終章
さて、翌年である。次に迎えた晋公拠は成公の息子であり、三十路に入った程度であったと思われる。父親と同じく周で育ったが、こちらは闊達であり、郤缺から見ると少々腰が軽く見えた。昔、欒枝が襄公をそう評していたことを郤缺は知らぬ。が、似たような印象であったと断言しよう。
「我が君はこのたび晋を背負って立つこととなりました。今こそ戒めを強く願います。上に立つものこそ戒めねばなりませぬ。賢人は寵を得たときにさらに戒めます。不徳のものは寵を得たときに傲るものです。政と徳、既に成ったとしても、史官に易をさせ道しるべを忘れず、側近には諫める言葉を許して惑いを封じ、市にて民の善き声悪き声を聞き、全てを考察し、己の悪い部分を省み治す。これが戒めです。君主こそがこの戒めを大切にし、その徳と威光を示すよう、伏して願います。また、国の道には九条の大法がございます。周書にいう、五行、五事、八政、五紀、皇極、三徳、稽疑、庶徴、五福のことでございます。さて、その五行でございますが――」
五行はご存じ水火木金土のことであり、言わば世界の成り立ちそのものである。五事は人としての在り方、八政は国の司る政務、五紀は暦、皇極は中道いわば国法、三徳は君主としての姿勢、稽疑は卜占の重要性、庶徴は国君と天候の関係を表し、五福は人として幸いとされるものとなっている。当時、卜占は判断材料として極めて重要な情報であることは以前記した。天候に関してであるが、国君の行いが天候に関わる、という考えはアジアに限らず古代に通ずる価値観である。郤缺はこの全てを丁寧に説明し、それぞれ訓戒を付け加えながら述べていく。つまり、郤缺の訓示は長かった。荀林父や士会、息子の郤克はもう慣れており、趙朔のようなお育ちの良い人間はおとなしく聞いていたが、先縠あたりになると途中から笑みが引きつっていた。最後まで姿勢変えずに訓示を受け止め続けた拠は、それだけでも褒められて良いであろう。ところで、拠と郤缺の相性がどうであったか。そこはわからない。が、情の薄さは感じられず、この老人と青年はそれなりに上手くやっていたのではないだろうか。
さて、この時期も、鄭をとりあう晋楚の報復は続いている。夏に楚の強さに砕けた鄭が、晋から離れた。むろん、晋としては放置せず、即座に諸侯を率いて鄭を屈服させ、戻している。が、楚王旅も静観する気はなかった。冬に鄭を攻撃したのである。
「私は去年、楚に攻められた鄭を追い払った。が、楚を打ち負かしたとは言えぬ」
郤缺は議にあげた。前年冬に、楚が鄭を攻めてきたのを、追い払っている。年はもう六十をとうに越えているわけであるから、頑健といえよう。が、郤缺としては衰えを感じていた。楚としっかり構える前に逃したのだ。結局、楚はたいした痛手なく、今年も北上している。
「士季に出てもらう。楚子は足元を固め、毎年のように鄭、陳を脅かす。ここでひとつ、思いきり伐ってお引き取り願いたい」
郤缺の言葉に、士会は、上軍の佐であれど承った、と即答した。楚王は年々力をつけており、なおかつ堅実である。南方の傘下国家が反旗を翻しても即座に抑え、しかも国力に揺らぎもない。楚の興隆は晋の不利である。士会が司令官であるため、上席の先縠は置いていった。代わりに下軍の将である郤克を望んだ。士会としては、士氏と共に動けるのはもはや郤氏しかおらぬ、というわけであった。
この時、士会は鮮やかに勝っている。楚軍を攻めたて、鄭都より引き離し、鄭の国境付近である潁水まで追い散らし叩き込んだ。楚を率いる旅は凡才ではなく、春秋時代有数の名将であり名君である。その軍も精鋭と言って良い。それを赤子の手をひねるように追い払い、まともな退却もさせなかった士会はやはり天才である。旅の生涯を見ても、ここまでの敗退はこの一戦のみである。この士会の活躍に関しては、郤缺を食ってしまうため、ここで筆を止めたい。ただ、鄭もそして陳も翌年に楚に降った。いかに、晋と楚の圧迫が強かったかわかる話でもある。鄭にいたっては、
――晋楚双方徳なく信義なし、ならば我らも義理立てせぬ、攻めてきたほうに従えばよい
と吐き捨てて楚に従っている。恫喝する晋と暴力を振るう楚に毎年攻められた鄭としては、こうとしか言いようが無かったのであろう。郤缺は素早く鄭と裏で繋がる工作をはじめている。
