彼女
「別れよう…」
俺は彼女に切り出した。
「え…?」
彼女は事態が飲み込めていないようだ。
「だから…別れよう。」
俺はもう一度繰り返した。
「そんな…何で…?」
今にも泣き出しそうな目で俺を見つめる。
「元々わかってたことだろう?俺たちの関係は長くは続かないって」
タバコに火を付けながら言う。
彼女はただ俯いていた。
「わかってはいたけど…急過ぎない…?さっきまであんなに…」
そう言うと彼女は言葉を詰まらせた。
「こればっかりは仕方ないだろう…?紗江だってこうなることをわかってて俺と付き合うって言ったんじゃなかったのか…?」
彼女は何も言わず、俯いたままだった。
「もうすぐ結婚式もあるし…いつまでもこのままじゃいられないよ…」
タバコを消し、帰る支度を始める。
「…何で…何で私じゃないの…?どうして彼女なの…?」
彼女は涙を流しながら俺に尋ねる。
「何でって…そういうのは気持ちの問題だから…。そんなこと言われても困るよ…」
声を出して泣き始める紗江。
俺は彼女にかける言葉が見つからない。
というか、俺が慰める資格なんて無いと思う。
慰めても、同じことを繰り返すだけ。
いっその事、これで嫌いになってくれたほうがいい。
正直、俺は紗江に何の感情も無かった。
歩と結婚しようと決めていたし、他の女の子を異性として意識したことは無かった。
でも、ある日紗江から告白された。
「彼女がいてもいいから、付き合ってくれ」と。
俺は何回も断った。
それでも彼女は何回も告白してきた。
そして、俺は彼女と寝てしまった。
魔がさしたんだ。
言い訳の仕様もない。
最後には傷つけてしまうことはわかっていたんだ。
最悪、歩も傷つけてしまうかも知れないことも。
でも…一度一線を越えてしまったら…もう後には引けなくなってしまった。
俺が弱かったんだ…。
「じゃあ、俺帰るから。今までありがとな」
俺は、そういい残してホテルを後にした。
これで、全てが終わることを祈って…。
その日の夜、俺は夢を見た。
それは紗江の夢だった。
彼女とデートをしたり、彼女の家に行ったり…。
なぜそんな夢を見たんだろうか…。
きっとあのホテルのことがあったからかな…。
でも、もう終わったことだ…。
気にしないようにしなきゃな…。
それから俺は、毎日のように紗江の夢を見るようになった。
毎回同じ夢。
なぜだろう…。
俺がそれを望んでいたのか…?
そんなことはない。
俺は歩と結婚することを選んだ。
その選択に後悔なんてないし、むしろこの先の生活が楽しみなくらいだ。
紗江とのことに未練なんてあるはずもない。
歩の横でこんな夢を見るなんてどうかしてる。
紗江とのことはもう忘れよう…。
…忘れよう…。
「ねぇ…充、私に何か言うことない?」
夕飯を食べていると、歩が急に聞いてきた。
「は?」
俺は思わずドキッとしてしまった。
「何か最近様子がおかしい気がするんだよね。落ち着かないっていうか」
俺の目をまっすぐ見つめる歩の目は、俺を探っているかのようだった。
「そんなこと無いよ。落ち着かないのはもうすぐ式があるからだよ」
笑顔でそういうが、彼女は未だに疑いの目で俺を見ている。
「正直言うと、浮気してるんじゃないかと思ってたりする」
歩はサバサバした性格なので、聞きたいことはストレートに聞いてくる。
まぁ、そんなところも好きなんだけど。
「浮気なんてしてないよ。前にも言っただろ?俺は歩以外の異性には何の感情も持てないって」
「それはそうだけど…」
彼女はいまいち納得できないようだ。
「なんか納得いかないけど…今回は私の勘違いってことにしとくよ」
そう言って再びご飯を食べ始める。
「本当に勘違いなんだけどね」
俺が笑いながら言うと、彼女は俺をしばらく見つめたあと、ニコッと笑う。
「そうだといいけどね」
彼女の目が笑ってない…。
こわっ…。
だが、その後彼女が同じ話題を俺に振ってくることは無かった。
数日後。
家で歩とテレビを見ていると、俺の携帯が鳴った。
「充。電話鳴ってるよ」
