9.破滅の入り口へようこそ
「……っ!!」
勢い良く、セラフィナは跳ね起きる。そこは彼女の自室で、彼女はきちんと寝間着をまとって寝台に座っていた。
おそるおそる、彼女は自分の腹に触れる。そこに傷一つないことを確かめてから、彼女は深々とため息をついた。
「なんて、生々しい夢……」
暖かな朝だというのに、セラフィナはじっとりと冷や汗をかいていた。震える手を、胸の前でぎゅっと握り合わせる。
「……また、正夢なのでしょうか……あの時と、同じように……」
セラフィナは目を閉じて、ただうつむいていた。彼女の幸せだった日々の、終わりを告げたあの夢。リシャールとマリオンが出てきたあの夢のことを、彼女は思い出していた。
「あの時は、正夢にならないように一生懸命努力しましたわ……けれど結局、似たようなことになってしまった……」
リシャールに婚約破棄を告げられることこそなかったものの、今度はセラフィナがリシャールのそばにいることに耐えられなくなってしまったのだ。
多少形は変わったものの、彼女の幸せが壊れてしまったことに違いはなかった。
「だとしたら、さっきの夢も……」
セラフィナは弱々しくつぶやいて、腹をさすった。あの夢がもし正夢だとしたら、彼女はどうなってしまうのか。貴族としての幸せな未来を失っただけではなく、今度は命まで落としてしまうのか。
「いいえ、そんなのは絶対に嫌ですわ。わたくしはここで、一からやり直すと決めたのですから」
誰にともなく、彼女は宣言する。
「もしあれが正夢なのだとしても……わたくしはきっと、結末を変えてみせますわ。いいえ、変えなくてはならない」
悲痛な顔で、彼女はつぶやき続けていた。その華奢な肩は、かすかに震えていた。
恐ろしい夢にあらがうことを決意したセラフィナは、ひとまずいつも通りに過ごしながら、ひっそりと首をかしげていた。考えれば考えるほど、夢の中の状況が不可解なものだとしか思えなかったのだ。
あの夢の中の彼女は、まだ訓練兵だった。左腕に腕章がついていたのを、彼女ははっきりと覚えている。
それなのに、彼女は一人きりで魔物の群れと戦っていた。彼女のような訓練兵は、前線に出ることはまずない。魔物の群れと出くわす可能性は、限りなく低い。
「しかも、わたくしを貫いたあの一撃は……」
夢の中でセラフィナに致命傷を負わせたあの一撃が、一番不可解だった。
セラフィナは魔物たちに背後をとられないよう、こまめに立ち位置を変えながら戦っていたのだ。そしてあの瞬間、彼女は防壁のある南側を背にして立っていた。
そしてあの一撃は、彼女の背後から飛んできた。はっきりと見た訳ではないが、あれはどうも魔法の弾のようだった。だとすると、あの弾を撃ったのは誰なのか。誤射なのか、故意なのか。
たくさんの謎を抱えたまま、セラフィナは疲れたように息を吐いた。
丸一日考え続けて、セラフィナは結論を出した。これから取るべき対策について。
出撃の際は、今まで以上に周囲に注意を払うこと。『向こう側』に出ている間は、決して一人きりにならないように気をつけること。味方の援護射撃が飛んでくる可能性がある方角を常に警戒すること。
「……これでは、根本的な解決になっていない気がしますわ……」
セラフィナは、大いに落ち込んでいた。こんな時に相談できる相手でもいれば違ったのだろう。
相談できる相手。そう考えた時、彼女の脳裏を真っ先によぎっていったのは、アルフの笑顔だった。
彼はきっと、夢について信じてくれるだろう。なぜかセラフィナは、そう確信できていた。
彼女がたった一人で魔物の群れに囲まれたあげく、味方の誤射で倒れるのかもしれないと打ち明けたら、きっとアルフはひどく心配してくれるだろう。
アルフと話したい。彼に打ち明けたい。セラフィナは強くそう思ったが、結局彼に会うことはなかった。
