王様の耳は、もふもふ
薄汚れた身なりの老人を最高級の宴でもてなしながら、王は怖れおののいた。
普段であれば、門前に居座る物乞いのひとりやふたり追い払った程度の些事が王の耳を煩わせたりはしないのだが、門番からの報告を受けた衛兵隊長がたまたま異国の噂に思い当たり、至急、部下に物乞いを探し回らせ、城へ連れ戻させたのだ。
“異国の城門に現れた物乞いの正体が神であった”という、衛兵隊長が耳打ちしたその噂は王も知っていた。
神をもてなした異国の王は、みすぼらしい外見に惑わされず貧者を丁重に扱った褒美として、触れるものをみな黄金に変える魔法の力を分け与えられた。しかし、神の力は人の身に余り、無限の富を約束されながら、パンのひとかけらさえも食べられぬまま、黄金の食卓と黄金の家臣と黄金の妻子と黄金の宮殿に囲まれて死を待つばかりになったとか、あるいは自らも黄金像となって死んでしまった……と聞く。
物乞いの正体に気づかなかったふりをして追い払うことは、もうできない。褒美を受け取らず、しかし老人の機嫌を損ねて逆に天罰を受けたりしないように、穏便にやりすごすにはどうすればよいか?王は記憶にある限りの賢王や哲人達の言葉を頭の中で掘り返し、葡萄酒の酔いが回る余裕もないほど必死で考えを巡らせたが、おとぎ話に登場する勇者のような頓智は何も閃かず、まごまごしているうちに、運命のときを迎えてしまった。
「いやぁ、食った食った!今日は楽しませてもらったぞ。人間もまだまだ捨てたものではないわい」
踊り子に混じって千鳥足の老人はその場に座り込み、満足そうに太鼓腹をさすると、全身からまばゆい光を放ち始め、さきほどの容姿とはまるでかけ離れた獣頭人身の本性を空中に顕した。その姿こそまさしく、丘の上の万神殿に建ち並ぶ白亜の神像のうちの一柱そのものだった。
下界へふらりと遊びに来ただけの神は、頼みもしないのに魔法の力を王に授けると、「いずれまた立ち寄らせてもらうぞ」と言い残して神々の世界へ帰って行った。
王は深く後悔した。宴席に残るパン籠へ手を伸ばし、家臣達が固唾を呑んで見守る前で、目を閉じたまま、山盛りのパンの中からひとつ掴み取る……。神をもてなす機会など万にひとつもありはすまいとタカをくくっていた。噂など法螺話かもしれないとさえ疑っていた。異国の王の悲劇が他人事であったうちに、もし自分の順番が巡ってきたらどうするか、もっと熟考しておくべきだったのだ。
……おそるおそる目を開けると、パンは確かに魔法の力によって変化していたが、金塊などではなかった。小麦色のもふもふした小動物が、熟したオリーヴの実のような黒い両目をしばたかせ、手のひらの上ですっかりくつろいで毛繕いをしている。
「まあ、かわいい!」王妃と侍女達に連れられて散歩から帰ってきた王女の声だった。
驚いたパンが王の手のひらから飛び降り、いずこかへ逃げ去った。回廊の奥へ消えてゆくもふもふから視線を玉座に戻した王女は、ごちそうの並ぶ長卓と勢揃いでひざまづく家臣や踊り子達のあいだを駆け抜け、何やらひどく憔悴した様子の父に飛びつこうと無邪気に駆け寄ってくる。王は玉座から立ち上がろうとしたが、とっさに掴んだ左右の肘掛けにたちまち獣毛が生い茂り、一瞬ひるんだ隙に娘を抱き留めてしまった。
「おお……おお!!」
「どうなさったの?お父様」
王と、王妃と、周囲の一同が刮目した。小首をかしげる王女は人の体型を保ったまま、全身をもふもふの毛皮で覆われた獣の姿に変じていた。獣頭人身の神が王に授けた魔法は、触れたものを皆もふもふに変える力だったのである!!
こうして王女はもふもふになってしまったが、しばらく経つと宮廷の誰もがもふもふ姫の容姿に慣れた。というのも、少女が可愛いのは当たり前であり、もふもふした動物が可愛いのも当たり前であり、それゆえ、もふもふした少女がとびきり可愛いのは当然だからだ。
初めのうちは閉じこもりがちだった王女が、もふもふの姿となった父母に励まされ、親子揃って民の前に姿を見せると、「王様の耳は、もふもふ」という合言葉のもと、もふもふは万民の理想となり、そして貴族も庶民も、国じゅうが王の握手によってもふもふ獣人まみれになった。人間が毛深くなると猿に似るはずだが、獣頭人身の姿に変じた王国の人々は犬に似たり、猫に似たりして、必ずしも猿にはならなかった。
一方、触れるものが皆もふもふになってしまう王は、噂に聞いた異国の黄金王ほど日常生活に困りはしなかった。魔法の手でいろいろ触って試すうちに、元々もふもふだった物体はそれ以上もふもふに変化しないことが分かったので、不都合といえば今後一生獣肉以外食べられないぐらいのものだった。また、水分は変化の例外だった。いつか出会った神と同じ獣頭人身の姿を手に入れた、耳から尻尾までもふもふの王は、もふもふの妻と娘に囲まれて、もふもふまみれの平和な王国で生涯幸せに暮らした。
おわり