幕間「俺は特別な人間じゃなかった」
そのいじめは小学五年生の頃から始まった。手を出してくるのは何時も決まったメンバー、リーダーはクラスの柄の悪いガキ大将、そのくせ金持ちで頭が良い。そいつらだけじゃなく、周りの見て見ぬ振りするクラスメイトや先生も、皆みんなグルだと思った。
俺が何をしたって言うんだ? 名取は考えた。只友人を作らなかっただけだ、クラスに馴染まなかっただけだ。部屋の隅で一人大人しく漫画描いてただけだ。それが何で、こんな目に。
毎日風呂入ってるのに臭いって言われるし、新品のノートもビリビリに破られるし、内履き隠されて遅刻して笑われるし、悔しそうな顔すればする程生意気だって言われて、本当に訳が分からなかった。
何で自分だけがこんな目に遭うのか、以前の自分みたいに隅っこでこそこそしてるクラスメイトに聞こうとして、逃げられたから観察する事にしてみた。そいつらはどうも、いじめに加担する事で名取の様になるのを免れているらしい。偶々最初のターゲットになっただけで、別段自分は特別な人間じゃなかったという事だ。
まあ二年耐えれば解放されるだろうと思っていたのだが、残念な事にいじめっ子共は同じ公立の中学校に進学した。当然、いじめは継続される事となった。
新しい先生なら頼りになるかもしれない、と一度担任に相談してみた。いじめ調査のアンケート用紙が配られて、何時ものメンバーが職員室に呼び出された。
そして、遊んでいるだけでいじめは無かったと告げられた。おまけに構ってくれる貴重な友達なんだから大切にしなさいとも言われた。
希望は潰えた。そこからは毎日、真っ暗な学校生活が続くだけだった。
何故親に相談しなかったのかって? 共働きだったから、それだけだ。食事の時間は合わないし、偶に顔を合わせると目の下に隈があるし、休日は疲れて動けない、そんな人達に余計な心配を掛けたくなかった。一人で何とか出来ると思ってたし、本当に一人なんだと思い知らされてからも「なんとかしなきゃ」と思った。
でも抵抗力は段々と削られて行って、二年の九月にはもう何時死のうか、きっかけがあればな、何て考えていた。そんな時、彼女と、彼女に出会った。
「きみ、大丈夫、怪我はない? 何あいつら、嫌な感じだったね、ちょっと追いかけて来る」
いじめのリーダーが徒歩の名取の真横すれすれを自転車で通り抜け、転倒したところに手を差し伸べてくれた女生徒がいた。一、二年どちらも別のクラスで面識は無く、名前も知らなかったが、カッコいい少女だと思った。彼女は名取が立ち上がるのを見届けるとパンパンとズボンの土を払ってくれ、その後本当に自転車を追い掛けて行ってしまった。凄い健脚で追い付き、リーダーの自転車の後輪上の金具を無理やり引っ張って停止させ、何か言い合いをしているのを遠目に眺めた。次の日から、奴等は少し人目を気にしてから名取をいじめる様になった。
一月後の体育祭で、彼女が長伊飛鳥という名前である事を、彼氏がいる事と同時に知る事になる。淡い初恋は叶わないものだ、と思いを投げ捨てたが、その後も彼女はいじめの現場を見かけると奴等を追い払い助けてくれる様になった。
時は戻って九月の終わり、名取はもう一人の彼女、新月叶子が悪意に襲われる街を眺めている現場に遭遇した。ある筋で自殺の名所と噂される廃ビルに不法侵入した時の事だった。
騒ぎを見下ろす目がどこか罪悪感に満ちていて、この人は自分の様に他人行儀で階下の惨事を眺めている訳ではないのだと察した。バキリと板を踏み割ったせいで、彼女はこちらに気付き振り返った。そして、薄暗い中で見えていなかった灰色の狼が一匹、名取の前に姿を現した。少女を守る様に立つその姿を見て、名取は衝撃で震えた。
彼女は悪意と親しくしている、この素晴らしき『破壊の力』と。
名取は悪い足場を気にもせず、その場で土下座し頼み込んだ。
その力が、俺も欲しいと。
衣替えしたての夏の日の放課後。魔術を覚えて、とうとう自分をいじめている奴等に逆襲できる、そう嬉々として中学校近くに魔法円を描いた。けれど生み出した悪意は名取の命令を聞かなかった。支配に失敗していたのだ。
灰の狼はターゲットとは別の生徒に襲い掛かった。慌てて追い掛けた名取が目にしたのは、血を流し倒れる長伊飛鳥の姿だった。頭が真っ白になって、気が付いたら自室の布団の中に閉じ篭っていた。
彼氏が居たのだから、どうせフラれたのだから、別に、別にどうって事はない。そう言い訳を並べ立てたけれど、翌日彼女の死を知って、名取は二ヶ月学校を休んだ。一ヶ月は家からも出なかった。ようやく外出する気になって、最初にしたのは叶子さんに会う事だった。
「分かったでしょう、目的の為に、関係のない多くの人の命を奪う事になる。それでもまだ、続けるの?」
彼女の問いに対する答えは、とっくに決まっていた。
「叶子さん、俺は特別な人間じゃなかったんす。自分の失敗を素直に認める強さも、逃げる事を選べる弱さも無かった。一発で成功させられる運も実力も無い。でも……それだけの事で諦められる程、俺の恨みは浅くないって、分かったんす」
考えた。奴等を殺す為に何を犠牲に出来るのか。彼女のいない学校は当然どうなってもいい。両親が巻き添えになった時は、後悔はするだろう。するだろうけれど、もう、関係ない。
「俺は、自分の将来を捨てて復讐を取ります。今まで奪われた分を、アイツ等から奪い返さないと気が済まないんすよ」
人が悪魔になる瞬間は、きっと誰にだってある日突然やって来る。自分の環境が特段悪かったとは思っていないが、一つ不幸があったとすれば「ストッパーの役目を果たす人間」がどこにもいなかった事だろう。
叶子さんは名取の言葉に、どこか遠くを見たままこう呟いた。
「あなたの心はもう、とっくに壊れてしまっているのね……」
名取は、その言葉の意味を少しだけ考えて、止めた。