開幕とお約束
放課後になったことを告げる鐘の音が響いた。
「……」
同じ高校にろくに友人もいない俺は、さよならともまた明日とも言わずに教室を出る。廊下に出てしまえば教室の喧噪など別次元のことのようで、ようやく俺は一息ついた。
真っ直ぐに学校を出て、秋風吹き荒ぶ歩道を一人歩く。いつも俺は、自宅とは別方向のあるところに寄ってから家に帰る。今日もその例に漏れない。
十分ほど寒さに耐えながら歩くと、目的地が見えてきた。いわゆる、盲学校というところだ。
白い杖を持ちながら、寒そうにマフラーに顔をうずめる少女――俺の幼馴染である折原朱音だ。
いつも閉じられているその瞳のまつげは長く細くて、白い肌がマフラーの奥に見える白い肌は正直目に毒だ。俺が近づいても、朱音はそれに気づいたそぶりはない。つまらなそうに、彼女の前を横切って行く歩行者たちを眺めているように見える。
まあ、それもそのはず。俺は白い息を一回吐いてから、朱音に声をかける。
「おう、迎えに来たぞ」
「……あ、夏林」
「名前で呼ぶなって言ってるだろうが」
俺の名前は秋梨夏林。女っぽい名前がコンプレックスの、どこにでもいる高校生だ。
ようやく俺に気づいたようで、少し笑顔になり俺の方へ一歩踏み出してくる。だが、二歩目が踏まれる前に俺が彼女の腕をそっと掴む。
「いつもごめんね」
俺のその仕草に何か感じるところがあったのか、申し訳なさそうに目を伏せてくる。俺はそれに苦笑しながら答えた。
「……まあ、おばさんにも言われてるしな」
「うん、ありがと」
いつも繰り返しているような問答を終えて、俺たちは歩き出した。
朱音は生まれつき目が見えない。物心つく頃には俺はもうその事実を当たり前のこととして受け入れていて、接し方をもう定着させている。
俺の唯一の友人と言っても過言ではない彼女は、恐らく俺の次に俺のことをよく知っているだろう。
「……眠い」
「それ今言わなきゃダメ?」
「仕方ないだろ。今日は勉強しすぎて寝てねえんだ」
「そっか……」
何も言わなくても通じ合う仲、とまではいかないかもしれないが、お互いの夢や希望くらいは語り合った関係だ。俺の台詞で朱音は黙りこくってしまった。
赤信号の手前で、俺たちは立ち止まる。
白杖を小脇に抱えた朱音は、俺の腕をつかんでいる。控え目に添えられた手からは、温かな感触が伝わってくる。人気のない道で、その部分だけはとても温かく感じた。
横断歩道の歩行者用信号機が、放つ光を赤から青に変えた。それを見て、俺はまた朱音の手を引いて歩きだす。
黒と白の縞模様の真ん中あたりに来たところで、乗用車が向こうの道路からやってくるのが見えた。そろそろスピードを落としてもよさそうなものだが、まだ速度は落ちない。
車のヘッドライトが俺たちを明るく照らす。距離はどんどん狭まっている。少し嫌な予感がした俺は、強めに彼女の腕を引いた。
「朱音、少し急ぐぞ」
「え、ちょっとどうしたの?」
「いいから!」
急ぎ始める朱音だったが、見えていないことと俺の大きな声に驚いてしまったのか動きは探るように遅々としている。
「朱音!」
俺は朱音の手を引き、抱きよせた。白杖がカランと音を立てながら転がる。車に背を向けて朱音を守るような体勢になった俺は、自動車の突進を体全体で受けた。
衝撃は一瞬だった。一瞬で、俺に自分の命の終わる瞬間を理解させた。
人体から出てはいけない音が立て続けに響く。跳ね飛ばされた俺の体は大きく飛び、自動車を軽々飛び越えた。
「う、あ……」
着地はひどく無様なモノだった。もちろん受け身などは取れるはずもなく、地面にもろに激突した。肺の空気が一斉に押し出されて、胸が苦しくなる。
なぜか、痛みはあまりなかった。体も鉛を詰め込まれたように動かしにくいし、首の骨が折れて神経が馬鹿になっているのかもしれない。
痛いのは嫌なので、それは僥倖だった。
霞ゆく意識の中で、ドシャリと不快な音とともに何かが落ちてくるのが分かった。落下地点は、丁度俺の隣あたりだ。
ろくに言うことも聞かない俺の体を必死に動かして、それがなんなのか手探りで確かめようとする。
「あ」
何かをつかんだ。折れ曲がった首を必死に動かして、俺はその落下物の方向に目を向けた。
「あ……」
朱音の腕だった。まだ温かかったが、綺麗な曲線を描いていたあの腕は変な方向に曲がっていて、ひどく歪に見えた。
彼女の閉じられた瞳から、一筋の涙が零れおちた。それを拭ってやりたかったけれど、もうそんな体力も残っていない。
朱音も俺が腕を触れていることで俺の存在を認知したのか、更に涙はとめどなく溢れてきた。
涙を止めてやりたかったはずなのに、更に泣かせてしまう。とんだクソ野郎だ。