歩はテレビを見たまま俺に言う。
「うん」
携帯を開くと着信は紗江からだった。
何でこんなタイミングでかけてくるんだ…。
「はい。海老原です」
俺は普通に電話に出た。
「充?紗江だけど…」
彼女の声はとても暗かった。
「はい。お疲れ様です」
紗江は俺の応対で、歩と一緒にいることを悟ったらしい。
「ごめんね…。歩と一緒なんだね…」
彼女の声は今にも泣き出しそうだった。
「はい。その件でしたら、先日お伝えしたもので大丈夫です」
俺は淡々と言った。
すると、電話の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。
「はい。では、また後日ご連絡させていただきます」
俺は構わず言う。
「はい。失礼いたします」
そう言って俺は一方的に電話を切った。
「お仕事?」
歩むが俺の方を見ていった。
「うん。お得意さんからの電話。」
俺は紗江の着信を消してから携帯を下の場所に置く。
「そっか。営業さんは大変だね」
ニッコリ微笑む歩。
なんとか誤魔化せたみたいだな。
後で電話して文句言ってやらないと。
その夜。
俺は歩が寝たのを確認した後、ベッドを抜け出した。
もちろん、紗江に電話をするためだ。
「もしもし…」
紗江はすぐに電話に出た。
「お前あんな時間にかけてくるなよ。前から言ってるだろ?」
俺が言うと、彼女はまた泣き出した。
「だって…充のことやっぱり諦められなくて…どうしても声が聞きたくなっちゃって…」
彼女は泣きながら一生懸命訴えてくる。
「お願い…。充の側にいたいの…。どんな形でもいいから…側にいさせて…」
正直、俺はうんざりしていた。
もう紗江と話すのさえ嫌なくらいに。
「もう無理だよ。この前も言っただろ?それに、こうなるのわかってて俺と関係持ったんじゃないのか?今更だろ」
俺は冷たく言い放つ。
「でも…」
なんなんだ?
もういい加減にしてくれ。
「でもじゃないだろ?もうこういうのやめてくれないか?仮にも歩の友達なら、彼女の幸せを願うのが普通だろ」
その言葉を聞いて、紗江は言葉を詰まらせる。
「もう二度と電話してくるな」
そう言って俺は電話を切った。
これで終わればいいんだけど…。
「ん…。充…トイレ?」
ベットに戻ると歩が目を覚ました。
「うん。トイレ」
そう言いながら歩にキスをする。
「ふふ…」
寝ぼけているのか、歩は俺に抱きついてくる。
「もう寝な」
俺は彼女の頭を撫でながら、布団をかけなおす。
「うん…おやすみ」
彼女はそういうと小さな寝息を立て始めた。
俺はその後もしばらく歩の寝顔を見つめていた…。
その日以来、紗江から連絡が来ることはなくなった。
やっとわかってくれたのかとそう思っていた。
しかし、それは俺の勘違いだったようだ。
「ん…?」
仕事で街中を歩いていると、紗江に良く似た後姿を見つけた。
いくら偶然とはいえ、あんまり会いたくないな。
今更会っても話すことなんて何もないし、またややこしい事になるのはめんどくさい。
1週間後には式もあるし。
何も無いに越したことは無い。
俺は少し遠回りにはなるが、違う道を行くことにした。
が、少し歩くとまた紗江の後姿を見つけた。
「あれ…?」
もしかして俺のこと気づいてるのか…?
それなら声でもかけてきそうなものだが…。
しばらく歩いていると、前にいたはずの紗江の姿が何処にもなくなっていた。
「なんだ…?」
気持ち悪いな…。
それともまったく別の人だったのか?
まぁ…いいか。
俺はあまり気にも留めず仕事先へ向かった。
その日の夜。
「ただいま」
俺が帰ると、リビングから聞き覚えのある声が聞こえた。
「あっ!おかえり」
リビングに入ると、歩が俺のほうに駆け寄ってくる。
その後ろでイスに座っているのは、紗江だった。
「お邪魔してます」
彼女は笑顔で会釈する。
「ども…」
俺は引きつりそうになる顔を必死で押さえる。
「紗江が遊びに来てくれたの」
歩は嬉しそうに言った。
「それでね、今から3人でご飯食べに行こうかって話してて」
3人でご飯!?
