32.無邪気な彼女の真意
リシャールとの話し合いが見事なまでの喧嘩別れに終わってから数日、あれだけの口論が起こったとは思えないほど平穏に時間は過ぎていった。
そのあまりの穏やかさに、セラフィナはひそかに不安を感じていた。きっとまた、何かが起こりそうな気がする、と。
そうして、彼女の不安が的中したかのように、ある日マリオンがただ一人、ふらりとセラフィナのもとを訪ねてきたのだった。
「えへへ、セラフィナ様と二人きりになれて嬉しいです」
可愛らしく小首をかしげて、マリオンが笑う。赤みがかった金髪が、ふわりと揺れた。
「……あなたが『秘密の話がある』などと言うから……」
二人は、面談室と呼ばれる部屋にいた。
防音の魔法がかけられていて、部屋の中で話していることは外には聞こえない。その代わり、廊下に面した壁は一面ガラス張りになっていて、中が丸見えだ。今も廊下を通る者たちが、ちらちらと彼女たちを見ている。
セラフィナは、マリオンを自室に通す気になれなかった。だから彼女は、ここで話を聞くことにしたのだ。そうして今二人は、大きな机を挟んで、向かい合って座っている。
「ああ、そうでした。お話があるんでした。いっけない、忘れてた」
「……重要な話ではなかったんですの?」
まだ午前中だというのに、セラフィナは心底疲れた顔をしていた。一方のマリオンは、ずっとにこにこしている。
「とおっても重要な話ですよう。だって、あたしとセラフィナ様の未来に関係することなんですから」
「……わたくしたちの、未来?」
不思議そうにつぶやくセラフィナに、マリオンは満面の笑みで言った。
「セラフィナ様、ここを出て一緒に王宮に来てください。ほんとは嫌ですけど、あのアルフって男も一緒でいいですから」
「え、いきなり何を……」
「だあってえ、いずれリシャール様は王様になるんですよ? そしたら、セラフィナ様に命令して王宮に呼びつけることだってできちゃうじゃないですか」
先日の、アルフとリシャールの口喧嘩がセラフィナの脳裏をよぎる。彼女の目が、動揺を映すように揺らいだ。
「リシャール様、あのアルフって男のこと嫌ってますし、あいつはこの辺境に残して、セラフィナ様だけ来るようにって言うに決まってます。そしたら、離れ離れになっちゃいますよ?」
マリオンは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、可愛らしく言い放った。
「だから、セラフィナ様がアルフと一緒にいたいのなら、今あたしたちと一緒にここを出るのが一番いいんです」
緑がかった黄色の目をきらりと光らせて、マリオンは誘惑するようにささやきかける。
「それにそうすれば、あいつを騎士とかにしてくださいって、リシャール様に頼むこともできるかもしれませんよ? それも、ひとっとびに近衛騎士とか? うわあ、大出世しちゃうかもですね」
思いもかけない言葉に、セラフィナはうつむいて考え込む。確かに、マリオンの言葉には一理あるように思えた。
ここを出る。それはすなわち、辺境軍を辞めるということだ。改めてそう考えた時、アルフの言葉がよみがえった。
自分が必要とされているこの辺境で、これからも頑張っていく。司令官になるという夢を、冗談めかしつつも真剣に語っていたアルフの朗らかな笑顔、きらきらと輝いていた目。
セラフィナはそれらすべてを、ありありと思い出すことができた。
ここを離れてしまえば、あの笑顔はもう見られない。自分の都合で彼をここから引き離すのは、彼に対する裏切りに等しい。彼にそんな仕打ちをするなんて、今のセラフィナには考えられなかった。
だからセラフィナは、そう長く黙り込むことはなかった。やがて顔を上げ、微笑みながらマリオンに言う。
「……提案、ありがとう。けれど、お断りするわ」
その返事が予想外だったのだろう、マリオンは目を真ん丸にして両手を頬に当てた。
「ええーっ、なんで!? どうして?」
「理由は秘密ですわ。ただわたくしは、ここを離れる訳にはいかないんですの」
なおも食い下がってくるマリオンを、セラフィナは穏やかな笑顔であしらう。マリオンはしばらく騒いでいたが、やがてあきらめたようにため息をついた。
「……分かりました、だったらあたしがここに残ります。リシャール様はそろそろ王宮に帰らなきゃいけないみたいですけど、そんなの知りません」
その言葉に、今度はセラフィナが目を見開く。それから眉間にしわを寄せて、マリオンに問いかけた。
「ねえ、あなたはどうしてそこまでして、ここに残ろうとするのかしら? そもそもここに来たのだって、リシャール様の付き添いだったのでしょう?」
「付き添いじゃないですよ。あたしがここに来たのも、ここに残ろうとしてるのも、セラフィナ様と一緒にいたいからですもん。だから自分から進んで、ここに来ました」
マリオンは堂々と胸を張り、それからふと小首をかしげた。
「そうだ、リシャール様に頼んで、あたしも紅蓮の一番隊に入れてもらおっかな。あたしはセラフィナ様に近づいてもいいんだし、それくらいのわがままは許されますよね、えへっ」
