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宿老の死

よくわからない専門用語や国際関係はふわっとスルーしてください。久々にBLです。

 郤缺(げきけつ)士会(しかい)の意外な姿を知り、親交ををさらに深めていた頃である。常に友好的であった(しん)(しん)の間に亀裂が走り始めていた。その亀裂は時を経るごとにさらに深くなり、やがて両国間で小競り合いや戦争が延々と続くこととなる。

 そのきっかけは(てい)という周室(しゅうしつ)から分かれた小国である。後年、晋楚(しんそ)の覇権争いに巻き込まれ続け、二面外交でなんとか生き抜いていく、悲しくもしたたかな国であるが、ここでは詳しく触れない。

 まず(さかのぼ)って春である。この鄭が晋を盟主と仰ぎながら楚に通じているとが分かり、晋と秦で秋に攻め立てる算段となった。が、窮鼠猫を噛むと言うべきか。鄭は密かに秦公(しんこう)任好(じんこう)へ参じ訴えたのである。

「秦と鄭は遠く、鄭が亡べば隣の晋の利益となるでしょう。晋は昔、(しょう)()の城を進上すると約束しておきながら土塀を設けて秦を防ぎました。東の鄭を領土にしたならば、西の秦に手を伸ばさない保証はありますまい」

 おおむね、このような口上であった。それは任好の心の奥に確かに響いた。秦は晋の動乱を収めるために幾度も動いてやっている。隣国が騒々しいと己の国に被害が及ぶということもあろう。晋からの妃を正室としていることや、晋に比べて文化的に劣っている引け目もあったやもしれぬ。が、何より任好がどうしようもなく人の良い名君であったため、恵公、公子(ぎょ)、そして重耳(ちょうじ)に力を貸したのである。中央政権から少々離れた田舎の隣国同士、末永く盟約を結べば良い。なんといっても晋の君公(くんこう)たちは任好によって晋公(しんこう)になれたのだ。秦の、いや任好の思いを汲み取るであろう。

 しかし、事態は想定外の方へ転がっていった。晋が覇者となったのである。秦も何度か(しゅう)を援助をしていたが、最西の田舎ものより、周の血族の国のほうが馴染みがあったらしい。むろん、楚を大敗させたこともひとつの要因ではある。

 任好の性格や好悪など関係無い。鄭の指摘により晋はもはや仮想敵国なのだと気づいたのだ。ゆえに任好はその申し出を幸いとし、鄭と盟約を結んで、晋に対する守りの軍を鄭に残し帰ってしまった。晋は裏切られた形となったのである。

 怒り狂ったのは狐偃(こえん)であった。年老いてなお激しさを持つこの老人は

「君公よ。秦の残した守りを攻め落とし、鄭を伐たせてくだされ。我が()氏の兵で事足りる」

 と強く願い出た。今までどおり素直な重耳なら、晋の名誉のために立ち上がるであろうと期待もしていた。しかし――

「秦には恩がある。彼の人の助けが無ければ私にこの成功は無かった。人の力を仰ぎながら伐つは不仁、味方を失うは不知、乱を起こして秩序を破るは不武。わたしは帰ろうと思うよ、(しゅうと)どの」

 重耳は穏やかに返すと、軍を収めて、そのまま帰ってしまった。狐偃はうちひしがれた姿で、重耳に従った。この老人は鄭を重耳に捧げたかったのだ。さらに覇者として勇躍してほしかったに違いない。しかし、重耳はそれ以上を求めなかった。なおも願い出ようとする狐偃は、重耳の背中に確かな拒絶を見た。勇躍より安定が良いのだという言外の主張は老人を打ちのめした。

 その後、鄭と晋は和解した。重耳のために全人生を激しく燃やし続けた狐偃は、ここで気が抜けたのか、命の薪が無くなったのか、みるみる覇気を失い、枯れた老人となっていった。そうして冬のさなか、まさに士会と郤克が出会った頃にぽっくりと死んでしまった。重耳はもちろん、共に放浪した近臣どもは己の父を喪ったかの如く嘆き悲しんだが、国内の氏族たちは少々冷えた目でその死を受け止めていた。欒枝(らんし)もその一人であり、郤缺もそうであった。狐偃は勇猛でありながら機転も利く男で、その才や力の全てを重耳に捧げていた。しかし、晋にその命を捧げていたわけではないことを、国人は皆知っていたのである。