暗くなった夜道を逃げるように、ヘッドライトとエンジン音が遠のいていく。ふざけんなよ。人二人轢いといて、対応がそれかよ。
俺はいいにしても、こいつは助けてやってくれよ。
そんな情けない懇願は自動車の運転手にも朱音にも届くはずはなかった。
「夏林……ごめんね」
今日二回目のごめんねは、今までのごめんねを総括しているように思えた。口癖のように彼女が呟いて、俺が気にしないでいいと返す、そんな当たり前の応酬が、今は遠いものに感じる。
医者になるという夢があった。医者になって、彼女のような人を助けられる「すごいもの」を作ろうと思った。
朱音にそう告げた時、彼女はまた「ごめんね」と言った。
だけど、俺が欲しかったのはそんな言葉じゃないと、そう言いたかった。
ただ、俺が欲しかった言葉。
「あ、ああ……」
薄れゆく意識の中で、そのことだけが心残りで、俺の頬にも熱いものが伝った。
そして、自分の体がふっと崩れる感覚。大事なものがなくなって、軽くなっていく感覚。これが死だと、初めて知った。
そのまま俺は、後悔やら怒りやらで支配されたまま、秋梨夏林という人間の生を終えた。
* * *
暗い部屋で、不気味な光を放つ水晶を囲むように女と老人は立っていた。その水晶の中には、たった今起こったばかりの
「ここまでは予定通りです」
「そうか。だがまだ第一段階だ。気を抜くな」
「はい」
黒装束の女が、仰々しく頭を垂れる。
「破壊神復活の儀式だ。確認のためにエルスクリアにお前を置いている。確認が出来次第、すぐに戻って来い」
「承知しました」
黒装束の女の姿が、一瞬にしてかき消える。
それを見送った老人は、不意にしゃがれた笑い声を出し始める。それは部屋全体を不気味に漂った。
「百年だ。誓いが立てられてから百年、この時のために準備をしてきた」
その哄笑は徐々に形を帯び、魔力となって体外にあふれ出し始める。濃密な死の気配は、水晶玉を音を立てて破壊した。
ガラスの破片が飛び散り、破壊神と聖女の姿がひび割れる。
「さあ、始めようか。歴史の改竄を」
――影が、動き始める。
* * *
「……え?」
目を覚ますと、そこは森の中だった。新鮮な木々の香りが、ダイレクトに俺の鼻孔をくすぐってくる。鳥たちの泣き声も、リアルに俺の耳朶を打った。
東京というコンクリートジャングルから、今度はファンタジー然とした森の中にいる。夢かと思って髪の毛を二、三本むしってみるが、確かに痛い。
装いも、今までは高校の制服だったが、今では十八世紀ごろのヨーロッパにありがちな村人のようになっている。
そして最後に。
「骨、折れてない。首も……折れてない。ちゃんと生きてる」
飛んだり跳ねたりしてみるが、特に異常はない。
「それに、この景色にも見覚えないしな……」
俺は森の中で一人、首を傾げる。だが、いくら考えようとも答えは浮かんでこなかった。
ということはあれだろうか。巷で噂の異世界転移。いやブームは随分と下火になっている気がするけども。
「いやいやいやいや、まさかね……」
自分が考えたあり得ない設定に、自嘲するように笑う。
それでも、その笑い声に力が入っていないことは歴然で、俺自身が否定しきれないことを表わしていた。
そんな時だ。
俺を含む辺り一帯が、大きな影に飲み込まれた。
「……ん?」
最初は太陽が雲に隠れただけかと思ったが、上を見上げて見てすぐに違うと悟る。
甲高い鳴き声は、遥か遠くにいる空の覇者の雄たけびだった。遠くにいるのに、その巨体故に遠近感が狂ってしょうがない。
ホラ話か童話にしか出てこないような、空想上の動物。
「ドラゴンだ……」
雄々しく翼を広げるドラゴンが、俺の呟きを肯定するようにもう一度甲高く鳴いた。
「やばいよやばいよ」
思わずリアクション芸人界の大御所になってしまいながら、俺は急いで木の影に隠れる。ここが森で助かった。
ドラゴンが通り過ぎるまで、俺は息をひそめてその場にうずくまっていた。
「マジで異世界転移だったよ……」
幻覚だったのかもしれないと思いながら、異世界にはつきものであろうあのシステムを呼び出す言葉を、俺は口にしてみた。
「ステータスオープン」
アキナシ カリン Lv1
スキル:大殺戮 覚醒
称号:同族殺し 無慈悲
音もなく半透明のステータスウィンドウが表示される。まさかのお約束だった。というかスキルと称号物騒過ぎないか。……まあ、心当たりはなくもないが。
レベルもあるし、スキルもある。
どうやら、本当に異世界転移したらしい。まあ、元の世界に未練はなかったので、嬉しいような悲しいような気持ちで微妙な顔になってしまう。
徐々に現実を受け入れ始めた俺だが、どうにも歯の奥に食べ物が挟まったような違和感がある。
「……朱音?」
一緒に死んだはずの、彼女がいない。
これからよろしくお願いします……!