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閨でのひめごと、ささめごと

引き続きBL回

(なんじ)は適応が早いと言われぬか?」

 乱れた衣服を整えながら、欒枝(らんし)が少々呆れた声で言った。どの面下げて、と郤缺(げきけつ)は言わなかった。今さらである。うっとうしい髪をかき上げながら、手櫛で整えると、郤缺は髪を結い上げた。

「あなたが私を情人とのたまったのでしょう」

 しれっと言えば、欒枝が肩をすくめた。処女らしさを求めているのかと郤缺は欒枝を冷たく睨む。それに対して、欒枝は

「そんな顔で見ないでおくれ。かわいがりたくなる」

 と笑う。何度かに一回は、このようなじゃれあいが生じるまでに、二人の肌はすっかり馴染んでいた。秋の紅葉で彩られていた欒邸の庭は、すっかり初夏の様相であり、新緑が眩しい。

 出会って一年になろうとしている。その間、2人は慎重に動いていた。

 胥臣(しょしん)は当初、郤缺に妙な憐れみの目を見せていた。否、あれは哀れみか。男盛りの体を老年に近い権力者に(なぶ)られていると思っていたのだろう。が、そのような目を郤缺は

欒伯(らんぱく)があなたにもらしたそうで。この年で父のような年の方の情人というのも恥ずかしいことです、心の(うち)においていただけるとありがたい」

 とわざとはにかんだ顔で言い、一蹴した。胥臣は戸惑っていたが、人それぞれであるから、とごにょごにょと言って終わった。郤缺に対する警戒は解かれなかったが、少しずつ慣れが生じていた。

 胥臣は郤缺の所作に感動した男である。郤缺の一挙一動一足に込められた誠実さが、親切心の重さもあり彼の職務としての警戒心を溶かしていった。そこに、この、馬鹿馬鹿しい情人の話である。

 ――郤主は存外、おもしろみのある男だ

 と思ったらしい。欒枝と郤缺が共に歩いていれば、何か含みのある笑みを見せて、会釈などもする。滑稽であるなと、郤缺は奥底にある冷たさで思った。郤缺は確かに誠実であり人を篤く敬い、そして勇猛な戦士であったが、奥底にどこか冷たいものも持っている。それは理というものであろう。欒枝はそのような郤缺の様子を見る度に

「それは隠しなさい」

 と、まるで親のような顔をして言うのだった。

 そして、今日も。

 初めの一回だけで騙せるだろうと言っていた欒枝が、情人の顔で郤缺の体を開き添わしてくる。肌になじみがないと情事の無さがすぐにわかると言って自ら帯を問いたのは郤缺だった。国難の前に屈辱など耐えられるのだと、あのときは楽観していたのだ。

 お互い肌を合わせていると、妙に心も繋がるような錯覚に陥るのは不思議であった。欒枝は盛りのすぎた男でありその愛撫も男としての本能もゆったりとしている。そのゆったりとした丁寧さに郤缺は大事にされている気持ちとなってしまう。郤缺も今は妻と(しょう)の二人しかおらぬが、動乱前はもう少し周囲に花はあった。終わった後につまらない女だと思ったとしても、抱いている間は愛しく深い繋がりを感じるものであった。そのような錯覚程度なのだが、これに二人の秘密が重なると、錯覚の上にさらなる錯覚が覆っていく。二人だけの世界というものは、理屈ではなく情感によって折り重なっていくものなのだ。

 あの暴行から一年近く、屈辱を覆い隠す欒枝への執着に郤缺は気づかないようにしていた。――錯覚なのだ、と。

 初夏の空は青く、澄み渡っていた。遠くに見える山々は青々としており、くっきりとしている。乾いた冬と雨季である夏の間、すがすがしいみずみずしさが強い風に舞っていた。

「……このような爽やかな時期にするようなものではなかったな」

 郤缺は弓をおろして呟いた。一人で弓矢の修練をしていることではない。二日前の情事のことであった。ゆったりとした交わりの最後に溶け合うような陶酔が訪れた。全ては錯覚であると断言できるが、男の手触りは生々しく記憶にある。

