第3話_東京都_エコーゴルフセンター
菓子名洋菓子店における菓子名大地の役職は営業職兼配達員である。
営業職は新規開拓以上に既存顧客に対する場合が多い。菓子名洋菓子店は地元小学校の給食と老人ホームにケーキを卸している。1ヶ月に1度、ケーキのメニューに対するアンケートを実施しており、その中で次月のメニューを決定する。アンケート自体は紙面媒体で行われるが、食べ手の人の声を聞きたいという兄、洋介の考えから、メニュー会議という形で月に数回、小学校と老人ホームに出向いたりもしていた。
今、菓子名大地はピンチヒッターとして1人、販売員としてショーケースの前に立っていた。
時計を見る。午後1時を回ったところである。いつも販売員として働いてもらっている斉藤さんは有給休暇中。パートの桑田さんは今日は法事で休み。臨時アルバイトとして来てもらっている高校生の槙原さんは補習授業の為に学校に出向いている。必然的に本日は外回りのない菓子名へと販売スタッフ役が回ってくることとなった。
8月初旬。我が世の春を謳歌する太陽は衰え知らずの陽光を大地上に降り注いでいる。耳を澄まさずともどこからか聞こえてくる蝉の鳴き声が間断なく鼓膜を叩き、アスファルトから立ち昇る熱気が地上世界の風景をユラユラと歪ませている。お盆を間近にして尚、夏の季節はまだまだ続くという太陽の気概を感じさせる日々が続いていた。
昼を過ぎた時間帯となり、店内にも一時の凪が生じていた。洋介は近くの食堂に昼食を食べに出掛けていた。
客のいない時の店番は時間を持て余すものである。だが、話相手がいる状況であれば必ずしもその次第ではない。更に言えば、話相手が実体であるか霊体であるかは然程重要な問題ではない。
「菓子名、明日から2日程暇をもらうぞ。エチェバリア」
窓枠に座る千歳が人差し指を立てた。洋菓子店の入り口から1番近くの窓際は千歳の指定席である。スポーツ新聞を読んだり、ラジオで野球中継を聞いたりして日々の自由を満喫していた。
「暇は構わないよ。でも、暇が欲しいなんて珍しいじゃないか。ア、アイケルバーガー」
「暇の理由を聞きたいかの? ガ、ガ、ガ、ガルベス」
「もしかして気をつかってくれたのかなぁ? 明日の日曜日は俺と早坂さんの初デートの日だからね。ス、スペンサー」
「たわけ。他人の恋慕に横槍を入れる趣味等持ち合わせておらんわ。サンタナ」
明日、マリンズ対ワイバーンズの公式戦が千葉マリンスタジアムで行われる。先日、早坂との約束を取り付けた野球デートの日である。
この1週間は野球デートの準備の為に奔走した。日曜日に着用予定のジャケットをクリーニングに出し、先日の内に散髪にも出掛けた。美容院に万単位の金を支払ったのは予想外の出費であったが、初デートの為と思えば涙を飲むこともできる。観戦道具においてもぬかりはない。直射日光対策としての鍔付き帽子。長時間の観戦に必要となる座布団。食べかすや空の紙コップを入れる為のポリ袋は既に鞄にしまってある。更に、野球観戦の醍醐味の1つである球場グルメの事前調査も終了している。マリンズは去年、球場内グルメメニューをリニューアルしていた。リニューアルメニューの中で「新もつ煮込み」が球場名物になっており、更にはカップルで購入するとドリンク1杯が無料になることもわかっている。
前髪を弄る。美容院にいったばかりの黒髪はどこか潤いを帯びている……ように思えた。
「デート、ふふふ、デートかぁ……ナ、ナニータ」
「感情が顔に出易い男よ。逢引の経験がない訳でもあるまい。今のお前さんのニヤニヤ笑いは遠足前日の稚児が浮かべるそれじゃて。タラスコ」
「好きな女性との初デートだよ。興奮するなって言うほうが無理な話だよ。コ、コ、コンラッド」
「初い奴じゃの。三十路過ぎた男の発言とは思えん。ドイル」
菓子名自身も心の高揚を自覚していた。満塁で打席を迎えた時のような高揚感は悪いものではない。もっとも、プロ通算の得点圏打率は然程よいものではなかったが。
「まぁ、いずれにせよ俺は早坂さんとのデートで家を空けるからね。千歳も出掛けるなら構わないよ。それで? 2日間はどう過ごすつもりなの? ル……ループ」
「昔馴染みに会ってくるだけじゃ。プリアム」
