歳月、今昔の如き
楚の攻勢を見て、陳は油断をしなかった。この国は楚に何度も屈服し服従を強いられており、よく知っている。楚は都合悪けば、南から出てこない。逆に言えば、北上するときは勢いがあるときである。ここ数年の弱体は問題ではない。この、王権が強い国家は、内部の大臣たちをまとめさえすれば、勇躍するようになっている。
陳はすぐに晋へ救援をもとめた。晋が来る頃にはもう、楚は陳に攻め入っているにちがいない。が、ここで諸手あげて降伏するわけにもいかぬ。陳は晋につくと決めたのである。
この急報に、趙盾はすぐさま卿を集めた。夷皋でさえおとなしく席につく。趙盾がそろった卿を見回し、口を開いた。表情は淡々としていたが、口調は少々早かった。
「新城、そして扈での盟を鄭は破り、楚を招き入れました。陳より救援の求めあり、ただちに軍を揃え出立をしようと思う。その軍ですが――」
一旦、口を閉じる。何か、迷いがあるようであった。ふ、と息を吐いて続きを紡ぎ出す。
「私が中軍を率いて出ます。上軍は我が君とこの晋をお守りください。下軍は共に来ていただく」
楚王自らが出向いているのである。本来なら晋公親征が妥当であった。が、趙盾もいいかげん、今の夷皋にその能力が無いことを認めている。少なくとも今回は、この幼稚な青年を総司令官にすることはできない。たとえ飾りとしても連れて行けなかった。
郤缺は拝礼して口を開いた。
「東国のこと、中軍下軍にて差配し上軍が守るは襄公も命ぜられ、無事に収めておりました。私ども上軍の将、佐にて君公を支え、国を守りましょう」
夷皋の暴走は抑える、ということである。夷皋の扱いに関して趙盾と郤缺の間には亀裂が入っている。しかし、それとこれとは別であった。逆に、夷皋を連れて行く、と言われれば何が何でも止めていた郤缺である。趙盾の判断を是とした。
「私は武に疎い。荀伯、欒伯、士季に進軍について発言を求めたい」
趙盾はそのまま、それぞれに目を移す。その間、夷皋へ確認どころか、視線さえよこしていない。夷皋は膝に置いた手で衣服をぎゅうっと握りしめた。小国を救い、楚の王と対する晴れがましい戦である。己を無視するとは何事か、と叫びたかった。が、趙盾の背は冷たく閉ざされている。それをこじ開ける胆力など夷皋に無く、声ひとつ上げずにただ俯くしかなかった。
さて、問われた三人である。最も上席の荀林父が口を開いた。
「お声かけいただき言上つかまつります。陳は楚に長く服しておりました。にもかかわらず、我が晋との盟を守っておられます。鄭が楚に味方し我らが進むを阻むやもしれませぬ。衛、宋、曹にお声かけし、陳へ向かいたいところです。しかし、この中で士季が最も武に強いです。士季のお言葉を伺うのはいかがでしょう」
荀林父が己の考えを述べつつ、士会へと話を振った。欒盾を思いきり飛ばすことになったが、これは荀林父の気遣いでもあった。欒盾自身でさえ政治も戦争も才能が無いことがわかっている。順に問われても荀林父の言葉をくり返すか、士会に投げるしかない。事実、彼は安堵の顔をした。
さて、士会である。彼はこのような時、当然といった態度を絶対に取らない。うやうやしく拝礼し、
「末席であり本来であれば上席に分け入って問いに答えるは辞することなれど、正卿および荀伯のお声かけあり、謹んで言上つかまつる」
と前置きした。これを建前ではなくきちんと本気でできるあたり、亡き祖父の教育は素晴らしく、この男の質は秀でている。