冗談じゃない!!
「俺はいいよ…」
俺が言うと歩は少し寂しそうな顔をした。
「そう?もしかして明日朝早いの?」
俺の顔を覗き込むように聞く。
「あぁ。ごめんな」
歩の頭を撫でる。
紗江は俺たちのやり取りを黙って見つめている。
「仕方ないよ。仕事だし」
笑顔でそう言うと、歩は紗江のほうに向き直る。
「ということなので、今日は二人で行こうか?」
紗江はニッコリ笑う。
「そうだね。いつでも行けるしね」
その言葉と同時に俺のほうを見る。
「…」
俺になんて答えろって言うんだ…。
「あ…。でも、充の夕飯どうしよう?」
歩は、俺の顔を見ながら首を傾げた。
「俺は大丈夫だよ。適当に食うから。楽しんできな」
俺はちゃんと笑えているだろうか…。
「わかった」
歩は頷くと、出かける準備を始めた。
「よし、じゃぁ行こうか?」
数分後、歩は紗江を連れて家を出た。
「はぁ…」
やっとゆっくりできる…。
紗江と一緒に食事なんかできる訳がない。
何を言い出すかわからないし、食事どころじゃない。
「さて…」
俺は腹ごしらえをしようかと、冷蔵庫を開けた。
「…」
開けたはいいけど…俺、料理苦手なんだよな…。
「はぁ…。仕方ない…」
俺はコンビニに買い物に行くことにした。
キッチンを汚して怒られるよりはいい…。
「ありがとうございましたぁ」
俺はコンビニで弁当を買い、外に出た。
「ん…?あれは…」
外に出た俺が見たのは、見覚えのある姿だった。
「紗江…?」
何であいつがあんなところにいるんだ?
歩と飯食いに行ったはずだろう?
紗江らしき人物は、こちらに気づかず、闇夜に消えていった。
なんだ?
ってことは、歩帰ってきてるのか?
…弁当無駄になったな…。
家に帰ると、歩の姿はなかった。
帰ってきた形跡もない…。
じゃあ、あれは紗江じゃなかったのか?
…いや。
あれは確かに紗江だった。
少し遠かったけど、家に来たときと同じ格好をしていた。
…歩が帰ってきたら聞いてみるか。
その後、俺は一人で夕食をすまし、風呂に入った。
そろそろ寝ようかと寝室へ向かうと、玄関の閉まる音がした。
リビングに行ってみると、歩が帰ってきていた。
「おかえり」
俺は笑顔で歩を迎えた。
「みつるぅ!ただいまぁ!!」
歩は嬉しそうな顔で俺に抱きついてきた。
「飲んできたの?」
俺が聞くと、答えの代わりにキスをしてきた。
「うん。少し飲んできちゃった」
歩は甘えながら答える。
「そっか」
俺は頭をなでながら言った。
歩は満足そうな顔をしている。
昔から歩は酒が入ると猫みたいになる。
それがまた可愛かったりするんだけど。
「歩、風呂はどうする?入るか?」
俺が聞くと、歩は首を横に振る。
「もうねる。みつると一緒にねるぅ」
なんか子供みたいだな。
いつもしっかりしてるから、余計に可愛い…。
「じゃぁ、ベット行こうか。荷物、俺持つから」
そう言って、歩の手から荷物を受け取る。
「ありがと」
…その笑顔は反則だろ…。
可愛すぎる…。
俺たちは寝室まで移動し、そのまま眠りについた。
あ…紗江のこと聞くの忘れてた。
まっ、明日聞けばいいか。
次の日。
俺は歩の声で目を覚ました。
「やっと起きた。おはよ。朝ご飯できてるよ」
そう言いながらカーテンを開ける。
眩しい光が目に痛い…。
…そうだ。
「歩。昨日、紗江は途中で帰ったのか?」
歩は俺の質問にきょとんとする。
「何で?ずっと一緒にいたよ?」
不思議そうな顔で俺を見る歩。
「あ…そっか。昨日コンビニ行った時に似た人見たからさ。」
俺が言うと、歩はにっこりと笑う。
「ホントに似てたんだね。充が見間違えるなんて」
歩の様子からすると、ホントにずっと一緒に居たみたいだな。
きっと俺の気のせいだろ…。
その日の夜。
俺は、タバコを買う為、コンビニに寄ってから帰ることにした。
「あっ!!充!!!」
…この声は…。
声の方を振り返ると、そこには紗江の姿があった。
「偶然だね。こんな所で会うなんて!」
偶然…?
