお前が好きだぜ。今日はさ、お前をここから連れ出す予定で来たんだ」
「ん?」
「俺の監督下なら出していいってよ。お前のいた組織をまだ壊滅できてねえから、その手伝いをするっていう条件付きだけどな」
パチリと瞬いたキンシャルの眼から最後の涙が溢れた。少年はまだ、言われたことの消化が出来ずに固まっている。
そもそもユースがここへ来る期間が大きく開いた要因が囚人の監督許可申請だった。
いかに身分が高く能力があろうとも、親しい間柄には防犯上許可が降りない。そのため、一定期間接触を控える必要があったのだ。
「一緒に暮らそうぜ。こんな豚箱とはオサラバだ」
「俺、豚じゃないけど」
「はは、バカ。逆。アイツら、豚だったろ」
つい今し方、看守の連行されていった方向へ顎をしゃくった。
確かに地下牢にいたやつらも、先ほど連れて行かれた看守も、豚の顔に似ていたような気もする。しかしそれを上官が言っていいのか。
「ふふ、豚」
少年の顔が、夜空の星のように綻んだ。
「キンシャルお前、笑うといい顔になんじゃねぇか。これからいっぱい笑わせてやっから覚悟しろ」
「……うん」
ユースに抱き上げられたキンシャルは、くすぐったそうに目を細めてユースの肩に頭をもたれた。
ユースの歩く動きによる心地良い揺れが、ゆっくりと少年を眠りにつかせる。
夜明けの光が、監獄の外へ出た2人を優しく出迎えた。
「生きてて、よかった」
小さく発された言葉が、暖かな風に運ばれて宙に舞う。ここはまだ、2人が歩む道のりのほんの始まりに過ぎない。
お読みいただきありがとうございました。
感想、評価、いいねなど反響頂けるとありがたいです。