錯綜の日
初春も終わり、春。桃の花がそろそろ散りはじめ、黄砂が風に舞うころ、二度目の揃いがあった。一年に二度、しかもほとんど日の挟まぬ異常さである。
「中軍の将を趙盾、中軍の佐を狐射姑とする」
たったこれだけの変更といえばそうなのであるが、集まったときから場は騒然としていた。壮年の正卿と若年の次卿が入れ替わる珍事に加え、狐氏と趙氏の亀裂が見えたからである。実際、佐を拝命している狐射姑から怨情が滲み出るようであった。反面、趙盾は常の平坦な無表情で将を承っている。それは頼もしさより、当然といった厚かましさを感じさせ、一部の老人の眉を顰めさせた。
士会は手を打っておもしろくなってきた、と言いたかったが、もちろん場をわきまえていたため口を閉じている。そして、兄の冥すぎる目が痛々しい。兄からすれば、本来そこは我が場所だ、と言いたいのであろう。それを三十そこそこの若造が、親の威光のみで座っている。士縠は士氏として法やその施行に関し常に研鑽してきた。晋にある法は全て頭に入っているであろう。それを、親が卿という縁で顔と仕草が良いだけの男が奪っているのだ。聞けば狄の邑にて育ったと、それだけでも質の悪さが想像できるというものであった。士会はそこまで兄の思いを読み取りながらも、見なかったことにした。慰めれば侮られたと思われるであろう。そして、兄の気持ちと全く同調できないのだ、どうしようもなかった。
人事は正卿と次卿の交代である。たいして時間はかからぬが、最後に趙盾が政治方針を発した。
「この度、この私め趙孟は、国のまつりごとの責を担うこととなりました。見てのとおり若年の身です。卿の方々、大夫の方々のご教導ご教示お願い申し上げます。さて、大まかな指針を示せとの仰せを承りました」
正確には驩にそう言わせたのである。
「まず、法を確かめ定め、刑を正し、獄刑をおさめ、税の滞納未納の督促、賃借が口約束が増えていると聞き及んでおりますので証文の取り交わしの強化、旧来の悪習を改革し貴賤の分限を明確にいたしたい。また、今はすたれている由緒ある官職を復興し、埋もれている人材を広く抜擢すること、おおまかでございますが指針とさせていただきます」
大夫たちは失笑をおさえた。宰相になれば誰もが言う、お題目である。誰か知恵者から教えられたか、と目配せをした。――が。
「そこで、まず、司空を亜卿として政堂へ招きます。我が君もご了承されました。司空は我が国の法に明るく根幹をご存知の賢人。士伯無くしては法や刑を正すことかなわぬことでしょう。また、この法が成り立ってこその、税の問題、悪習の改革につながります。かつて大司空という役職はございました。現行の情勢では古い官職の大司空の役割は国にあいませんので、司空のままとなりますが、お力添えいただきたい」
最後に『いただきたい』などと言うが、これは君命をかぶせた趙盾の命令である。士縠は嫌だお前の風下など! と叫びたかったに違いないが、士の長として完璧な儀礼で承り、拝命した。その作法が素晴らしいだけに、哀れで滑稽であった。
そして、大夫たちは、本気でこの指針に取りかかろうとする趙盾を違う意味で失笑した。ご大層なことであり、文公の寵臣たちならいざしらず、若造にできようがない、と。
「軍制ですが、中軍、上軍、下軍の三軍のみとし、新上軍、新下軍は廃するものとしました。新上軍の将である郤主は、軍を率いぬ卿として任じます。また経験深き大夫として我ら新たな六卿をお導きください」
趙盾が郤缺に話をむける。
「ただいまお言葉賜りましてございます。この非才の身なれど、お亡くなりになった四卿の教えを受けた身でございます。その経験がお役に立てるよう、問われたことにはお答えし、命じられたことには素早く動き、調べたことにはすぐにお告げするよう、務めあげましょう」