ここは俺の家の近くだぞ…?
偶然なわけないだろ…。
紗江は俺の気持ちに気づかない様子で、嬉しそうな顔をしている。
「これから帰るの?」
笑顔で俺に聞いてくる。
その顔を見てたら、なんだかイライラしてきた。
「お前、昨日俺のことつけてただろ?」
俺は低い声で問う。
「つけてないよ。昨日だって仕事だったし…。」
紗江は俯きながら答える。
「嘘つけ!昨日の昼間何回もお前のこと見たんだよ!歩とご飯食べに行った時だって、このコンビニでお前のこと見たんだよ!いい加減にしろよ!!」
思わず紗江を怒鳴りつける。
紗江は今にも泣きそうな顔をしている。
「確かに、まだ充のことは忘れられないし…会いたいと思うこともあるよ!!でも、本当につけたりしてないもん!!」
言い終わるころには、紗江の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「じゃあ、今日ここに居るのは何だよ!?お前の家方向まったく違うだろ!!」
俺が言うと、紗江は何も言えず声を殺して泣いていた。
「充…やっぱり側に…。」
♪~♪~♪~
その時、俺の携帯が鳴った。
相手は歩だった。
俺は紗江に構わず電話に出た。
「もしもし?」
俺が電話に出ると、紗江は信じられないといった顔で俺のほうを見た。
『もしもし?充?今日何時ごろ帰ってこれる?』
歩は少し浮かれたような話し方だった。
「今日?もうすぐ帰るよ」
俺が言うと、紗江は俺を睨んだ。
『わかった。今日ね、式場から電話があったから、その事話したいなと思って』
嬉しそうに話す歩。
「そっか。わかった。すぐ帰るよ」
俺はそう言って電話を切った。
「悪いな。俺帰るわ」
紗江にそう告げ、帰ろうとした時、紗江の平手が俺の顔に飛んできた。
バチンッ
「いっ…」
紗江はボロボロと涙を流していた。
「もう知らない!!好きにすればいい!どうせ私なんか…!」
叫ぶように言うと、紗江は走り去って言った。
…これでいいんだ…。
これできっと紗江は俺を嫌いになる。
これで…いいんだ…。
俺はヒリヒリと痛む頬を押さえながら、コンビニを後にした。
「おかえり!!」
俺が帰ると、歩が笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま」
歩は俺の手から荷物を受け取る。
「あのね、今日式場の人から電話があったの」
歩は満面の笑みで話す。
本当に式が楽しみなんだな。
「そうなんだ。式場の人なんだって?」
俺はスーツを脱ぎながら聞いた。
「うん。最終確認の電話だった。別に特別なことを言われたわけじゃないんだけど、ついに結婚するんだなぁって思ったら、早く充に会いたくなっちゃって」
少し照れながら話す歩。
「そっか」
歩を抱きしめようと、近づく。
「あとね」
そんな俺をじっと見つめ、歩は話を続ける。
「充とちゃんと話し合っておきたいと思って」
…嫌な予感がする。
「何を?」
俺は平静を装う。
「浮気について」
まっすぐに俺を見つめる目は、すべてを知っているかのような目だった。
「俺は浮気なんか…」
「それは聞き飽きたの」
歩の目は真剣だった。
「そういう言葉が聞きたいんじゃないの。もっとちゃんと話し合いたいの」
…俺はとんでもないことをしていたんだと、この時初めて気がついた。
確かに、紗江と会っているとき、いつも罪悪感はあった。
だけど…ここまで歩を傷つけていたとは思わなかった。
どこかで、紗江のせいにしていたのかもしれない。
「俺の意思でこうなったわけじゃない。俺は被害者なんだ」と。
本当の被害者は歩だったんだ…。
だけど、本当のことは歩には言えない。
言ったら…絶対歩を失うことになる。
そんなことだけは…したくない。
卑怯なのも、都合がいいこともわかってる。
でも…歩だけは失いたくない…。
俺は、静かに歩を抱きしめた。
「ごめんな。でも、信じてくれ。俺は浮気なんてしてない」
俺の言葉を、歩は黙って聞いている。
「今何を言っても、言い訳に聞こえるかもしれない。でも、これが本当のことなんだ」
抱きしめる腕に力をこめる。
「わかった」
歩は俺の腕から離れ、俺の目を見て話す。
「充のこと、信じる」
それだけ言うと、今度は歩が俺を抱きしめる。
「愛してる」
歩がつぶやくように言った。
「俺も…愛してる」
歩を抱きしめながら言う。
これでいいんだ。
大切なものを失わないためなら、嘘をつくぐらい…良いよな…?
