7.ささやかな、楽しい時間を
セラフィナが辺境軍に入隊してから、一週間が経った。
その間、一度だけセラフィナに出撃命令が出た。セラフィナは大いに緊張しながら、防壁の北側、『向こう側』の地を踏んだのだが、拍子抜けするくらい何事もなく、また本部に戻ってくることになった。
彼女が所属している翠緑の隊は、防壁の近く、『向こう側』においてもめったに魔物の出ない、かなり安全な領域を偵察する部隊だった。
そんなこともあって、彼女以外の隊員はみな散歩でもしているようなだらけた態度だった。
そのことも、セラフィナの気分を重くしていた。魔物を倒し、民を守る。思い描いていた任務とは、まるで違っていたからだ。
「……こんなはずでは、なかったのですけれど」
彼女はとても落ち込んでいた。学園にいる友人たちに手紙を書いて、ぐちを聞いてもらいたいと思ってしまうくらいには。
けれど彼女はそうしなかった。自分がくじけかけていることがうっかり両親に知られでもしたら、両親は今度こそ本気で彼女を連れ戻そうとするかもしれない。
辺境に来てから落ち込むことばかりだったけれど、それでも彼女は実家には戻りたくなかった。そこはあまりにも、リシャールに近すぎる。
だから彼女はぐちも泣き言もぐっと飲みこんでいた。歯を食いしばって、それでも毎日頑張っていた。いつか、状況が変わることもあると、そう信じて。
「初めての、丸一日のお休み……といっても、さほど気が晴れはしませんわね」
今日は非番の日で、セラフィナはとぼとぼと一人、町を歩いていた。着ているのは学園の制服だ。
彼女は学園からまっすぐに辺境に来た。そんなこともあって、彼女が持っているのはよそいきのドレスが二着、普段着だが明らかに高級なワンピースが三着、あとは学園の制服と、辺境軍の制服だけだった。
その中で一番目立たない服が、学園の制服だったのだ。
ものすごい勢いで広まった噂のせいで、彼女が貴族だということは辺境軍で広く知られることとなってしまった。しかし町の人間たちは、まだ彼女の素性を知らない。
この制服が、貴族たちの通う学園の制服だということを知る者は少ない。それこそ、卒業生である貴族くらいのものだろう。
この最果ての町に住み着いている貴族はいないらしいが、それでもうっかり出くわしてしまわないとも限らない。
そしてセラフィナは、これ以上自分の素性をあちこちに知られたくなかった。だから彼女は、どうにかして普通の服を手に入れないと、と大いにあせっていたのだ。
「まずは、服を買わないと……でも、いったいどうやってお店を探せばいいのかしら?」
お金はたっぷりと持っているし、買い物の仕方も知っている。しかし店の探し方は知らないセラフィナは、盛大にため息をつきながら町をさまよっていた。
「知り合いの一人でもいれば、教えてもらえたでしょうに……」
今日何回目になるのか分からないため息を彼女がついた、その時のことだった。
「やあセラフィナ、何か困りごとかい? 俺でよければ、力になるよ」
「アルフ……」
彼女に声をかけてきたのは、アルフだった。彼も非番なのか、先日会った時と同じような私服姿だ。彼は軽やかな足取りで、セラフィナに近づいてくる。
「ん、そうやって憂いている顔も可愛いね。でもどうせなら、君を笑顔にする手伝いがしたいな」
どうしたものかと迷っているセラフィナに、アルフは歯が浮くような言葉をさらりと投げかけてくる。おそらく彼の耳にも彼女の噂は届いているだろうに、そんなことを全く感じさせない明るい笑顔を見せている。
「……困りごと……確かに、困ってはいますわ」
おそるおそるセラフィナがそうつぶやくと、アルフは身を乗り出してきた。その金色の目が、きらきらと輝いている。彼はどうやら、彼女の言葉の続きを待っているようだった。
「その、普段着を買いに行きたいのですが、どこでどのようなものを買えばいいのか、見当がつかなくて……」
「だったら、俺が案内するよ。素敵な店を知ってるんだ。俺、結構趣味はいいほうだと思うし、どう?」
その言葉に、セラフィナはアルフをじっくりと見る。確かに、彼が着ているのはこざっぱりとしてしゃれた服だった。色の合わせ方が見事で、彼によく似合っている。
アルフの提案に乗ってしまおうかと考えたものの、セラフィナは小さく首を横に振った。
彼は悪い人には見えないけれど、ほぼ初対面も同然の男性だ。そんな相手に気安くついていくなんて、そんなはしたない真似はできない。
辺境軍に入る時に、公爵令嬢としての自分に別れを告げたつもりのセラフィナだったが、長年の間に身にしみついた考え方はそう簡単に変わるものではなかった。
「……お店の場所だけ、教えてもらえれば助かるのですが……」