「人に会うの? 幽霊なのに? ム……ム、か。えっと、ムーア」
「何度も言わせるでない。我は幽霊じゃなくて自縛霊じゃ。両足もあればある程度移動の自由は効く。やろうと思えば人と言葉を交わすことも叶う。アルモンテ」
「霊体が喋り過ぎると何かと騒ぎが起きそうなもんだけど。テ、テ、テータム」
「我とて霊体になって長い。妖怪じみた真似で喜悦を得るような児戯を行うつもりはないわ。とにかく少し家を空ける。そろそろ盆も近いが、お前さん達兄弟は墓参りにはいかんのか? ムリーロ」
「お盆休みの4日間は休業にする予定だよ。その間、兄貴と俺は千葉の実家に帰る予定。ロ、ロ、ロー……ロメロ」
「ほぅ。先祖の為の里帰りは欠かさぬか。感心なことじゃな。ローズ」
「ローズは最初のほうで俺が言ったよ」
「菓子名が言ったのはバイソンズの外野手、タフィー・ローズじゃろ。我が言ったのは横浜スターズの安打製造器ロバート・ローズ内野手のことじゃ」
「横浜マシンガン打線の中核を担った彼ね」
時間を持て余した菓子名は千歳と一緒に「プロ野球歴代外国人しりとり」を行っていた。元プロ野球選手として知識面では相応の自信はあった。だが、霊体である千歳の年齢は100歳以上。その知識量は菓子名のそれを遥かに上回っていた。
「ス……スレッジ」
「ジェイソン・ジョセフ・ファーマニアック」
「……ク、ク、クー……グでもいい?」
「構わぬぞ」
「グリーンウェル」
「ルイス・アルフォンソ・クルーズ・ボホルケス」
「……スパイアー」
「アール・エル・バディ・カーライル」
「……ルイス」
「スティーブン・エル・マクナルティ」
「……テ、テレーロ」
「ロベルト・グリフィン・ボビー・ケッペル」
カタカナの応酬が続く。声帯の反応速度は千歳のほうが圧倒的に速かった。知識量において、両者の内どちらが優勢であるかは明らかであった。
プロ野球の歴史で最も古いチームは東京ジャイアントラビッツである。発足年は1934年。千歳はプロ野球チーム発足以前より野球に携わっている。プロ野球を黎明期から見てきた人物に知識勝負を挑むというのはハードルが高いと言わざるを得ない。
「どうした菓子名? ルじゃぞ、ル」
どこか勝ち誇った口調で千歳が言葉を紡ぐ。窓枠に座った状態で指をクイクイと動かす。これみよがしな挑発モーションである。
暇を持て余したが為のしりとりである。勝敗の結果は本来であれば関係ない。
しかしながら、菓子名は負けず嫌いの男である。勝ち負けが関係ない勝負だからといって、簡単に白旗を上げるつもりはなかった。勝ち誇った笑みを浮かべる千歳に対し簡単に負けを認めるのも悔しいというものである。
「わかってる。ルだろ。ル。ルー……」
知識の抽斗をひっきりなしに開け放つ。だが、どの抽斗にも中身が入っていない。知っている限りの助っ人外国人を口にしてしまっていた。
(ル、ル……駄目だ。全然思いつかないぞ)
完全に知識の迷宮に入りこんでしまった。横を見やれば、ニヤニヤ笑いの千歳の姿が映る。余裕の笑みに勝利の確信が彩られている。益々悔しい。
と、店の扉を開く者がいた。
「いらっしゃいませ」
瞬時に販売員モードへと心身を切り替える。
来客は老人男性であった。年齢は70代前後に見える。研磨された小太刀を思わせる鋭い目付きに目がいく。ピンと伸びた背筋は、歳月の経過による腰の屈曲とは無縁である。
健康と活力に満ちた男性に菓子名は見覚えがあった。
「ルイさん」
「ルイ? そんな名前の助っ人外国人、いたかのぅ?」
千歳は首を傾げている。
老人は白い歯を見せた。精神の若さを感じさせる笑みである。
「小僧、どうやら私を忘れてはいなかったようだな」
「自分の担当スカウトを忘れる程、恩知らずではありませんので」
「担当スカウトということは、マリンズの関係者か」
横目で千歳が説明を求めてきた。
「ルイってのはあだ名なんだ。本名は大累豊一。俺がドラフト指名を受けた時の千葉マリンズ巡回スカウトマン。選手発掘は足で稼ぐっていうスタンスで、1年中、文字通り日本中を飛び回っている人なんだ。千葉の片田舎で野球をしていた俺もそうやって見付けられたって訳」
「やけに説明口調だな」