***結婚式 当日***
「…」
花嫁衣裳に身を包んだ歩を見て、俺は言葉を失った。
「何か言ってよ…。恥ずかしい…」
歩は顔を赤くして俯いた。
「…綺麗だよ」
今の俺には、その言葉が精一杯だった。
あまりの感動に言葉を失っていたのだ。
「充も…かっこいいよ?」
歩はにっこりと笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔より綺麗だった。
「俺…幸せだわ」
俺が呟くと、歩は首を傾げる。
「ありきたりな言葉かもしれないけど、歩と結婚できることがすごく幸せだと思う」
歩は黙って俺の言葉を聞いている。
「不安にさせたりもしたけど、これからは俺が歩のこと幸せにしていくから」
そう言うと、俺は歩を抱きしめた。
「うん。ありがと」
歩の声は震えていた。
「ほら、まだ泣くなよ。化粧が取れちゃうだろ」
俺は指で歩の涙を拭う。
「うん。そうだね」
恥ずかしそうに笑う歩。
♪~♪~♪~
その時、俺の携帯が鳴った。
「おっと。ちょっと出てくるな」
俺は歩を残し、控え室を後にした。
画面を確認すると、それは紗江からだった。
一瞬出ようかためらったが、後で何か言われるのもどうかと思い、電話に出た。
「もしもし?」
俺がでると、少しほっとしたような声が聞こえた。
「出ないかと思った」
「用件は何?」
俺は、取り合えず早く電話を切りたかった。
「昨日私怒って帰っちゃったから。謝ろうと思って」
紗江は本当に申し訳なさそうに言った。
「別にいいよ。俺も悪かったし」
そっけなく返事をする。
「それとね…」
紗江は一呼吸置いてから話し出した。
「おめでとうを言おうと思って。」
俺は何を言われているのかわからなかった。
「充が言ったように、元々こうなることはわかってたんだし、それでも関係を求めたのは私だし。いつまでも好きな人を困らせるようなことはやめようと思ったの。これ以上嫌われたくないし…一応歩の友達だし」
やっとわかってくれたのか…。
「そっか」
俺はかなりホッとしていた。
「うん」
紗江は明るい声で頷いた。
「今日の式、楽しみにしてるから」
そう言うと、紗江は電話を切った。
これで、何の心配もなく、式を迎えられる…。
俺はそう思って、疑わなかった。
式は順調に終わり、披露宴が始まった。
ふと横を見ると、歩は青い顔をして座っていた。
「どした?」
俺は、歩の背中をさする。
「うん…朝からなんか体調悪くて…」
歩は、口に手を当て、気持ち悪そうだった。
「大丈夫か?少し休憩入れてもらうか?」
俺が聞くと、歩は首を横に振る。
「大丈夫。少しすれば落ち着くと思うし、みんなに心配かけたくないから」
歩は弱々しい笑顔を見せる。
「わかった。でも、ダメだと思ったらすぐ言えよ?」
そう言うと、歩はコクリと頷いた。
その時、嫌な視線を感じた。
視線の先を見ると、そこには紗江の姿があった。
その席は、俺たちの席がよく見える席だった。
今の全部見てたのか…?
