5.新たな場所、新たな出会い
北へ向かって旅を続けることしばし、セラフィナはついに目的地にたどり着いた。
魔物と戦っている辺境軍の本部がある、この辺りでは唯一の町。人々はこの町のことを、『最果ての町』と呼んでいた。
「ありがとう、ここまで運んでくれて」
学園からここまで彼女を運んでくれた御者に、セラフィナは笑顔で別れを告げる。そうして彼女はただ一人、目の前の町を見渡した。
そこに広がっているのは、ありふれた大きな町のようだった。ただ一つ、奥に見える城のような建物と、その建物の両脇から生えている高い壁のようなものを除いて。
その壁は、東西にどこまでも延びているように思えた。そのあちこちに窓のようなものがあって、人影がちらちらと見えている。
壁の果てがどこにあるのかは、彼女には分からなかった。どうやらあの壁は、恐ろしく長いらしい。
町の中心の大通りを早足で歩きながら、セラフィナはつぶやく。
「町で一番大きな、一番北にある建物が、辺境軍の本部……でしたわね」
学園を発つ際、セラフィナは学園長に頼んで入隊願書をこちらに送ってもらっていた。だから本部に足を運んで本登録の手続きを行えば、彼女は正式に辺境軍の一員となる。
町の奥にある城のような建物をまっすぐに見すえながら、セラフィナはせっせと歩き続けた。次第に、その歩みが速くなっていく。
「あと少し、急がなくては……」
彼女が焦っているのには訳があった。彼女はどうにか、辺境まで来ることには成功した。しかし、彼女の両親の手の者に追いつかれたら、ここまでの旅路が全て水の泡になってしまう。
学園を飛び出したこと、辺境軍への入隊願書を出したことはどうか黙っていてくれと学園長に頼んではある。
しかしそれでも、リシャールあたりから両親に情報がもれている可能性は高かった。何せリシャールは王子で、しかもセラフィナの両親とも顔見知りなのだから。
リシャールとマリオンにたんかを切った時に、余計なことを喋り過ぎたとセラフィナは後悔していた。実のところあの時、セラフィナは少々頭に血が上っていたのだ。
ともかくも、一刻も早く正式に入隊してしまおう。
辺境軍の人事に口を挟めるのは王ただ一人、そういう決まりになっている。だから正式に辺境軍の一員となれば、そう簡単に連れ戻されることもない。
さらにせかせかと大急ぎで歩くセラフィナを、軽やかな声が呼び止めた。
「やあ、そこのお嬢さん。綺麗な栗色の髪の、そこの君だよ」
仕方なく足を止めた彼女のそばに、若い男性が歩み寄ってくる。自信たっぷりの、堂々とした足取りだった。
「初めて見る顔だけれど、もしかして君も軍属? 一般人の女の子が剣を下げてるなんて、珍しいし」
その青年は、人当たりのよさそうな柔らかい笑みを満面に浮かべていた。
顔立ち自体はきりりと凛々しく、むしろ近寄りがたい印象を与えそうなくらいに整っていたが、その表情のせいでまるで逆の雰囲気になっている。
「……いえ、これから入隊する予定ですわ。急いでいますので、失礼」
気がせいていたセラフィナは、礼儀正しくそう言ってまた歩き出す。しかし青年は、つれなくされたことなど気にもしていない様子で彼女についてきた。
「そうなんだ、奇遇だね。だったらもうすぐ、俺たちは仲間だよ。おっと、名乗るのが遅れたね。俺はアルフ」
「……セラフィナと申します」
「セラフィナか、可愛い名前だね。品のある君には、よく似合っているよ」
アルフと名乗った男性は、やけに上機嫌でなれなれしかった。こんな風に話しかけられたことのないセラフィナは大いに戸惑っていたが、アルフは全く気にしていないようだった。
少しくせのある黒髪をぴょこぴょこと跳ねさせながら、アルフはなおも話しかけてくる。
「荷物、持とうか? 長旅だったんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。慣れていますから」
「もしかして、緊張してる? 良ければ、入隊手続きに付き合うよ。俺、経験者だし」
「……いえ、たぶん大丈夫です」
アルフの提案に、一瞬だけセラフィナは揺らいだ。けれどすぐに澄ました顔で、首を横に振る。
しかしアルフはちっともめげずに、さらにあれこれと話し続けていた。彼はどうあっても、セラフィナの関心を引きたいらしい。セラフィナはそれを聞きながら、ちらちらとアルフを観察していた。
飾らない口調、少し大げさな身振り、明るい表情。彼はきっと平民の出なのだろうと、彼女はそうあたりをつけた。ただそれにしては妙な品の良さを感じるから、豪商や騎士の息子の可能性もある。
辺境軍は年齢も性別も身分も不問、手柄を上げれば正規軍への転属もかなう。そんなこともあって、平民が成り上がるには辺境軍に入ることが最短の道だった。