「あー、お気になさらず。それより今日はどうしたんです? 体調不良で現場を離れてから故郷に帰ったとは聞いていましたけど」
「十分過ぎる療養期間をもらったからな。来年度から現場復帰予定だ」
「それはめでたい。もしかして、復帰祝いのケーキを買いに菓子名洋菓子店に来てくれたんです?」
「それもある」
含みのある言い方でルイはショーケースを指差した。
「それを1つもらおうか」
ルイが示したケーキはガトーショコラである。菓子名洋菓子店で作られるガトーショコラは、ビターチョコレートをしっかりと吸い込ませたスポンジが何層にも重ねられている。ふんわりとした舌触りと程よい苦味が特徴の人気ケーキであり、特に年配層の購買客が多かった。
菓子名は慣れた手付きでケーキを取り出し、1人分用の箱の中へと入れた。
「お買い上げありがとうございます」
「板に付いた滑らかな手付きだ。現役時代、内野ゴロもそれだけ上手く捌けていればな」
「俺はアマチュア時代から守備には自信がありましたよ」
「そうだったな。見掛けの割に球際のボールに強い奴だった」
「ふふん、もっと褒めてくれていいですよ。堅実な守備と意外性のある打撃が菓子名のウリでしたからね」
「だが送球に難があった。イレギュラーバウンドしたボールを華麗にキャッチ。その後のジャンピンスローで暴投するのが菓子名だった。詰めの甘い奴だった」
「それを承知でドラフト指名したんでしょう? もしくは、担当スカウトの目がその時だけ曇っていたのかもしれませんなぁ」
「相変わらずよく口が回る奴だな」
毒舌と軽口の応酬に懐かしさを覚える。年齢差に関係なく、現役時代からルイとは砕けた付き合いをしていた。
包装したケーキの箱をルイに手渡した。
「さて、ここに来たもう1つの目的だが、お前に仕事を斡旋しようと思ってな」
ルイは一瞬目を細めた後、静かに口を開いた。
「菓子名、私と一緒にスカウト活動をする気はないか?」
※
日曜日の午後5時。8月の夕陽は塩気混じりの浜風を蒸発させるか如く猛威を振るっている。
だが、マリンズの本拠地、千葉マリンズスタジアムを包む熱気は夏の太陽に負けぬ程の熱量で空間を支配していた。
千葉マリンズ対福岡ワイバーンズの第16回戦。9回表を終えた段階のスコアは1対0。ワイバーンズが最少リードを保ったまま、試合は9回裏のマリンズの攻撃を迎えていた。
ワイバーンズ先発の谷垣は序盤から危な気ないピッチングを披露していた。ブレーキの利いたカーブが冴え渡り、8回まで被安打2、無四球と、完璧にマリンズ打線を料理していた。
だが、9回裏2アウトの土壇場になってマリンズが意地を見せた。先頭打者の勝田がこの日始めてのフォアボールで出塁。2番打者の天王台が詰まりながらもレフト前にしぶとくヒットで運び、2アウト1、2塁。更に3番打者のレイノルズがセンター前のクリーンヒットで続いた。
2アウト満塁。長打が出れば逆転サヨナラ勝ちである。今日の試合でマリンズが作り上げた、文字通り最初で最後のチャンスであった。
スタンドの観客達は、投手が放るボールを固唾を飲んで見守っていた。
レプリカユニフォームを着込んだマリンズサポーターがひしめくライトスタンド。白と黒で形成されるモザイク模様の中に菓子名と早坂の姿があった。
今日は早坂との初デートの日である。菓子名は自前のレプリカユニフォームを。早坂は薄地のカーディガンを身に纏って観戦していた。
菓子名は野球応援の時には自前のレプリカユニォームを着込むようにしていた。選手時代の名残というより、応援の際にレプリカユニフォームを着ていると応援時のテンションが上がるからである。マリンズ応援団の熱狂振りはプロ野球ファンの間でも有名である。同じユニフォームを着た時の熱狂と没入感が心の芯を熱くさせる。1球1球の結果に一喜一憂し、味方が点を入れれば名前も知らない人達と抱擁を交わす。
ちなみに、レプリカユニフォームにはローマ字で「KASHINA」という名前と、現役時代の背番号である99の数字が刺繍されている。菓子名のささやかなる自己主張である。もしもファンに声をかけられた時、サインを手渡せるよう懐にはサインペンとミニ色紙も忍ばせてある。そして、その準備が準備以上の意味を持ったことはなかった。レプリカユニフォームを着て応援するようになってから3年。菓子名は1度も「身ばれ」したことがなかった。