郤缺は前述の通り、一度鄭を救いに行ったが、おおむね内政に力を入れており、さらに言えば白狄との同盟を主に動いていたらしい。このころようやく、赤狄に使役されていた白狄の衆どもが、郤缺の呼びかけに応じはじめたのである。
「白狄子から話も聞いている、和睦したい。従っても良い」
狄としての矜持も捨て、服従しても良い、とまで言わせる赤狄の苦役とはどこまでのものだったのであろうか。反面、郤缺の誠意もあった。郤缺は白狄子と何度か話すうちに、屈辱を受けている白狄の衆をなんとかせねばならぬ、という憐れみを持った。白狄子も郤缺の敬に触れ、信用を深めた。郤缺と白狄子が和議を結び、四年ほどの歳月が流れている。互いに友愛が起こるのも不思議ではない。敵同士とはいえ、一つの戦場で相まみえた男同士の感傷もあったのだろう。
秋に、白狄の衆たちと会うことなった。和睦と服従を兼ねており、会盟にちかいものであったと思われる。この時、晋内で揉めた。どこで会うか、である。白狄子の時は対等の和議であったため、国境で会っている。が、今回は白狄が晋に臣従することとなる。
郤缺は、白狄の地にて会い誓うことを議にあげた。が、まず荀林父が異を唱えた。
「次席から申し上げます。我が傘下に入る、ということを知っていただくためにも、そして覇者としても、お越しいただき誓いを立てるがよろしいかと言上つかまつります。狄は約束ごとに慣れておりません。それをきっちりと分かっていただく必要がございます。そして晋の邑に入っていただくためにも、晋にお越しいただくべきです」
狄に長く関わっていたために厳しい――というわけではない。荀林父は晋人として極めて常識的なことを言っているのである。先縠も追随し、士会も難しい顔をした。
「正卿がやりたいことはわかる。しかし狄は力に寄るものだ。晋は今、絶対的な強者ではない。現状は連れてきたほうが良いとわたしも思う」
士会にしては歯切れが悪かった。彼は郤缺の考えも思いも分かっている。そして好みもそちらである。が、現実としてうまくいくか、という部分で引っかかっているらしい。郤克はもちろん何も言わぬ。郤克が口を開かぬ以上、趙朔も口を出さなかった。場は、郤缺と荀林父の対立のようになっていった。当時の常識として、荀林父は正しい。本来、強者が弱者を呼びつけるのである。実際、晋は同盟国家が挨拶に来ぬと言って制裁している。その上で、荀林父は狄の特性をあげ、反対した。
「狄は我らの徳を知りません。私どもは人の徳を見て心安まり身を委ねるものですが、狄にそれは通じないのです。彼らはまず力を信じます。郤主は確かに敬篤く徳深い方ですが、狄にそれをわかりましょうか。伺うとしてそれが通じましょうか」
郤缺はすっかり板についた、柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。
「徳でなびかぬときは、勤めることが一番と聞きます。勤めないでどうやって人を求めることができましょうか。どうやって彼らを従えることができようか。よく勤めればそれだけの効果があるものです。我らが勤め出て、行くのがよろしい。古詩にもございます。文王既に勤めたり。文王は勤めて業を創むということです。聖人と謳われた文王でさえも労を惜しまず勤められた。まして徳の少ないものはなおさらというもの。荀伯は私を徳人と謳って下さった。そのお心嬉しい限りですが、私はまだ徳の足りぬものです。正卿として勤め、彼らに手を差し伸べたい」
荀林父は黙り込んだ。徳が通じぬことなどわかっている、とされ、それでも行くのだと言われれば、もはや反論しようがない。郤缺の言葉に手を打ったのは晋公拠であった。若い彼は、強者として弱者に手を差し伸べる、という言葉に少々酔った。また、覇者として夷狄を討伐するのではなく恭順させる、それを相手の地で行うということに興奮した。
「缺の言や良し。私自ら会おう」
威勢の良い若者の言葉に郤缺は苦笑した。成公は覇者として、そして文明人として狄に会わぬと線を引いた。が、息子は違う価値観らしい。確かに対等ではなく服従であるため、晋公としての体面も守れるであろう。
こうして、秋に郤缺は拠を伴って白狄の地へ赴いた。和を請い服す、という誓いがなされ、晋は白狄のほとんどと同盟もしくは傘下に置くことになった。しかし、これは終着点ではない。ここから赤狄を削り亡ぼす戦いが始まるのである。この白狄との和睦は秦に対してさらに強く出ることも意味した。実際、郤缺と白狄子は同盟ついでに秦を伐っている。そのころ、互いに六十を過ぎていることを考えれば、元気な老人たちであった。
