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1.ただの夢か、それとも

 セラフィナは、夢を見ていた。まるで現実のような、夢だった。


 夢の中で、彼女は大広間にいた。彼女と向かい合うようにして立っているのは、気品にあふれた青年と、弱々しい雰囲気の少女だ。他には誰もおらず、辺りには痛いような静寂が満ちていた。


 青年の名はリシャール、この国の王子にして、次の王となるものだった。そして彼は、公爵令嬢であるセラフィナの婚約者でもある。


 リシャールはひどく厳しい顔をしていた。普段の彼とはまるで違う鋭い声で、彼は宣言する。


「セラフィナ、君との婚約は破棄させてもらう。父の許可も既に得た」


 大広間に、リシャールの言葉が響き渡る。彼のかたわらに立つ少女が、びくりと身を震わせた。ほんの少し赤みがかった金髪が、彼女の戸惑いを映して揺れている。


「君は私と婚約したことで増長し、周囲の人間を見下し、横暴にふるまうようになった。君の所業は、みなの知るところになっている。君は気づいていないだろうが、すっかり噂になってしまっているのだ」


 その言葉に、セラフィナは青紫の目を大きく見張った。明らかに、身に覚えがないといった顔だった。


 そんな彼女を見て、リシャールは眉間にぐっとしわを寄せる。まだしらを切るのかと、そう言いたげな表情だった。


 彼はそのままセラフィナを見すえていたが、やがて隣でうつむいている少女のほうに目をやった。


「セラフィナ、こちらの女性が誰なのか、言わずとも君には分かっているだろう。君にひとかけらでも良心が残っているのなら、彼女にひざまずいて謝罪するといい」


「どう、して……なぜ、わたくしが、そのような……」


 いつも上品に、優雅にふるまっているセラフィナ。そんな彼女が、ただうろたえることしかできなかった。


 目の前の少女は、彼女にとって全く見ず知らずの存在でしかなかったから。なぜリシャールがこんなことを言っているのか、彼女はこれっぽっちも理解できなかったから。


「君が彼女に執拗な嫌がらせを繰り返していた、そのことについての証拠はあるのだ! セラフィナ、君も公爵家の者であるのなら、これ以上言い訳をするな、見苦しい!」


 違う、わたくしはそんなことをしていない。セラフィナはそう思ったものの、声に出すことはできなかった。


 初めて見たリシャールのただならぬ剣幕に、彼女は何も考えられなくなっていた。今まで、リシャールはセラフィナにとても優しく接していた。こんな風に声を荒げることなど、一度もなかったのだ。


 セラフィナはうつむいて、かすかに唇を震わせていた。そして肩を震わせながら少女の前にひざをつき、深々と頭を下げた。


 明るい栗色の髪がさらりとこぼれ落ち、つややかな石の床に触れる。そこに映っていたセラフィナの顔は、泣きそうにゆがんでいた。


 どうして、こんなことになっているのだろう。わたくしはこの少女のことは知らないし、謝罪しなければならないようなことをしたこともない。それなのにどうして、リシャール様はあんなに恐ろしい顔をしているのだろう。なぜ、どうして。


 彼女がこぼした涙は、誰にも気づかれることはなかった。それは彼女にとって、唯一の救いだった。






 涙が一粒、目じりから流れ落ちる。その感触に、セラフィナは目覚めた。はっと目を見開いて、身を起こす。


 彼女の目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の光景だけだった。もちろんリシャールも、あの少女もいない。この場に自分しかいないことを確かめるように、セラフィナは何度も辺りを見渡す。


 やがて、セラフィナはおそるおそる肩の力を抜く。まるで、さっきの夢が現実になりはしないかと、そう恐れているかのような表情だった。


「ああ、夢で良かった……」


 まだ朝早く、窓の外の空はようやく白んできたところだった。遠くから、可愛らしい小鳥の声が聞こえてくる。


 深々と息を吐きながら、彼女は身震いする。涼しい朝だったにもかかわらず、彼女は全身にびっしょりと冷や汗をかいていたのだ。


「……でも、なんて生々しい、恐ろしい夢だったのでしょう……」


 彼女はそろそろと腕を伸ばし、自分自身を抱きしめる。外が少しずつ明るくなってきても、彼女は目を閉じたまま、微動だにしなかった。




 セラフィナが今暮らしているのは、貴族の子弟たちを集めた学園だった。


 昔々、時の王は言った。王族や貴族は、平民たちを導き、この国を背負っていく存在だ。だから彼らは高い教養を身に着け、自らを厳しく律していく必要があるのだと。それが人の上に立つ者としての、当然の義務なのだと。