(千歳にはからかわれているけど、もしかしたら誰かにサインをねだられるかもしれないからな。備えあれば何とやらという訳だ)
千歳の姿はない。暫く家を空けるということで彼女とは今朝から別行動を取っていた。
試合は土壇場9回裏。勝敗結果は帰路の雰囲気に大きく影響する。勝利の美酒にも自棄酒にも相応の旨味があるが、初デートの夕食には前者を振舞いたいと菓子名は思っていた。
(頼むよ……せっかくの初デート、負け試合を早坂さんに見せたくはないからね)
見れば早坂も不安気な表情でグラウンドを見詰めていた。
マリンズファンとして元チームメイト達に視線を送る。
元チームメイトとは言え、菓子名が知る選手の名前はスコアボード上からほとんど消えていた。菓子名がマリンズを去ってから3年。3年前に監督が変わってからチーム内では主力選手の若返りを推進していた。スコアボードに連なる選手名も菓子名とほとんど接点のない、あるいは全く知らない選手となっていた。
そんな中、今打席に立つ槍鞘は菓子名と接点のある数少ない選手であった。
槍鞘俊太は22歳。入団4年目の内野手。高校通算78本塁打のパワフルな打撃と50メートル5秒台の俊足。加えて中性的な甘いマスクとスター性を兼ね備えた選手である。槍鞘の新人時代と菓子名の現役最後の1年が重なった為、短い期間であったがチームメイトの時期があった。食事や飲み会にも一緒に出向き、同じ内野手ということから野球観に関した話も積極的に行った仲であった。
槍鞘の守備位置は内野手。菓子名と同じ2塁手であった。現役時代の菓子名が怪我で2軍に落ちた時、代わりに1軍に昇格したのが槍鞘だった。以降菓子名が1軍に上がることはなく、槍鞘が2軍に落ちることはなかった。
菓子名が引退したシーズンはマリンズにとっても転換期であった。マリンズの主力選手はそのほとんどが30台中盤。正捕手と4番打者は四十路近くの年齢を迎えており、チームとしての若返りが求められていた。新たに就任した監督は新人を主力選手として抜擢し、伸び盛りの若手選手を積極的に活用した。槍鞘もその流れでチャンスを掴んだ選手の1人である。
両足に怪我持ちの中堅選手とドラフト1位指名の期待の新人。どちらが優先的に起用されるかは明らかであった。
結果だけを見れば菓子名は槍鞘に引導を渡されたことになる。それでも菓子名に後悔はなかった。プロの世界は結果が全てである。菓子名は結果を残せなかった。それであって槍鞘を恨むというのはお門違いというものであろう。
(打席に立つだけで何かをしてくれそうだと思わせてくれる打者。そういう雰囲気を纏った打者はそうそういない。槍鞘は18歳で大打者が持つオーラを放っていた。10年に1人の逸材っていう表現はよく聞くけど、あいつの場合は4半世紀に1人っていっても誇張じゃないんだから恐ろしい)
ワンボール、ワンストライクからの3球目。投手の谷垣が球を放った。
球種はストレート。160キロ近い速球が外角低めに走る。球威、コース供に申し分ない。完投直前の9回でありながら、この日1番のボールであった。
ホームベース上に影が走った。残像が視界に映った次の瞬間、弾き返された打球が千葉の夜空に舞い上がった。
長い滞空時間を経た後、打球はバックスクリーンに突き刺さっていた。
サヨナラホームラン。マリンズの勝利が決まった瞬間であった。
歓声がスタジアムを揺らした。
地響きの中で抱き合うファン達。老若男女関係なく所々で抱擁が生まれ、ハイタッチと握手で喜びを共有する光景が繰り広げられる。
菓子名も例外ではなかった。会社帰りと思われるサラリーマンと勢いよくハイタッチを交わし、前方で感情を爆発させる学生集団とスクラムを組み、球団歌を熱唱する。
そして最後に、隣にいた早坂へと抱き付いた。
「逆転サヨナラホームラン! しかも満塁の場面で! ハハハハ、大した奴だよ! あいつは!」
もしもスペースが確保されていれば、目を白黒させる早坂をグルングルンと振り回していただろう。
※
