前編
さすがは王家主催、出される料理もお菓子もワインも質が違うわ。
私は開いた扇で口元を隠しながら上品に長テーブルの上に並べられた品を少量ずつ皿に取りながら舌鼓を打つ。
本日の夜会は隣国から呼び寄せた歌姫の歌がメインで、会場には特別に巨大な舞台が設置されている。
歌姫が歌を披露するのは夜会の半ばと最後。
そのため夜会が始まったばかりの今の時間は皆それぞれテーブルの料理を楽しんだり知り合いに挨拶回りをしたり。令嬢たちは友人同士寄り集まっておしゃべりを楽しんだり。
そんな少なくとも表面上は穏やかで楽しげな雰囲気をぶち壊したのは、私ーーニナ・ニルベールの婚約者、ハロルド様だった。
「ニナ!話がある!!」
あらあら、こんなところでそんな大声を出して、会場中の視線が好奇心たっぷりにこちらを向きましてよ?しかも挨拶もなしにいきなり話があるだなんて。ずいぶん不躾ですこと。
常識というものがないんでしょうか?
ないんでしょうね。
あったら王家主催の夜会で腕に婚約者以外の女性をぶら下げてたりしないですよね。
長身のハロルドの腕に小柄な彼女が掴まっている様は、寄り添っているというよりもぶら下がっているかのように見える。
クルリと大きな榛色の瞳にピンクブロンドの髪を高い位置で纏めて項から一部を両肩に垂らしカールさせた彼女は、彼女は……あら、名前を忘れてしまいましたわね。
まあいいか、人様の婚約者に言い寄る輩ですから、ビッチで。
さてそんなビッチは庇護欲をそそるのだろう童顔に怯えを浮かべてハロルドの腕にますます身体を擦り寄せた。
まるで私が何かしたような態度ですけど、私別に何もしていないし何も言ってもないわよ?
もちろん睨んで威圧してもいない。
そんなことしたら糞尿撒き散らして失神するでしょうし。しませんよ、そんな汚いのも臭いのもゴメンだもの。
ハロルド様は候爵家の嫡男で金髪碧眼のいかにも王子様然とした容姿のお方だ。王子じゃないけど。
社交界では一応美丈夫で通っているらしい。
見るからに貧弱で私の好みではないけど。
せめて細身でも細マッチョであってほしい。
見たことないけど、絶対お腹割れてないわよね?
そんな美丈夫らしいハロルド様と小柄で可愛らしい彼女の寄り添い合う姿は大変お似合いだ。
女性にしては長身で細身だけど胸以外全身ほぼ筋肉で釣り目がちキツイ顔立ちの私よりもずっと。
だけど、婚約者は私。
ビッチじゃなくてこの私。
ニナ・ニルベールだ。
しかも王命で定められた婚約者。
そのことをこの頭がお花畑な二人はきちんと理解しているのだろうか?
王家主催の夜会で王命で定められた婚約者以外の女を腕にまとわりつかせる非常識男とそんな非常識男に人目も憚らずしがみつくビッチ。
あなたがたの立ち位置は今そんな感じなんですけど。
わかっていないんでしょうねぇ。
私は手に持ったクラッカーを隠れた扇の奥でこっそり口に入れる。
ん、美味しい。
塩味のあるクラッカーに濃厚なチーズの香り、その上に刻んで散りばめられたアーモンドのほのかな苦味がちょうど良い具合に調和している。
話しかけられている最中にものを口にするというのは淑女のマナーとして当然褒められたものではない。
ないけれどそもそも先にマナー違反をしているのはあちらだ。ならば少しくらいの無作法は許されて然るべきだろう。
だいいち元より私は淑女(笑)なんて柄でもなければ身分でもない。
いえ、身分的には淑女たるべきなのか。
今や私は他国とはいえ一国の王、だから。
………………面倒くさい。
ああ面倒くさいったら面倒くさい。
だいたい世の男どもが不甲斐ないから私があっちでもこっちでも面倒くさい事になるのだ。
脳裏にまた別の面倒事が二つほど過ぎって、私は扇の奥で盛大にため息をついた。
さて、そんなうんともすんとも返事をしない。ついでにちらりと視線を向けたあとは目も合わさない私の態度に焦れたのか、ハロルドはズカズカと私の目前に歩み寄ると、フンッと鼻息も荒く言う。
「ニナ!貴様はこのビビアンを下級貴族だと散々蔑み虐めていたらしいなっ!なんと下劣ではしたない女だっ!!貴様のような女はこの私に」
「はい、ストップ」
と、私は扇をパチンと閉じてハロルドの喉元に押し当てた。
フフ、と思わず小さく声を出して笑ってしまう。
だって、その台詞の先は聞かなくてもわかるもの。
ーー相応しくない。でしょう?