 郤缺は雑事を振り切り、矢を射た。見事、中心に当たる。悠々とした足取りで的まで歩くと、慣れた手つきで矢を抜いた。父がいた頃は、矢を用意する小者も、的から外してくれる小者もいた。それが当然と思っていた己は若かった。そして、それがなくても大夫としての矜持は心にある。それで良い。たとえ、男に体を開かれようとも、だ。

「……今日はやけに、気にしているな、私は」

 郤缺は再び一人ごちると、弓矢を全て持ち邸に戻っていった。来客の先触れがあったからである。

 邸の前に馬車が止まっていた。久しぶりか、と郤缺は苦笑した。胥臣であった。

 胥臣は、昔ほど来なくなった。郤缺が重耳に許されてから二年は経とうとしている。警戒もほとんどなく、保護者感覚で来ていたのも薄くなったのであろう。忙しいのもあるのだろうが。

 小さな邸であったが、門から入口までを掃き清めながら郤缺は先導する。胥臣も門の前で儀礼をし、丁寧な所作でついてくる。この二年、どれだけ親しくなろうとも、互いに最上級の儀礼を行う。この二人はそのような関係に落ち着いた。つまり、下軍の佐と大夫以上ではなく、友にはならなかった。

 狭い邸で客間もない。郤缺の私室にいつもの様に通し、上席に案内する。郤缺が下席に落ち着いたとき、

「あ!」

 と胥臣が叫んだ後、凍りついたように固まった。目を見開いて郤缺を凝視している。全てが礼を失しており、胥臣らしくなかった。

「いかがなされた、臼季(きゅうき)?」

 郤缺は、なるべく柔らかい声音で問うた。混乱するものと一緒に興奮するのは下策である。胥臣といえば、視線を逸らしたり、向けたりとしながら、紅潮している。胥臣も欒枝に近い年齢で、けして若くない。持病でもあるのかと郤缺は本気で懸念した。その気配を察したのか、胥臣は郤缺を制するようにそっと片手を上げる。

「郤主。鏡をごらんください。顔、ではなく、襟元です」

 明後日の方向へ目をそらす胥臣は本当に彼らしくない。郤缺は、失礼と拝礼して立ち上がった後、部屋の隅に置いていた小さな銅鏡で己の姿を映した。

 ――あのクソオヤジ

 襟に隠れないぎりぎりの首に、独特の鬱血があり、どう見ても性行為を思わせるものだった。郤缺は頭の中で延々欒枝を殴りながら、さっと座し平然とした態度で

「お見苦しいところをお見せした」

 と、挨拶でもするように拝礼した。胥臣が落ち着いたようで姿勢をただし苦笑する。

「この話は私の中で墓まで持っていきます。あなたも節度を守ってください。ふふ、舅犯(きゅうはん)あたりに知られたら、(しん)大夫(たいふ)がみっともない、と大騒ぎされますね」

 狐偃(こえん)の名を出したあたりから、胥臣がいたずらめいた笑みを見せる。

「私のような小者、捨て置かれましょう。欒伯はまつりごとに誠実なお方、情人が一人増えたところで狐氏の方が騒ぐほどもございません」

 冗談には冗談を。郤缺はへらへらと笑いながらしれっと返した。胥臣は肩を震わせまるで少女のように笑ったあと、すっと真顔になる。

「……二年前、軍律違反をした魏氏(ぎし)を舅犯はいまだ許さず、彼は捨て置かれています。狐氏(こし)の激しさは忠と義ですのでまちがっておりません。才あるあなただからおわかりでしょう、節度をお守りください」

 胥臣の顔を彩るのは郤缺への配慮だけではなかった。憐れみや苦痛が垣間見える。

 ――魏氏を許したいのは、君公(くんこう)

 当時はともかく二年も経った。元は寵臣の一人であろう。重耳は手を差し伸べたいのであろうが、狐偃に遠慮をしている。もっといえば、魏氏より狐氏を選んでいると宣言しているに等しい。