「槍鞘選手のレプリカユニフォームを1着ください」
試合後の場外グッズ販売場にて、菓子名はSサイズのレプリカユニフォームを購入した。自分用ではない。早坂へのプレゼント用である。
と、紙袋を受け取った菓子名の足がもつれた。サヨナラ勝ちで衝動的にはしゃいだ反動が今になってきたらしい。
必然的に右足で全体重を支える状況となる。
直後、下半身に痛みが走った。
(いててて……ちょっとはしゃぎ過ぎたか)
3年前に負った両足アキレス腱断裂という大怪我。1年近いリハビリの末、日常生活に支障はないレベルまで回復することはできた。しかし、時より思い出したかのように痛む時がある。全力疾走や先のように全体重を足に乗せるようなことは避けてくれと医師から注意を受けていた。
痛みが引くのを待った菓子名は、暫くして軽くジャンプした。
3年も抱えていれば両足の爆弾との生活も慣れてくる。にもかかわらず、菓子名の心中には郷愁めいた感情が芽吹いていた。
(怪我を負った場所だからかな。心もそうだけど、身体が何かしらの反応を見せているのかもしれないね)
大怪我を負った場所は他でもないこの地、千葉マリンスタジアムである。その事実が細胞レベルにまで刻み込まれたプロ野球選手時代の記憶を……。
そこまで考えて思考を打ち切った。
(危ない危ない。危うく思考の迷路に入り込みかけていた)
今日、千葉マリンスタジアムには野球ファンとして来ている。であれば、プロ野球選手時代の記憶に思いを馳せるよりも、サヨナラ勝ちの余韻に身を任せるのが正しいというものであろう。
菓子名はスタジアム外に設置されたベンチへと戻った。ベンチには早坂が腰を下ろした状態で待っていた。
劇的な幕切れでマリンズが勝利してから30分近くが経過していた。勝利の余韻に浸るマリンズファンの熱気は未だ衰えず、帰路の途中で球団歌を歌う者の姿も数多く見受けられた。
「落ち着きました?」
早坂の隣に腰を下ろす。
「ちょっと疲れているみたいでしたから。少し休んでから帰りましょう」
「気を使ってもらってすみません」
「気にしないでください。どうでした? 初めての野球観戦は?」
「とても楽しかったです。文面上で野球というスポーツがどのようなものかは知っているつもりでしたが、本物はやはり迫力が違いました。選手達の全力プレーに引き込まれていくような……気がしました」
早坂は微笑を浮かべた。
「このような感覚は新鮮です。その新鮮さを、嬉しく感じます」
「楽しんでくれて何よりです。これ、今日の初野球観戦の記念にどうぞ」
菓子名は槍鞘のレプリカユニフォームを手渡した。
「ありがとうございます。今、お金を……」
「いいんです。記念ですからね。お金は結構」
「でも……そういう訳には」
「それじゃあこうしましょう。次に一緒に試合観戦に来る時、ビールの一杯でも奢ってください。もちろんそのユニフォームを着て、です」
早坂はきょとんとした表情を浮かべた後「そういうことであれば」という言う風に笑顔で頷いていた。
菓子名は実際と内心の双方で笑顔を浮かべるという器用な真似をしてみせた。さり気なく次回のデートの約束を取り付けることに成功した。4800円の投資としては十分過ぎる成果である。
それもこれも試合が勝利に終わったからである。球場外のグッズ売り場でも槍鞘に関するグッズは飛ぶように売れていた。今日のサヨナラ満塁ホームランでファンの数を更に増やしただろう。
「菓子名さんも先程の槍鞘選手のようなサヨナラホームランを打ったことがあるんですか?」
「え? まぁ、2、3回は」
アマチュア時代を含めてサヨナラホームランを打った経験はなかった。脊髄反射的に見栄を張ったのは、惚れた異性に自分を大きく見せたいという思惑故である。
「やっぱりホームランは野球の花形ですからね。しかもサヨナラホームランともあれば、その喜びも一入ってやつですよ。ところで、始めての球場の雰囲気はどうでしたか?」
青みがかった瞳に直視された菓子名は反射的に話題を変えていた。
「サヨナラホームランの時の球場の雰囲気は凄かったです。とても熱を感じました」
「熱?」
