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季節は暖かく、人々が浮ついた様子で街を行き交っている。それなのに、私ときたら浮いた話のひとつもなく、漫然と日々を過ごしていた。
今日も薬の売れ行きが好調だったから気分が良い。特に私の香水は完売だった。お店のご主人が褒めてくれた。今度からもっと納品してほしいと言われた時は、思わず喜びの悲鳴をあげてしまった。
香水だけでなく、薬の調合を母に習ってはいるが、覚えることが多くて面倒だ。だから、私は薬を調合するよりもこうやって薬を売りに町に出る方が好きだった。その点は、商人の父の血を受け継いでいるのかもしれない。きっと父よりも商才はあると思っていた。街ゆく人々や商店は、私から笑顔で薬を買ってくれる。私が若くて可愛い女の子だからだ。
私が住んでいるスパニエンという国は、大陸全土を治めるグロスアルティッヒ連合国の一部だった。とりわけ武力に特化したこの国は、連合国の中において治安維持を目的とした力の象徴だった。そのため、連合国内では二番目に大きい国である。一番大きいのは、もちろんグロスアルティッヒ本国であり、四つの国を束ねている。そのほかに、農業の盛んなフランクライヒと交渉の得意なスウィーテンがあるが、私はこの国から出たことがないからよく知らない。いつか、世界中を回りたいと思っている。
そんなスパニエンでは、傷薬がよく売れる。大人の多くは兵士であり、子供も小さい頃から兵士に憧れるのだ。だから、男の子は怪我が絶えない。傷薬だけでなく、気付け薬や解毒薬など多くの薬が必要とされている。ただ、この気付け薬というのは私は好きではない。強い臭気がするのだ。それよりも、私は香水を調合する方が好きだった。
私の家は薬師だが、薬師というのは薬学の分野ではマイノリティである。薬剤師と呼ばれるのは、修道院の修道士である。それらが正道であり、薬師と呼ばれる私たちは東方の島国から伝わる医学の流れを強く汲んでおり、異端扱いされている。
修道士の薬剤師たちも植物を利用するが、彼らは薬効成分をそのまま使うのではなく、アルカロイドを抽出して、化学的処理により薬を精製したりする。
医学に利用されるのは、主に薬剤師の精製した薬だ。私たち薬師の薬は街の薬屋で売られているもので、修道士からは子供騙しだと見下されていた。だから、彼らとは仲が悪い。そのほかにも、シャルラタンと呼ばれる偽医者などもいるが、彼らはほとんどがただの詐欺師である。
私は都会に生まれたことが幸運だと思っている。スパニエン国の中でも特に城下町は栄えており、華やかだった。私も女の子として生まれたからには、華やいだ雰囲気が好きだし、綺麗な服や靴が好きだ。仕事の帰りにウインドウショッピングをするのが日課だった。綺麗なものや可愛いものを見ると、自然と心が弾む。足も弾んで気付けばスキップしている。ガラスに映った自分を見て、今日も可愛いとつぶやいた。
空は青く、日差しも柔らかい。世界はこんなにも美しい。
「おう姉ちゃん。どこに目ぇつけて歩いてんだ」
難癖のテンプレートみたいな言葉に、私は思わず振り返った。スキップしていたから、地面に降りるときによろけてぶつかってしまったのだ。
「ごめんなさい」
笑顔で謝って、頭を下げる。私は可愛いのだから、これで許してくれるはず。
そう思って頭を上げようとした瞬間、顔面に衝撃を覚えた。それから少し遅れて痛み。
私の体は派手に吹き飛んで、建物の壁にぶつかった。
何が起こったのかわからなかった。ただ、痛みと恐怖が急激に私を襲った。息がしづらいと思ったら、鼻が潰れて鼻血が鼻の奥に溜まっていた。顔がじんわりと痺れている。そのせいか、どの程度の怪我をしているのかわからない。
「謝って済んだら戦争はいらねえだろうが」
相手はならずものだった。最近増えているという、他国の傭兵崩れに違いない。品のない格好、品のない声、品のない顔ーー腰に差した剣を見る限りは間違いない。獣から剥いだような毛皮の服を着ていて、風呂に入ったこともないような体臭が鼻をつく。ただでさえ息がしづらいのに、わずかに入ってくる空気がこんな悪臭だなんて最悪だ。近年では、民間の行商人が大陸を移動する際に、傭兵を雇うことがままある。そのため、こういったならず者が増えている。彼らは、騎士にでもなったように振る舞う。こんなのが騎士だなんてお笑い種だ。だが、このスパニエンでは強さこそ正義なのである。彼らを笑うものはいなかった。報復を恐れているからだ。
スパニエンの男は屈強で、治安が良い。私はそう教えられてきたし、今の今まで信じてきた。しかし、助けを求めても、誰も私を助けようとするそぶりすら見せない。