先日セラフィナを連れ出した女性たちが、あれからも幾度となくセラフィナに言い渡していたのだ。これ以上アルフに近づくな、と。
セラフィナはその程度の脅しで震え上がるほど弱くはなかったが、それでもそうやって自分に敵意が向けられているということは、確実に彼女の気分を重くしていた。そのせいで自然と、彼女はアルフを避けるようになっていたのだ。
もとより真面目で努力家、他人を頼ることが苦手なセラフィナは、結局ひとりでこの問題に立ち向かうことを決めてしまった。
そうやってセラフィナが静かに悩み続けていたある日、彼女の部隊に出撃命令が下された。
セラフィナは翠緑の訓練兵たちと一塊になって、いつものように防壁の近くを偵察していた。引率として一般兵が一人だけついている。
いつもと同様に、訓練兵たちは大いにだらけていた。引率の一般兵もやはり油断しているらしく、訓練兵たちをとがめることはなかった。
しかしセラフィナだけは、いつも以上にぴりぴりして、必死に辺りを見渡していた。魔物の気配がないか、防壁のほうで動きはないか。
彼女は、その二つを警戒するので手いっぱいだった。そのせいで彼女は、背後で訓練兵の一人がおかしな動きをしたことに気づいていなかった。
セラフィナと同世代のその訓練兵、おどおどしたその少女は、周囲をうかがいながら何かを地面にまき散らしていたのだ。細かな粉のようなそれは、足元の草に紛れてすぐに見えなくなっていた。
それから少し経った頃、不意に訓練兵の一人が声を上げた。震える手で、近くの林を指している。
「おい、あっち……魔物だ!」
その場の全員が、そちらに振り向く。遠く木々の向こうに、大きな影がいくつも見え隠れしていた。人ではなく、また野の獣でもない。
引率の一般兵が、押し殺した声で断言する。
「俺たちでは、あいつらに太刀打ちできない。見つかる前に防壁まで引くぞ!」
防壁は、壁と呼ばれているが実際には建物、それも堅牢な砦のようなものだった。
防壁は分厚い壁と魔法で守られているし、遠距離攻撃を担当する灰影の隊や、防衛を主な任務とする陽光の隊が常駐している。
そして翠緑の隊員のほとんどは、ろくに戦えない。だからこういった場合は、本部に連絡を入れたうえで、安全圏である防壁まで速やかに戻ることになっている。
引率の一般兵を先頭に、みなは逃げるようにして走り出す。しかしその足は、すぐに止まることとなった。
「きゃあ!」
甲高い叫び声が、訓練兵たちの中から上がった。さっきあやしげな動きをしていたあの少女が木の根に足を取られ、転んでしまったのだ。
「あいたた……どうしよう、今ので足、痛めちゃった……」
他の訓練兵に肩を借りながら、少女が顔をしかめて立ち上がる。その時、背後を見ていた訓練兵が、恐怖もあらわに叫ぶ。
「まずい、今ので気づかれた! 魔物がこっちに向かってきてる!」
さっきまで遠くにあった影が、どんどん近づき始めていた。通信の水晶で何やら話していた引率の一般兵が、真っ青な顔でみなに言った。
「陽光の隊員がこちらに向かっているとのことだが、まだしばらくかかるらしい。どうにかして、自力で防壁まで逃げなくては」
その知らせに、訓練兵たちがざわめく。
「俺らはともかく、この子は逃げきれそうにないな……」
「だったら誰か、この辺りで魔物を引き付けた方がいいんじゃないか?」
「で、でも俺、てんで弱っちいし」
「私も、戦いは苦手……偵察なら、それなりに自信はあるけど」
みなの視線が、一般兵に集まった。彼はやはり青ざめたまま、首を横に振った。
「俺も、戦いは苦手だ。集団で一体を相手にしたことしかない」
そんなやり取りを、セラフィナはじっと聞いていた。彼女は腰に下げた魔法銀の細身剣に触れ、ぐっと奥歯をかむ。一瞬だけ迷った後、ゆっくりと口を開いた。
「あの、わたくしは戦える……かもしれません」
震える声で騒いでいた訓練兵たちが、ぴたりと口をつぐんで彼女を見つめた。