「ぜっっったい、兄だなんて認めないから!」
本当の母は水姫が小学生に上がって間もなく病気で亡くなった。入学式の日に病室で撮ったものが最後の家族揃っての写真となった。三年生になってから癌だった事を打ち明けられた、遺伝の可能性があるから身体には気を付けなさいと教えられた。
父が初めてあの人を連れて来た日の事はよく覚えている。母の病気を教えられた一週間後の事だ。思えばあの告白は新しい母を迎えるにあたっての準備の一つだったのだろう。幼心にそう感じた水姫の相手方に対する警戒心は非常に高まっていた。
「お父さんのお友達の紗也加さんと、息子の信護君だ」
「初めまして水姫ちゃん、信護はあなたの二つ上で五年生なのよ、仲良くしてね」
少し高級なレストランで、四人向かい合っての会食。親同士はにこやかに会話していたが、子供達は口数少なく、水姫に至っては拗ねて一言も話さなかった。トイレ、とだけぶっきら棒に父に告げて席を立つ。用を済ませても戻りたくなくて、わざとゆっくり、ゆっくりと席に向かって歩いた。
「信護、どうしたの? やけに大人しいじゃない。もっと水姫ちゃんと話したら?」
自分の名前が出た事に驚いて、思わず近くの席の影に隠れる。長いテーブルクロスのおかげで三人には気付かれなかった。敵の息子、もとい信護はもじもじと俯きながら顔を赤くしている。
「だって母さん……水姫ちゃん、かわいかったから、恥ずかしくて……」
水姫に電流走る。お転婆なせいで男子から可愛いなんて言われ慣れていない少女に不意打ち気味に降り注いだ誉め言葉。意識するきっかけには十分だった。
何事も無かった顔でそっと席に戻り、その後も無言を貫いた水姫だったが、帰宅後ベッドの中で悶々と考える。まあ? 顔は悪くなかったし? 優しそうではあったし? そっちがその気なら考えてあげなくもないけど? なんて思ったりして、
「どうだった?」
と翌日父が尋ねて来た時に、
「まぁ……良いんじゃない」
と答えてしまったのが最大の失敗だった。その後毎週の様に食事会がセッティングされ、広い家に引っ越す話が出たと思ったら、半年後には結婚式が行われて、敵と信護は水姫の家族になってしまった。
「水姫、おばさんじゃなくて、お母さんだろ。信護もお兄ちゃんなんだからな」
「呼び方なんて別に何だっていいでしょ!」
お母さんはお母さんだけだ。でも、おばさんが一緒に暮らす事になった方は大した問題ではなかった。水姫にとって大問題だったのは、
「水姫に、お兄ちゃんって呼んで欲しいな……」
信護が兄貴面し始めた事で、自分の気持ちをどうすればよいか分からなくなった事である。
はぁ!? あたしの事好きなんじゃなかったの!? って聞いたらこっちが先に好きになったみたいじゃん! あたしはあんたが、あんな事言ったから……!
釈然としない気持ちを乗せて、水姫は毎日こう叫んだ。
「ぜっっったい、兄だなんて認めないから!」
けれど四人での生活は、一年半で終わりを告げる。半壊した自宅は、不幸にも大発生の中心地近くにあって。偶々家族全員が揃って自宅にいた日で。崩れた壁の下敷きになった水姫は、自分を守る様に覆い被さった義母が息絶える瞬間を感じた。信護に瓦礫の下から助け出された後、何かに切り裂かれた父の頭部を見た。
そして、二人に背を向け去って行く灰色の二メートルの狼を見た。
「ぁぁ――――――!」
絶叫しそうになる水姫の口を信護が強く塞ぐ。あれに気付かれない様に、その意図は何となく分かったが、気持ちは抑えられなかった。
狼が遠くへ行って、水姫の拘束が解かれる。水姫は最初に、信護の胸倉に掴み掛かった。
「何でっ……あいつが、あいつのせいで!」
「だからって、俺達にどうにか出来る相手じゃないだろ。落ち着いて、避難所に行こう」
「何でそんな事言うの!?」
「もう、義父さんも母さんも助からない。俺が水姫の事を守らなきゃいけないんだ」
「違う…認めない…あんたなんか兄じゃない……」
「………」
泣き崩れた水姫を無理やり抱きかかえ、信護は冷静に避難所を目指した。初めてのお姫様抱っこは最悪の記憶になった。何度も瓦礫に躓いて、転びそうになっても、信護は水姫を離さなかった。この時に彼がどんな気持ちでいたのか、どれだけ強く自分を奮い立たせていたのか、時間が経って落ち着けば水姫にも理解できただろう。けれど。
それを考える前に、水姫は武器を手に入れ、復讐に囚われる事になった。
『水姫、水姫! 私を、握れ! 握るんだ……!』
武器が焦った様に叫ぶ。身体が思う様に動かない。貧血、体温の低下。肩と足の肉が食い千切られ、特に足の方は動脈が切れている為出血が激しい。が、水姫はその事実を把握できていない。彼女の頭の中は周囲にいる悪意を倒す事だけで満たされていた。
周りを取り囲む様に小型のグレーの狼が六体、誰から、どちらに飛び掛かるか窺う様にゆっくりぐるぐると歩いている。早く、倒さなければ、腕が、上がらない……。
「水姫! しっかりしろ! 死ぬな!」
信護が必死に出血箇所を押さえているが、真っ白だったタオルはもう全て赤く染まっていた。自分の事よりも、逃げて欲しい、そう伝えたいが声は掠れて届かない。
戦う理由は二つあった。復讐だけではなかった。あなたを、守りたかったから。
はっきりと気付いた時にはもう遅かった。信護は水姫を守る様に覆い被さり、爪と牙を一身に受けた。どちらが事切れるのが先だったかは分からない。けれど。
「……愛してるよ、水姫」
絞り出された最後の言葉を、自分の命が尽きる瞬間まで覚えていた事だけは確かだった。