「さて。諸国に呼びかけ合流し軍をそろえるはまず必要、荀伯のおっしゃるとおり。楚の北上であるが、速さもさながら整然と行っている、という情報が入っている。今までの王は速攻であったが荒さがあり、成王は我が文公に敗北し、穆王は宋をくだしきれなかった。こたびの楚子は手強いと言って良い。そうなれば、我らが向かったときに陳にずっとおらぬ可能性がある。そのまま下がるのであれば、鄭と陳で満足したということであるが、楚が鄭、陳を手にしてそのまま退いた試しなし。蔡を取るか、宋を攻めるか、鄭から衛をつくか、現時点の情報ではわからぬ。各国より情報を集めながら中軍、下軍は一旦周まで進軍し、そこからどの地点を攻めるか最終的に決めるがいい。ただ、確実に言えることは、楚がどこを狙おうが、そして退いていようが攻めるは鄭だ。鄭が楚の傘下のままであれば陳を救おうが楚の圧迫は変わるまい。何より、鄭は要所である。あそこに楔を打ち込まれ続けていれば、宋や衛が楚の傘下になりかねぬ。鄭のどこをつくか、一旦陳を救うか否かは、楚の動き次第となる。」
趙盾が考えるそぶりを見せた。士会の言葉を要約すれば、楚がどこにいようが鄭を攻めろということである。
「もし、鄭に楚が来ねば、どうなる」
楚が陳を伐ち傘下にした場合、そこから他国を攻めている場合、鄭に軍を向けぬ可能性がある。趙盾はそれを指摘した。士会が頷き、
「それは好都合というもの」
と返した。荀林父が
「士季の言うこと、もっともだと私も思います。楚子の実力はまだわからぬところがあります。が、士季の言うとおりであれば、強い可能性があるでしょう。鄭をくだすことができれば、戦わぬが良いかと」
と言葉を添えた。趙盾としては、楚の台頭を許したくなく、いっそ叩いておきたい。が、戦争においても際立っている士会と、経験をつんでいる荀林父が楚との戦いを避けるよう進言してくると、話は別である。趙盾はようやく夷皋に向かい拝礼した。
「謹んで我が君に奏上つかまつります。このたび、陳が楚に攻められ我が国へ助けを求めております。盟を守るべく我らは手を差し伸べなければなりませぬ。陳が攻められたは鄭が盟いを破り楚へと身を寄せたがためです。我らは鄭に鉄槌をくだし、その力を示さねばなりません。中軍の将である盾が総帥となり中軍下軍を率いて鄭を伐ち陳を助ける所存でございます。我が君におかれましては、晋の柱として国をお守りいただくようお務め願います。上軍の将である郤主と佐である先季がお支えしますので、お頼りくださいませ。文公は常に左右の臣のお言葉を必ず聞いておりました。覇者としてその心構えお忘れなきよう」
夷皋が口はしをゆがめた。趙盾は夷皋に問いかけもなく己が総大将になることを既に決めている。それさえ噴飯ものであったが、お前一人でものごとを決めるな、とまで言ってきたのである。自分はなんのためにここにいるのか、と叫びたくもあった。実際、そう叫ぼうと口を開いた。その視界にはじっと静かに見つめる趙盾がいる。夷皋が反駁するなど許さぬ、否、考えてもおらぬ顔であった。夷皋は腹の奥がずり落ちそうな気持ちであった。
「……許す」
ひび割れた声が、夷皋の口から滑り落ち、政堂に響いた。
決めるのも早いが、行動も早い趙盾である。彼は中軍、上軍を率いて速やかに周へ入った。そのころ既に楚は陳から離れ、宋を攻めていた。宋は一途な国であり、やはり簡単には降伏しない。陳も攻められたはしたが、降伏せず、楚も侵略まではしていない。
「予定どおり、鄭を伐つ。棐林から攻めるが良い。楚の動きは屈服ではなく揺さぶりと見た。年単位で腰をすえ、東国へと手を伸ばすつもりだろう。ゆえ、今回は無理押ししていない。足元が弱いか、それとも足元のふるいをかけているのかわからんが、この隙に鄭を取り戻すが良い」