「臼季。あなたが気に病むようなことは我らにございませんよ」

 余人が見れば、落ち目の郤氏(げきし)が大族欒氏(らんし)の保護下となった。そのていどにしか見えぬよう、ふるまっている。胥臣もそれがわかっているのであろう。小さくうなづくと、郤缺の少領について問うた。彼は、己が世話したという責任を感じているようで、どこまでも郤缺に誠実で親切であった。

 胥臣が帰って即座に先触れをし、郤缺は数日後に欒枝を訪ねた。本当ならすぐにでも訪ねたかったが、それは『会う頻度が近すぎる』と欒枝に止められたのだ。そうなると、己の気が逸っていたことに気づく。郤缺は四十路を前にいまだ青いと己に呆れた。

 大夫としての儀礼のあと、郤缺は

「君公と狐氏の間に亀裂があるのでは?」

 と直球で尋ねた。欒枝は己のうちを探るような顔をしたあと、首を横に振った。

「我が君と舅犯の間は(にかわ)のようにぴったりとしている。なぜだ?」

「臼季に伺ったのです」

 そうして郤缺は胥臣から偶然魏氏の話を聞いたことを伝えた。胥臣は狐偃と重耳の間の話などしていない。が、憂いのある顔に、郤缺はその可能性を見た。欒枝は郤缺の言葉を全て聞き終えると、

「……これからは臼季と政治的な話をするな、郤主。あの御仁はけして口が軽いわけではない。ゆえに、汝にもらしたことが重い」

 と低く言った。郤缺も頷く。

「臼季は私に多分な情を向けておられる。あの方は高い教養と強い責任感がおありだが、優しさゆえか心が偏る。君公への重い忠義はそれでしょう」

 郤缺は胥臣の誠実さの裏に重い情を見た。重い情というものは本人が望まぬとも相手への強い隷属や支配として噴出することがある。胥臣の()()()()()()()()()()が郤缺を政変に巻き込む可能性だってあるのだ。

「わかっているならいい。とにかく、舅犯と君公に亀裂はない。いや、君公にはない、が」

 欒枝が言葉を止めると、脇息(きょうそく)を引き寄せ、少し姿勢を崩した。そうして、郤缺を見る。郤缺は、欒枝が問いかけていると察した。

「舅犯と、他の氏族ですね。あなたからお伺いした国人の方々、みな狐氏と縁遠い。それどころか、好んでおりません。もともと、彼らは(てき)の者。晋人(しんひと)から見ればよそ者ですが、舅犯はそう思っておられないでしょうね」

 最後、あてこするような声音で終えると、郤缺は少し身を乗り出して、脇息にある欒枝の腕を指でつついた。欒枝がくすぐったそうに身をすくめる。郤缺は構わず欒枝の腕を指でなぞり、手の甲へたどり着く。

「狐氏はこれ。君公はここ。あなたはここ、われらはここ……」

 人の体で最も弱いとされる小指に狐氏を指す。力の弱さでなく、周囲が見えていないと皮肉っている。重耳(ちょうじ)は手の甲の中心で、どことも近くない。欒枝は親指だろう。胥臣は人差し指か中指か。己ら小さな氏族は親指の付け根を指した。欒枝のよすがにすがって依存している。しかし、胥臣や狐氏には近づいていない。

「かわいく頭の良き子供はおもしろいことをする。では、趙子余(ちょうしよ)はどこかな?」

 欒枝も身を乗り出し、郤缺にささやいて笑った。否定しないということは、間違っていないということだろう。郤缺は少し考え込んだ。

 趙衰(ちょうし)は不思議な男である。重耳とともに二十年の苦難を乗り越えた寵臣。なおかつ重耳の娘を娶っている。その意味では狐氏と同じように妬まれ嫌われていてもおかしくないのだが――。

「悪き話なし、とびぬけて良き話知らず。みな、相談ごとのときに頼りになされているようで」

 みな、とは欒枝に紹介された氏族のことである。その意味では胥臣に近い。胥臣は積極的にみなの悩みを聞こうとする。

 郤缺はそっと人差し指や中指を指した。胥臣と同じ場所である。重耳の最も頼りにしている寵臣は、最も動き、格が高いだろう。その郤缺の手を、欒枝が柔らかくとった。そうして、手首の真ん中に持っていく。それは、手の甲に位置する重耳の真下であった。

