4.やぶれかぶれで逃げ出して
セラフィナは自室に戻り、どたばたと荷作りを始めた。貴族の令嬢にはふさわしくない、なんとも荒っぽい動きで。
「……あの悪夢は、正夢にはならなかった。なのにまさか、こんなことになるなんて……わたくしの今までの努力は、いったいなんだったのでしょう」
彼女は先ほど学園長の部屋に寄って、辺境へ向かいたいという旨を伝えてきたところだった。王妃となるはずだった彼女のとんでもない申し出に、学園長は椅子から転げ落ちんばかりになっていた。
けれど学園長は、それでも快く彼女の願いを聞き入れてくれた。彼は辺境に向けて即座に連絡を取り、彼女がそちらに向かう旨を知らせてくれたのだ。
三日後に、卒業生を送り出すための盛大なパーティーがある。しかしセラフィナは、そんなものに顔を出すつもりもなかった。マリオンを従えて嬉しそうに微笑むリシャールの姿を想像しただけで、吐き気を覚えていたのだ。
だから今日のうちに、彼女はこの学園を出ることにした。
どのみち彼女は、既にここの卒業資格を得ている。リシャールに裏切られたこと、婚約の破棄を求めることをつづった王への手紙も、きちんと出してきた。もう、彼女がここにいる理由もない。
荷造りを終えたセラフィナは、一振りの剣を慎重に取り出す。この学園に入学する時に、両親が一流の職人に打たせた逸品だ。
細くて軽く、それでいてとても頑丈な剣は、鏡のように磨きこまれた銀の刀身と、純白の柄を備えていた。
セラフィナはそれを腰に下げて、悲しげに微笑む。それから顔を上げ、大きなかばんを手にして自室を後にした。三年間幸せに過ごしてきた、その場所を。
それからセラフィナは馬車に乗り、たった一人で学園を離れた。
彼女は顔見知りの令嬢たちにも、もちろんリシャールたちにも、出立の時刻を教えていなかった。今の彼女は、貴族たちの社交辞令、見かけだけ上品で美しい言葉を聞きたくはなかったのだ。
そして彼女は、自分の実家には何も知らせていなかった。学園を一足先に去ることも、辺境を目指すことも。
彼女は首席としての特権を振りかざして辺境行きの許可をもぎとった。しかしそのことが両親に知られてしまえば、辺境軍に入る前に無理やり実家に連れ戻されかねない。そんな事態だけは、なんとしても避けたかったのだ。
「……結局、リシャール様はわたくしが突き付けた婚約破棄を、受け入れてしまった……」
馬車に揺られながら、セラフィナはぼんやりとつぶやく。
彼女は一方的に、リシャールとの婚約を破棄すると宣言した。けれどリシャールさえその気になれば、婚約を継続することも可能だった。
しかし現実は、そうならなかった。彼はセラフィナではなく、マリオンを選んだのだ。自分が身を引けば、マリオンが王妃になれるかもしれない。彼は、そんなセラフィナの言葉に揺らいでしまったのだ。
「とっさの思いつきでしたけれど、辺境行きはちょうど良かったかもしれませんわね」
リシャールの心変わりに、セラフィナは傷ついていた。どこか遠くへ行ってしまいたい、リシャールのことも、マリオンのことも忘れられるどこかへ。彼女はただ、そのことだけを願っていた。
けれど彼女は公爵家の令嬢だ。学園を卒業して家に戻れば、待っているのは貴族としての暮らしだ。
いずれ社交界では、セラフィナのことは噂になってしまうだろうし、リシャールとマリオンが幸せにしているという話を聞く羽目になることだってあるだろう。
そんなところに戻りたくない。その一心で、彼女はとっさにあんなことを言ってのけたのだ。辺境へ向かい、魔物と戦う、と。
貴族の社会とはまるでかけ離れた辺境で、魔物と戦い続ける。それは過酷な日々になりそうだったが、それでもセラフィナは自分の判断を少しも後悔していなかった。そこに行けば、あの二人から離れられる。それに。
「少なくとも魔物は、口さがない噂に興じたりはしませんものね……」
セラフィナのため息は、馬車のがたんごとんという音にかき消されていった。
北へ向かって、セラフィナを乗せた馬車は走る。時折馬を休ませ、夜は宿場町に泊まりながら。御者と二人きりの、侍女すらいない旅だったが、セラフィナは特段困ってはいなかった。
あの学園では、着替えも持ち物の整理も全部自分でこなさなくてはならなかった。そして生活や学業に必要なものは支給されていたが、それ以外のもの、例えば趣味の本やちょっとしたお菓子などが欲しければ、実家に頼んで送ってもらうか、学園にある商店で買うしかない。
学園に来て初めて、金を払って物を買うという経験をした者は少なくない。セラフィナもまた、その一人だった。そしてその体験は、この旅で大いに役に立っていた。
今、馬車は澄んだ湖のそばで止まっている。御者が馬に水をやり、世話をしている間、セラフィナは離れたところで剣術のけいこをしていた。辺境にたどり着いたら、魔物との戦いが待っている。体がなまってしまっては大変だ。
公爵令嬢として、未来の王妃として、何事も頑張りすぎるくらいに頑張ってきたセラフィナは、貴族として必要なことは一通りこなせた。けれど彼女が一番得意だったのは、実は剣術だったのだ。
本来、女性は筋力や体力において男性に及ばない。だがこの国には、女性が戦うための技術が古くから存在していた。
剣に魔力をまとわせることで、斬撃の威力を大幅に引き上げることができるのだ。そしてセラフィナが腰に提げている剣は、魔法をよく通す魔法銀でできている。
セラフィナは学園に来る前から剣術を学んでいたが、学園に来てからはよりいっそう熱心に稽古に励むようになっていた。いつしか彼女は、学園の剣術指南役相手であっても互角近くの腕前になっていたのだ。
しかしその事実を知っているのは、彼女と、剣術指南役の二人だけだった。女性、それも公爵家の者たるもの、剣術はたしなむ程度でいい。彼女の婚約者であるリシャールは、そのように考えていたからだ。
だからセラフィナは剣術の講義においてはわざと手を抜き、隠れて鍛錬していたのだった。
湖を渡る涼しい風に髪をなびかせながら、セラフィナは素振りを続けていた。
「でも、これからは思い切り剣を振るえますわ。……本当は、王妃としてリシャール様を支えるために手腕を振るうつもりでしたのに、ね」
口の中だけで、セラフィナはつぶやく。その青紫の目が、悲しげに伏せられた。銀色の細身剣を握ったままの手が、ゆっくりと下がっていく。
リシャールの名をつぶやいた拍子に、彼女は思い出してしまったのだ。あの日、人気のない廊下にいた二人の姿を。
彼女がリシャールと婚約したのは二年前。彼女が学園でリシャールと知り合ったのをきっかけに、双方の親が決めた縁談だった。
リシャールは優しかったし、セラフィナに不満はなかった。これからずっと彼を支え、共に民を導いていくのだと、そう意気込んでいた。あの日までは。
寂しげにたたずんでいたセラフィナが、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。
「……少しばかり予定とは違ってしまったけれど、わたくしの力を、民のために使っていく。それは、前と変わりませんわね」
そうしてまた素振りを再開した彼女の顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。