3.悪夢は形を変えて
「リシャール、様……?」
「な、セラフィナ! その、これは」
人気のない廊下で口づけを交わしていたリシャールとマリオンは、セラフィナの声を聞くやいなや、ぱっと離れた。リシャールはあわてふためき、マリオンは横を向いてうつむいている。
「わたくしの見間違いでなければ……リシャール様は、彼女と、そういう仲になってしまわれたのでしょうか……」
呆然とつぶやくセラフィナに、リシャールは気まずそうにうなずいた。
「その、だな。マリオンは、私の側室になりたいと言い出したのだ。いずれはセラフィナ、君が私の正妻に、そして王妃になる。その事実は変わらない。だがそれでもマリオンは、私のそばにいたいと、そううったえてきたのだ」
リシャールは、いつになく多弁だ。実のところ、彼は堂々としていても良かったのだ。血を絶やさぬために、王族や貴族たちが側室を持つことは珍しくもなかった。その側室が身分の低い家の出であることも、まれにあることだった。
だがそれでも、リシャールは後ろめたさを感じているようだった。その後ろめたさをごまかすように、彼はすらすらと早口で喋り続ける。
「君さえ認めてくれるのなら、マリオンを側室として迎え入れてやりたい。君たちは最近ずいぶんと親しくしているようだったし、悪い話ではないと思うのだが」
このところ、マリオンはいつもセラフィナにくっついて回り、近くをうろちょろしていた。だが二人の関係は、決して親しいなどと言えるものではなかった。それははた目にも明らかだったろうに、リシャールはそのことに気づいていないようだった。
リシャール様は、わたくしの何を見ておられたのかしら。セラフィナは悲しくなって、ぐっと唇をかんだ。
「どうか、頼む。私にできるのは、ただこうして頭を下げることだけだ」
そう言いながら、リシャールはひざまずいた。セラフィナの目の前の床にひざをつき、つややかな金の髪をさらりと垂らして。彼の後ろでは、マリオンがセラフィナをじっと見つめていた。マリオンは、やけに真剣な目をしていた。
セラフィナはぼんやりと、リシャールの金の髪を眺めていた。彼女の心の中に、どうしようもなく空しい思いが満ちていく。
彼女はこの学園に入ってから、日々努力し続けてきた。公爵令嬢として恥ずかしくないように。
そしてリシャールと婚約してからは、未来の王妃としてふさわしい自分になりたいと、さらに懸命に頑張り続けてきたのだ。ほかならぬ、リシャールを支えていくために。
それなのに、リシャールはいつの間にやらよその女性と仲を深めてしまっていた。それも仕方ないことなのかもしれないという思いと、裏切られたという思いがセラフィナの中で激しくせめぎあう。
「……どうぞ、顔を上げていただけますか、リシャール様」
セラフィナの優しい声音に、リシャールは弾かれたように顔を上げる。
「ひとつ、聞かせてはいただけませんか? リシャール様は、彼女のことをどう思っておられるのか、そのことについて」
その問いに、リシャールは顔を赤くする。後ろのマリオンが、さっとうつむいた。
「その……私は、マリオンを愛してしまった。しかし彼女の身分からすると、側室にする以外、共にいる道がないのだ。私には、君という婚約者もいることだし……」
セラフィナは笑う。この上なく優しく、まるで慈母のように。
けれどその青紫の目には、失望の影がありありと浮かんでいた。リシャールの心が、もう自分の上にないと知って。
このまま愛のない王妃となるのは、あまりにもみじめだ。人々は自分をあがめ敬うけれど、自分はずっとひとりぼっち。誰にも愛されず、誰も愛せない、飾り物としての一生。
そんなことのために、自分は今まで頑張ってきたのか。悔しさに唇をかんだ彼女の脳裏を、とんでもない考えが走り抜けた。
深く考えるより先に、彼女は手にしていた成績表を広げ、リシャールとマリオンに示す。
「わたくしとリシャール様は、もうじきこの学園を卒業いたします。そしてわたくしが、今年の首席卒業生となりました」
セラフィナが手にしている成績表には、彼女が首席である旨が記されていた。リシャールが驚きに目を見張る。
「リシャール様も、もちろんご存知ですわね? 首席卒業生には、ひとつ特権が与えられます。卒業後の進路について、可能な限り本人の望みがかなえられるというものです」
リシャールとマリオンは、セラフィナの言葉を黙って聞いていた。そんな二人を見ながら、セラフィナは心の中でつぶやく。
わたくしは、リシャール様と共に喜びたかった。あなたのためにわたくしは努力したのだと、胸を張ってそう言いたかった。そうしてあなたに褒めて欲しかった。ただ、それだけだったのに。
けれどセラフィナは理解していた。そんなささやかな望みは、もうかなうことがないのだと。
さっきからリシャールの目は、隣のマリオンをちらちらと見ている。彼女を気遣うように。セラフィナが泣きたい気持ちになっていることになど、まるで気づいていないようだった。
そんなリシャールの態度を見て、セラフィナは決意したのだった。もう、彼の近くにはいたくない。自分は捨てられたも同然なのだから、このままどこか遠くへ行ってしまおう、と。
そうして彼女は、思いついたことを口にした。
「わたくし、北の辺境に参ります。今なお続く、魔物との戦いに身を投じたいと思います」
この国の北方、深い雪に閉ざされた山脈からは、魔物と呼ばれる異形の生き物たちがやってくる。魔物は凶暴で、手当たり次第に人を襲う。そのため山脈の近くの辺境に、辺境軍と呼ばれる軍隊が配置されているのだ。
辺境軍は志願制で、一定の能力があれば誰でも入隊できる。そして辺境軍は、王以外の誰の命令も受け付けない、半ば国から独立した組織となっているのだ。いったんそこに入ってしまえば、公爵令嬢であるセラフィナといえど、そう簡単に連れ戻されることはない。
セラフィナは、その辺境軍に入るという。その言葉に、リシャールは真っ青になった。
「考え直してくれ、セラフィナ!」
マリオンが顔を上げて、セラフィナのところに駆け寄ってきた。そのまましっかりと腕にすがりつく。
「セラフィナ様、そんなの駄目です、絶対に駄目ですってば!」
必死に叫ぶ二人に、セラフィナはとても晴れやかな笑顔を向ける。
「いえ、もう決めました。ですから、リシャール様との婚約も破棄させていただきますわ。最前線で魔物と戦っていては、王妃としての公務など何一つ務まりませんもの」
「だが……しかし……君は首席とはいえ、剣術はそこそこでしかなかっただろう? 今まで一度も、君は私に勝てなかった」
なおも食い下がるリシャールに、セラフィナはにっこりと笑う。
「それは単に、ずっと手加減していただけですわ。ですがこれからは、魔物相手に遠慮せずに剣を振るっていこうと思っております。民を守るために」
彼女の目が、リシャールとマリオンを交互に見る。自分を裏切った二人に、セラフィナはいっそ気味が悪いくらいに優しく声をかけた。
「それにわたくしがいなくなれば、マリオンと正式に婚約することも可能になるかもしれませんわよ? この学園で生まれた恋は、可能な限り尊重するように。この学園を作られた時の王は、そう命じられましたから」
その言葉に、リシャールの顔が動く。本人は精一杯関心のないふりをしようとしているが、それでも目が輝くことまではごまかしきれていなかった。
セラフィナは青紫の目を悲しげに細める。それから、くるりときびすを返した。
「それでは、ごきげんよう。どうぞ、お元気で」
立ち去る彼女の目元に、涙の粒がきらりと光る。それに気づいた者は、誰もいなかった。