最後の楔
正式な引退となるまで趙盾が正卿である。周に住んでいる公子黒臀へ晋公打診を行い、頷かせるまでは、さすがに早かった。実務能力に関してなら、やはり一つ抜きんでている。その上での朝政である。趙盾は公子黒臀を呼び戻す使者として趙穿を選んだ。六卿で渋い顔をしたのは欒盾であった。
「下席でございますが、恐れ入りながら言上たてまつります。趙主は先君霊公を直接弑した方です。そのような……その、凶事に関わった方を使者に立てるのはいかがでしょうか」
素朴な疑問であり、もっともであった。欒盾としては、己より政治に長けた卿たちが何故黙っているのか不思議でならない。趙盾が頷き、口を開く。
「先君のご不幸の責は私一人と決まりました。穿は確かに弑しましたが、この責を問うてはおりません。先君が身罷られたは私の不徳、穿の凶行は罪にならずとなったのです。ここで穿を隠してしまえば我が君の正当性が出てしまいます。我が君には、あくまでも、君主にふさわしくなかったと各国に申し上げなければならぬ。ゆえ、穿は功労者とは言えぬが罪無きものとして表に出したい」
趙盾の言葉に、士会がよろしいか、発言を請うた。
「正卿のお言葉、少々趙主にひいきも感じるがおおむね良いと思う。ただ、趙主は今後、卿にさせぬ旨、心得てほしい。わたしはいずれ引退するであろうが政堂にいる間は絶対にさせぬ。そしてこれから先、誰が欠けても趙氏本家からは卿を呼ぶことは許されぬ。もし趙氏から卿を出すなら、傍系である趙孟の一族となろう。たとえ霊公の行い悪しといえど、卿の誰にも相談せず勝手に弑したは僭越というもの。正卿が咎めなかったからといって僭越が許されるわけではない。その趙主を止めなかった趙氏本家全て、その責はとってもらいたい。あともうひとつ。今、我が国に君公はおらぬ。言葉に気をつけろ」
一番言いたかったのはもしかして最後の言葉であろうか。欒盾はこわごわと趙盾を見た。趙盾がばつの悪そうな顔をして、己の口を手で押さえていた。彼は未だに霊公を我が君と言う。それどころか、である。実のところ霊公の行状が悪化しはじめてから、趙盾以外の卿は『君公』と呼び、『我が君』と呼ぶことがほとんどなかった。心理的な距離があったのである。が、趙盾は最後まで我が君と、私の君主と、呼び続けていた。その情の重さはまだ抜けていない。さすがの趙盾も己の未練がましさと浅ましさに恥じ入った。表情は相変わらず薄いが、深々と拝礼し、見苦しいことをした、申し訳ない、と謝った。
「私からもよろしいか、正卿。欒伯の問いの件です」
へらりとした顔の郤缺に、趙盾がどうぞと促す。
「お許しありがとうございます。それでは欒伯に私からも申し上げる。趙主を使者とすることこそ是なのです。公子黒臀は、この度の凶事をご存じであろう。物事を悪意のみで見るものや口がさないものは、我らが共謀して先君を弑し公子も何か関わっていたのではないか、と邪推するやもしれません。その誤解を全て解くことはできませぬと、その覚悟をしていただきたい。ゆえ、霊公を弑したことは正しいのだと、我らが体現したほうがよろしい。そのほうが、公子もおわかりであろう」
欒盾が、ようやく合点がいった、という顔をする。趙穿の罪を問わず罰しなかったのは趙盾の失態である。彼は哭礼などせずに、まず趙穿を捕縛し罪を問うべきであった。が、国政も司法も放りだして霊公の死をひたすら悼んでしまった。結果、趙穿は罪を免れてしまっている。この状況下に公子黒臀が来るのである。かつて宋が次の宋公を用意して先君を弑したと同じくとられる可能性がある。何より、公子黒臀も疑念を持っているであろう。下手に勘ぐられるのであれば最初から趙穿を使って、文句があるか、という宣言してしまえ、ということだった。公子黒臀は覚悟をつきつけられるに違いない。新しい晋公は霊公殺害を止めなかった六卿の手を取るのである。
「恵公は暗殺ふきあれる中へ、文公は乱起こる中へ、どちらも血臭ただよう晋に戻られた。この度、先君が弑されるという、やはり血臭の中に戻られる。公子黒臀は穏やかで教養のあるかたと伺っております。教養は理を透徹にし穏やかさは心を豊かにすると言う。我らが遣わす使者の意味、きっとおくみになるでしょう。穿にはすぐに差配いたします」
趙盾が、全員を見回すように視線を動かしながら、しずしずと言った。みな、拝礼する。是、ということであった。