「ええっ、つれないなあ。あっ、もしかして借りを作るのが苦手だったりする? だったらさ、後で少しお茶に付き合ってくれないかな。それでおあいこってことで、どう?」
凛々しい顔にあけっぴろげで無防備な笑みを浮かべて、アルフはセラフィナを見つめる。彼は子供のように無邪気に、期待に顔を輝かせていた。
セラフィナは大いに迷っていた。彼は少々、いやかなりなれなれしい。しかし今の彼女は、そのなれなれしさを嬉しく思えてしまっていたのだ。
失恋の痛手から逃げてきた先で、またひどい噂に振り回されてひとりぼっち。さすがの彼女も、少なからず傷ついていたのだ。
誰かと一緒にいたい。親しく話したい。そんな思いは、彼女の胸の内でずっとくすぶっていたのだ。
「……君と一緒に過ごせたら、最高の休日になるんだけどな。絶対に」
セラフィナの心が揺らぎ始めたまさにその時、アルフがそうつぶやいた。さっきまでの底抜けに明るい声ではなく、少し寂しげな、ためらいがちな声だった。
まだ迷っていたセラフィナだったが、ついにおそるおそるうなずいた。そのとたん、アルフはそれは嬉しそうに笑った。セラフィナがその笑顔に目を奪われてしまうくらいに、鮮やかに。
それから二人は連れ立って、町の中を歩いていた。アルフに案内された店は、小さいながらも良いものがそろっていた。セラフィナは年頃の乙女らしく目を輝かせながら、次々と服を選んでいった。
アルフはそんな彼女を笑顔で見ながら、時々そっと口をはさんでいた。どうしても貴族らしい雰囲気の服を選んでしまいがちな彼女には、彼の助言は大いに役に立っていた。
そうして買い物を済ませた後、二人は公園のカフェでくつろいでいた。
「……まさか、本当にお茶に付き合ってくれるとは思わなかったなあ。君、俺のこと警戒してたみたいだし、まあ無理だろうなって思ってたんだけど」
うきうきとそう言いながら、アルフはせっせと軽食を胃袋に詰め込んでいる。その見事な食べっぷりに、セラフィナ感心しながら答えた。
「だって、約束しましたもの。それに……あなたは別に、悪い人ではなさそうですし」
上品に茶菓子をつまみながら、セラフィナが答える。アルフはぱっと顔を輝かせた。
「あっ、見直してくれた? だったら嬉しいな。こないだ、君と仲良くなりたいなあって思って声をかけたんだけど、君が全然相手してくれなくて。俺、ちょっとへこんでたんだよ。勇気を出してもう一回声をかけて、本当に良かった」
「それは……あの時は初対面でしたし、わたくしは急いでいましたから。落ち込ませてしまって、申し訳ありません」
「いいよ、謝らないで。俺のほうこそ、ちょっと強引だったよね、ごめん。あっ、強引っていうなら今日もかな」
そうやって互いに謝罪し合ってから、二人は同時に小さく笑う。ひときわ親密な空気が、二人の間に流れていた。セラフィナが、穏やかに微笑みながら口を開く。
「ところで、あなたはこの町にとても詳しいんですのね」
「まあね。俺、ここに来て長いから。ええと、確か入隊して七年くらいだったかな」
「えっ? ……あなたはてっきり、わたくしと同じくらいの年齢なのだと思っていましたわ」
セラフィナが目を丸くする。
辺境軍は年齢不問ではあるが、さすがに最低限の能力がないと入隊できない。そんなこともあって、十八を超えたあたりで入隊する者が多かった。
だからアルフも、せいぜい入隊してから一、二年の若手なのだろうと、セラフィナはそうあたりをつけていたのだ。
「俺、そんなに若く見えた? これでも一応二十六歳だよ」
「八つも年上、でしたの……」
「そうそう。年上の包容力、感じなかった? 俺、頼れる感じしない?」
即座に否定しかけて、セラフィナはふと思いとどまった。
アルフは口調や雰囲気こそ軽いものの、確かに細かな気遣いができる青年だ。今日だって、困り果てていた彼女に手助けしてくれた。それも、できるだけ彼女が負担を感じないように気をつけながら。
「……頼りになる、かもしれません」
「お、嬉しいな。だったらさ、もっと気軽に頼っちゃってよ。俺、君の力になりたいんだ」
「ですが、一方的に力を借りるというのも……」
「やっぱり、君は貸しを作るのが苦手みたいだね。なら、またこんな風に付き合ってくれればいいからさ」
「付き合ってって……」
「ちょっと一緒に買い物して、軽くお茶して欲しいなってこと。ほら、今日みたいにさ」
「まあ、それくらいでしたら……」
「やった! 約束だからね! いくらでも、じゃんじゃん頼ってくれよ!」
正直いってセラフィナは、そんな約束をしてしまってよかったのかといまだに悩んではいた。けれど手放しで喜んでいるアルフを見ていたら、口を挟む気にもならなかった。
こうやってお茶をするくらいなら、特に問題ありませんものね。
こっそりとそうつぶやくセラフィナの前で、アルフは満面の笑みではしゃいでいた。