 死した狐偃に冷えた目も向けず、しかし嘆き悲しむこともなく、一人の男がようやく(けい)となった。趙衰(ちょうし)である。さざ波ひとつ波紋ひとつ無い静謐なる湖のような瞳で、その役職を静かに拝命した。

 ある夜、欒枝が郤缺の乱れた髪を弄びながら微笑んだ。

「晋の均衡が変わる」

 言われなくてもわかる、と郤缺は思い、欒枝の手を振りはらった。

「久しぶりなのにつれない」

「鳥肌が立つ、そういうのはやめてください」

 鄭を晋が囲んだ秋、欒枝も郤缺も出陣していない。ゆえに頻繁に会えたともいえる。しかし、冬に入り狐偃が死んだことで、少々騒がしくなった。ようやく落ち着いたころ、欒枝が会おうと書簡を送ったのである。郤缺は丁寧に返答し、いつもの別邸で落ち合った。

 よもや、会話も無くいきなり抱かれるはめになるとは思わなかった。欒枝の目は珍しく獣欲を表しており、この男もそのような気分になることもあるのかと驚きながら、郤缺はおとなしく受け入れた。

 営みが終わった今も妙に甘え絡み、そして声が浮かれていた。郤缺は、欒枝が表には一切見せぬとも、狐偃を好いてはいなかったのだと、今さらながら気づいた。狐氏への偏重に対する警戒もあったのであろうが、狐偃その人が気にくわなかったらしい。機転の利きすぎるあの老人は、重耳を試すような発言が時折あったという噂は聞いている。己を忠臣と見ているかと推し量るのだ。その意味では狐偃にとって仕えるは重耳一人であり、そこにたまたま晋がくっついてきたとも言えた。一見穏やかに見えて政治に少々潔癖な欒枝には不快だったであろう。

「私の(らん)氏、武に優れた(せん)氏、そろそろ司空(しくう)から卿に専念するであろう(しょ)氏。そして――ようやく(ちょう)氏のお出ましとなった。()氏の勢いは無くなっていないが、これといった者はおらぬ。君公は舅犯(きゅうはん)の言葉を撥ねのけ道理を述べられたそうだ。力の均衡が崩れた今、卿の中には国にいた氏族に目を向ける者も出てくるであろうよ。――利用させるなよ、郤主(げきしゅ)

 弾むような声から、最後には地から響くような声音で欒枝は言葉を紡ぐと、郤缺の唇を軽く食んだ。郤缺は拒むこと無く、目をつむった。

 ここ数月の間に、欒枝は郤缺を面倒な氏族へそろそろと溶かしていった。少しずつ薄れていく郤氏への恐怖より、欒枝の信じるに足る言葉と郤缺の篤い敬愛の態度のほうが印象が強くなっていく。当時、徳深さ、仁、礼や信は現代より強く重視され、個人の美徳が法を超え、そのまま信頼と支持に繋がっていた。その意味では理屈の通じない時代であったと言ってよい。郤缺はそんな時代の申し子のようなところがあった。ただ、時折、冷たい理が心の奥に走る。それはもう、習い性のようなものであった。

「また。それは抑えなさい」

 そうなると、やはり欒枝は父親面で郤缺をそっと諫めるのであった。

 ゆったりとした営みが終わり、余韻の戻らぬ郤缺は、そのようなことをぼんやりと考えていた。このオヤジ、いつもは一発でへとへとのくせに、今日はやけに張り切りやがって。そんなことも同時に考えてもいたが。欒枝の『それは抑えろ』という言葉はただの処世術というわけではなく、欒枝自身を表していたのだと分かった。郤缺はいっそ非情な冷たい理を抱えている。それを見せてしまえば、余人は恐ろしさを感じ拒絶さえしてくるであろう。故に欒枝はそっと忠告するのだ。が、欒枝自身が抑えているものは理ではなかった。彼は重苦しいほどの強く(くら)い情を抑えていたのだ。その片鱗が今、少し軽薄さを伴った態度で出てしまっている。意趣返しに