士会がこまごまとした情報を述べた後、言った。荀林父が少し考え、
「進軍経路ですが、私は陳、宋へ進んだ後に各国従え鄭を攻めるべきだと思います」
と提案した。士会が、荀林父の言葉に頷いた。
「荀伯のおっしゃること、もっとも。楚は示威行為として満足したと見え、攻め手は減っている。我らが陳、宋を攻めている間に、衛、曹には棐林にお越しいただき、合流して鄭を伐つが最良。よろしいか」
趙盾は静かに頷いた。よろしいかも何も、趙盾は戦争がわからぬ。が、陳、宋を救い、衛、曹と共に鄭を伐つのは、政治家として理解できた。鄭をくだせなくても、陳や宋への義理は果たせ、衛、曹に対して念押しができる。また、どの国が楚に攻められても晋は来ると同時に、盟に背けば攻めるという態度も示すことができる。趙盾の理解は正しい。晋の政治的な立場から立てた戦略なのである。
「衛、曹はもうご用意を?」
欒盾が問うた。そうです、と趙盾は頷いた上で
「とうに連絡はしております。会盟にて他国に変事あらば常に用意できるよう、盟っている。衛、曹も心構えございますでしょう。いえ、そうでなければ困る」
と返した。衛、曹からすれば迷惑な話である。実際、晋からの要請にあわてて軍をととのえた。ここで遅れれば何を言われるかわからぬ。また、陳や宋の状況は他人事ではない。小国の悲しさであった。
「それでは、周都を出て、衛を通り陳、宋を救ってから鄭へ向かうこととなりましょう。みなさま、本日はここまで」
拝礼する趙盾を見て、士会は少々はがゆかった。もし、趙盾が戦争音痴でなければ、二軍に分けて、それぞれ陳と宋を助けに行けたのである。欒盾のように少しわからぬ程度であれば、士会が面倒見れば良いだけであり、たいしたことではない。が、中軍の将は趙盾である。荀林父が補佐をしようが、趙盾の旗下に臾駢がおろうが、動きはどうしても鈍くなる。荀林父は武に疎いわけではないが、標準を超えぬ。せめて、荀林父ではなく郤缺であれば、と思うがどうしようもない。
荀林父もほぼ同じことを考えていた。陳、宋に散った楚軍は中軍、下軍と分けても追い払うことができる規模である。楚王は退きつつあった。しかし、予定外のことが起きた時、己と趙盾では対応できぬ。自分の才の無さが口惜しい、と思っていた。
欒盾は軍議の内容よりも違うことが気になり、首をかしげた。
「本日はやけに早く終えましたね」
趙盾は大雑把なくせに事細かく確認をしようとする。全てを掌握しないと気の済まぬ性質なのである。今回はゆるく士会や荀林父に投げていた。戦争に疎くとも、彼は必ず知ろうとする。育ちの良すぎる欒盾からすればわからぬものは全て任せば良い、と思うほどであった。ゆえに、不自然さを感じた。
「周王さまから使いがくると知らせがございました。受けねばならぬでしょう」
淡々とした趙盾の言葉に、一同、聞いていない、という顔をした。しかし、宰相は趙盾であり、彼がもてなすのが筋ではある。せめて、議に出せ、と士会は思ったが、趙盾は些事だと思っていたのであろう。既に形骸化した、儀礼だけの王国であり、政変を晋に頼んで収めてもらうほどである。
「先年、周と斉とのやりとりございました。その件やもしれませぬし、臣の方々が何かお悩みかもしれませぬ。晋は周王さまの弟の血筋です。親身にお話を伺うつもりです。もし、まつりごとに関係あらば、後ほど議として問いましょう。それでは、みなさま、ごきげんよう」
ただの挨拶なら返事するだけの話であり、政治的なことなら改めて話し合う、と言われれば、みな引き下がるしかなかった。