 そうして時の王は、この学園を作った。王城に匹敵するほど大きな古城を丸ごと一つ改修して、王族や貴族の子弟が学び、暮らす場所を整えた。


 このような大きな学び舎は、この国ではここにしかない。だからここは、ただ『学園』と呼ばれていた。


 全ての王族及び貴族は、二十歳までにこの学園に入学することになっている。そうして三年間をここで過ごし、勉学に励むのだ。年に二度の里帰りが許されてはいるが、それ以外はずっと古城の敷地内で暮らす。


 聡明な者であれば、十二やそこらで入学することもある。家の事情などで入学が遅れ、二十歳ぎりぎりでやってくる者もいる。


 セラフィナは十五で入学した。このくらいの年で入学する者が一番多いということもあって、彼女はここで楽しく過ごしていた。


 友人もたくさんでき、同い年のリシャール王子との婚約も決まった。勉学のほうも順調で、言うことなしに素晴らしい三年間だった。


「はあ……気が重くてたまりませんわ……」


 しかし彼女は今、たいそう落ち込んでいた。もちろん、今朝がたの夢のせいだ。


 いっそ今日は講義を休んで、このまま自室にこもっていようか。そんな考えが彼女の脳裏をちらりとよぎったが、やがて彼女はのろのろと寝台を降りた。


 とびきりの悪夢を見た、たったそれだけの理由で講義をさぼるなど、真面目な優等生である彼女にはとてもできなかったのだ。それに、もう彼女は卒業が近かった。残り少ない学生生活を、しっかりと味わいたかったのだ。


 のろのろと制服に着替え、身支度を整える。この学園にいる間は、自分の身の回りのことはできる限り自分ですることになっている。


 食事と洗濯については学園のほうで面倒を見てくれるが、着替えや部屋の掃除などは、全部自分で行うのだ。


 だから公爵家の令嬢であるセラフィナも、侍女を連れずに一人で生活していた。最初の頃こそ戸惑っていたが、丸三年近くもこうやって過ごしているということもあって、もうすっかり手慣れたものだった。


 支度を終えて自室を出たセラフィナに、学友たちが話しかけてくる。この学園においては、爵位や家の格を気にせずに、積極的に交流することが勧められている。


 とはいえ、どうしても似たような格の家の子息同士で固まってしまいがちではあった。今セラフィナに声をかけてきたのも、侯爵家の令嬢たちだった。貴族の階級の中でも上のほうに位置する、そんな家の娘たちだ。


 セラフィナは公爵家の令嬢だ。それはすなわち、今この学園で彼女より上に位置するのは、王族であるリシャールだけだということを意味する。


 そんなこともあって、より下の家の者たちは、彼女にあまり近づいてこようとはしなかった。嫌っているのではなく、どう接していいのか分からないといった様子だった。だからセラフィナも、遠巻きにされていることを気にしたことはなかった。


 悪夢を見たことなどおくびにも出さずに、セラフィナは優雅に微笑んで学友たちと言葉を交わす。と、廊下の向こうから誰かが歩いてきた。まっすぐに、セラフィナを目指している。


 甘い美貌、つややかな金髪、深みのある金茶の目。それはまぎれもなく、王子たるリシャールだった。熱い視線を送っている周囲の女生徒たちには目もくれず、彼は優しくセラフィナに声をかける。


「おはよう、セラフィナ。浮かない顔だが、どうかしたのか?」


「おはようございます、リシャール様。少し眠りが浅かったようですの。心配してくださって、嬉しいですわ」


「君のことを心配するのは当然だろう。君は私の大切な婚約者で、未来の王妃なのだから」


 リシャールがさわやかに言い放った言葉に、セラフィナは内心大いに安堵していた。やはり今朝の夢は、ただの夢に過ぎなかった。そう思って。


「だが、君の顔色が悪いのは事実だ。荷物を貸してくれ、講義室まで私が持とう」


 そう言ってリシャールは、セラフィナが抱えていた本の束を受け取る。二人が並んで廊下を歩く様を、他の生徒たちは道を空けて見送っていた。


 セラフィナはもうすっかり安心しきっていた。いつも通りの朝、いつも通りのリシャール。たかが夢ごときに邪魔されるにはもったいない、素敵な朝だ。


 しかしその時、リシャールがふと足を止めた。彼は廊下の先にいる少女を見て、にこやかに声をかける。


「ああ、マリオン。今日も元気そうだな」


 その少女を目にした時、セラフィナは思わず叫びそうになった。そこに立っていたのは、夢に出てきたあの少女だった。

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