「趙子余は、われらと同じ場所におらず。すべてを見渡す理で晋を思う。君公の後ろで心をささげる。郤主(げきしゅ)はきちんと、式を組んでいたが解を間違えたようだな」

 欒枝がつかんでいた郤缺の手を強く引っ張る。郤缺は思い切り欒枝の胸に頭を突っ込むこととなった。その勢いが強すぎて欒枝がせき込む。郤缺は冷たい目で欒枝を見やると、少し身を離し、欒枝の胸を撫でた。幸い、骨は折れていなかった。

「ご自分のご年齢をお考え下さい。転べば骨が折れ、盛り上がっても立ちの悪い」

「ご、ほ。心配するのか甘えるのか、どちらかにしてくれ」

「甘えてなどおりませぬ」

 郤缺は心底嫌そうな顔をして強く言った。欒枝はそれに返さず、笑みだけを向け顎を軽くしゃくる。また問いかけか、と郤缺は少しうんざりしながら口を開いた。

「式は合い、解が違うとはどういうことですか」

 幼児が親に問うような言い方になった、と郤缺は苦い顔をした。いたぶるように試してくる欒枝が不快であったし、こんな幼稚な話し方をする己にも腹立たしい。欒枝が花を愛でるような手つきで郤缺の目尻を撫で

「汝のその顔は良い」

 などという。文句を言ってやろうかと口を開ける前に、欒枝が鋭く声を発した。

「悪き話なし、とびぬけて良き話知らず。みな、相談ごと頼りにする。汝が言ったのだろう。私が会わせた氏族どもの話を鵜呑みにしているだけなら、郤主もぜい肉がついたものだ」

 それは情人の声ではなかった。先達の声でもない。紛れもなく同志の声音であり、静かな怒りが込められていた。郤缺は己がいつのまにか欒枝に慣れ親しみすぎていたことに気づいた。仰ぐ盟主としてこれ以上ない適任者である。思考、選択、決定。その全てを欒枝に預けていた己に気づいたのである。情報を聞き、欒枝の所感を聞く。氏族を紹介されて欒枝の余光を借りる。これは、氏族を託したいとされた、己ではない。

 郤缺は静かに拝礼し、低く言葉を紡ぎ出す。

「……私自身が郤氏であることを忘れかけておりました。ご鞭撻(べんたつ)感謝いたします」

 ゆっくりと体を起こすと、厳しい顔つきを欒枝に向けて

「みな、趙子余を頼りになると、おっしゃった顔に警戒はございませんでした。あれは戦場で味方とともにいる顔です」

 緩んだ己を引っ張り上げる心地で、郤缺は会った氏族を思い出す。彼らは欒枝の保護下にいるくせに、趙衰を頼もしい味方のように語っていた。しかし、だれも趙衰と親しくはなく、傘下へと走らない。

 ――悪きなし良きもなし。

「………私はあなたから、趙子余が(けい)を断り人を三度も推挙していることを聞いていたのに失念しておりました。遠目で見かけたあの方は静かでその」

「地味だろう」

 欒枝の言葉に郤缺は素直に頷く。

「森の奥にひっそりとある、湖。そんな印象で終わっていました。不思議な方だ。君公の寵愛明らかなのに誰もあの方への妬みを言わぬし、逆におもねるものもいない。さほど親しくないものも味方だと思っている。そして功を誇らず……いえ、消している?」

 最後、独り言をつぶやいた郤缺に欒枝が再び目尻を撫でた。今度は戯れを感じなかった。

「汝の眼でさえ見出せぬあの男の底の深さよ。高き教養、深き智謀。趙子余の恐ろしさは己を空漠にして物事を見ていることだ。情は君公へ、理は晋へ。それのみの、利なき男。誰にも利を求めぬ、晋にも君公にもだ」

 透徹にして無欲。それはできすぎであろう、と郤缺は思った。

「あなたのような中立中庸の方がやけに肩入れされる、珍しい」

 その中立中庸が、欒枝を内乱から守り続けた。今も、その平衡感覚は失われていないだろう。欒枝でさえ傾きかける趙衰とは、どんな男なのか。郤缺が考えを巡らせようとしたとき、ククッと低く唸るような笑い声が響いた。欒枝が暗い笑みを向け、丁寧にじっとりと郤缺の目尻を撫でる。

