8.悪夢は再び迫りくる
アルフと別れたセラフィナは、軽い足取りで本部へ戻っていった。彼にまた出会えて良かった、などと思いながら。
けれど彼女は、その認識が甘かったことをすぐに思い知らされることになった。
それは次の日、セラフィナが集団での鍛錬に参加している時のことだった。
「ちょっといい、そこのあなた」
だだっ広い鍛錬場のあちこちで、めいめいが自由に鍛錬している。そのさなか、数人の女性がセラフィナに声をかけてきた。
彼女たちの制服の色は黄色、青、灰色など様々で、訓練兵もいるし一般兵もいる。そしてみな、どうにも不穏な雰囲気を漂わせていた。
「ここじゃなんだから、ちょっと場所を変えましょう。ほら、こっちよ」
そう言って女性たちは、セラフィナを連れて鍛錬場を出ていく。人気のない廊下にたどり着いた時、ようやく女性たちは足を止めた。
セラフィナは訳も分からずついてきたものの、居心地の悪さを感じていた。誰も通りがからない静かな廊下、そんなところにいると、どうしてもリシャールとマリオンのことを思い出してしまうのだった。
そしてそれ以上に、目の前の女性たちの態度がセラフィナを戸惑わせていた。彼女たちは、明らかにセラフィナに敵意を向けていたのだ。
「思い上がるんじゃないわよ、貴族だからって。男をはべらせるのが、くせになってるんじゃないの?」
女性たちの一人が、唐突にそう言った。それを皮切りにして、次々と女性たちが口を開く。
「ちょっと声をかけてもらったからって、いい気になってるんじゃない? うわ、図々しい」
「だいたいあなた、王子様に捨てられてここまで逃げてきたんでしょう? 逃げた先でくらい、おとなしくしてたらどうなの?」
彼女たちが何について非難しているのか、セラフィナには全く見当がつかなかった。ただ、間違った噂についてだけは訂正しておきたいと、彼女もあわてて反論する。
「その、わたくしはリシャール様に捨てられたというよりも、むしろこちらから切り捨ててやったというか……それで、そもそも何の話をしているのでしょうか?」
きょとんとした顔のセラフィナに、女性たちはそろってため息をつく。
「しらを切っても無駄よ。アルフ様のことよ!」
「アルフの?」
「ちょっと、なにアルフ様のこと呼び捨てにしてんのよ、やっぱりこいつ図々しい!」
それから女性たちはものすごい勢いでまくしたて始めた。それでようやく、セラフィナにも状況が飲み込めた。
彼女たちは、昨日セラフィナがアルフと二人きりで買い物やお茶をしていたことが許せないのだった。見た目が優れていて人当たりも良い、おまけに剣の腕も立つアルフは、辺境軍の女性たちからは大人気らしい。
要するに彼女たちは、勝手に抜け駆けするなと、そうセラフィナにくぎを刺しにきたのだ。
さて、どうしたものでしょうか。セラフィナは大いに困っていた。
既に悪い噂が広まってしまっているということもあるし、これ以上悪目立ちするのは避けたい。彼女たちの警告に従うのが、一番安全な対応だ。
けれどセラフィナは、昨日アルフと約束した。また一緒に買い物でもして、お茶をしようと。その約束をほごにするのは、ちょっぴり心苦しく、それ以上に残念だと思えてしまっていた。
彼はひとりぼっちの彼女にためらうことなく話しかけてくれていた。少々軽いなとは思うものの、彼女も彼と話すのは嫌いではなかった。もっと話したいと、そう思っていた。
「……これからは、気をつけますわ」
ひとしきり迷ったあげく、セラフィナはそれだけを口にした。その煮え切らない返事に、女性たちはさらに怒りをたぎらせる。
「気をつけますって、ちょっとなによそれ!?」
「そこは『もうアルフ様には二度と近づきません』って言うとこでしょう?」
彼女たちの言う通りにすれば、この場を乗り切ることはできる。それは分かってはいたが、セラフィナはどうしてもそうすることができなかった。
目の前の女性たちのように、アルフに憧れている訳ではない。たまにアルフと話したいと思っている、ただそれだけだった。けれどきっと、そんなことを言っても彼女たちは引き下がってくれないだろう。
ああ、困りましたわ。セラフィナが小さくため息をついた、その時だった。
「ねえ、楽しいお喋りの邪魔をして悪いんだけれどお……そろそろ鍛錬に戻らないと、隊長たちに見つかってしまうわよ?」
