父の仇
良くわからない専門用語ぽいのが出たなあと思っても、深く考えず、ふわっとスルーしていただければと思います。
郤缺は大夫、いわゆる貴族の出である。若い頃から史官について礼や儀、敬愛を学び、弓の腕も馬車を御するにも努め、己を研鑽してきた。嗣子として父を継ぐ責務を常に強く感じていたと言って良い。重荷ではなく誇らしい義務として、である。父も良き嗣子を得たと誇らしげに笑っていた。
しかし、今の郤缺は農夫であった。暑い日差しの下、黍の邪魔になる草を、研いだ石刃で丁寧に刈っていく。それにしても、じりじりと焼けるような陽射であった。郤缺の額から顎にかけて何度も汗が流れ、ぽたりぽたりと落ちていく。薄い葛衣は背中の汗をべったりと吸い、色を変えていた。盛り上がるようにたくましい背筋が布越しに動く。三十の半ばの男盛りの体であった。
眩しい陽光の中、しずしずと歩いてくる妻の姿が目端に映った。彼女も貴族の出である。煮炊きさえしたことのない妻であったが、この邑の農民どもに教えを請い、煮豆を作るくらいにはなった。そのような農奴と同じ暮らしをしている。
妻が、瓜を乾かした器ををうやうやしく地に置き、貴族の儀に則った礼をした。郤缺も姿勢を正し、腰に差していた水入れの竹を地に置くと、礼を返して儀を行う。このような身にやつしても、儀礼だけは忘れては成らぬと二人で決めていた。互いに賓客を迎えるかのような威儀を、瓜の器にある蒸した粟と少しの木の実を前に行う。人は滑稽だと笑うだろうが、これは唯一残された郤氏の長としての意地でもあったし――身に付いた儀礼は抜けないものであった。水でまずは手を洗い口をそそぎ、そうして粟に右手を伸ばしたとき、
「そこにいるは、どこの賢人か」
と、声をかけられた。畦を乗り越え、男がかけよってきた。郤缺はその男の顔をうっすらと覚えていた。男は郤缺以上にこちらを覚えていたらしい。
「郤氏の嗣子ではないか。いや、もう郤主とお呼びすべきか」
男――胥臣という晋の重鎮が郤缺にすばやく近づき、うやうやしく座すると、一礼し、戸惑う夫婦をひたりと見た。
「その姿でも、お互いを賓客のように接し、礼をもって対する。それは徳人の行い。ここであなたにお会いしたのは天の采配でしょう。どうか、我らと共に戻り、君公に仕えてくれまいか」
郤缺は茫然も驚愕もせず、どちらかといえば呆れた。
「私は先君に仕え、現君に逆らった郤氏です。無理でしょう」
そう、郤缺が野に溶けこのような生活をしているのは何も道楽ではない。晋公重耳を殺そうとした逆臣の直系として、身を隠していたのだ。今、表に出れば処刑されるだけである。郤の血を残そうと思えばこそ、いっそ農奴に身を落としているのである。そうでなければ、祖を祀れぬ。この身はまだ、父の喪にさえ服せていない。
「私が保証しよう。あなたを君公に推挙し、郤氏を赦されるよういたします。ゆえ、共に来られよ。第一、私が見つけてしまった。もうあなたはそれしかない。私は今、司空です」
司空は都市開発、法を司る地位である。その彼が郤缺を見つけてしまった以上、逃げても追いかけるという意味であった。
郤缺は改めて胥臣へと向かうと、承ったと清々しい態度で返し、妻に優しい声で出立を告げた。妻はさっと立ち上がると竪穴式の掘っ立て小屋に駆け出し、幼子を抱き、下女のような姿になっている妾を伴って戻ってきた。妾は妻と共に嫁入りに来た、妻の侍女であり従姉妹でもある。郤缺の財産はそれらのみであった。
胥臣に促されるまま、彼の馬車に乗り、少々不安そうな妻の肩を抱いた。侍女が郤缺の子を引き取って愛しげに抱いている。妾にとって夫より主である妻のほうが大事なのであろう。
簡単に言ってくれる、と郤缺はため息をついた。胥臣の目に嘘は無く、その人格の良さが滲み出ていた。もし先の大乱が無ければ郤缺も交友を結びたいと思ったやもしれぬ。しかし、陰惨すぎる内乱の果て、重耳は弟の子を殺し、父の郤芮は逆上をもって重耳と敵対し続け、最後には味方のふりをした隣国秦にて処刑された。重耳の差し金であった。そこまで、郤缺の父を厭い、憎んでいたということになる。
その息子である己を、赦すわけがないではないか。胥臣は善臣であろうが、君公の心をほぐせるか。郤缺は倦んだ目で、己が隠れていた野が遠ざかっていくのを見ていた。
さて、郤缺の予想は半分は当たった。
重耳は度量の広い君主ではある。彼は安定を求めて国を出て彷徨ったと言って良い。時には立ち止まるような鈍重さを見せるも、叱咤した臣に従い見捨てるようなことはせず、望み通りに晋を継ぐと踏み切れば、陰惨な内乱に身を投じることも持さなかった。彼は国内にいた、優柔不断な一族たちを優しく赦した。そして、寵臣と同じように扱っている。