郤缺はしずしずと応じた。元々、新上軍、新下軍は再三卿を断る趙衰に業を煮やした文公が、むりやり作った形だけの軍である。もやは意味をなしてはいない。名目上、卿は軍を背負うことになっているため、本来なら郤缺は解雇ということになるのである。しかし、司空を亜卿として任じている。郤缺の軍制からはずれた卿はすんなりと受け入れられた。
揃いが終わると同時に朝政も終わった。趙盾が揃いのあとにさらに政堂でまつりごとを、と言い出したのを、さすがに郤缺はとめたのだ。末席で直言するものではないが、他のものがうんざりし、疲れで思考が止まっている以上、郤缺が進言するしかない。
「問われねばお答えできぬ立場ですが、ここはあえて先に言上つかまつります。趙孟。揃いで司空を亜卿としてお呼びすると言ったばかりです。しかし士伯はいきなり言われたため、本日の参内あたわぬでしょう。揃って議をなさるのであれば、明日以降がよろしい。今すぐなされるのであれば、あなたは言葉を違えることとなる」
趙盾が少し目を丸くしたあと、確かに、と頷いた。
「私が軽挙であった。みな、明日に備えてほしい。私もきちんと用意をしてこようと思う。郤主のご助言に感謝を」
みな、驩さえもがほっと安堵の顔を見せる。揃いはそうでなくても疲れるのである。みなの疲労がわからぬ趙盾に、疲れている、と言っても通じぬ。少々の疲れなどなんだ、まつりごとはそれでも動くと返してくるであろう。ゆえに、
お前の行動はお前の言葉を裏切っている
と言ったのである。彼にはそのほうが伝わりやすい。少々詐術めいた言い方になった、と郤缺は肩をすくめた。
郤缺が戻ると、士会が来ていた。相手をしていたのは息子の郤克である。初めて士会が会ったときは幼児であったが、あれから何年もすぎた。幼児は少年となり、思春期も過ぎたころである。
「今度、お子を、その叔どのをお連れください、俺も弟がほしい。俺は士季の弟になったんですから」
きゃんきゃんとした言葉で郤克が話しかけている。小柄であるためか声変わりが過ぎても少々甲高い。士会が、今度連れて来ようか、と笑っている。
「士季、久しいではないか。そして、克。何をしている?」
笑顔で室に入り、郤缺は士会に拝礼する。士会も丁寧に返礼した。が、郤克は、あわ、という声を出したまま、混乱し、その後バタバタと郤缺に拝礼した。
「ち、父上、お役目おつかれ――」
「克。父の代わりに士季を供応していたことは、褒めてやろう。しかし、出迎えに関してはここでは憚られるゆえ、己の室で待つように。下がってなさい」
郤克は、こわごわとした様子で、丁寧に礼をし、辞するためにゆっくりとあとずさる。が、立ち上がって足をとられ、ヨロリと倒れそうになった。すかさず郤缺はかけより、床に体が叩きつけられる前に支える。そのまま室の外まで連れて行き、
「ゆっくりお歩き。しかし、お前の室で待つように」
と、優しく頬を撫でて笑んだ。郤克は少し悔しい顔をしたあと、そのままとったんどたんという足音と共に立ち去った。
「郤主。過保護すぎる」
戻ると、士会が睨み付けてくる。
「我が嗣子の体をいたわってのこと。それに、私は怒っている。あとできつく叱っておく」
嗣子が親の迎えをしない。それに気づかず親の客とくだけた会話をしている。克に家宰が知らせたであろうが、うっちゃけたのであろう。士会がいなければ、即座に殴っていた。が、それと郤克の体をいたわるのは別の話なのだ。
「もう子供ではない。そのように手とり足とりは郤孟も悔しいと思うぞ。あれはいっぱしの男だ。あんたもいいかげん手を離せ」
「そのようなことより、なんとなく来たわけではあるまい。何用だ、士季」
他家のことに口を出すな。いくら兄と自称しようが、士会は郤氏のものではない。士会も言外の言葉に気づいたのであろう、顔を改め口を開く。
