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6.初めの第一歩から前途多難

 次の朝、セラフィナはいつもと同じように目覚めた。


 しかし彼女はすぐに、そこが学園の自室でも、実家の屋敷でもないことに気がついた。ぼんやりした顔で、見覚えのない部屋の景色を見渡す。


「……ああ、そうでしたわ。わたくし、ついに辺境軍に入ったのでした」


 彼女は立ち上がって、窓を開ける。朝のさわやかな空気が吹き込み、セラフィナの明るい栗色の髪をなびかせた。


 窓の下には、最果ての町が広がっていた。まだ朝早いというのに、町はとてもにぎやかだった。どうやら朝市が近くにあるらしく、物を売り買いする声が聞こえてくる。


 その活気に、セラフィナが微笑んで目を細める。と、すぐ隣の机の上で何かがちかりと光った。


 ちょうど手首を一周するくらいの長さの細帯に留めつけられた、サクランボくらいの大きさの水晶玉が、ちかちかと光を放っていたのだった。


 この水晶玉は辺境軍の兵士に支給される装備の一つで、通信の水晶と呼ばれている。近距離での通信や音声の保存などに用いられているのだ。


 彼女は手を伸ばし、通信の水晶に触れる。次の瞬間、水晶玉から落ち着いた声が聞こえてきた。


『翠緑の三番隊のセラフィナ、至急二階の会議室まで来てください』


 その言葉が終わると同時に、光も消える。セラフィナは大急ぎで制服に袖を通し、指定された場所へと急いでいった。


 会議室に入ったセラフィナが見たものは、部屋の真ん中に置かれた大きな机と、その奥側に腰かけている三人の人物だった。


 その内二人は、黄色の制服を着ている。彼らは事務を担当する兵士、というよりも事務員そのものだ。そしてその二人の間に、威厳を漂わせた中年の男性が座っていた。


 やけに貫禄のある中年男性は、この場で唯一違う意匠の制服を着ていた。そのえりには、虹色の旗、それに金の星を模した小さな飾りが輝いている。


 兵士たちが、椅子に座るようセラフィナにうながす。セラフィナが一礼して腰をおろすやいなや、中年男性が重々しく口を開いた。


「私はバティスト、ここ辺境軍の司令官だ。今朝がた、君の実家の使いがここを訪ねてきた。君の両親は、君のこれまでの事情を全て把握した上で、家に戻ってくるようにと言っている」


 辺境軍の入隊書類に、セラフィナは自分の身分と大まかな事情を書いていた。学園の首席卒業生であるということも。


 だから司令官であるバティストが、それらのことについて知っていてもおかしくはない。しかし両親の家の使いとやらは、婚約破棄にまつわるあれこれについてまで司令官に話してしまったのだろうか。


 顔をくもらせるセラフィナに、司令官は落ち着いた声で言った。


「君も知っているだろうとは思うが、この辺境軍は陛下直属の組織で、そして司令官たる私に、全権が委任されている。私は、陛下以外の命令をはねのけることができる」


 神妙な顔のまま、セラフィナはうなずく。


「だから、君を実家に帰すかどうかは私が決めることができる。セラフィナ、君はどうしたい」


「……実家には戻りたくありません。わたくしはここでみなさまと共に戦いたいと、そう思っております」


「しかし君は、まだ実戦経験がないだろう。防壁の北側に広がる『向こう側』の危険さも知らない」


「それ、は……」


 セラフィナは軽くうつむいて、口を閉ざした。司令官たちは、そんな彼女をじっと見守っていた。


「……それでもわたくしは、ここに残りたいのです」


 そうつぶやいて、彼女はゆっくりと顔を上げた。その顔に浮かぶ決意の色に、司令官たちは目を見張る。


「わたくしが学園を飛び出したのも、ここに来たのも、ただのわがままです。そのことは重々承知しておりますわ」


 セラフィナの脳裏を、リシャールとマリオンの姿がよぎっていった。セラフィナに対しては礼儀正しく手を取るだけだったリシャールは、マリオンと口づけをかわし、彼女を愛していると言い切った。


 愛されなかった王妃など山のようにいる。王が側室だけを寵愛していたことなど珍しくもない。だからセラフィナは、あのまま学園に留まり、リシャールの妻となるのが正しい道だった。