この公子黒臀が晋に帰国したのは、現代に即して言えば十一月初旬であった。壬申の日に曲沃にある武公の廟にて即位の儀を行った、と史書にある。ここからは晋公黒臀となる。
黒臀は文公ほどでは無いがおおらかで受容性の高い男だったらしい。初めての朝政もいちいち頷き、わからないことは問うてきた。的を射た問いをしてくるような鋭さは無かったが、理解したつもりになる鈍さも無かった。
この時期、正卿はいまだ趙盾である。郤缺が正卿となるのは翌年正月であった。趙盾は正卿として決定した人事を上奏し、郤缺の人格を褒めた。
「周書にございます。皇天、親無し。惟れ徳、是を輔く。民心、常無し。惟れ恵、之に懐く。これこそ郤主のことです。郤主の徳は文公がお認めになったものでございます。天はこの徳を知っておられる、郤主の支えは君公の助けとなるでしょう。また、民は常に国に心を添っているわけではございません。慈しみと敬愛に懐くもの。郤主は敬深く、みな頼り、信頼しております。お困りのことございましたら必ず郤主にお尋ねください」
最後の文言は余計だ、と苦笑しながら郤缺は拝礼し、ご紹介にあずかりました、と挨拶をした。黒臀はやはり、人事を勝手に決められたことに不快な様子もなく、頷き、
「周書、蔡仲への命か。かの周公旦のお言葉であるな。『惟れ忠、惟れ孝』ともおっしゃっている。私は長く周にいるだけのもので、臣の忠というものを知らぬ。また、父とは早く別れたため孝も薄い、徳足りぬ君主だ。缺には忠と孝を示し私に教えて欲しい」
と、教養人らしい返しをした。この忠孝の言葉は、反逆者の息子に父の過ちを拭え、というところから始まっている。郤缺は柔らかい所作で拝礼し、非才の身なれど務めます、と返した。昔の己なら少々ささくれだった気持ちになったであろうな、と穏やかに笑った。
この日の朝政は顔合わせとおおざっぱな説明を黒臀にするだけ、のはずであった。みなそのつもりであった。が、最後に趙盾が、
「奏上たてまつりたい議がございます」
と言った。趙盾は、六卿など全く見ず、黒臀だけに向いている。つまり、相談したいことではなく、決めたことを報告する、という態度である。
「なんだろうか」
黒臀が返事をしたために、みな口が出せなくなった。黒臀が無邪気というより、趙盾が何もしないと考えていた卿たちのほうがうかつであった。この期におよんで何を、と士会が趙盾を窺うように見る。郤缺も、趙盾から何も聞いておらず、柔和な笑みのまま困惑した。
「お許しありがとうございます。我が晋は献公の御世にて桓叔、荘伯から出た公族が乱を起こし絶えました。また、後継争いを避けるため、文公の御世から公子は全て国に置かぬようにしております。そのため、他国のように公族から格のある方を卿に任じることかないませぬ。晋は六卿が中心となり君公を支えておりますが、その卿を決めること、なかなかに難しく、霊公も悩んでおりました」
悩んでいたのは趙盾である。郤缺は微妙に滑稽さを感じ、笑いをこらえた。荀林父が不思議そうに趙盾を見、士会は緊張を解いた。この男は趙盾が何をしようとしているのか、なんとなく察したのである。
さて。黒臀は、なるほど、確かに、と頷き聴き入っている。趙盾が言葉を続けた。
「私といたしましては、卿の嗣子を任官させ、これに邑を与えて公族とし、また、嗣子の同母弟を餘子、庶子を公行として身分を作り、国君、卿を支える公族大夫の制度を施行するがよいと言上つかまつります。これにより、諸侯諸国から、晋は人がおらぬ、と言われることもないでしょう。また、君公におかれましても卿を任じるにお悩み少なくなる次第でございます」
これが、『成そうとしていたこと』か、と郤缺は舌を巻いた。一人でこつこつと研鑽を続けてその教養と政治能力を身につけたこの男は、やはり一人でこつこつと人事制度を考え続け作り上げたのである。趙盾の言うとおり、他国は公室から分かれた一族が大臣や宰相となっている。魯の公子遂がわかりやすい。公族もしくは公族から分かれた大貴族が多い諸国に比べ、晋はまず公族がいない。趙盾は教養と政治力という意味で信頼できる人材がなかなかおらず、そこは四苦八苦していた。臾駢を上軍の佐にしていたときなど、本人も無理押しだとわかっていたのであろう。人材というものはたやすく見つからぬ。郤缺もそれは、わかる。が、そこからの発想が郤缺の想像を超えた。
――道具を探して見つけるのではなく作ればよい