そしてきっとそのあとはこう続くのですよね?
婚約を破棄する、と。
王命をなんだと思ってるんでしょうか。
たかが一人の、しかも下級貴族らしい少女を虐めていただけで王命で結ばれた婚約を破棄する?
しかも国王にお伺いも立てていないですよね?
だってもし事前に国王の耳に入っていたら、このような事態にはなっていないはずですもの。
ほら、視界の隅でようやく突然の暴挙に唖然としていた人たちの一部が慌てふためいて会場の外に出ていきましたわよ?
きっと国王やその側近の方々を呼びに行ったのでしょうね。
国王や高位の貴族は遅れて登場するのがお約束。
今頃は豪奢な控室で寛いでいたのでしょうに、可哀想にまた頭皮が寂しくなるのではないかしら?
私は胸中で国王の頭皮に残るわずかな毛髪にさよならを告げて、クスクスと笑う。
「な、何がおかしい!?」
顔を真っ赤にして激高するハロルドを無視した私は、カツカツとヒールを鳴らして会場を歩き出す。
途中で手にしていた扇と皿を適当な給仕に押し付け。
歌姫の舞台の直前まで進み出ると、
パン、パン!
と二度手を打った。
風の魔法で会場内隅々まで響き渡ったその音に、これまで騒ぎに気づいていなかった少数も、我関せずと無視していた少数も、すべての目がこちらを注目する。
私はそれらを先祖返りの証であるルビーレッドの双眸をすがめて見渡し、にっこりと微笑みを浮かべ、すぅ、と肺に息を吸い込んだ。
「お集まりの紳士、淑女の皆様。せっかくの素晴らしきこの場を私事の騒ぎで乱してしまいましたことを私、ニナ・ニルベール心よりお詫び申し上げます」
この一月、皇宮の女官たちと猛特訓した完璧なカーテシーを見せつけると、一部からは「ほぅ」と感心するような、見惚れたような声が。別の一部からは驚きの声が、また別の一部からは困惑と興味のないまぜになった視線と声が私を遠巻きに取り巻く。
感心し驚き、困惑するのも無理はない。
ほんの少し前まで、私にはマナーのマの字もなかったもの。
貴族の皆様からすれば野生動物のようなもの。
脳みそが全部筋肉でできた珍獣。
それが私。
「さて、お詫びの品というわけではございませんが、この場にいらっしゃる高貴なる皆々様にまずは私から贈呈したい物がございますの。どうぞお受け取りになって?」
私が言うと空中にいくつもの泡が浮かび上がる。
会場の貴族全員の目の前にプカプカと浮かんだ薄い半透明の膜の泡。
ちょうど両手の中にすっぽり収まるサイズのその中には男女それぞれ別々の装飾品が入っている。
男性の前には少しゴツ目の銀の指輪。
女性の前には華奢な鎖を絡み合わせたブレスレット。
「きゃあっ!ステキっ!!」
あらあら、まずあなたからなのね?
さすが頭がお花畑なだけあって警戒心というものが皆無なんだわ。
はしゃいだ声を上げて誰よりも先に手を伸ばしたビッチに私は内心で呆れる。
けれど彼女が動いてくれたおかげで他にも何人かの令嬢たちが恐る恐る手を伸ばし始める。
きらびやかなドレスを身に纏った令嬢たちの指が触れると、浮かんでいた泡はパリンとガラスが割れたのに似た音を立てて宙に溶け消えた。
泡が消えた後には一見何も残らなかったように見えた。
ビッチは中のブレスレットはどこに行ったのかとキョロキョロする。と、近くにいた令嬢が「あっ」と声を上げてビッチの左手首を指差す。
その細い手首にはいつの間にか華奢な鎖を絡み合わせたブレスレットが嵌っていた。
周囲の者たちはそれを見て一様に息を飲む。
華奢な鎖の先に一粒の宝石がまばゆく煌めいている。透き通る青。
見ていた誰かが「まさか」と唸るように言った。
「……ブルーダイヤ?しかもあんなに大きな」
その声に反応した皆が泡の中の装飾品を注視する。
そのすべてに青い透き通る宝石があるのを見て、誰かが歓声を上げた。
「ふふ、皆様ご存知ですよね?私が勇者として魔王を討伐したことを。その時ついでにいくつか原石を手に入れたので手土産に加工いたしましたの。この場にいる全員に行き渡るはずですから、焦らずお持ちになって?」
私はそう告げたけれども、すでに誰も聞いていない。
先を争い皆が皆空中に浮かぶ泡に手を伸ばし、パリンパリンと次々に硬質な音が重なって響き合う。