 彼女は婚約破棄を一方的に突き付けたけれど、それだって彼女が望めばいつでも白紙に戻すことができた。彼女の実家は、数少ない公爵家の中でもとびぬけて強い力を持っているのだ。それこそ、王家にだって意見できるくらいに。


 彼女は今からでも、あるべき道に戻れる。それを彼女は、嫌というほど知っていた。けれども彼女は、その道を選びたくはなかった。


 そんな事情を知ってか知らずか、司令官は重々しく言った。


「ここに残れば、君はただの一兵卒として扱われる。特別扱いはできない。私は可能な限り兵士たちの安全を考慮しているが、それでも怪我をする者は出るし、命を落とす者もいる。それでもか」


「だからこそ、ですわ」


 セラフィナの声に迷いはなかった。青紫の目で、まっすぐに司令官を見つめている。


「わたくしは、ずっと特別扱いをされてきました。それが当然のことだと、そう思っていました」


 にっこりと笑うセラフィナを、司令官はどことなく痛ましげな目で見つめていた。


「けれどわたくしは、決して特別ではなかった。それを思い知らされて、絶望しました。そんな中、わたくしはここに来ることを決めましたの」


 具体的なことは何も言わずに、セラフィナは説明を続けていく。


「ここでなら、わたくしは自分の力を民のために使うことができる。……今までさんざん、貴族として特別扱いされてきたのですから、貴族としての責任くらいは果たしたい。民を守っていきたい。そう思うのです」


 そこまで語ったところで、セラフィナは口ごもった。ためらいがちに、そろそろと続きを口にする。


「……それに、わたくしは……自分がただ家のために、政治的な思惑のもとに誰かに嫁ぐためだけに存在する、そんな人間ではないのだと……そう実感できる機会が欲しいのです」


 そして会議室に、沈黙が満ちる。セラフィナは恥じらいがちに視線を落とし、兵士たちはほんの少し同情するような目をしていた。司令官は目を閉じて、何やら考え込んでいる。


「うむ、分かった。それでは、使いはそのまま追い返そう。『彼女は既に、我が辺境軍の一員となった』との伝言を持たせて」


 不意に、司令官がそう言った。彼は大きな笑みを浮かべ、セラフィナにうなずきかける。


「これからもよろしく頼むぞ、セラフィナ」


「……はい! ありがとうございます、バティスト様」


 セラフィナは立ち上がり、勢い良く頭を下げる。明るい栗色の髪がさらりと揺れるその陰で、彼女は安堵のため息をついていた。




 そうして実家からの使いを無事に追い返せたセラフィナだったが、彼女の新たな生活には、また別の暗雲が立ち込めてしまっていた。


「……視線を感じますわ……」


 本部の廊下で、セラフィナは小声でつぶやく。


「この状況、前にも覚えがありますわね……」


 入隊してから三日。ここでの暮らしそのものには、もう慣れていた。しかし問題は、そこではなかった。


 どういう訳か、セラフィナは不思議なくらいに孤立してしまっていたのだ。


 誰も、彼女に声をかけようとはしない。彼女のほうから声をかけると、みな困ったような顔で逃げてしまう。


 不可解な状況に、セラフィナは眉をひそめて耳を澄ませる。そうして彼女は、またもや打ちのめされることになった。


 いったい何がどうなっているのか、学園での彼女の噂がこちらにまで伝わっていたのだ。


 かつて彼女がこつこつと否定してきた噂の数々に加えて、婚約破棄の話までもが。しかもそれらの話には、盛大に尾ひれがついてしまっていた。


 そのせいで辺境軍の兵士たちは、セラフィナのことを大いに勘違いしてしまっていた。


 身分をかさにきてやりたい放題、周囲の人間をいたぶり悪行三昧、その果てに王子に捨てられて、泣く泣く辺境へ落ち延びてきた令嬢。どうやら彼女は、そんな人物だと思われてしまっているようだった。


「学園の時は、まだ理解してくれる友人たちがいましたから、どうにか切り抜けられましたけど……」


 それに、あの頃のセラフィナにははっきりとした目標があった。リシャールを支えていくために、立派な王妃になるために。そして、あの悪夢を現実のものとしないために。


 その思いが、行動する力をセラフィナに与えてくれた。おかしな噂を打ち消すための力を。けれど、今は。


「……はあ、これからどうしましょう……」


 辺境へたどり着いた時の高揚した気分が日に日にしぼんでいくのを感じながら、セラフィナはひときわ大きなため息をついていた。

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