「君公はしびれを切らしている。是が非でも趙子余を卿にしてしまうだろうが、これからも中庸を歩むだろう。この晋で、彼だけが中庸を、だ」

 欒枝の声は独特のドスが効いていた。この言葉には二つの意味が含まれている。一つは、趙衰が驚くべき教養と均衡の才を持つ政治家であるということ。もう一つは――

「つまりあなたは中庸ではない」

 郤缺は枯れた声を出しながら、目尻をなぞる欒枝の指に手を這わせた。節穴の目をこの男は哀れみ撫でていたのだ。己は何を見ていたのか、と羞じる思いであった。一年近く肌を重ねながらも、郤缺は欒枝を中庸の質と思っていたのだ。

「全ての勢力から中立と思われ、全ての人から中庸と思われる、という術は意外に簡単なのだ、郤主、いや若き大夫よ。私は全力をもって、我が一族を守ることが第一義であった。そのために、右往左往するとんまな一族を柔らかく束ね、大きな勢力らしくみせかけて中立と謳い、最も晋公(しんこう)にふさわしい公子へ中庸と見せた。本当の中庸など、荊の道であろう。が、あの趙氏(ちょうし)の末子は持って生まれたものか研鑽かは知らぬが、本当の中庸を身につけている。知を持ち、理で動き、情に深い。が、決して情で動かぬくせに非道と見せぬ。あれは舅犯とも、臼季とも違う。私のような一族の保全を考えるものとも違う」

 真実を聞きながらうなだれかけた郤缺を、欒枝の両手が押しとどめ顔をあげさせる。

「私は汝に、私の持つ情報を譲ろうとここに呼んでいる。君公が浮き上がらぬよう、晋人が惑わぬよう、手綱を譲りたいと呼んでいる。しかし、汝は私を真似てはならぬよ。私は、やはり目立ちすぎる人間なのだ。ゆえに、人々がおしかけ、あげく上軍(じょうぐん)の佐に押し上げられた。趙子余を見よ。あれだけの寵臣であるのに、卿を固辞しているせいもあろうが、目立たない。溶けておられる。汝が見るべきは私ではない、あの男だ。あの男に学べ、そして――」

 超えなさい、と欒枝は小さく囁いた。

 郤缺は欒枝を目指しておらぬと言おうとして口を閉じた。氏族を背負う覚悟の中、欒枝を目指していなかったとは言い切れぬ。しかし、口を開かなかったのはその逡巡のためではない。

 この男は、氏族を託す以上の期待を己にかけていやしないか。使い勝手の良い駒に育ってほしいというのか。

 それとも。

 ()()()()()()()()

 一瞬去来した考えに、郤缺は強く手を握りしめた。

「……欒伯よ。あなたは私を買いかぶりすぎておられる。私は凡夫です」

 しずしずと返すと、別れの拝礼をする。欒枝が苦笑して体を離した。そのまま立ち去ろうとした郤缺に、欒枝が声をかけた。まるで父親のような笑みであった。

「私の目を少しは信じてくれないか。私は我が嗣子(しし)より、汝を信じたのだ」

 郤缺は黙ってもう一度拝礼すると、今度こそ部屋から立ち去った。

 邸を出ると、空に夕闇の気配がかすかにあった。睦みもしていなかったのに、意外に時間が経っていた。己の馬車に乗ると、郤缺はため息をついた。御者は命じなくても帰路へと向かっていく。

 車に揺られながら、郤缺は額に手を当てた。超えなさい、という声がいまだ耳にこだまする。まるで父のような顔で言う。――欒枝は父ではない。当たり前のことである。父は、郤芮(げきぜい)は中庸のふりもせず、己の道を駆け抜けていった。全く違う。

「私も我が道を行きます、父上。どこにあるか未だ見えませぬが、必ず」

 ぽつりと呟く声が、流れる景色の中に溶けていった。

この連続BLは次で最後なのでお許しいただきたい。

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