そう思ったとき、紗江の前に友人の一人が座った。
友人が座ると、紗江はまったく見えなくなった。
「よかった…」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
「それでは、皆様お待ちかねのケーキ入刀です。カメラをお持ちの皆様は、前のほうへお越しください」
司会の人の言葉を合図に、友人や親戚が一斉に俺たちに向けてカメラを向けた。
なんか恥ずかしいな…。
「それでは、どうぞ!!」
司会の方に促され、俺たちはケーキにナイフを入れる。
ボキッ
嫌な音とともに、俺たちの手元が軽くなった。
「…!」
ナイフが…折れた…?
普通、ナイフってこんなに簡単に折れないだろ…?
「あ…えっと…」
司会の人もこの光景に驚きを隠せないようだった。
「皆様、すみませんがお席にお戻りいただけますか?次のお料理をお運び致します」
司会の人が、半ば強引にみんなを席に戻す。
みんなは口々に何か言いながら、各自の席へ戻っていく。
そんな中、一人席に座ったままの紗江が目に止まった。
紗江は、ただこちらを見ている。
そして…
「………させない…」
今…何か聞こえ…た…?
いや、この距離で紗江の声が聞こえるはずがない。
じゃぁ…今のは…何だ…?
「新郎様も、お席に戻っていただいてよろしいですか?」
アシスタントの人が俺を呼ぶ。
「あ…はい…」
俺は、嫌なものを感じながらもその場を後にした。
「ふぅ…」
数十分後。
俺は控え室でタバコを吸っていた。
あんなことがありながらも、披露宴は何とか進み、今はお色直しの中座中なのだ。
「肩こった…」
どうやら、自分でも意識しないうちに力が入っていたらしく、首を回すとポキポキと音がした。
「んん…」
思いっきり伸びをした時、鏡に何かが映ったような気がした。
「…?」
もう一度、鏡を見ると、そこには紗江の姿があった。
「なっ!!」
俺は驚いて、後ろを振り返る。
しかし…そこには紗江の姿はなかった。
外に出て見ても、スタッフ以外は誰もいない。
…今のは…なんだったんだ…?
お色直しをして、会場に戻ると、みんなが拍手で出迎えてくれた。
そのまま、キャンドルサービスをしていく。
俺たちが行くと、みんなが笑顔で祝福してくれる。
写真を撮ったり、少し話をしたり、結婚することを誰もが喜んでくれているようだった。
ただ一人を除いて…。
紗江がいるのテーブルに行くと、同じテーブルの俺の友人が肩を組んできた。
「お前、歩ちゃん幸せにしろよなぁ」
どうやら少し酔っ払っているらしい。
「当たり前だろ。な?歩?」
俺は歩を見る。
「うん」
歩は満面の笑顔で笑う。
「何だよ!見せ付けてくれちゃってさ!」
友人は、少しふてくされた様に言った。
「何だよ。お前が言ったから答えたんだろ」
俺たちが、楽しく会話しているとき、紗江はニコリともしなかった。
歩は、ほかの友達に気を取られ、そのことに気づいていないようだった。
そして、遂にメインキャンドルへの点火となった。
「では、お願いします」
司会の人の声で、俺たちはメインキャンドルに火をつけた。
「ありがとうごいます。皆様大きな拍手をお願い致します」
その声と同時に、拍手が起きる。
俺たちは、お互い顔を見合わせ、微笑みあう。
その時、キャンドルの炎が怪しく揺らめく。
その先には、すごい顔をしてこちらを睨む紗江がいた。
次の瞬間…
「!!」
キャンドルの炎が消えた。
それを見たアシスタントの方が、俺たちにもう一度つけるように促す。
俺たちはそれに従い、もう一度火をつける。
「では、次は…」
司会の人は、今の出来事を悟られないように、披露宴を進めていく。
何か今日おかしくないか…?
色んなことが起こりすぎているような気がする…。
気持ち悪くなるくらいだ…。
この先、何事もなく終わることを祈るよ…。
その後は、特に何も起こらず、無事に進んだ。
そして、この披露宴もやっと終わりを迎えようとしていた。
俺は違う意味で疲れてしまっていた。
「それでは最後に、新郎様からのご挨拶です」
これが終われば、退場しておしまいだ。
早いとこ済ませて、この場から逃げたい。
「今日は、私たちのために、お忙しい中…」
「………ない……」
ん?
