マニュアル社会
とある電車の中。駅から発車し、そう間もない頃。
ふと、一人の少年がその老人に気づいた。つり革につかまり片手には杖。
「あ、席どうぞ」
「……はぁ」
ため息を吐く老人。中学生くらいであろうその少年は一瞬、戸惑ったものの
自分の声が小さく、聞こえなかったのだろうと思い、また声を掛けた。
「え、あの、席どうぞ、座ってください」
「はぁ……」
老人、またもため息。そして息を吸い込むと言った。
「君なぁ、中学生? マニュアルどおり、年寄りに席を譲ろうっていうのが
見え見えなんだよ。学校で習ったのか? 本当は座っていたいんだろう?
嫌々譲られても、こっちは! 気分がぁ悪いよ!」
車内が静まり返った。皆一様に顔を伏せ、そして老人はフンと鼻を鳴らし
立ったまま目的の駅で降り、自宅へと帰った。
「……ということがあってなぁ、まったく若い奴は駄目だな。
奉仕の精神というものがない。周りの人にどう思われるかを気にするばかりで
心からのものがないんだ。そもそも杖は使っているが、まだまだ足腰は丈夫だ。
それに一度座るとまた立ち上がるのもそれはそれで手間だ。
観察力がないんだな。俺があれくらいの歳の頃はもっと気遣いってもんができていた。
でないと、ブン殴られるからな。今はほら、学校じゃ体罰が禁止なんだろ?
駄目だねそりゃ。それに頭も足りん。
大体、何駅で降りるのかとか聞こうとは思わないものかね。
ああ、それにまずは挨拶だろう。それから本題をだなぁ。
あと笑顔を作っていたのが見え見えだったしなぁ。
ああいう自分の頭で考えないでマニュアルどおりの人間が……ん?
おい、お前、聞いているのか?」
「え、あ、うん。あなたの言うとおりよねぇ。若い子は駄目ね」
「ん、ああ、まあ、な……」
そそくさとリビングから出ていった妻の背を目で見送り
老人はスッキリしない気持ちのまま晩酌に戻った。
そして翌日。近所のスーパーで会計中
老人はまた、電車の時のように頭に血が上る感覚がした。
「……おい、今何といった?」
「はい? レジ袋はご入用ですか?」
「このマイバッグを見たら、いらないことぐらいわかるだろう! 目が悪いのか!」
「いえ、そんなことは、あの、少々お待ちください」
と、店員がレジ台の下から何かを取り出した。
「おい、何を、なんだその紙は? 説明書?」
「えっと、クレーマー……年齢はジジイで、あ、これか」
「おい、今、ジジイと言ったか、この、ん、そう言えばこの前の電車でも乗客が……」
「えっと、ワタシノフトクノイタストコロデゴザイマス」
「なんだその棒読みは! 自分でも何言っているのか分からないんだろう!
もういい! ほら代金だ! 釣りよこせ! 何だその渡しかたは! 常連だぞ、ん?」
「あの、お客様」
「おお、店長さんじゃないか。このバイトによく言っておいてくれ。じゃあな」
「その、バッグの中を検めさせていただいても……」
「はあ? 別に何か盗んだわけでも、あっ、何をする!」
「失礼します! あ、お客様……」
「え、い、いや、知らんぞそんな海苔なんか! あ、いや、ああ、忘れてたんだ」
「……店の奥の方へ。ええ、お話はそこで」
「いやいやいや、待ちなさい。私は常連だぞ? 盗むものか。
それにたかが海苔一つくらいでそんな……。
いや、本当に入れたまま忘れ……あ、何をする! 放せ! この!」
「い、痛い! お、お客様! おやめください!」
「お前が掴むから……ん? おい、何を読んで」
「えっと、万引き犯が暴行を加えてきた場合は……」
「いや、暴行ってちょっと杖で叩いただけ……いや、血は出ているが
いや、いやいやお前、血を、気にしてないのか? 拭いたらどうなんだ」
「えっと、取り押さえ……武器を没収……ああ、血が。
となると、マニュアルでは……凶悪犯……店員全員で取り押さえ……
頭と、腕と背中を……あ、待て!」
老人は店長の腕を振り解き、店を出て走った。
「ひぃ、はぁ、ふぅ、クソッ、どうなってるんだ!
どいつもこいつもマニュアルマニュアル!
携帯や、紙を見て! 一体いつ、こんな、社会になったんだ!」
「そいつは泥棒だ! 誰か!」
「えっと街中で泥棒を見た時は……」
「市民として協力を……」
「足を引っ掛ける……」
「突き飛ばす……」
「羽交い絞め……」
「石を投げる……」
「ひ、ひぃぃぃ!」
老人は走った。杖を落とし、そしてそれを拾って渡そうと
追いかけて来た中学生にも怯え、悲鳴を上げながら走り、逃げ回り
そしてようやく自宅へとたどり着いた。
「み、水、水を……おい、いないのかー! おい! ふぅ、はぁ」
「ああ、はいはい、おかえりなさい、あら? どうしたの?」
「ちょっと……な、はぁ、はぁ水を……あ、心臓が、苦し、い……
これは……救急車が……必要かも……」
「え、あ、ちょっと待ってね……えっと夫が老害の言動を……あ、これは昨日のページね。
えっと……夫が弱りきっている時は、ああこれね……
でもこれは……ああ、こっちね……えっと、前から嫌いだった場合は……」