いいことを思いついたと言わんばかりの顔で、マリオンが両手をぱんと打ち合わせる。それからセラフィナに向き合って、飛び切りの笑顔を見せた。
「……あたし、あの学園でセラフィナ様を見かけてから、ずっと、ずうっと憧れてたんですよ。どうにかしてお近づきになりたくて、もう頭がおかしくなりそうでした。あたしなりに色々考えて、色々頑張ったんですよ」
「色々、って……?」
ぎこちなく問いかけるセラフィナに、マリオンは得意げに答える。
「まず最初に、セラフィナ様の周囲の人間が邪魔だなって思ったんです。セラフィナ様がひとりぼっちになれば、あたしが近づくこともできるかなって。だからこっそり、学園にセラフィナ様の悪い噂を流してみました」
セラフィナがまだ学園にいた頃、彼女に関する根も葉もない噂が流れていた。
どうしてそんな噂が生まれたのかと、あの頃の彼女はいぶかしんでいたものだった。その原因がマリオンだったなんてと、セラフィナは驚きを隠すことができなかった。
しかしセラフィナは、続く一言にさらに驚かされることになった。
「でもあんまりうまくいかなかったんで、今度はリシャール様に声をかけたんです。ちょおっと可愛くふるまってみたら、いちころでした」
マリオンは無邪気に笑いながら、とんでもないことを言っている。
「それで、リシャール様をそそのかしてみました。セラフィナ様が王妃で、あたしが側室。そうなれば、いつでもセラフィナ様に会いに行けますもん。姉妹みたいに、ずっと一緒にいられるかもしれないし」
うきうきと語っていたマリオンが、そこで小さくため息をついた。
「いい考えだと思ったのに、すっごくうまくいきかけたのに、まさか最後の最後にセラフィナ様が婚約を破棄していなくなっちゃうなんて思いませんでした。あの時はほんと、あせったなあ」
呆然とするセラフィナを気にすることもなく、マリオンは口をとがらせながら話している。
「知り合いのつてをたどって、辺境軍にも噂を流してみたんですよ。セラフィナ様が辺境軍にいづらくなって、飛び出してくれないかなって思ったんですけど、こっちも駄目でした。あーあ、残念」
セラフィナが辺境軍に来てすぐに流れた悪い噂は、結局出どころがよく分からないままだった。まさかこちらにも、マリオンがからんでいたとは。
しかしそれなら、婚約破棄のことまで付け加えられた噂が流れていたのも納得だ。セラフィナは混乱しつつも、そんなことを思う。
そして同時に、セラフィナの頭にはさらに大きな疑問が生まれてしまっていた。
「ちょ、ちょっと待って……あなたはリシャール様のことを、愛しているのでしょう?」
「いいえ。興味ないです。あたしが興味あるのは、セラフィナ様だけですから。あっ、このことは内緒にしてもらえると嬉しいです。うっかりばれちゃったら、またリシャール様がめそめそしてめんどくさいので」
マリオンがきっぱりと、即座に答える。さっきから予想外のことばかり聞かされているせいか、セラフィナは唇を薄く開けてぽかんとしてしまった。
そんなセラフィナのほうに、マリオンが身を乗り出す。あごを引いて、ねだるような視線を向けながら。
「ねえねえセラフィナ様、やっぱり、どうしても、駄目ですかあ? 一緒に行きましょうよう」
甘えたようなその声に、セラフィナがぶるりと震えた。ひとつ大きく息を吐いて、背筋を伸ばす。
どういう訳か、マリオンは自分に執着しているらしい。放っておけば、これからもずっとまとわりついてくるのだろう。
ならば一度、自分の意見をきちんと述べておいたほうがいい。そう判断したセラフィナは、ゆっくりと語り始めた。
「……わたくしは、民を守り、民の力となりたい。かつてのわたくしは、王妃としてリシャール様を支えることで、その目的を達成しようと思っていましたの」
うなずきかけたマリオンが、ぴたりと動きを止める。セラフィナの表情に、何かを感じ取ったらしい。
「でも、もうその未来はなくなりましたわ。今のわたくしは、もうリシャール様を信頼できない。あの方を支えていくことはできない」
なにやら反論しかけたマリオンに、セラフィナは笑いかけた。女王のような微笑みをたたえたまま、セラフィナは言い切る。
「わたくしの生きる場所は、ここなのです。ここで魔物と戦い、民を守る。それがわたくしが選んだ道なのです」
「そんなあ……」
「ごめんなさいね。……そろそろ、わたくしは行きますわ。仲間たちと鍛錬の約束をしていますから」
たまたま約束をしていて良かったと、そんなことを考えながらセラフィナがそそくさと退室する。
マリオンはひとり、面談室の机に突っ伏していた。通りがかる者たちが心配そうな目を向けているが、彼女はそれを気にしている様子もなかった。
「セラフィナ様……あたしには、あなたしかいないのに……どうして、あたしのことを見てくれないんですか……」
彼女の黄緑色の目がらんらんと輝いているのを見た者は、誰もいなかった。