秋も終わりに近づき、風に冷たさが交じりはじめていた。白狄との和議も落ち着き、郤缺は庭を見ながら一人頬杖をついていた。日もそろそろ落ちようか。月が薄く出ており、薄暮の中で大輪の菊が淡い。菊の香りを喜んだ男がいたような気がする、と思いつつ、郤缺は考えをめぐらせる。赤狄を削ること、楚から鄭を取り戻すことの二つがこれからの指針である。鄭に関しては裏工作をしており、今年中には楚から離れるであろう。その楚であるが、士会が警戒を強めている。
曰く、制度改革を内政、軍事双方に行っている。
情報を集め精査することに関して士会の右に出るものはいない、と幾度も記述した。そして郤缺は初対面からそれを知っている。己で集め精査した情報から、郤缺を信あるものと言い切ったのが士会である。
「文公の時代から幾星霜、楚も変わったものです。いまや欒伯が先鋒を務めようがなかなかに勝てやしないでしょう。秦も変わった。今のような骨の無い秦であれば、我が国も父上も恥をかかずにすんだというもの。口惜しいですが、私も年を取りすぎました、秦への怨みも薄い」
脇息にもたれかかりながら、郤缺は歌うように壁打ちをする。そこから、税はどうの、克はがんばっているだの、斉をどうすべきかだの、考えを整頓するように欒枝とも郤芮とも分からぬものと語る。これは結局、内なる己との対話なのだが、何かしら別人を想定するほうが確かにやりやすいであろう。
そのうち、郤缺は何やらうとうととし、気づけば父である郤芮と会話をしていた。郤芮にぬかずき、郤氏を背負うものとして誇りを持って生きていること、晋の正卿として心がけていることなどを語り、そのたびに頷かれ、時にはそうではない、と叱られる。郤缺は恐縮したり笑ったりとしながら父との対話を楽しんだ。
――汝は良き嗣子だ
そう何度か言われ、郤缺はぬかずき微笑む。
「ちちうえ」
郤缺が呼びかけたと同時に
「父上」
と声をかけられた。郤克が蒼白な顔をして、肩をつかみ、揺さぶっていた。何やら壊れそうな貌であった。震える唇がおずおずと開く。
「どなたと、お話されていたのですか。今日も――」
郤缺は己が虚空に向かって延々語りかけていたことを知った。何度もぬかずき、笑い、時には身振り手振りで話していたらしかった。ひくりと頬を引きつらせた後、思わず口を手で覆った。既に日は完全に落ち、部屋は暗い。郤克の持つ灯りが二人を照らしていた。いったい、どのくらい己は幻の中にいたのであろうか。そして、今まで、何度くり返していたのであろうか。
もはや、夢うつつだったのだ、と言い切れぬものがあった。
郤缺はこの年、引退したと考えられる。執政八年。以降、史書に名は無く、郤缺がいつ死んだのかも記録には残っていない。例えば士会などは引退後にも史書に顔を出している。となれば、すぐに死んだか、もしくは人と会えぬほど老いたのか。恵公から始まり、文公、襄公、霊公、成公、そして拠、諡号景公。晋公六代にわたり郤缺は仕えた。その間の晋はまさに激動であった。後継者争いによる内乱、栄光の覇者、東西の敵をにらみながらの内紛、宰相が君主を弑し、その果ての、ようやくの安寧である。この全てに関わりながら還暦をこえてなお国政の第一線に立ち続けたのであるから、残された人々の喪失はどれほどであったろうか。その死をみな悼んだであろうし、少なくない晋人が哭いたかもしれなかった。
郤缺の諡号は成である。前述したが、国を平らかにし、民を安んじたものに贈られる。動乱の晋に安定をもたらした、この男に相応しい諡と言えよう。余談であるが、趙衰の諡号も成である。かつて、欒枝は郤缺に趙衰を越えろと言ったが、それがかなったかは読者の評にお任せしたい。
この後の晋に関しては述べないが、郤氏の話だけはしておきたい。郤氏は郤克が継ぎ、隆盛を極めたと言ってよい。郤克は、荀林父、士会の後に正卿となり、赤狄を亡ぼした。また、長らく晋と冷戦状態であった斉をくだし、屈服させている。ここまでくれば郤氏の春といえたが、郤克死後、亡んだ。
郤氏は権勢を誇りすぎたのである。陽性であるが武を頼みにする彼らは傲ったとも言えよう。この点、郤缺が郤氏において異端であった。郤缺のような極めて強い自制や自律が無ければ、この血筋は他を圧迫せずにはいられないらしい。力を持ちすぎた彼らを疎んだ正卿が、晋公をそそのかして族滅させた。この正卿が欒書であるのは、この小説において皮肉というべきであろうか。