今何か…?
「ご来場頂きまして、ありがとうございました」
「……させない…」
まただ…。
何だ…これ…?
「まだまだ未熟者の私たちですが…」
「…なんかさせない…」
この声…気持ち悪いな…。
「これからも皆様のご指導と…」
「幸せになんかさせない…」
その不気味な声と共に、マイクが異様な音を立てた。
キーンッ
「歩!!」
その音を聞いた歩は、その場に倒れこんでしまった。
「歩!!おいっ!!」
呼んでも反応がない。
「すいません!運ぶの手伝ってもらっていいですか!?」
俺は近くに居たスタッフの人に頼み、歩を控え室まで運んだ。
控え室に入ると、女性のスタッフが彼女のドレスを緩めてくれる。
心なしか、彼女の顔色が少し良くなった気がした。
しばらくすると、友達の何人かが尋ねてきた。
「歩ちゃん、大丈夫か?」
みんな本当に心配そうな顔をしている。
「たぶん大丈夫だと思う。実は今日、元から体調良くなかったみたいなんだ。でも、みんなに心配かけたくないからって、そのまま続けてたんだ…」
「そうか…」
かける言葉が見つからないのか、みんな黙ってしまった。
「そういえば…」
沈黙を破ったのは、歩の友人だった。
「紗江見かけませんでしたか?歩が倒れてから、姿が見えないんだけど…」
「紗江が?」
その時、俺の頭の中に、さっき式場で聞いた声が蘇った。
あの声…もしかして…。
「悪い。歩のこと頼む」
友人に歩を頼み、俺は部屋を飛び出した。
会場、待合室、チャペル…。
色んな所を探したが、紗江の姿は見当たらなかった。
どこに居るんだ…。
まさか、帰ったのか?
いや…そんなことは…。
「お客様」
俺が考えを巡らせていると、スタッフの人が声をかけてきた。
「何か、お困りですか…?」
一応、聞いてみるか。
「あの、人を探してまして。ピンクのドレスを着た女性なんですが」
すると、スタッフの人は少し考えた後…
「その方でしたら、上の階に行かれたと思いますが」
上の階…?
「あ…わかりました。ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げると、階段へ向かった。
でも、この式場、確か2階立てだし、2階は広間見たいな所だし。
あいつ、何のために…?
しかし、2階のどこを探しても、紗江の姿は見つけられなかった。
その時、俺の目に、非常階段の入り口が目に付いた。
まさか…。
恐る恐る開けてみると、そこには、屋上に通じる階段があった。
屋上にあがると、そこに紗江が立っていた。
「おいっ」
俺が声をかけると、紗江はゆっくりと振り向く。
「やっと来た。待ちくたびれちゃったよ」
紗江はニッコリと笑い、こちらに近づいてくる。
「でも、充なら必ず見つけてくれると思ってたんだ」
こいつ…目がおかしい…。
「おいっ。俺の話…」
俺の話を遮るように、紗江は話を続ける。
「だって、充のこと本当に愛してるのは私でしょ?」
何を言ってるんだ…こいつ…。
「だからね…」
俺の首に紗江の手がかかる。
「充の隣に私以外の女が居るのは見たくないの…」
紗江の手に力がこもる。
抵抗したいのに…動けない…。
「一緒に死んで?」
紗江は今までに見せたことの無いような笑顔で笑う。
殺される…。
そう思った瞬間、俺は叫んでいた。
「やめろ!!」
それと同時に、紗江を思い切り突き飛ばした。
「あっ!!」
気づいたときにはもう遅かった。
この屋上には柵が無い。
思い切り突き飛ばした紗江の体は、まるでスローモーションのように屋上の外側へ落ちていく。
しかし、紗江の顔は不気味な笑みを浮かべている。
まるで、この出来事を狙っていたかのように…。
「キャー!!」
下のほうから女の叫び声が聞こえる。
でも、俺には下を見る勇気は無かった。
ただ、紗江の居た場所を見つめることしかできなかった…。
「愛してる」
「でも…幸せになんかさせない…」