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シュレディンガーの猫  作者: 春日遥灯
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猫には猫なりの事情があって

・・・バタン・・・


五十嵐たち足音が去っていくと、タダシの周りには悪意に満ちた静寂が訪れた。8畳ぐらいの狭い部屋。地下室なのだろうか。湿ったカビ臭い匂いが充満している。自分の目の前には高さの違うワイングラスが二つ。そして琴美の死体だ。


琴美。店でもよく笑っていた。美人というより可愛い子。たまに店に行くと、「指名ナンバー1なんて絶対無理だからさ。タダシが指名してくれるのってすごい助かる」といつも言ってくれていた。


「枕営業は絶対しない。だから正直苦しいんだけど、タダシのために頑張るね」タダシの腕枕に顔を埋め、そのまま寝息を立てる琴美がとても愛おしかった。


その琴美が、今は。


ここに連れてこられるまで怖い思いをしてきたのだろう。裸に剥かれ、手錠足枷をされて、猿轡をかまされ殴られて・・・。タダシにとって、琴美の死に何もしてあげられなかった自分がとても矮小で卑屈で汚い存在に感じた。



タダシはホストクラブ「クロームハーツ」のホストだ。端正な顔立ちではないが、昔から話をじっくり聞いてあげることができる性格なのが幸いし、愚痴を吐き出したいホステスや風俗嬢を包み込む雰囲気がタダシにはあった。


リエ子は真面目な子でタダシと一夜を共にするまで処女だった。メガネが似合う勉強しか頭にないような女子大生が、たまたま同級生に連れてこられたホストクラブにはまり、ホストに入れ上げるのはよく聞く話だ。ただ違ったのは、この女子大生がシャンパンタワーを一晩に二回やろうが三回やろうが、店を貸し切ってパーティを毎月開こうが潰えない資金を持っていることだった。


リエ子はタダシに会うために札束を湯水のように使い、リエ子はタダシの上客になった。アフターや同伴を繰り返すうちに男女の仲になり、この上客を手放さないためにリエ子に自分の「彼女」の称号をこっそり与えたのだった。


これが間違いの元だった。


「私、五十嵐段四郎の娘なの」と告白されたのは、3回目のデートのベッドだった。正直目の前が真っ暗になった。よりによって遊んではいけない相手を本気にさせてしまったのだ。何度もリエ子と別れるように嫌がらせを受け、タダシは車を3ヶ月で2回買い換えることになっていた。


更にリエ子はタダシを独占したがった。しかも異常に。勝手にホストクラブに辞表を出す。大病院の院長夫人を接客している最中にテーブルに勝手に乱入し、院長夫人の頭に水割りを浴びせる。さんざん暴れた挙句にアイスピックで胸を突き、病院に担ぎ込まれる。こんなことが日常的に続いた。タダシは心底疲れていた。


そんな時出会ったのが琴美だった。琴美が「クロームハーツ」に来店したのは今から1ヶ月前。初めてのホストクラブで落ち着かないのか、キョロキョロしながら入店してきた。山形の田舎から出てきたばかりだが、どうしてもお金が必要でキャバクラで働いているという。田舎娘丸出しの屈託のない笑顔。いつのまにかタダシは、客としてではなく一人の女性として琴美を扱ってしまっていた。



その結果がこれだ。


琴美を殺したのは俺だ。無残な死を迎えた琴美のために俺も死のう。両方のグラスを飲めば、確実に死ねる。よし、そうしよう。


タダシ両手でグラスを持ち、まずは左側背の高いグラスに口をつけた。ガラスの冷たさが唇に伝わる。手が震える。少し肘を上にあげればそのまま口の中にワインが流し込まれる。が、


腕が動かない。体は動こうとしているが、それから先に行かないのだ。その理由はタダシが一番わかっていた。


「死にたくない」タダシは呟く。


情けない話だ。自分はシュレティンガーの猫だと五十嵐はいう。半分生きて半分死んでいる。自分が愛した女の無残な死を目の前で見せられて、その女のために死のうとするが、それすらもできないでいる。それでもタダシの本能は生きたいと言っている。いや、それも違う。


死にたくないのではない。ただ単純に怖いのだ。


琴美のあの死に方は嫌だ。どれだけ苦しいのかわからない。苦しんで死ぬのが怖い。死ぬのはひとりぼっちだ。琴美なんかここにいない。琴美は汚い死体になっているのだから!


「やだ、死にたくない・・・。怖い、どうしよう。くそっ!なんでこんなことに・・・」


汚い独り言が次から次へと出てくる。ワイングラスを床に置いて、ワナワナと震えるタダシ。琴美のことはもう心の中にはなかった。怖さで震えるしかないみっともない自分。それも全て受け入れていた。


人間は身勝手だ。他人の死よりも自分の死が怖い。当然と言えば当然だが、それに気がつくのはこの様な現場でしかない。タダシは自分を責めなかった。扉が閉まりってからたった1分20秒の心変わりを、タダシは一生分の時間を感じながら体験していた。


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