郤氏の復興と祀りのために粉骨砕身してきた郤缺であるが、死後二十数年でその願いは消えた。しかし、郤缺が生きていた証は今もある。それは史書という不確実なものではなく、確かな物として存在している。
郤子壷と名付けられた、紀元前六世紀ごろの青銅器が現在に残っている。長い頸部になだらかな肩、大きな腹部を持つ壺で、器の左右には獣を表した飾りがつき、表面には龍の文様がされている。龍はこの時代から強い神性を持っており、獣の飾りも守護として様々な青銅器で見受けられている。このような青銅器は祭事、特に父祖を祀るものとして作られることが多い。そして、文字が刻まれる。この壺も頸部に以下、二行六文字が記されている。
郤子氏
之□壷
□の部分は欠損しており、読めない。ただ、文脈を見るに郤子という人物を祀り郤氏の繁栄を祝っているものであろう。この場合の『子』は尊称である。作らせたのが誰であるのか、この青銅器からはわからない。が、郤子壷は公室直下の工房で作らせたものと特徴が一致しており、郤氏がこの工房に依頼して作らせた可能性が極めて高い。公室の工房に依頼するほどの権勢を持った郤氏と言えば郤克である。これは、正卿である郤克が郤缺を祀るために晋公に願い出て作らせたのではないだろうか。
もちろん、以上は想像にすぎない。
この、郤缺の息づかいを偲べる壺は東京都にある書道博物館で静かに眠っている。
郤缺お疲れ様でした。そしてお読み頂いた方々、ありがとうございました。
わたしは郤子壷を生で見たことはないですが、こういったものが残っていると本当に実在したのだなあ、としみじみ思います。
以下、あとがき(長い)
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この度は拙作『父の仇を許された』をお読み頂き、郤缺という善人ではあるけれどもどこか屈折している男とおつきあいいただき、ありがとうございます。完結して小説、完結していないものは小□というものだ、と言っていたのは田中芳樹でした。完結してようやく小説と胸がはれます。
少し感慨深いため、思い出話を失礼致します。
十年以上前のことです。その日、いきなり脳内に出てきた漫画をとにかくアウトプットせねばならない、そうでないと死ぬ、というほどの衝動にかられまして、一気に殴り書きました。ストーリーで言うと、終盤だけです。一応おおまかなイメージはありましたが、一から構築してられない、とにかくこのシーンを書きたい、とノートに四十ページ前後の漫画を書きました。いつか、きちんと構成をつくりなおし、冒頭から書きたいなあ、と思いながらうっちゃってました。その時はそれで満足していたからです。
今回の、小説の基盤はその漫画です。と言っても、ノートもネームも失われておりますが、郤缺が泣いてみんながぽかーんとしたコマ割は未だ脳内に残っております。
久しぶりに春秋左氏伝を読み返しているうち、昔の衝動を思い出し、ああ、あれを終わらせたいなあ、と考えた瞬間に小説を書き始めておりました。一年ほど文章を何も書いていなかったため、序盤はとても酷い。助言を請うて今の一話~四話くらいになっております。このときは一人遊びのようにプライベッターに投下しておりましたが、小説投稿サイトの存在を教えてもらい、今にいたります。
以上思い出話。
『父の仇に許された』は古代中国春秋時代、現代の山西省にあった公国、晋の紀元前六三〇年から紀元前五九八年を想定し書いた小説です。十年前に考えていた漫画ネーム時点の主人公は士会でした。が、改めて書こうとしたときに、人物関係のハブである郤缺を主人公に変えました、それはもう軽率に。郤缺は能力や経歴、性格など、主人公というより脇役のほうがすわりのよいタイプです。いわゆるサポートキャラというものですね。この男をセンターに持っていくべく四苦八苦し続けました。
郤缺という人は逆臣の子であるが徳人である、と許され登用されます。これは作中どおりです。白狄子との戦いで武勲をあげ、軍を持たない大臣になります。これも作中どおりですね。ここから、趙盾に罵倒説教をしたあげく上軍の将となっている、までの記述がありません。気づけば、大勢力になっており、何故か士会の人となりも知っている。三席なのに次席を追い越して正卿になっている。春秋時代はこのような空白はありますが、それにしても不思議な人だと思っていました。その空白を埋めることができないか、と資料をひっくり返しましたが、未だに答えは出ておりません。この小説は『答え』ではなく、もちろん推察推測考察などではなく、私が考えた『創作』で空白を埋めてみました。