だから野心に満ちた若者は、こぞってこの最果ての町にやってくる。もっともアルフは、そういった血気盛んな若者には見えなかった。正体不明な彼に、セラフィナはほんの少しだけ興味をひかれる。
「あっ、本部に着いてしまったね。本当についていかなくて大丈夫かい?」
「ええ」
そっけなく答えて本部の建物に入ろうとするセラフィナに、アルフは茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせた。
「それじゃあ、気をつけて。次に会ったら、お茶くらい付き合ってくれると嬉しいな」
「……機会があれば」
セラフィナはそんなことをつぶやいて、アルフに見送られながら本部の建物に足を踏み入れる。
彼女は内心、大いに驚いていた。さっき、アルフにあんな言葉を返してしまったことが、自分でも信じられなかったのだ。
初対面の、しかもどうしようもなくなれなれしい青年の誘いをきっぱりとはねつけないなんて、公爵家の令嬢としては少々つつしみに欠けているのではないか。
彼女はそんなことを思い、そしてくすりと小さく笑う。
もうすぐ自分は、辺境軍の一人になるのだ。公爵家の令嬢としての身分とは、しばらくお別れだ。たしなみもつつしみも、魔物相手には必要ない。
そのことがとても愉快なことのように思えて、セラフィナはもう一度、こっそりと微笑んだ。
特に誰に妨害されることもなく、あっさりと入隊手続きは終わった。セラフィナは拍子抜けした顔で、本部の中を歩いている。
「この先が居住棟だ。この棟の中は出入り自由だが、他の棟は立ち入り禁止の場所もあるから気をつけてくれ。本部の建物は東西の防壁とつながっているが、非番の時は防壁には入らないように。その他の詳細については、渡した地図と資料に書いてある」
黄色の制服を着た兵士が、彼女の先に立って歩きながらてきぱきと説明している。セラフィナは渡された書類を手に、うなずきながら話を聞いていた。
辺境軍の本部と一体化した長い長い壁、それは防壁と呼ばれている。この防壁が、人間が住む南の地と、魔物がうろつく『向こう側』と呼ばれる地とを分けているのだ。
そして、防壁の中には通路や部屋が数多く作られている。だから壁というよりも、細長い建物といったほうが正しい。ただ、東西の長さがけた外れではあるが。
やがて二人は、居住棟の一室の前にやってきた。兵士はにっこりと笑って、セラフィナに向き直る。
「ここが、今日から君が暮らす部屋だ。まずは旅の疲れをゆっくりと癒してくれ。明日からは、君も私たちの一員として、共に戦ってもらう。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
そう答えるセラフィナの声は、期待に弾んでいた。
セラフィナは新たに自室となった部屋を見渡して、顔を輝かせていた。あの学園で与えられていた部屋と比べるとかなり小さいし質素だが、隅々まで掃除が行き届いていて、居心地は悪くなかった。
寝台に腰かけて、セラフィナは渡された書類にいそいそと目を通し始める。
「わたくしは、翠緑の三番隊ですのね……」
辺境軍の各部隊は、その役割ごとに色分けされている。セラフィナが配属された翠緑の隊は、偵察を主とする部隊だ。
実戦経験のない初心者は、ほぼ全員がこの翠緑の隊に配属される。それから適性に合わせて、順次別の部隊に異動するのだ。
セラフィナは書類を手にしたまま、ちらりと壁を見た。
そこには真新しい制服がかけられている。初夏の森のような明るい緑色だ。その左腕には、訓練兵の身分を示す腕章が留めつけられている。さらに、えりには数字の三をかたどった小さな飾りがついていた。
「入隊後しばらくは訓練兵として鍛錬や出撃をこなし、十分な力量があると判断されれば一般兵に昇格する……」
書類を読み上げていたセラフィナの口元に、小さな笑みが浮かんだ。自分なら、きっとすぐに昇格できる。そんな確信が、彼女の頭にはあった。その時、ふとあることが気にかかる。
「……アルフは、もう一般兵なのかしら」
そうつぶやいて、彼女は青紫の目をぱちぱちとまたたいた。
「どうして、そこで彼の名前が出てくるんですの!」
首をぶんぶんと振りながら、彼女は先ほどのことを思い出していた。アルフがとてもなれなれしかったこと、それなのに彼に対して不快感を抱かなかったこと。
「……また、会えますわよね」
そんな言葉が、彼女の口からこぼれ出る。彼女はさらに勢いよく首を振りながら、頬を押さえる。
「彼はただ、この町に着いて最初に知り合った方ですから! それ以外の意味などありませんわ!」
セラフィナは一人、きゃあきゃあと騒いでいる。リシャールのこともマリオンのことも、今の彼女の頭からはきれいに抜け落ちていた。