「今日の人事だ。まあ、裏のからくりなどどうでもよい。兄が荒れている。なだめる方法を教えてくれ」
士会の少し途方のくれた顔に、郤缺は呆れた。
「そのようなものが無いとわかっていて、私に相談するのは、ちと虫が良すぎるのではないか」
郤缺の指摘に士会が苦々しい顔をした。どうも、相談に来たのではなく本家から逃げてきたらしい。己の分家にかけこめば引きずり出されると思ったのであろう。士縠は士会を怖れながらも頼りにするという矛盾がある。ゆえに、さらに士会を怖れている。
「わたしは良き機会だと思うのだ。我が士氏は確かに法を定めた。しかしそれはもう祖父の時代、文公も恵公さえ遡り、献公の時代だ。今とは実情も変わっているであろうし、施行もあやふやになっている可能性がある。我らの見せどころというに、兄は趙孟が年下であるという一点で荒れ、侮られていると思い込んでいる。言わんとしていることはわかるが、亡霊に取り憑かれているとしか思えん」
「亡霊?」
郤缺は不審を隠さずに聞いた。士会は今で言う合理主義者である。当時の人間であるから天や神、卜占を信じてはいるが、淫祠、つまり迷信などは信じていないはずである。しかし、彼は頷いた。
「我が士氏を支配する亡霊だ。じいさまが作った法だからありがたい、じいさまの世をもう一度、じいさまの血を引く己らこそ貴い。わたしは、じいさまは好きであったが、我が家の祖父を慕う執念は正直うっとおしい。我が兄が一番取り憑かれている。……そのように養育されていた」
郤氏は武の一族だと、殴られるような勢いで育てられた郤缺は、士会より士縠の気持ちに沿ってしまう。嗣子は一族の血の重みを常に感じて生きているのだ。その点士会は末子であり、その重みから解放され、外から見ることができる。その視点は大切であり、本来なら嗣子を支えることができるはずなのだが、士縠は士会を消極的に拒絶している。
「そこで、だ。兄は趙孟を親の余光で据えられた飾りだと罵倒しているのだが、わざわざ次卿から正卿にしたのだ、そうではあるまい。が、我らに政堂の中などわかりようがない。郤主にお伺いする。趙孟はできるのか?」
正卿ができるのか? ではない。才と性質を問うている。そこまでの才か? そこまでの器なのか、と士会は鷹のような目で郤缺を突き刺すように見てきた。郤缺はそれを流すように柔らかく笑む。
「才はある。教養もこの国で一・二を争うと言ってよい。まつりごとにもまっすぐで真面目である。堅物であるが苦言を受け入れる器もある。序列に関しても厳しく守っていた。いまやあのものが序列一位となったが」
郤缺が苦笑していることに士会は気づいた。良いことだらけを並べているくせに、苦味のある微笑をむけてくる。
「欠点は」
士会は遠慮なく突いた。もちろん郤缺は隠す気がない。少しため息をついて口を開いた。
「人の情にきわめて鈍感だ。このたびの人事で狐射姑が怒り狂っていることがわかっていない。他の卿も、趙孟の言葉で不快となっている。趙孟は別に卑しい行いはしていない。が、気配りもわかっておらぬ。正道だけを見る男だと思えば良い」
「…………我が晋に人材は無し、か」
士会が嘆息した。いや、趙盾は人材としては有能だぞ、と郤缺は一応言葉を添えた。
「有能であろうが、そのような男は、次卿が合う。上に重しが無いと、浮き上がるのではないか? 誰もついてこぬ正卿など、飾りになるぞ。それに、兄はきっと邪推することだろう。そのような情の見えぬ男だ、兄は終始、侮蔑されていると思い込むだろうよ……」
最後に大きく息を吐いて、士会はごちた。郤缺は、明日どうなるかと思いつつ、
「私が出来うる限りは、皆を支えようと思っている。私は外から見て支えるしかできぬ身だ」
と返した。