最初の空白埋めがBLです。しかも、BLとして全くご褒美でもないBLですが。
年表や史書を参考にして十割嘘八百を見てきたように並べている娯楽作品です。歴史史書や文献を元にしておりますので、その部分は『歴史』でありますが、大量に見てきたような嘘をぶっこんでいます。その、見てきたような嘘も含めて、創作作品として楽しんで頂けてたなら、嬉しく思います。
少々、いやかなり。作品内、つまりはストーリーや人物についてつらつら綴ります。
お察しかと思われますが。
欒枝と郤缺は史書のどこをひっくり返しても接点はございません。推測でもできようがありません。同じ時間軸に同じ国にいた、という程度です。あえて言えば、同僚になったという程度です。この二人を組ませたのは、おもしろそうだから、という理由しかありませんでした。この二人の共通点は、父親を晋公に殺されている、という点です。この共通点で何かふくらませられないかなあ、あとホモエロ書きてぇ~というものが、前述の漫画ネームとは別にぼんやりございまして、悪魔合体させました。
この話の序盤から前半にかけて、話を転がし続けたのは欒枝です。本当に感謝にたえない。この人の痕跡は左伝や国語に少々ございます。冷静貞節という欒枝評は趙衰の言葉です。元々、欒氏は晋本家の貴族です。祖父の欒賓が分家へ出向させられ、父の欒成は分家の君主武公(祖父が教導した)に殺され、本家は亡び分家に身を寄せました。武公は欒成の才、忠心を惜しみ投降を訴えましたが『二君に仕えず』と壮絶な戦死を遂げています。欒枝は『貞節』をうたわれており、この祖父、父の影響は強かったのでしょう。そのイメージを下敷きに、お育ちの良いお金持ちぼんぼんの気質や、物事を少し乾いて見る姿勢と晋への忠心、晋公への湿気た屈折等を練り練りし、あとは郤缺に放り投げた次第。ストーリーのナビゲーターであり、郤缺を導く人です。この人の死を書ききることが前半の目標でした。脳卒中で死んでいただくことは決めてましたので、それをどう見せるか、模索した覚えがあります。
歴史物を書くにあたって、人物の死をどうえがくか、というのが課題としてあるのではないでしょうか。必ず死んでいます。死因がわかるものもあれば、全くわからない人もおり、それどころかいつ死んだかもわからない人もいます。それをどう演出するか、課題であり醍醐味だと私は思っております。
覇者時代を語るに絶対はずせないのが重耳です。ほとんどの本は、この重耳を中心に覇者である晋をえがいております。狐偃の名が記載されていても欒枝の名が記載されていないことは多いです。郤缺と欒枝は重耳神話の外にいる人たちです。そういった、外から重耳を書きたいというものもありました。これに関してはきちんと書けたと言い切れません。読み手の方に狐偃の良い印象を与えることができなかったな、という後悔もあります。それ以外も第一部は重耳周辺に対して少々厳しい演出、嫌悪が生じるような演出をしてしまったと反省しております。私自身が重耳神話に振り回された感が強いです。
第二部以降こそが、本編でした。第一部は長すぎる序章です、もっと短くしろよ。
この時期に外せないのが趙盾と士会の存在です、主役級です。郤缺の政治人生の半分くらいは趙盾と共におります。趙盾にあんなに長々と罵倒したのは郤缺だけです。士会に関してですが、士会の人となりを詳細に説明して秦から誘拐しようぜ! と言ったのが郤缺です。しかし、それだけといえばそれだけ。私は元々史書を元に三人を想像はしていたのですが、そのままだと話にならない。がために、知人、友人というところから関係を膨らませました。
士会と郤缺は年の離れた友人以上がなく、実は意外と一緒に行動しておりません。互いに何かあったときに、意見を確かめ合うけれども、政治的に党を組むわけではない。郤缺としては理想の友人関係であり、自分の見つけた宝石という気持ちもあります。士会としては友情と、己より上の存在がいつもいるという安心感があるんだなあ~と書きながら思いました。
