21 母
カミルが目を覚ますと、部屋には誰もいなかった。
身体のだるさは感じない。一人で着替えをすまし、部屋を出ると、廊下にはイリヤが待機していた。
「お加減はいかがですか?」
「うん。もう大丈夫だよ。心配かけてごめん……もうあんな無茶はしないよ」
「さあ、どうでしょうね……」
イリヤが意地悪な笑みを浮かべたので、カミルも笑い返した。
「お母様はどうしてるかな? 会いに行ってもいい?」
「ああ、王妃陛下はもう隣の部屋にはいらっしゃいませんよ」
「え?」
母は療養の為に用意された客室ではなく二階の自室に戻ったのだという。
イリヤと一緒に部屋を訪ねた。中へ通されると、そこにはいつもと違う格好の母が立っていた。
「カミル、イリヤ、心配をかけましたね。私はもう大丈夫ですよ」
高い襟の白いブラウス、足首が隠れる長さの緑の上着、ダークブロンドの髪は編んで頭に巻きつけている。ドレス特有のスカートの膨らみがなく、男装しているようにも見える。とても凛々しい姿だ。
僕とイリヤは驚きのあまり口をぽかんと開けたまま立ちつくした。
「ちょうどいいわ。今から外に散歩へ行くつもりなのです。カミルも一緒に行きましょう」
「散歩? 王妃陛下、まさか……昨日体調を崩したばかりですよ」
「うふふ。昨日は昼間にゆっくり眠りましたし、夜もきちんと眠りましたから、今は元気ですよ」
医師の許可は取っていると言って、母は心配するイリヤをよそに嬉しそうに外へ出た。
そこには二頭の馬が用意されていた。茶色い馬の前で使用人が手を差し出す。しかし、母は用意された踏み台を使って一人で飛び乗った。
よく見ると、靴は革製の短いブーツを履いている。
「うふふ、驚いたかしら。カミルもこちらへいらっしゃい」
母は座る位置を後ろにずらして、僕が座る場所を作ってくれた。勝手がわからず困っていると、イリヤが僕を持ち上げてくれてどうにか乗ることができた。母に後ろから包まれるように座る。
こんなに母と密着するなんて何年振りだろう。なんだか気恥ずかしくて落ち着かない。
黒い馬に乗った母の従者が「庭をゆっくり歩くだけですよ」と念を押した。馬がないので、イリヤはその場に残るしかなかった。
母が慣れた様子で足で合図を送ると、馬が歩きはじめた。
身体ががくんと後ろに揺れる。慌てて鞍の端を両手で掴んだ。下を見ると、地面がいつもよりずっと遠い。
怖くなってぎゅっと目を閉じた。
蹄の規則正しい音が聞こえる。少し涼しい風が肌をなでていく。――馬車に乗っている時とは全然違う。
「ほらほら、カミル。上を見て。空が近くなった気がしない?」
振動にようやく慣れてきた僕は、母に言われて空を見上げた。晴れた青い空に細長い雲が伸びている。
溺れた時はあんなに遠いと感じた空が、手を伸ばせば届きそうに思えた。
「ここの空は変わらないわね。馬車よりもやっぱり馬に乗る方が楽しいわ」
「お母様にこんな趣味があったなんて、知りませんでした」
『いつの世でも鍛錬は怠るな』というのが、バロー家の掟だという。男女問わず幼い頃から乗馬と弓を習い、狩りをする。狩猟犬や鷹もいるが、己の弓で獲物を獲らなければ一人前とは認められない――
イリヤから罠の作り方は教わったけれど、それほど狩猟に熱心とは聞いていなかった。僕が馬に乗りたがるのをわかっていて、あえて隠していたのか。
湖の塔のことといい、狩りのことといい、イリヤには隠し事がまだありそうだ。
「そうそう、カミルに将来の目標ができたんですって? 人のために頑張りたいだなんて、あなたらしいわ。これからは、王子としてのお勉強もきちんとできますね?」
急に僕の話になって背筋が伸びた。たぶん、イリヤが告げ口したのだろう。
勉強か……リザを外に出す方法を探すためにも、勉強は必要だよね……はぁ。
「はい。お母様はリザ……魔女のことを知っているのですか?」
「ええ、知っていますよ。王妃ですもの。昨日会話もしましたよ」
僕だけじゃなくてお母様とも顔を合わせたのか。伯父さんがそれを許したのにも驚きを隠せない。
「ど、どんな話をされたんですか?」
「薬師としての相談と、女同士の秘密の相談よ。どんな恐ろしい魔女かと思ったら、優しい普通の人で安心したわ」
リザが母に語ったことをまとめると、生活環境と精神的な問題が合わさって咳が止まらなくなったのではないか、ということらしい。
母は自分で説明しながらも、どうしてそんな結論になったのかよくわかっていないようだ。
ショックで寝込んだことがある僕にはなんとなくわかる。
けれど、病気になるほどの母の悩みとは、いったい何だろう?
結局、秘密の相談の内容は教えてくれなかった。ただ、リザと話したことで心が軽くなったという母は、晴れ晴れとした表情をしている。
たぶん、もう大丈夫だ――
安心と同時に、不安がよぎる。
母の療養のためにこの地に来たのだから、母の病気が治れば帰らなければいけないのだ。
リザとの別れの時が迫っていた。