人間の領域にはごくわずかしか存在しない希少な宝石に、その場の誰しもが目の色を変えていた。
私はそれを眺めながら、鷹揚な笑みを浮かべて場が落ち着くのを待つ。
最後の泡が消えたのを確認して、私は声を上げた。
「皆様お喜び頂けたようで何よりですわ!ねえ皆様、もう一つ面白い出し物がございますの。こちらをごらん下さいな」
言って、舞台の上を手で示した。
歌姫が至上の歌を披露する。
その舞台には赤い垂れ幕が垂れていた。
それがほわりと白く一度光ると、鮮明な映像を映し出す。
映るのは金髪碧眼の青年とピンクブロンドの髪の小柄な少女。
いくつもいくつも移り変わる映像にはどれもハロルドとビッチが愛を囁き合い、むつみ合う姿が映っていた。
「……なっ!」
「きゃあっ!」
当事者の二人が声を上げて、皆の視線を攫う。
私はカツン、とわざと音を立てて一歩前へ出た。
「そちらのハロルド様は私の婚約者ですが、ごらんのように別の女性に愛を囁き身体の関係まで持っております。そしてこちらが婚約時に交わした誓約書です。こちらには婚約中にこの婚約を持続し得ない重大な問題が起きた際にはこの婚約を破棄できると記載されております。婚約中の明らかな不貞は重大な問題ですわよね?」
言い募る私の視界の隅に慌てふためいて会場に入ってきた国王たちの姿が映った。
私はそれに目をやって、小さく笑う。
「ねぇ、そうですわよね?国王様?」
口をはくはくと動かしはいるものの、衝撃のあまりか声が出ない様子の国王様。
相変わらずの中年太りにしばらく見ないうちにまた薄くなった頭。今度特製の鬘でも贈ってあげようかしら。少ない金髪を必死に伸ばして頭に貼り付けている様がなんだか哀愁を誘うわ。
もっともこの方に今度があるかは謎だけれど。
「今も婚約者のエスコートを放棄して別の女性を連れていますのよ?しかも私、まったく身に覚えのない虐め、ですか?罪まで着せられて。下劣だとか、はしたないだとか。これではとても婚約を持続させることなんてできませんわ。ねえ、皆様も。そうは思いませんこと?」
私は会場内の貴族たちに猫なで声で尋ねる。
さり気なく唇にあてた指の付け根にはシャンデリアの光をまばゆく反射するサファイアが嵌められている。これみよがしに大粒の宝石を見せつけるだけの指輪なんて、私の趣味ではないけど。
この場ではこれでいい。
ほら、悪趣味な皆様の目がばっちり囚われていますもの。
ごくり、とつばを飲み込む音が聞こえてくるようだ。
やがて、一人が声を上げた。
「た、確かに……これでは婚約破棄となっても致し方ないのでは?」
そのたった一人の台詞が呼び水となって会場から次々と同じような声が上がる。
ハロルドはいったい何がどうなっているのかと茫然自失の体だし、ビッチはビッチでおどおど周囲を見回しながらもいまだハロルドの腕にぶら下がっている。
「まあ!皆様ありがとうございます!私、皆様のおかげで勇気が出ましたわっ!!」
感極まった風に胸の前で両手を組み、私はしずしずと国王の前に歩を進めた。
やだ、小汚い。
汗で頭がべっちゃりじゃないですか。
なんか臭いそう………
国王は小太りで低身長。
私は女性にしては長身。
そんな国王と私が近距離で向かい合うとちょうど私の鼻先に国王の頭頂部がくる。
思わず後退りしたくなるけれど、グッと息を詰めて耐えた。
「国王様、どうかこの婚約の破棄をお許し下さいませ」
まだ混乱さめやらぬ様子で見上げてくる国王と目が合った途端、ゾクリと血が沸騰した。
私を縛り付ける男。
私を、私たちを散々弄んできた男。
手を伸ばせば、ほんの少しこの首に指を回して力を入れれば……。
ーーいとも簡単に括り殺せる。
思った瞬間、心臓に針が刺さったように、ツキリと痛みが走る。
「……は」
痛みに息が詰まり、膝が折れそうになるのをなんでもない顔でグッと抑えた。
私にこの屑は殺せない。
とても、とても、残念だけれど。
私はそっと国王に近づき、耳許に唇を寄せる。
「構いませんでしょう?ーー楔ならまだもう一つあるではありませんか」
他に聞こえないように囁いた私の言葉に、国王はしばらく視線をどこともなく彷徨わせてから、ようよう口を開いた。
「良かろう。婚約の破棄を認める」
その言葉が耳に届くと同時に、私の中で楔が一つ消えた。