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29.そうして一歩、近づいて

 そうして、雪原での戦いがあった次の日。セラフィナは、いつぞやの鐘楼にアルフを呼び出していた。


 いそいそとやってきたアルフが見たのは、今までで一番緊張しているセラフィナの姿だった。


「その、大丈夫? なんだか、今にも倒れそうに見えるのは気のせいかな……」


「き、緊張しているだけですわ。……アルフ、この間の返事を、しようと思いましたの。聞いて、くださいますわね?」


「もちろん。それがどんな答えであっても、君の思いが聞けるのなら悔いはないよ」


 緊張のあまりぎくしゃくしているセラフィナに、アルフは穏やかに笑いかける。たったそれだけのことで、セラフィナの緊張がやわらぐ。その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「……分かりましたわ。それでは、話します」


 ゆっくりと深呼吸して、セラフィナは目を伏せた。それから静かに、口を開く。


「わたくし、恋がどういうものなのか、まったく分かりません」


 彼女の声はとても落ち着いていた。アルフは静かに微笑んだまま、じっと耳を傾けている。


「どうしてあなたがわたくしに惹かれたのかも、やっぱり分かりません。でも、わたくしは……」


 言葉を切って、セラフィナが顔を上げる。アルフの金の目をまっすぐに見つめ、彼女は続ける。


「わたくしは……あなたのことを、特別な存在だと思っています。それだけは、確かですわ」


「そっか」


 アルフはくすぐったそうに小さく笑った。


「だったらさ、もう少しだけ、近づいてもいいかな? 駄目だと思ったら、そこで止めてくれればいいからさ」


 セラフィナはすぐに、こくりとうなずいた。ひときわ優しく微笑みながら、アルフが一歩ずつ彼女に近づいていく。互いの息がかかりそうなくらいに近づいても、セラフィナは何も言わなかった。


「……君に、触れてもいい?」


 普段は割と気軽にセラフィナに触れているアルフが、やけに真剣に尋ねる。セラフィナはやはり無言で、小さくうなずいた。


 アルフは手を伸ばし、セラフィナの明るい栗色の髪に触れる。セラフィナは緊張しているのか、ほんの少し身をこわばらせた。


 けれど彼女は、逃げようとはしなかった。唇をきゅっと引き結んで、恥ずかしそうに視線を落としている。


 駄目だ、すっごく可愛い。そんなつぶやきがアルフの口からもれた。その言葉はセラフィナには聞こえなかったようで、彼女は相変わらずじっと突っ立っていた。


 セラフィナの髪に触れたまま、アルフは葛藤していた。もっと彼女に近づきたい、でもこれ以上恥ずかしがらせるのも申し訳ない。そんな二つの思いの間で。


 じきに彼は、決意したように半歩前に出る。そうして、セラフィナをそっと抱きしめた。


「ずっと、こうしたかったんだ」


 セラフィナは無言のまま、アルフの肩にそっと頭をもたせかけた。アルフの口元に、大きな笑みが浮かぶ。


 誰にも見つからない鐘楼で、二人はそうやって、じっと寄り添っていた。




「なあ、君に……聞いて欲しいことがあるんだ」


 鐘楼の低い壁にもたれて、二人は並んで座っていた。肩を触れ合わせ、互いに支え合うようにして。二人の視線の先には、抜けるように青い、澄み渡った空が広がっていた。


「俺がこの辺境に来る、前の話なんだけどさ。バティストのおっさんにも、詳しくは話してない」


「そんなこと、聞いてしまっていいんですの? 過去は不問、それがこの辺境軍の決まりでしょう?」


「君には、聞いて欲しいんだ。ほら、君の過去についてはもうだいたい知っちゃってるしね。それなのに俺のほうだけ内緒って、不公平かなって思うんだ。それに、君になら話せる」