さて、周王の使いは本当にたいしたことがなかった。ただ、挨拶に来てねぎらったのである。身分も低い。低いどころか、周の臣ではなかった。
「周にて世話になっている身。このたび、周王さまの許しあり、あなた方に挨拶に来た。私は晋にいた時期短く、むずがゆさもあるが、やはり晋人と会うは嬉しさもある。あなたは我が父の臣、趙氏の子と聞いた。晋公を支えていただき、私からも感謝を。見たことはないが、私の甥です。これからも頼む」
ゆったりとした仕草で、文公の息子が笑んだ。周都に出されていた公子黒臀である。年の頃は趙盾とほとんど変わらない。公子雍より年が若く、趙盾が継嗣として除外していた男であった。彼はもう二十年以上周におり、晋とほとんど関わりはない。
「……このたびは、ご尊顔拝し奉り、大変恐縮でございます。文公の血筋の御方を周都にてお迎えできること、望外の喜びでございます。私は文公の遺臣でございます趙成子を継ぎ晋を取り仕切っております盾と申します。周王さまのお計らいにより、こうしてもてなすことができたのは、素晴らしきことでございます。我が君は覇者として務め、徳深い君主になるべく研鑽しております。あなたさまの兄である襄公よりお預かりした貴きお方です、私も支え、ますます励むよう存じます」
趙盾のいらえを聞く公子は、政争と関わらぬ生き方をしてきた、育ちの良さが全身から溢れている。趙盾の独裁どころか、夷皋の行状さえ知らぬ。彼は素直に趙盾の言葉を聞き、言祝いだ。
まさか、趙盾が心底、はらわた煮えくりかえっているなど、気づきもせず、儀礼どおり挨拶し、帰っていった。
「郤主か」
室の中、一人趙盾は呻いた。焦熱にまみれた声音であった。周が晋の捨てた公子をわざわざ使者にするわけがない。そのようなことをすれば、王室の軽重が問われる。で、あれば誰かが手を回したに違いなく、そんなことができるのは外交を一手に掴んでいた郤缺くらいである。郤缺は常々、趙盾に夷皋を捨てろと説教している。政治から閉め出せという言葉であるが、君主として見るな、つまりは捨てろ、であった。趙盾はここまで夷皋の権力を奪っておきながら、夷皋を名君として立てるという夢を諦めていない。あの青年が心を入れ替え正道を見た時、君主権を返すのだと願っている。
郤缺は趙盾の主張そのものが偽善だと見抜いていた。趙盾は権力欲の塊のような政治家である。その権力欲は己の私腹を肥やすためではなく、国を円滑に動かし富ませるためであり、郤缺もそこは責めない。ただ、そのような政治家が己の上に権力者を置くはずがないのである。最も夷皋を政治の蚊帳に置き、飾りにしたいのは趙盾なのだ。しかし、夷皋への愛情と執着のため、その理屈を通せない。自分で自分を縛っている。
それなら執着していない君主を据えれば良い。郤缺は趙盾のために次の晋公候補を放り投げたのである。いいかげん目を覚ませ、という説教でもあった。
――君公を殺せとは言わぬ、周に追放し、代わりに公子黒臀を連れてこれば丸く収まります。
趙盾の耳に、郤缺の柔らかいくせに強い声が響くようであった。趙盾は思わず床を拳で叩いた。そうして息を吐くと、片手で額を軽く押さえた。
「私は何も相談しておらぬ、あなたは私に添いたいのではない、これは操ろうとしているものだ。戒めを知るものは、上に立っても寵に溺れてはならぬとおっしゃったのはあなたであるが、溺れておられる」
低い声で唸る趙盾は、郤缺をどう排除するか考えをめぐらせた。が、あの男は昔から処世に長けている。周囲からは徳人ともてはやされ、敬の篤さで人望高い。晋での功績も大きく、遺漏が無い。今回の使者のことも、知らぬ存ぜぬをつきとおせるであろう。周王の粋なお計らいですな、と驚きながら笑むかもしれない。趙盾は、舌打ちをした。