趙盾と郤缺ですが、最初に想定していた以上に関係が深くなりました。唖然としました。趙盾は霊公時代の表看板のような存在ですので、これにしっかり絡ませねばならぬ、というところから、ポイントポイントでエピソードを考えてました。が、いざ脳内から出力すると、命がけの誓いをした共犯者になり、私自身がびっくりしました。そこからもう、二人に関してはやりたいようにどうぞ、とするしかなく、自動書記していたような気持ちにもなっております。政治的な関係でしかないのですが、情がどちらも移っている、不思議な関係でした。
この個性の塊のような三人と一緒にいて上手くいっていたのが荀林父でした。荀林父は史書を読んでて温和な人だったのではないか、と思い、あのように人物を考えました。常識的、温和、一生懸命、癒やし系萌えキャラ。そういったところで、友だちになりたい、と思わせる人を目指したので、そのように思って頂ければ幸い。いや、ペットでもいいです。
郤缺、趙盾、士会の三人でストーリーも国も回せないことはないです。しかし、そうなるとギスギスし続け、息が詰まっただろうな、と思います。荀林父がいて本当に良かったです。この四人のバランスがあってこそ、話は回転していったところがあります、
さて。登場人物の中には史書に一行しかいない、という人も多くおりました。その中で大いなる嘘で作られた人物もいます。はっきり開示しますが、士縠です。士縠は系図資料を参考するに、士会の叔父にあたります。活躍時期を考えれば士会の父よりも士会に近い年ではあったでしょう。ただ、春秋左氏伝では、士縠と士会は一度も会話をかわしておらず、関係もはっきりしません。資料によっては親子という系図もあります。私は専門家でなく、この系図の根拠を見つけることができませんでした。それなら、兄でもいいじゃん、と思いきり『家督を継いだ兄』にさせていただきました。年表としても史書としても矛盾はないです、系図と違うだけで。お読みになったかたの中でお兄ちゃん士縠が息づいてればいいなあ、って思いますね!
ただ、士縠が兄である必要は、士会が天才であることを表現するため、のたった一点でした。しかし、小説というものは生き物で設定など踏み荒らしていくようです。士縠と士会は奇妙な共依存となってしまいました。これが不健康な状況にならなかったのは、士会が健全な性質をもっていたからだと思います。過去をふり返らない彼は、分家の主として兄を置いて国に出ました。しかし、直前までは共依存の兄弟だったので、書いていて不思議な気分を味わったものです。今見ると士縠はひとつだけ道を間違えた真面目な人だったのだと思います。
史書はプロット、設定を兼ねてましたが、それを踏みつぶすように人物たちは動いてくれました。終わりに向かって交通整理をする毎日だったような気がします。
私の小説の書き方は、脳内に二ページ見開き漫画が出る→文章に変換するなのですが、それを出力するあたりになると『彼らが出したこの情報をどのような文章で表現するか』という作業になります。彼らの生き様を木の影から眺めては書きとめている気分でした。
私がこの時代、この人物たちを通して書きたかったのは晋という国の転換点です。君主と血縁でもない一族たちが国を動かし、君主は圧迫されていく、最初の一歩です。晋のために良かれと思った趙盾と郤缺が最初に踏み出したということがとても興味深かったのです。その上で、郤子壷の存在を知った時に、最後に郤子壷を書いて終わりたい、と思いました。それはそれとして、郤缺と欒書の愉快な情人ごっこも書きたかったし、趙盾のジェノサイド、河曲の戦い、趙盾其弑君、そして私が勝手に考えた痴呆症の郤缺も書きたかったので、全部ぶっこみました。そうすると、思った以上にあれもこれもと書いてしまい、48万文字です。愚かです。
この48万文字、70話、ほぼ四ヶ月間。一つの話をこの時間、この文字数をかけ、小出しに開示しながら書いたのは初めてです。お読み頂いた方の反応が前に進めてくれたところは大いにあります。自分のために書いていたはずなのに、読んで頂けると、追いかけていただけると、とても嬉しいです。
この作品を楽しんで頂き、もう一度読みたい、友人に薦めて共に楽しみたい、などそういった、思い出以上のものになれば我が喜びといたします。
追記。参考資料を活動報告かブログ形式的な小説?(いまだにシステムわかっていない)に掲載予定ですので、ご興味ございましたら覗いていいただければと思います。