 いつもの軽さをにじませた口調で、アルフが言う。しかしその声はすぐに、真剣な響きを帯びた。


「俺さ……俺も、君とおんなじ貴族だったんだ。もっとも俺は男爵家の三男坊だったから、王子様と婚約してた君とは大違いだけど」


 その言葉に、セラフィナは目を丸くする。かつて彼がリシャールと法律の知識を競った時、彼は驚くほど博学なところを見せたのだ。彼が貴族だというのなら、一応納得できる。


「子供の頃から剣は得意だったし、頭もまあ悪くなかった。そんなこともあって、伯爵家の養子になる話が持ち上がってたんだ」


 男爵は貴族の階級の中では最も下だ。だから男爵家から伯爵家に養子に行けるというのは、破格にいい話だ。


 それにしては、アルフの声は暗い。セラフィナは疑問に思いつつ、じっと話に耳を傾ける。


「でも、上の兄さんにその話をつぶされた。それだけなら、残念だったなあで済んだんだけどさ」


 アルフの声が、さらに暗くなった。まるで泣き出しそうなその声音に、セラフィナはアルフを見つめる。


「……上の兄さんに言われた。『ずっと、私はお前のことが気に食わなかった』って。俺のほうが上の立場になるのが、許せなかったんだって」


 思いもかけない告白に、セラフィナは唇をぎゅっとかむ。アルフのことを、そんな風に憎んでいる人間がいる。そのことが、信じられなくて。


「俺さ、悲しくて……上の兄さんは俺を嫌っていたけど、俺は兄さんのこと、嫌いじゃなかった。それなのに、そんな風に思われてしまったから」


「大丈夫ですか、アルフ? その、つらいのなら無理をしなくても」


「気遣ってくれてありがとう。大丈夫、どうか最後まで話させてよ。……それで俺は、やけになった。もう家にいたくない、どこか遠くに行ってしまいたいと、そう思ったんだ」


 うつむいたアルフの顔に、やや癖のある黒髪がふわりと垂れ下がる。その隙間から見えている金の目は、とても悲しげだった。


「ちょうど学園に在籍していたのをいいことに、俺は首席の特権を使って辺境軍に来たんだ。それも、いきなり紅蓮の隊に配属してくれと主張した。腕には自信があったし」


「まあ……わたくしも、首席の特権で辺境軍に来たんですの。マリオンといちゃついていたリシャール様の顔を見たくなくて、ここまで逃げてきたんです」


「そっか。俺たち、一緒だね」


「ええ。……そう考えると、あの学園がつないでくれた縁、でもあるのかしら。あの特権がなければ、わたくしがここに来ることはできませんでしたから」


「来てくれてありがとう。俺と出会ってくれてありがとう。ああ、最高の気分だな」


 そうして二人は、楽しげにくすくすと笑い合う。さっきまでの暗い空気は、やわらぎつつあった。


 やがて、アルフが何かに気づいたように金色の目を見張る。


「ああそうだ、俺の本当の名前も話しておこうか。君には、知っていて欲しいから」


「本当の、名前?」


「そう。俺の本名は、アルフォンス。といっても、父さんも母さんも、あと下の兄さんも、みんなアルフって愛称で呼んでたよ。俺のことをアルフォンスって呼ぶのは、上の兄さんだけだった。今にして思えば、上の兄さんは俺との間に距離を置こうとしてたんだろうね、ずっと昔から」


「でしたら、わたくしも今まで通りにアルフと呼んだほうが良いのでしょうね」


「うん、そうしてもらえると助かる。アルフォンスって呼ばれると、どうしても悲しくなっちゃうからさ」


 つられて切なげな顔をしたセラフィナに、アルフは軽やかに片目をつぶってみせた。


「だから、この名前は内緒。辺境軍の入隊書類にだって、書いてないんだ。そっちにも『アルフ』って署名したから。この辺境軍でこの名前を知っているのは、君だけだよ」


「分かりましたわ。……わたくしたちだけの、秘密ですわね」


「そういうこと。隠し事って、どきどきするよね」


 セラフィナの青紫の目と、アルフの金色の目がまっすぐに向かい合う。二人はあらかじめ示し合わせたかのような自然な動きで右手を上げ、小指をからめた。


「約束しますわ。あなたの真の名を、みだりに人には知らせないと」


「ありがとう。……ううん、でも君だけに約束させるのも、ちょっとなあ……あ、そうだ」


 何かを思いついたのか、アルフが晴れやかに笑う。


「じゃあ、俺も約束。俺は何があっても、君を守り、支えていくと誓うよ。君が望むなら、一生、ずっと」


 まるで結婚式の誓いのようだとセラフィナは思ったが、それを口には出さなかった。その代わりに、彼女は胸に満ちる幸福感にうっとりと身を任せていた。


 やっぱり、恋がどういうものなのか分からない。けれどきっと、自分がアルフに対して抱いている思いは、恋なのだろうと。


 そんな言葉を胸に秘めながら、セラフィナはこの上なく幸せそうに笑っていた。

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