「あなたは有能だ。お役に立つ。ゆえ、私たちは共に歩んできたのでしょう、晋のために。郤主はおわかりになっておらぬ、我が君を立てるのが一番です。あなたは支えるといったではないか、私と誓った」
しかし、もういらぬのではないか。趙盾は冷たい面持ちで、小さく呟いた。
趙盾の腹立ちをよそに、晋軍は陳へと向かった。楚の本軍は退きはじめており、陳、宋の楚軍を想定どおりに追い散らし、陳軍宋軍を拾うと棐林にて各国軍と合流した。棐林は鄭都の北に位置する場所であり、砦や邑ではなかったと考えられる。ただ、各国軍を終結させるほどであるため、平野もしくは田畑のように開けた場所であったであろう。合流軍はこの位置から、鄭へと攻めはじめた。
鄭都は中原でも指折りの、守りの固い都市である。鄭としては籠城したいところであったであった。が、秋の収穫前であり、晋たちは鄭の周囲を荒らしながら進軍している。鄭は楚に救援を願うと同時に、打って出ることとした。鄭だけで押し出すことができぬであろうが、楚が来なかったときにすぐさま講和を結べば良い。下手に籠城すれば、蔡の二の舞である。
楚はきちんと援軍をよこした。ただし、楚王ではなく臣下である蔿賈が率いている。鄭としては、楚王本人が来てほしかったに違いない。楚の臣は賄賂を欲しがる。蔿賈がそうでないとは言い切れなかった。
「楚子本人が来ぬ、か」
進軍中、士会が小さく呟いた。士会は新たな情報から己の考えを多少修正した。楚は万全である場合、楚王が出てくる。臣が出てくるのは、王がその気でもないのに臣が張り切ったとき、王が万全で無い場合、そして足元が弱い場合である。楚王旅の体調が万全で無い、ということは無いであろう。ようやく北上してきたのである。であれば、臣が張り切ったか、足元が弱いか、である。どちらもありえる話であった。
「つまり、まだ楚子は国内を全て掌握していない。が、こちらに来るほどには余裕が出た。臣が強く騒いでくれればありがたいが」
鄭の救援に対し、即座に兵を出したのである。楚子本人は打てば響くような男なのであろう。この先、足元を固めるかどうかで晋としても心構えが変わる。なんといっても、晋は内紛の種を抱えている。幼稚で自儘な夷皋と、その是非をめぐる趙盾と郤缺である。どちらも有能なだけに爆発すれば晋は真っ二つになる可能性が高い。士会は双方の人となりをそれなりに知っている。趙盾は己が正しいと思えば絶対に退かぬ。剛直といえる性質である。郤缺は表向き柔和であるが、根は苛烈である。それまで趙盾に添い支えてきた男が真っ向から対立しはじめているのだ、よほどの覚悟であろう。理は郤缺にあるが、力は趙盾が上である。まだ、二人は動いておらず、罵倒しながらにらみ合っているだけであり、お互いに相手が折れるであろうと見ている。それがどのくらい持つか、士会にもさすがに分からなかった。
「楚に集中したいが……さて、どうであろうか」
中軍、特に趙氏が極めて鈍い。臾駢が趙盾の代わりに差配しているとは思えぬ鈍さである。と言うことは、趙盾の反応が悪すぎるのであろう。臾駢は趙盾の許しが無ければ大きな動きはできない。
趙盾は周都を出るときから気がそぞろであった。はっきりいえば、晋に心を残していた。周の使者の関係かもしれぬが、それにしても帰りたがりすぎである。士会は、郤缺が何かをしたのではないかとあたりをつけた。戦争前によけいなことを、と吐き捨てたかった。
