【1ー1】普通
───普通とは、一体何なのだろうか。
大衆の意見が揃えば、それは普通と言えるのだろうか。人それぞれの普通は、尊重してもらえないのだろうか。
そんな疑問が頭の中に渦巻く。
───お姉ちゃん……そんなの、普通じゃないよ。
まだ幼い妹の声が、頭の中で反響した。
☆─☆─☆
爽やかな初夏の風が頬を撫でる。
そんな風とは裏腹に、優香の気分は沈んでいた。
季節が変わっても、天気が変わっても、憂鬱な気分はなかなか晴れてくれない。
高校の授業終わり。優香は部活に属していないため、皆より早く家に帰れる。バイトもしていないので、今からの予定は空白だ。
だから、本来であれば、家に真っ直ぐ帰らなければいけないのだ。
だが……
(……帰りたく、ないな)
そう思いながら、帰路とは別の方向に進み出す。
家族には恵まれている方だと自分でも思う。優しい両親に、綺麗で可愛い妹。はたから見たら幸せな家族に見えるだろう。
そんな優香が帰りたくない理由は、一つだけ。
その綺麗で可愛い妹と、顔を合わせたくないのだ。
優香の妹、優莉は、2歳年下の中学三年生である。受験生である優莉は勉強をとても頑張っていて、優香よりも偏差値の高い高校に入学したいと考えているらしい。
いつも家で勉強している優莉は、優香と顔を合わせることが多い。そりゃ家族なのだから、当たり前だ。
だが、優香には簡単には言えない秘密があった。それを、妹に知られてしまったのがきっかけである。
その秘密……それは、優香の恋愛対象のことである。
優香は、女の人が恋愛対象……いわゆる同性愛者なのだ。
それが発覚したのは割と小さい頃……うろ覚えではあるが、小学四年生くらいの時だった。
活発な少女だった優香は、ある日気まぐれで近所の山に入った。そこは整備されていて、簡単に入れるようになっていたため、大人たちも止めるようなことはしなかった。
優香はどんどん奥に入っていき……不思議な館を見つけた。
西洋の館だ。蔦が絡み合っていて、年季を感じさせる。ここが別世界だと錯覚させるみたいに、その洋館は建っていた。
優香はその年季があり美しくもある洋館に見蕩れるより先に、庭に置いてあるティースペースのような所に座っている少女を見つけた。
透き通るような───に、伏し目がちな───の瞳。その綺麗さに、優香は心を奪われた。
今となっては少女の髪色も、瞳の色も、顔立ちも曖昧だが、確かに綺麗なお姫様を見たということは、優香の記憶に残っている。
その頃からだ。優香の普通が崩れたのは。
まず、友達同士での恋の話についていけなくなった。
友達は好きな男の子がどうのこうのと話しているが、男の子に興味がなかった。どこそこがかっこいいだとか、素敵だとか。そんな言葉が分からなくなってしまった。
そして、中学二年生の時、優香は初めて友達がしているような恋をした。だが、その相手は女の子……親友だった。
みんなに向けるものとは明らかに違う、優香の感情に親友は気づいていたのだろう。段々と距離を取られ……ついに親友は優香にこう言い放った。
───近寄らないで、気持ち悪い。
その言葉が、どれだけ辛かったか。
結局そのあとはどう家に帰ったか記憶にない。でもきっとフラフラとした足取りで、今にも死にそうな顔をして帰ってきたのだろう。心配そうな顔をした優莉に出迎えられた。
お姉ちゃんどうしたの、という妹に、優香はもうどうでもいいやという気持ちで全てを明かした。
今思ったら、姉のそんな事情など聞きたくなかっただろう。ましてや、同性同士の恋愛である。
妹は異物を見るような目で優香を見つめた。
先程まで心配の色だった瞳は、困惑の色に変わる。余程衝撃的な話だったのだろう。
それでも、優しい優莉はきつい言葉で優香を攻めることはしなかった。
……だが、理解ができない、と言いたげな優莉の言葉は、優香の胸に深く刺さったのだ。
───お姉ちゃん……そんなの、普通じゃないよ。
今でも思い出すだけでゾッとする。胸が締め付けられて、息ができなくなる。
それから、優莉は露骨に優香と距離を取った。
優香も、あまり喋らないようにした。優莉にとって気持ちが悪い姉と喋りたくないだろうと遠慮して。
そして、家に帰るのが憂鬱になった。
これが経緯である。
嫌なことを思い出してしまった、と優香は左右に頭を振って、考えを追い出そうとする。だが、中々出て行ってくれない思考に苛立ちが募っていく。その苛立ちは思考を空回りし……何も感じれなくなった。これでいい、これでいいんだと自分に言い聞かせながらどこへ向かうのか分からぬまま足を動かす。
どれくらい歩いただろうか。優香の目の前には、山に続く道があった。幼い頃よく利用していた道だ。
気まぐれで、優香はその道に入った。
それが、優香にとっての人生を変える選択肢になるとは知らずに。