 ――あなたこそ抑えなさいな

 とでも言ってやろうかと思ったが、やめた。欒枝から郤缺にだけ見せているのだなどと言われれば、たまったものではない。

 それよりも、である。

「確かに狐氏への偏りは減りましょう。が、あなたを除く先氏、胥氏、趙氏はやはり君公について苦難の旅を成した近臣です。特に(ちょう)子余(しよ)は君公が長く卿へと待ち望んだ方。彼自身は中庸であったとしても、周りがそうとは限らない。また偏重が起きませぬか?」

 胥臣(しょしん)を思い浮かべながら郤缺は言った。胥臣自身は礼節をもった善人である。が、重耳に対する忠は強く重い。逆臣の子である郤缺を推挙したのも、郤缺の才を惜しんだというより重耳のためを思ってである。先氏に関しては全く知らぬが、武に長けた者どもはどうしても血腥(ちなまぐさ)い発想をしがちなのだ。その最たる者が郤芮(げきぜい)であったろう。どちらにせよ、二つの一族は晋国より君公に重い。欒枝が苦笑する。その苦笑は郤缺の言葉を是としたものであった。

「そうだな。例えば先氏は狐氏ほどではないが、どうも君公と心を沿わせようとするきらいがある。先氏も狐氏も武門の一族だ。どうも武に強い一族は忠を思うと血が(たぎ)るのかもしれん」

 郤缺は思わず唇を噛みしめた。欒枝が言外に郤氏も含めていることがわかったからである。かといって、欒枝は別に郤缺を嬲るつもりは無い。所感を述べているだけである。

「しかし臼季(きゅうき)は礼節を重んじ尽くしている。少々重たい忠義心であるが、それだけに君公しか見ておらず、己の勢力を伸ばそうということも考えていない。国内の氏族に声をかけるなら先氏だろうな。彼の一族は本来、卿になるほどの家柄ではない。先の乱の功で領地も増えはしたが、本質的に地盤は弱い。それに気づいているものがおれば、あるいは」

 郤缺は己の父や祖父を思い出し、

「もし先氏に気付いた者がいたとしても、氏族を利用しないでしょう」

 と、小さく言った。その肩が弱そうに見え、欒枝は思わず手を伸ばし、郤缺を引き寄せ軽く抱きしめた。郤缺はうっとうしそうにその手を払いのけたが、欒枝の胸の内から離れることはしなかった。話を促すように欒枝が郤缺のこめかみに軽く口づけた。それは払いのけず、郤缺は口を開いた。

「狐氏は外に(ゆう)があることを割り引いても、国人を一顧だにしなかった。それは己の武に自信があるからです。先氏も武に長けたと言われる方々、きっと自信があるでしょう。そのような人々は気づいたとしても他者の手を取らぬし、伸ばさぬ、共に歩むなどもってのほか。武を誇る氏族は他の氏族がすり寄ってきて初めて従えてやろうと考えるものです。――そう言うと傲慢に聞こえますが、違います。それが矜持なのです。だから、先氏は地盤の弱さがわかったとしても、己らだけで補おうとする。そういうものです」

 郤缺が言い終わる前に欒枝が再び腕を回し、今度は強く抱きしめた。郤缺はそれを払うことなく言葉を終え、ため息をつく。なぜか悲しい気持ちが襲ってきた。故に、欒枝は郤缺を抱きしめたのであろう。情人を慰めるのは囲っている男の本能のようなものだ。

「私の家は武と文、双方の家でもある。祖父は文、父は武であった。偏りの無い我が家ではそのような発想は無かった。考えようも、なかったな」

 耳元で(ささや)くと、欒枝が再びこめかみに口づけし、次に耳朶(じだ)やうなじに唇をそわせていく。郤缺は悲しさが吹き飛び、少し眉を(ひそ)めた。

「……またですか」

 うんざりした気分と呆れた思いを言葉に乗せると

「うん」

 とまるで子供のような返事が返ってくる。こんなに積極的な欒枝など、今までにない。はっきり言ってこれきりにしてほしかった。が、求めるのなら仕方があるまい。郤缺はさっさとどうぞ、という色気の無い言葉を吐いて欒枝に身を任せた。

 ――そんなに一人の老人の死が嬉しかったのか。郤缺は初めて欒枝に同情した。

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