しかし、いくら重耳の度量が広いと言っても、己を殺そうとした男の息子の復職を快く受け入れはすまい。
事実、
「缺の父、芮はわたしを殺そうとした悪人だ。無理だ」
と、一度拒んでいる。
だが、胥臣はいっそ執着めいた説得をしつこく続けた。彼も重耳にしたがった寵臣あるが、それに甘えての訴えではない。重耳への忠心がために、郤缺を登用しろと具申しているのだ。胥臣は野にあった郤缺の様子を
「敬は徳のあつまりです。よく敬するときは必ず徳があり、徳は民を治めるものです。君よ、どうか彼を用いて下さい。わたしの聞くところでは『門を出れば賓の如し、つかうること祀るが如し』と言いますが、これこそ仁の法則です」
と、念入りに伝え、過去の偉人が仇でも賢人を用いた例を幾つも出す。
とうとう重耳は降参した。
「下軍の大夫であれば、目をつむる」
重耳の弟である夷吾――諡号恵公――の功罪は罪が大きく捉えられている。それを支えたのが郤芮であった。彼は恵公が枯れるように死んだ後も重耳に靡かず、恵公の遺児である圉を戴くも、その遺児を殺され逆上し、公宮に火をつけ、重耳を焼き殺そうとしたのである。その火が晋をさらに荒廃させたのは言うまでもない。
重耳個人の恐怖だけではなかった。晋人は郤氏への怨みと恐怖をいまだ抱いているのだ。しかし、親が罪あれど子に及ばさぬと古人も謳っていると言われれば、重耳も赦さないわけにはいかぬ。ゆえに、大夫として最下層の、所領も無い職であれば目をつむると応じたのだ。
重耳の処置に、胥臣は充分だと跪き頭を下げた。胥臣はこの時、下軍の佐でもあった。司空として罪人の息子を彼が監察すれば良く、下軍の佐であるのだから、郤缺の上役でもある。二重の監視とも言えた。
郤缺の、君公は赦さぬという予想は半分当たっていたが、赦さぬが登用するというところまでは考えが至らなかった。やはりそのあたり、重耳の度量は広く深いといえた。
郤氏は家としての存続を赦されたのだ。温情により祖先へようやく顔向けができるというものであった。
だからといって、全て水を流すという話ではない。重耳は外から見ると分かりづらいが、少々粘性がある君主である。心は広く我が儘を言わず家臣の言葉を素直に聞く性質であったが、放浪時に冷遇してきた国へ、ねっとりとした怨みを向けた。そしてその粘性が郤缺へもわずかに向かう。
「家の祀りは赦す、廟を整えこれからも絶やさず護るよう。しかし、芮の喪は赦さぬ、祀りも赦さぬ。祖父の豹以前なら良し」
当時、下級の大夫にいたるまで一族内のことは不可侵であり、君主は口を出さない。重耳の言葉は非礼であり無礼でもある。が、それほどまでに重耳にとって、郤氏という弟の協力者が恐ろしかったのであろう。滅ぼしたと思っていた郤氏、死した郤芮は徳深いという触れ込みの嗣子を残していた。
「朽ちかけた我が廟へのお心遣いと共に、祀りを絶やさず護るようとの言祝ぎ、缺は我が君の徳を喜び謳いましょう」
郤缺はうやうやしく頭を垂れ、重耳に平伏した。父を永遠に見捨てる代わりに、彼は一族の安寧をもぎ取ったのである。さて、どちらが孝なのか、彼にも分からなかったであろう。
重耳から所領も赦されなかった郤缺であったが、胥臣がさすがにみかねたらしい。下軍の佐として、小領を世話し、公室からの兵をわずかに貸し与えられた。
「これは君公の意に反することではないか、臼季」
臼季とは胥臣の字である。臼邑を有する胥氏の末子を意味している。問われた胥臣はかすかな笑みを浮かべて
「君公を説き伏せた。貴方は匹夫ではない。大夫としての体面もあろう」
と静かに返す。その声音に恩着せがましさは無い。このような臣が重耳を支えてきたのである。郤缺はかつての恵公とその周辺を思い出しながら苦い笑いを浮かべ、謝辞を述べた。
重耳の寵臣たちは最初から優れた人間だったかはわからぬ。が、晋から離れ、主を守り、あげくに先の見えぬ放浪の中で磨かれていったのであろう。重耳が十二年間避難していた邑から逃げ、放浪し、戻ってくるまでに約九年の月日が流れている。
その間、己らに流れた時間は同じはずだった。しかし重みに雲泥の差があるとしたら――我らは、父はなんだったのか。
郤缺は、過去の二十年を感傷を以て思い出しながら、小領の主となった。大夫としての体裁だけは保たれることとなる。家を取り仕切る家宰も、家の歴史や礼を嗣子に教える史官もいなかったが、それでも大夫ではあった。
『豹』という名が出てきましたが、郤缺の祖父です。わざわざ説明を地の文にいれるほどでも無いと思ったのですが気になる方がおられたらと思い、追記