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私は売られた。
この結婚は罠だったのだ。
あのとき、
気付いてさえいれば、
この滴る血を、
飲み干さずに済んだのに。
これは、私の幸せな結婚を実現するための物語である。
私は平凡な女だった。子供のころは、自分は特別な存在だと信じて止まなかったが、年を重ねるにつれ、その自信は徐々に失われていった。平凡な両親の元に生まれ、何の能力も発現することなく、とうとう私も縁談を勧められる年になってしまった。
こんな私でも、いつかーー本物の王族は無理でも、王子様のような人が自分を迎えに来るものだと思っていた。
鏡の前で盛大なため息をつく。平凡な顔、平凡な体形。私は平凡という言葉が何より嫌いだったから、幼い頃から色々な稽古事を試してみた。美術に音楽、算術、運動……どれもこれも、平均的に上手くできたが、突出してできるものはなかった。それに、何をやっても性別という高い壁が行く手を拒む。世の中の物事は、全て男のものであって、女は家事と子守りをすれば良いという世の中である。女は学校へ行くのも煙たがられる。
私は世界がとても広いことを知っていた。大陸には四つの大国があり、それが連合国になり大陸を統一している。この土地に足を踏み入れた最初の四人のおとぎ話は、子供だけでなく大人にも人気だ。四人は小国が点在するだけだったこの大陸を剣と魔法で制圧した。その後、大陸はグロスアルティッヒを頂点とした四つの国が治めることとなった。これをグロスアルティッヒ連合国と呼んだ。
連合国は大陸を四つに割ることをせず、それぞれの国に役割を決めた。グロスアルティッヒは中央政権を掌り、スウィーテンは海沿いに拠点を置き海外や大陸内の各地との交渉役に、フランクライヒは肥沃な土地を開墾し農業を、そして私が暮らしているスパニエンは武力を司っている。それぞれの国は封建制で、国王が政治を決める。私の住むスパニエンの王族は皆、豪放磊落で、国民から慕われている。特に王の暮らす城があるこの城下町は、連合国の中でもかなり栄えている方だと私は思っている。他の国へ行ったことはないから実際のところはわからないが。
ずっと小さな子供だった頃はグロスアルティッヒ本国へ行って勉強したいと思っていた。スパニエンは豊かな国ではあるが、武力に特化しているので、芸術や研究は他の国よりも遅れているように思う。いつも、新しい知識は他国からのものばかりである。その代わり、この国は治安が良く、夜中に女が一人歩きをしても襲われることはないと絶対の自信を持って言い切れる。
スパニエンの治安の良さは、その圧倒的武力による抑圧である。つまり、暴力によって統治されている。他国から来た人は乱暴だとか、野蛮だなどというが、暴力というのは何物よりシンプルで分かりやすい力だと思う。だから、この国では男の子も女の子もみんな騎士に憧れている。道端では、子供がチャンバラごっこをしているし、女の子は騎士と結婚することを夢見ている。
ところで、人間以外にも、同族同士で殺し合う生き物は多くいる。動物でも、虫でも、殺し合いによる淘汰は免れることができない。昆虫は交尾中にメスがオスを食べてしまうことがあるし、魚や鳥類は縄張り争いやメスの取り合いで殺し合う。まるで人間のようだ。それらは同族殺しも厭わない。多くの人間は同族殺しを躊躇うところが虫や動物とは違う。しかし、多くの人間から外れた少数の人間は、虫や動物と同じく同族も赤ん坊や子供すらも躊躇いなく殺すことだろう。それらがスパニエンという広大な領土を欲した時、どれほど凄惨な戦いになるだろうか。
「やだわ、奴隷がいる」
通りを歩いていると、どこかから聞こえてきた言葉に振り返った。奴隷はひと目見ただけでわかる。大抵、ボロボロの服を着ていて、生気のない顔をしている。そして、最も印象的なのが額の印である。奴隷は額に大きな印をつけている。丸くかたどった模様の中に、どこの家の奴隷なのかを示す家紋が掘られていた。それは紋章と呼ばれていた。彼らの見た目は、いや生物学上は人間と同じだが、言葉を話さない。思考能力もない。それでいて、主人の言ったことは理解しているらしい。法律上は人間ではないことになっている。それをひどいとは誰も思っていなかった。もちろん、私もである。彼らは犬や猫と同じようなものだ。
そこにいたのはスパニエン家の奴隷だった。この国の王族に使役されている奴隷だ。貴族によっては、奴隷を毛嫌いするものもいるが、スパニエン家は多くの奴隷を抱えている。奴隷を忌避している人びとも、彼らを傷つけることはしなかった。それはすなわち国の敵になると言うことなのだから。
奴隷を避けるように、彼の周りから人が引いた。
「あう」
行こうとしていた私の耳に、奴隷のうめき声のようなものが聞こえた。振り返ると、悪ガキが奴隷に向かって石を投げている。
「こら、やめなさい」
一緒にいた母親が、苦笑いをして子供を嗜めた。それを見ていた他のものも、クスクスと笑っていた。
いつもなら、特になんとも思わないところだったが、なんとなく、私は彼の額から流れる血を拭いてやって、手持ちの傷薬を貼り付けてやった。何か良い行いをしたかったわけではない。単純に気分的なものであった。強いて理由を挙げるなら、売れ残った傷薬を持っていたからだろうか。それとも、王族の奴隷を手当してやることで、何かおこぼれに与れるかもしれないと思ったからかもしれない。
私の行為を見て、気味悪がるものもいたが、多くの人たちは無関心だった。悪ガキは私に向かって舌を出していた。
傷薬を貼り付ける時、奴隷と目が合った。その瞬間、私はハッとした。奴隷の顔をマジマジと見ることなど、今まで一度もなかったが、初めて見たその瞳は息を呑むほど美しかった。こんなに美しい瞳を、私は見たことがない。琥珀色の瞳の中に、小さな宇宙が渦巻いていて、その奥の方からあるはずのない意思を感じた。
傷薬を貼り終わると、私は何も言わずにその場を離れた。途中、振り返ると奴隷は私をじっと見つめていた。