箱の中で猫は
タダシは生き残った。リエ子が指し示したグラスと逆のグラスを選び、生き残った。リエ子は自分を殺そうとしていたのだ。それがタダシには許せなかった。なにがシュレティンガーの猫だ。人の命を弄びやがって。
ドアが開き、五十嵐とリエ子の二人が入ってきた。チンピラどもは入ってこない。二人だけだ。五十嵐は相変わらずニヤニヤしている。
「よかったね、ニッパーで鼻の穴一つにされないで」と五十嵐は戯けて笑う。
相変わらずの軽口に虫唾が走る。タダシは自分を苦しめた二つのワイングラスを持ち、コンクリートの床から起き出した。
「五十嵐さん。もう俺は自由だよな」
フンと鼻を鳴らす五十嵐。
「そうなのか?」
五十嵐が腕を組み直し、顎をさすっている。
「ふざけるな!俺はこうやって生き残った。毒の入っていないグラスを引き当てた。残念だったなリエ子。お前が俺を殺そうとしていたことがよくわかった。もうお前とは終わりだ。このサイコ女め。お前の独占欲にはウンザリなんだよ。金輪際俺に近づくな!」
タダシが思いを吐き出し、ゼェゼェと息を切らしている間、五十嵐たちは黙っていた。タダシはそんな二人に違和感を感じていた。
「と、言ってるよ。リエ子」
五十嵐はタダシを無視し、リエ子に視線を送った。リエ子はワインが入ったままの背が高いグラスを見つめたまま、今にも泣出しそうな顔をしている。
「俺が言った通りだろ。タダシくんはリエ子のことを信頼なんかしていないんだよ。お前の愛を受け入れる様な男じゃないってことさ」
五十嵐は背の高いグラスをタダシから取り上げると、タダシのいたずらっぽく笑った。小さく「カンパイ」とつぶやきいて自分が飲んだグラスを合わせた。澄んだガラスの音が部屋の中に響く。そして、五十嵐はそれを一気に飲み干したのだ。
「うげぇ、マジィ」
なんともない。呆気にとられているタダシをよそに、五十嵐は持っていたグラスをポイと投げ捨てた。
「種明かしをしちゃうとつまらないね。僕はどちらのグラスにも毒なんか入れてないんだよ」
・・・毒が入っていない・・・
たった5分間とはいえ、生死をかけた選択をさせておきながら、それは意味がなかったということだ。
タダシは五十嵐につかみかかった。
「ふざけるな。人の心を弄びやがって!」
五十嵐は胸を締め上げるタダシの腕を軽く掴むと二の腕の死穴を突いてタダシの腕を外し、合気道の小手返しの要領でタダシを放り投げた。
「何するんだ、暴力反対」
タダシは右腕を抑えてうずくまっている。
「話は最後まで聞くもんだよ、タダシくん。どちらのグラスを飲んでも毒では死なない。ただ、正しいグラスはあるってことさ」
五十嵐は倒れているタダシの髪を掴んで、頭をもたげさせる。
「ところで君はどういう理由でグラスを選んだんだい」
ガシッ。金のごつい指輪をして右手でタダシの鼻を殴る。骨が折れたのだろう。血が止まらない。
「それは、リエ子が指した方を・・・」
ガシッ。もう一度鼻を殴る。息がでない。
「うん、そうだね。リエ子は左のグラスを指差したはずだ。違うかい?」
殴られて朦朧となった意識の中で、タダシは五十嵐の言葉を聞いている。
「え。それはどういう意味・・・」
「だって、それをリエ子に指示したのは僕だからね」
タダシは全て理解した。そうか、僕は試されていたのか。
「僕はリエ子に僕から隠れて左のグラスを指差せ。タダシくんがリエ子の愛を信じているなら、必ず左のグラスを飲むはずだってね」
恐怖で体が動かない。リエ子は唇を噛んでワナワナと震えている。
「でも、君は逆のグラスを選んだ。なぜか。リエ子のことを信じていなかったからだ。そんな男をリエ子が選ぶと思うかい?」
五十嵐の後ろに控えていたリエ子が、いきなりタダシの横っ腹を蹴り上げた。息ができないぐらい重い蹴りだ。血痰を吐き出し、レースを纏った人形みたいなワンピースを着たリエ子を下から見上げる。立とうと思っても、その力もなかった。リエ子はガーターベルトに挟んであった銃をタダシに向ける。
「死ねよ。このやろう」
パン・パン・パン!!
リエ子は全く躊躇なく銃弾を打ち込んだ。五十嵐の笑い声が地下室に響いていた。