連合軍は囲い込むように攻め進み、棐林の南、鄭都のすぐ北にある北林で楚軍とぶつかった。名の通り、鄭の北にある防衛拠点のひとつと思われる。堡塁代わりの林を背に鄭と楚が合流していた。鄭としては一息ついたこととなり、晋としては楚の強さを久しぶりに味わうこととなった。下軍が鄭を相手取っている間に、楚軍が中軍を素早くついたのである。あまりに強い突撃だったらしく、大夫の被害が多く出た。が、荀林父が中軍を立て直し、それに趙氏の兵も呼応して追い返す。楚将蔿賈としてはさらに追い打ちをかけたかった。が、宋、衛が横合いから援護してきており、深く踏み込めば逆に囲まれる可能性があったため、退き下がざるを得なかった。ただ、朗報がひとつあった。
「大夫を一人、捕らえております」
解揚という晋の大夫を捕虜としたのである。この大夫が晋においてどれほどの威勢を持っていたのか、というところはわからない。が、史書を見るに外向きの使者を行い、勇士と見られているようで、晋どころか楚でも名の知れた男であったのだろう。身分の高い捕虜というものは交渉はもちろん、情報源としても貴重である。蔿賈は顎をなでながら物騒な笑みを浮かべた。
趙盾もすぐさま解揚捕縛を把握した。一度戦線が落ち着き互いににらみ合う間に、各将佐を呼びつけた。
「ここは退くが良い」
薄い表情でみなを見回し言い放つ趙盾に、荀林父が唖然とした。士会は苦々しい顔を隠さない。欒盾としては理由がわからず、戸惑った。
「おそれながら申し上げます。正卿のお言葉、いかがかと存じます。楚は楚子がおらず、名代の将が率いるのみです。ここで押し返し、鄭都に圧をかけるが肝要です」
荀林父が強く主戦論を展開した。この北林は確かに攻めるには厳しい場所でありながら、全体的には押していること、楚の強さだけが際立っているが、それも鄭を諸国に任せて晋で対処すれば退かせることもできる、と細かく説明する。士会はそれを見ながら少し目を細めた。荀林父の戦術は平凡であるが正しい。それを士会が補強し、より確実にすることも可能である。が、問題はそこではない。趙盾はその説明全てがわからないのである。
「……荀伯のおっしゃること、武として正しいのであろう。私はわからぬが、ここは退きたい」
趙盾はごまかさずにはっきりと言った。荀林父が唖然を通り越して愕然とした。武に疎いと言って戦場では全てを任せてきた趙盾が、口出しした理由も、そして戦術案も無視して勝利を掴まぬ理由も、全くわからなかった。
「士季に問う。このたび鄭を攻めたとして、彼の国は我が傘下に戻られるか。楚から離れると?」
「いや、今回で離れることはあるまい。楚がすぐに助けに来たことに恩がある。この程度で鞍替えすまい」
末席であるが、と前置きしたあと、士会は端的に返した。趙盾が小さく頷いた。
「今進んでも退いても同じであれば、これ以上の損害は無駄と言うもの。諸侯の方々も秋の忙しい時に長く国を空けたくありますまい。また、陳、宋は無事に助けました。晋としては目的を達しております」
表向きの名目はともかく、鄭を押さえるという目的は達しておらぬ。荀林父が再び口を開こうとするのを、趙盾は制した。
「我が国の勇士である解揚が楚に囚われました。このまま楚に連れ帰られるとめんどうですので、鄭に引き留めてもらう所存です。鄭の子家とは先年書をやりとりいたしましたゆえ、少々縁がございます。楚将は鄭を助けに来た立場です、捕虜を渡さぬとは言えますまい。さて、楚将から捕虜を貰い受けるのですから、鄭も多少のご無理はなさるでしょう。便宜あれば楚将の方も気持ち良くお帰りになり、楚子にご報告なされる。こたびの楚子が臣に対しどの程度寛大かはわかりませぬが、臣の方々が常に寛大ではないことをみなさまご存じでしょう」