「きっちり落とし前つけてもらおうか」
ならず者は私の襟首を掴み、路地裏に引きずっていった。私は痛みと恐怖とで声が出なかった。かろうじて、近くにいた男性に手を伸ばそうとしたが、ならず者に睨まれると、その人は何も言わずに目を伏せてどこかへ行ってしまった。それを見て、ならず者は鼻で笑った。
私はぎゅっと目を閉じた。フィリップ王子が助けてくれたらーーフィリップ王子はこの国の全ての女の子の憧れだった。スパニエン国王位継承順位二位のスパニエン家長男であり、剣の腕なら大陸随一と言われている。甘いマスクで、こんなならず者とは違って非常に穏やかな青年であることが知られている。
「やめないか」
私の体が建物の陰に消える直前、男の声がした。
私の願いを神が聞き届けた! 私は顔を上げた。殴られたときに腫れたのだろう。左目が塞がってよく見えなかったが、確かに誰かがそこに立っていた。逆光のせいで神々しさを感じる。
「なんだぁ? てめえ」
右目を大きく開いて見るが、よく見えない。
「嫌がっているだろう」
男はそういうと、私の手を掴んだ。ぐいと引っ張られる感覚。ああ、私は助かったんだ、と安心した時、鈍い音がして私を引っ張る力が消えた。
顔を傾けて右目で見ると、助けに来てくれた男の人がならず者に殴られて地面に臥しているのが見えた。フィリップ王子とは似ても似つかない、貧弱そうな男だった。
「かかってこいよ」
ならずものに突き飛ばされて、私は路地の奥の方へ転がった。何か柔らかいものに当たって怪我は免れたが、その柔らかいものはおそらく生ごみで、とてつもなく生臭かった。それと同時に、助けに来てくれた男の人は悲鳴を上げて逃げていった。光のなかへ向かって逃げていく彼に取り残された、暗闇の中の私。これから始まる暗澹たる未来を暗示しているようだ。
「強い国だって言うから来てみたのに、なさけねえ奴ばっかりだ。これで武力の国ってんだから笑わせやがる」
そう言って、ならずものは地面に唾を吐き捨てた。
「さあ、お楽しみだ」
ならずものが私に顔を近づけて言った。生ゴミに勝るとも劣らない悪臭だった。あまりの絶望と悪臭に気を失いそうだった。いや、いっそ気を失っていたらどれだけよかっただろう。私の地獄はまだ始まってすらいないのだ。
ならずものが私の顔を舐め回す。ナメクジが這いずり回っているようだ。生臭さが顔から取れなくなる。
乱暴に衣服を引き剥がされた。この服は私のお気に入りだったのに。などと考えているうちに、顕になった乳房を乱暴にもみしだかれた。とても痛かった。初めて触れられた男の手がこんなに気持ち悪いものだとは思わなかった。
全身がゾワリとして、涙が出るよりも早く嘔吐した。この気持ち悪い現実に体が拒否反応を起こしたのだ。
「なんだよてめえ、きたねえな」
ならずものは私の顔を殴った。女だというのにお構いなしに、思い切り。首から上が吹き飛んだかと思うほどの衝撃だった。三発も殴られる頃には、痛みを感じなくなった。厳密に言えば、痛すぎて新しい痛みなのか、そうでないのかがわからなくなったのだ。
引き摺り込まれた闇の中で、私はずっと考えていた。どうして、どこで間違えたのだろう。世界はあんなに美しかったのではないか。
顔を上げれば、通りの向こう側からは人の声が聞こえてくる。たった数メートルの距離なのに、別世界のように思える。私が今いる世界は、今までいた世界とは隔絶されていて、何もかもが違っている。人の笑い声が、私への嘲笑のように聞こえる。
ああ、数分前まであった美しい世界はどこへ行ってしまったのか。
乱暴に触られて、何をされても痛かった。そのうち、これは現実ではないと思ったら体から感覚が消えた。たまに感じる刺すような痛みさえ我慢すれば、きっと夢から覚めて、何事もなかったみたいに家の寝台の上で目を覚ますだろう。
「なんだぁ、急におとなしくなりやがった。へへ、嫌がってたのは口だけってことか」
ならず者が何か言っている。異世界の言葉に違いない。
私の体から、布の感触が消えた。服を全て引き剥がされたのだろう。背中や腕に少しだけ布が残っているのを感じるということは、破かれたのだ。でもどうでも良い。これは夢なのだから。
「貴様、何をやっている!」
突然、空気を切り裂くような怒号が聞こえた。私の上に乗っていた男は驚いて振り返った。私ははだけた胸がその人に見えてしまうのが恥ずかしいな、なんて考えていた。
何か大きな音がした、と思ったところで私の意識は遠く彼方へ飛んでいってしまった。そのあと、何が起こっていたのかは見ていなかった。ただ、優しい声が聞こえたような気がした。