やけにのんびりとした女性の声が、セラフィナたちに近づいてきた。女性たちは舌打ちをして、鍛錬場のほうにばたばたと戻っていってしまう。
一人取り残されたセラフィナはぽかんとしながらも、やってきた女性に頭を下げた。
「あの、声をかけていただいて、助かりました」
「いいのよお。あの子たち、アルフのことを崇拝しているから、彼に近づきすぎた子はだいたいおんなじような目にあうの。もしくは、あの子たちの仲間になっちゃうか」
ふわふわとした柔らかな声で、女性はおっとりと笑う。
青みの銀髪と灰色を帯びた青い目の、セラフィナよりほんの少しだけ年上に見える女性だった。まとっている制服は、セラフィナと同じ緑だ。けれどその腕に腕章はない。一般兵だ。
「いけない、名乗ってなかったわね。わたしはヴァレリーよ。翠緑の二番隊にいるの」
「わたくしはセラフィナと申します。翠緑の三番隊所属の訓練兵ですわ」
「あら、生真面目ねえ。もっとくだけた感じでいいわよ」
折り目正しいセラフィナの自己紹介に、ヴァレリーが青い目をぱちぱちとまたたく。
「ここでは身分も何もないんだから、最低限の礼儀があればそれでいいのよお。……そのせいで、あなたはさっきみたいな目にあっちゃったのだけれどね。本来であれば、貴族であるあなたを平民のあの子たちがあんな風につるし上げることなんて、まずあり得ないもの。貴族は、特別だから」
ヴァレリーもまた、セラフィナの噂を知っているようだった。セラフィナが貴族であると、ヴァレリーはあっさりとそう口にしていた。
セラフィナは少し悲しげに視線を落とす。そのまま、静かに答えた。
「……わたくしは、特別扱いされたくないのです……その結果、少しばかり辛い目にあったとしても」
そんな彼女を見て、ヴァレリーが首をかしげた。
「ふうん……さっき聞こえてた会話もそうだけれど……どうもあなたは、噂に聞いていた子とは違う感じがするわあ」
ヴァレリーはセラフィナをじっと見つめながら、独り言のようにつぶやいている。
「傲慢な悪女には、どうやっても見えないわ。どっちかと言うと、生真面目で融通がきかない感じの子かしら? やりたい放題なんてとてもできなくて、逆にあれこれ我慢しちゃうくちだと思うのよねえ」
どうやらヴァレリーは、セラフィナの噂を知ったうえで、目の前のセラフィナをしっかりと見定めようとしてくれているらしい。そのことに気がついて、セラフィナがわずかに目を潤ませる。
「あ、あの……」
「噂って、面白いわよねえ。根も葉もなかったり、真実とまるで違うものが、どんどん広まっていくんだから」
意味ありげに笑って、ヴァレリーがくるりときびすを返す。
「それより、わたしたちもそろそろ戻りましょう? 同じ翠緑の者同士、これから一緒に任務をこなすこともあるでしょうし、これからよろしくねえ」
「は、はい、こちらこそよろしくおねがいいたします」
「ふふ、だから気楽にねえ」
そんなことを話しながら、セラフィナはヴァレリーと一緒に鍛錬場に戻っていった。ヴァレリーはずっとおっとりとした表情を崩さず、セラフィナのことをうとんじるようなそぶりは全く見せなかった。
辺境まで追いかけてきた根も葉もない噂に、恐ろしい剣幕の女性たち。どん底近くまで落ち込んでいたセラフィナの心は、ほんの少し軽くなっていた。
セラフィナがもう少し人懐っこいたちだったら、友達になってとヴァレリーに頼んでいたかもしれない。けれどやはりセラフィナは、つつましやかな公爵令嬢のままだった。
彼女は気づいていなかったが、彼女は友人の作り方を知らなかったのだ。これまでの人生において友人とは、彼女の親が選び、用意してくれるものだったから。あるいはその身分で、自動的に決まってしまうものだったから。
だから鍛錬所に着いたセラフィナは、助けてもらった礼だけをもう一度口にして、ヴァレリーと別れた。ほんの少し寂しさを感じながら。
その夜、セラフィナはまた夢を見た。まるで現実のように生々しく、恐ろしい夢だった。
夢の中で、セラフィナはただ一人魔物と戦っていた。危なげない剣さばきで着実に魔物を倒している。しかしその時、飛んできた何かが彼女の腹を貫いた。
どん、という衝撃に続き、焼けつくようなしびれる感覚が広がっていく。服を濡らす生暖かい感触に呆然としながら、セラフィナは倒れこんだ。