荀林父は口を引き結んだ。趙盾は戦場を負けに近い痛み分けとして終わらせ、政治方面での勝ちを狙っている。とことん、政治家らしい彼の発想である。楚の大臣たちは互いの足を引っ張り合うことがしばしばある。それぞれ我の強いものが多い。また、王室に対して良くも悪くも情が強い。蔿賈が戦勝を持ち帰り、なおかつ捕虜を賄賂と引き替えに鄭へ渡してきた、となれば楚王旅は許しても他の臣たちは良い感情を持たないであろう。しかし、目の前で鄭に鉄槌をくだし、諸侯の前で威を見せることに比べれば、迂遠でもあった。退くにしても、せめて楚の大夫一人でも捕縛して帰りたいところである。
「荀伯のおっしゃる、鄭を武力で屈服するはわかりやすいことです。しかし、大夫の捕虜が出たことで我が軍の一部は動揺しております。また、各国軍も戸惑っておられる。何より、この北林にて楚を退けて鄭を伐つは無駄が多いと私は思いました。先ほども申し上げた、陳と宋は助けたのだ。退き、諸侯を解散させ、帰るがよい」
戦略戦術ではなく、全く違う盤上で趙盾が持論を展開しはじめた。こうなると、荀林父は何も言いようがない。戦争をやめる前提の政治論である。ここに戦争を持ってきても、全ては無駄であるという言葉で撥ねのけられるのは目に見えていた。荀林父は思わず士会の言葉を請うた。士会は頷き口を開いた。
「ここで引き下がれば鄭は調子に乗る。が、正卿はこの場を収める方法をおっしゃられた。そしてその言葉は有用だ。ゆえに、冬にすぐ鄭を攻める。楚は一旦退ききればすぐに動けぬ。地勢もあり、正卿の策がはまれば楚子も再び足元を気にするであろう。諸侯全てを動かす必要は無い、ただの脅しだ。そうだな……宋は我が国に借りがある。あの国にご足労願ってはいかがか」
「こたびは鄭を攻める姿を見せた。次は鄭に知らしめるのみ、ということか」
趙盾が士会を見ながら問うた。今回は鄭を軽く殴る挨拶であり、次は脅しあげ、少しずつ圧を強める。士会の対鄭戦略であった。これは、未だ楚の足元が弱い可能性と、晋がまとまっていない不安が土台になっているものであり、
「現時点はそうだ。年が明ければわからん」
と、士会は返した。
晋は諸侯を解散させ、帰国の途につくこととなった。士会は趙盾が一人になったところを見計らって、捕まえ詰問した。
「そんなに君公が心配か、郤主が不安か、牙城が崩れるとでも思っているのか。わたしはあんたたちがそれなりに上手くやっていたことを知っている。きちんと話し合え。そして、これからは戦争に政争を混ぜるな。今回は仕方無く助け船を出しただけだ。鄭はきちんと殴りきるべきであった」
趙盾がまだ来ぬ政争に気を取られ、戦争を切り上げたことを、士会は分かっていた。趙盾が不快さを露骨に表した。図星だったのである。しかし、この正道を好む政治家は建前を本音とすり替える天才でもあった。
「士季のおっしゃること、火の無いところに煙を立てるようなお言葉です。慎まれよ。私が我が君を心配するのは当然、それが仕える宰相というもの。郤主は最近先走ったお言葉が多く、先季ではお止めするのは難しい。その意味では不安ですが、本来あの方は敬に満ち徳のある人、私は信用しております。私は党を持たずみなとまつりごとを行っている。特定のかたと繋がっているようにおっしゃるは、無礼というものです。士季は少々ものごとを深く見過ぎておられませぬか」
いけしゃあしゃあときれい事を言いながら牽制を忘れない。人のあれこれを詮索するな、と言いたいらしい。個人的なことであれば、士会も何も言わぬ。が、ことは政治の話なのだ。