大臣の息子を政治の場に放り込み、政治参画させ指導すればよい、ということである。これであれば、卿が一人欠けても次の卿がすぐに補充できる。常に情報を共有しているため、煩雑な引き継ぎも無い。すでに用意されている人材を選別するだけであるから、人事争いも減り、家格も安定する。その上で、趙盾はさらに爆弾をつっこんだ。
「我が趙氏におきましては、公族を私の弟の括で願います。括は君公の姉君の愛し子でございます。君姫おられなければ、私は今ごろ狄として生きていたことでしょう。私は公行の身分をいただきとう存じます」
この言葉自体は、趙盾の感傷そのものであり、無自覚に行った初恋の吐露である。本来嗣子がなるべき公族に庶子である弟を据え、嗣子である己を庶子に落とす。それでも趙氏を受け継ぐのは趙括ではなく趙盾の嗣子である。これにより趙氏に混乱が起きるかもしれぬが、そこは問題ではない。趙盾は公族は嗣子でなくてもよい、と最初に特例を出してしまったのである。もし、嗣子が政治に向かぬものであれば、家父長制の権限で別のものを公族にしてしまえる、ということであった。
黒臀は、顔も覚えておらぬ異母姉の話を聞いて、かなりほだされたらしい。
「我が父である文公の娘、私の姉が喜ぶであろう。私は晋の大夫があまりわからぬゆえ、早くから次代のものと知り合えるのは良い」
これは趙盾の最後の独断であり独走である。独裁というものがいかに即断即決できるかという見本のような議であった。人事争いで数年を浪費し、その後も穴を埋めるために道具を選別し続けた、趙盾らしい終わり方でもある。
誰も、文句一つ言わずに拝礼し、朝政は終わった。
さて、士会曰く。
「趙孟にしては融通が利いて良いのではないか」
事実、この時期においては、趙盾の発案は最良と言えるであろう。ゆえに、士会の評もこの時点において正しい。発案者はもちろん、立会人も、そして君主も気づかなかったが、この制度こそ、晋公の人事権を完全に奪ったもう一つである。趙盾が郤缺を勝手に正卿と任命したこと、そして六卿の人材を六卿自身が握ったこと、この二点のために晋公は大臣任命において全く手が出せなくなった。それだけではない。この公族大夫の制度は『卿の子』という規定がある。つまり、六卿一族以外が卿になれぬこととなった。といっても、ある程度のゆるさはあり、魏寿余の甥や荀林父の弟が六卿に名を連ねたため、現行のまま、というわけではない。しかし、それでも多くとも八氏ていどの一族からしか卿は出ていない。それ以下のものどもは、肥え太っていく六卿たちにある者は対抗し、ある者は迎合していく。
人事権を奪われた君主、行政を独占する六卿、それ以外の氏族、の三者がどうなるか、今は語らない。ただ、この制度により、晋は人材の宝庫となった。それは、春秋時代の終焉まで続いていく。
趙盾はこの置き土産を残し、夷皋が死んだこの年に正卿を辞めたと思われる。紀元前六〇七年のことである。この後、彼の足跡は紀元前六〇三年を最後に無くなっているため、この年に政治からも身を退いたのであろう。さて、この道理と正道が好きな男が、何故四年も卿となっていたのか、である。
ここで、唐突であるが霊公の墓の話をしようと思う。
霊公の墓は現存していないが、前漢時代の書物に記録が残っている。
記述によると、以下である。四隅に猿と犬の石像が燭をささげており、石像の男女四十体が侍立している。世話をするための寺人や女官を、十分そろえたと言ってよい。霊公の遺体は前漢の時点でも腐っていなかった、と記載されておりそれがどのような処置かはわからない。ただ、目や口など、さまざまな穴に玉を詰められていた、とされている。口だけでなく穴に玉を入れるのは二つの意味がある。ひとつは、死体の保護、である。と言っても科学的根拠があって行っているわけではなく、彼らは玉や青銅で口やそのほか穴を塞ぐことによって保存できると考えたらしい。古代中国において、人は死んでも生前のように生活していると考えられており、死体を損壊させぬことが第一義であった。もうひとつは復活への願いである。その想いを込めた玉も、様々な墓では発見されている。例えば蝉を象った玉である。蝉は復活の象徴と考えられていた。霊公の墓では、こぶし大の轄蛉、つまりはガマガエルの玉があった。轄蛉は月の象徴であったという。月を、死んでまた生まれ変わる、と詠った詩がある。その月に轄蛉は住んでいたという。
霊公の墓は、弑君とは思えぬほど、丁寧に埋葬されている。趙盾は、みっともなく卿の地位に四年すがりつき、霊公の埋葬と喪を行ったのではないのだろうか。




