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シュレディンガーの猫  作者: 春日遥灯
1/4

猫は箱の中に

気付薬の匂いで、タダシはまた痛みの中に飛び込むことになった。顔から体から痛みが身体中を駆け巡っている。ホストの顔を殴るなんて、営業妨害もいいところだ。


ここは何処だ。目隠しをされて椅子に後ろ手に縛られていては、時間も場所もわからない。自宅に乱入してきたチンピラどもにボコボコにされて、気を失ったところまでは覚えている。


「おはよう、タダシくん」


気取った抑揚をつけるこの嫌な喋り方。


「リエ子がとてもお世話になったみたいだね」


急に目隠しを取られたので光が眩しく目が慣れない。蛍光灯の青白い光の中で、タバコをくゆらせるシルエットの男。


「五十嵐さん・・・」


この男が街の顔役である五十嵐段四郎であることにタダシは震え上がった。五十嵐はフンと鼻をならす。


「リエ子はいたく傷ついている。何でかわかるね、タダシくんっ!」


左ほほに拳を一発食らう。奥歯がギシギシする。


「・・・げほっ・・・」


「リエ子が君を愛しているというから僕は君とリエ子の交際を認めた。それはそれは苦渋の選択だったよ。大切な娘だ。幸せになってもらいたいというのが親心というものじゃないか」


タダシは心底震え上がった。目が慣れてきた時、今から何が行われるか全て理解したからだ。数人のチンピラが鉄パイプを片手に、ヘラヘラ笑いながらこちらを見ている。そして床に転がっている人影が一つ。


「この女にお前がのぼせていることがわかった時、僕は泣いたよ」


床に転がっていたのは、手足を縛られ素っ裸で鼻血と涙でグシャクシャになっている琴美だった。意識はあるのだろうが、殴られすぎて意識が混濁しているようだ。口に猿轡をかまされ、恐怖の表情で固まっている。


タダシは恐れ多くも五十嵐の一人娘のリエ子に手を出し、それにも飽き足らず自分の上客であるキャバ嬢の琴美と一線を超えてしまったのだ。申し開きなどできる立場にない。殺される・・・。


「父として君を許すことはできない。このバカとお前の交際を許した僕が愚かだった。リエ子、本当にすまなかったね」


部屋の隅にもう一人の人影があった。


「なんで・・・嘘だろ?」


それはリエ子本人だった。リエ子は涙を両目に湛え、伏し目がちに五十嵐の陰に隠れている。五十嵐はリエ子の肩を抱き、タダシの前に立たせた。傷だらけの口の中がカラカラに乾いている。五十嵐はタダシの顎をクイと持ち上げ続けた。


「一思いに殺してしまいたい。しかもこの上なく残酷にだ。だけどな。まだリエ子はお前のことが好きなんだそうだ。まったく頭に来る。そこで、僕はお前を半分殺して、半分生かすことに決めた」


「どういうことですか?五十嵐さん」


五十嵐がチンピラに合図すると、そのうちの一人がワインボトルと高さの違うワイングラスを三つ運んできた。琴美と初めて結ばれた日に、タダシが行きつけのレストランで注文した銘柄のワインだ。床にワイングラスを並べそれぞれをワインで満たす。


「タダシくん。君はシュレティンガーの猫を知っているかな?」


タダシは首を振った。


「箱の中に猫が入っている。その箱は外から中を見ることができない。箱には少量の放射性物質と、ガイガーカウンター、それに反応する青酸ガスの発生装置がが入っていて、半分の確率で猫は放射性物質が一時間内に崩壊する確率 50%の確率で青酸ガスが発生するから、半分の確率で死ぬことなっている。猫は一時間後、箱を開けて観測される前の時点で、生と死の確率は半分ずつになるというわけだ。本来なら猫は観測以前に生死が決まっているのだが、観測されなければ結果を生じないという確率解釈が正しければ、猫は観測される前においては生と死が同時に存在するということになるということさ。わかったかな?」


何を言っているのかさっぱりわからない。


「本当は量子力学の矛盾をつく有名な思考実験なんだけど、タダシくんは興味ないだろうね」


五十嵐は三つのワイングラスのうち真ん中の高さのグラスを手に取ると、一口クイと飲んだ。


「で、タダシくんの場合だが」


内ポケットからプラスチックの小さなスポイトを取り出しながら、五十嵐は歌うようにいう。


スポイトの中には透明な液体が入っているのが見えた。五十嵐はそのスポイトの液体を一滴手にしたワイングラスに落とした。


「これは即効性の猛毒だ。無色透明で匂いもしない。飲むとこうなる」


床でぐったりしている琴美の髪を掴み上げ、猿轡を外した。意識が朦朧としている琴美はわずかに抵抗したが、ワイングラスを口にあてられるとワインをそのまま流し込まれた。


「おおおおおお!!!!」


まるで男のような低い叫び声をあげ、琴美は目から鼻から口から血を吹き出してのたうち回る。俺の足の下で、喉をかきむしり、苦しみから自ら逃れるように首を自ら絞めているようだ。痙攣を何度か繰り返し、琴美は息絶えた。リエ子は目を瞑り、耳を塞いでいま行われているこの凄惨な現場を自分の世界から排しようとしていた。


「琴美ぃぃぃ!!!」


俺は後ろ手で縛られている椅子から逃れようと暴れるが、チンピラたちに肩を抑えられ自由を奪われてしまっていた。


「思い出のワインで彼女も逝けたんだから本望だったんじゃないかな」


フフフッと五十嵐が笑う。


「君は残りのグラスどちらかを選んで飲むわけだが、正しいグラスを選んだら君を生かして逃がしてあげよう。もちろん毒入りのグラスを選べばこうなるわけだ」


つま先で琴美の死体を軽く蹴る。まるで頷くように琴美の頭が揺れる。


五十嵐が戯けて「見ちゃダメよ」と言うと、チンピラの一人がタダシの目を手で隠す。


「やめろ!やめて下さい五十嵐さん!何でもします!五十嵐さんの前から消えます!だからやめて下さい!」


目隠しはほんの一瞬だっただろうが、完全に縮み上がっているタダシの姿を見て笑うチンピラ達の声や五十嵐のご機嫌な鼻歌が、タダシの頭の中で響き、一時間にも二時間にも感じた。


「ハイ!出来上がり!さぁ、タダシ君!お好きな方をお飲み下さい!」


手を縛った紐が解かれ椅子から転げ落ちた。床に這い蹲り五十嵐を見上げる。他人の生死を思い付きで仕切る事が五十嵐はとても巨大に見える。


「5分後にまた来る。ワイン飲まないで捨てたり、どっちも残ってたりしたら、ニッパーで鼻の穴一つにしちゃうからね。この部屋を僕たちが出た時、シュレディンガーの猫たるタダシくんは生きているでしょうか死んでいるでしょうか。楽しみだね」


部屋を出て行く五十嵐にチンピラ達続く。少し遅れてエリ子が出ていこうとする。タダシはその群れについていくことを許されず、リエ子の背中を見つめるしかなかった。途方に暮れ、「死にたくない」を小声で繰り返す。地獄の底に一人取り残されるタダシは、すがる思いでエリコの後ろ姿を見入っていた。その時。


「あ・・・」


後ろ手に組んだリエ子の手。指先で左を指差しながら部屋を出て行った。リエ子は振り向きもせず、何も言わなかった。


・・・バタン・・・


扉は閉まり、タダシは一人になった。正確には一人と琴美の死体が一つ。タダシにとって長い5分間が始まった。

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