「わたしに察しろ、と言わなかったことだけは褒める。しかし、つるつると上っ面の言葉で納得させようという態度はもうやめろ。とりあえず、退くことは決まった。あんたは望みどおりさっさと帰れる。中軍も下軍も秋の遠征で疲れている、冬の鄭攻めは上軍にさせておけ」
士会は最後にそう言うと、趙盾を解放した。鄭に脅しつける、ほどほどの戦争となれば士会より郤缺が上手い、という理由の人選であるが、外に出すことで、双方頭を冷やしてもらいたい、というのもある。夷皋の問題は重く、趙盾が退かねば郤缺は押し続けるであろう。それを抑えるはずの荀林父はもう限界に近い。士会は末席すぎて、頭を冷やせ、以上の介入は責がとれぬ。忠告とその返しは、言葉は教養に満ちているが、いまや互いの人格や急所を罵倒し始めていた。
何故、そこまで拗れるのか。
趙盾はともかく、郤缺はもっと大人であろう、と士会は呆れるしかない。政治家同士の会話ではない、と幾度かうんざりもした。ふと、郤缺と趙盾は政治以上の、深い繋がりがあるのではないか、と脳裏によぎったが、普段の彼らにその気配は無い。士会は考えすぎかと肩をすくめ、退軍の指図をすべく、自軍に戻っていった。
郤缺が思うより早く、趙盾は帰国し復命した。冷えたどころか棘のような空気が伝わり、郤缺は少々やりすぎたか、と思いながらやんわりとした笑みで迎えた。
郤缺が留守を預かる間、夷皋は一度も政堂に来ず、とうとう休む言い訳さえ寄越さなくなった。が、これは夷皋が政治に背を向けたわけではない。とまどう先縠に、郤缺は心配要らぬ、と返し、
「かつて襄公が出られた時も、欒貞子と箕子、私とでまつりごとを行っておりました。君公は我らを信用しておられるのでしょう。大きなことは正卿がございませんので決められませぬが、励みましょう」
安心させるように笑んだ。若い先縠はすっかり郤缺に目が眩んでいる。すんなりと頷いた。
夷皋は趙盾以外が見えぬ青年である。趙盾がいなければ己を誇示しようとせず、邪魔をする気もない。では趙盾がいなければ国が治まるか。いきなりいなくなれば荀林父はもちろん、郤缺さえ円満に国を治めることはできぬ。それほど、趙盾は全てを握っていた。また、幼稚な国君が暴走をはじめれば、止められるのは趙盾のみであろう。やはり、郤缺としては夷皋が政治に無関心となってくれたほうがマシである。一番良いのは夷皋にお引き取り願い、別の君主を立てることであった。欒枝たちは公子圉の擁立を認めず文公を据えたのである。これは、同じことだと、郤缺は言いきかせていた。
趙盾は、郤缺の理に立ちはだかっている。君公は絶対であり、臣下は侵してならぬ。その理を出し、強大な権力で固めている。郤缺は趙盾のやり方を骨の髄まで知っていた。隙を見せてはならず、表向きは友好でいなければならない。夷皋の件で空気がわるくなることがあっても、表面的に政堂は穏やかであった。趙盾は冷えた視線を郤缺に送っていたが、議や意見を無視することはなかった。
冬になり、郤缺は先縠と共に上軍を率い、宋と共に鄭を伐った。伐ったという表現は占領することはなかったが、相手に痛手を負わせたという表現でもある。鄭のどこを伐った、とは無いが、要地から鄭を攻めるのであれば、北林に近い場所まで攻め込んだ可能性が高いであろう。鄭はこれで和を結ぶことなく、晋もほどほどで帰った。士会の言うとおり、晋は鄭に対して少しずつ締め上げる戦略を取り続け、二年後に和議を結ぶこととなる。その時、解揚は晋に戻ってきたのではないか。この大夫は十年以上後、史書に現れる。勇ある大夫の姿を見せ、その姿に楚王旅が感動するという逸話が記されている。この稿では関係無いため、これ以上は触れない。