「1人1人の人間の内からエネルギーが立ち昇ってくるような感じでした。野球のルールを全部知らない私でも、選手達のプレーやファンの人達が……・情熱を胸に声を上げていることが伝わってきました。何万人分の熱がスタジアムに溢れ返っていて、その、私も火照った感じがします」
「マリンズファンの熱狂っぷりは12球団の中でもトップクラスですからね。自分も現役時代の時にあの応援に何度も励まされたものです」
「熱狂は……その、よく伝わりました」
早坂の顔に朱が差す。
「菓子名さんが私に……抱き付いたのは、その、とても情熱的でした……」
「あー、抱き付いてしまってすいませんでした。サヨナラ勝ちの興奮で勢いあまってしまって。その、本当だったらもっとムードのいい場所で抱き寄せたかったんですけど」
「え?」
「あぁー、いや、違うんですよ! 野球場がデートスポットとしてムードがないって訳じゃないんです」
意外そうな表情を浮かべる早坂の表情を見た時、否定を紡ぐ衝動に駆り立てられた。
「一時期は野球場なんて中年男性がビール片手にいく場所なんて思われてましたけど、時代は変わりました。なんちゃら系女子に代表されるように今や野球観戦は若い女性にとってもポピュラーになってきてます。球場グルメだって女性にも配慮して栄養バランスを考慮したものになっているし……」
「ふふっ」
早坂の口元から笑い声が零れた。
「菓子名さんは野球がとてもお好きなんですね」
「それはもちろん」
野球という単語からは好意の感情を読み取れた。早坂が野球を楽しんでくれたことが菓子名には嬉しかった。
「野球程楽しいスポーツを私は知りません」
味方の得点に諸手を上げて喜び、チームが失点すると皆で天を仰ぐ。ホームランを打とうものなら、周囲のファンと感情を爆発させる。老若男女の感情を1つにさせる力と魅力が野球にはある。選手として、観客として野球を経験した菓子名はそう思っていた。
「菓子名さん。1つ聞いてよろしいでしょうか」
「2つでも3つでもどうぞ」
「私と一緒にいて、楽しくなかったでしょうか?」
「うぇっ?」
素っ頓狂な声が出た。予想外の問い掛けであった。
「いやいやいや、凄く楽しかったですよ。いや本当、掛け値なしに。だって好きな人との初デートですよ? しかも俺の好きな野球観戦。しかもしかも! 贔屓チームの逆転満塁ホームランでサヨナラ勝ち! これで楽しくないなんて言ったら嘘でしょう」
「菓子名さん、野球観戦中にどこか遠くを見ているように感じました。試合の行方ではなく、何か別の世界に思いを馳せているような。もしかして、今日のデ、デート、無理しているのではないかと思って……」
デートという単語に気恥ずかしさを覚えたのか。少し顔を背けた状態で言葉が紡がれた。
2つの驚きがあった。心情の機微を言い当てられたという驚きと、その機微を言い当てた早坂その人に対する驚きである。
(女性の勘かな。それとも、早坂さんは人の心の動きを読み取る才があるのかも)
事実を言い当てられたことに対する諦念めいた思いが広がっていた。同時に、その思いを言葉にする機会に恵まれたのだなと感じた。
「実は……昨日、昔馴染みに会いました。私をプロ野球選手としてスカウトしてくれた人間です。その人に、今の職場で一緒に働かないかと誘われました」
「スカウトの方の職場ということは、プロ野球の世界で働くということですか?」
「ええ。今の仕事のアシスタント。千葉マリンズでスカウト補佐をやらないかと。実際に彼と一緒に日本各地を回って、ドラフト候補になりそうな学生、社会人を見て回る仕事です」
プロ野球選手になる為には毎年10月に開催されるドラフト会議で指名される必要がある。そして、ドラフト会議で指名する選手を求め、全国を駆け回る職がプロ野球スカウトマンである。各球団はそれぞれ10人前後のスカウトを雇っている。各スカウトは北海道、東北、関東、関西、四国、九州と地域別に分かれて選手発掘を行う。最近ではアメリカを始めとする海外担当や、独立リーグを専門とする部署を持つ球団もある。
ドラフト会議で指名される選手は毎年8人から12人程。球団の未来を担う選手達を探す為、高校野球、大学、社会人リーグで開催される試合に足を運ぶ。お目当ての選手がいれば練習場にまで赴き、練習風景を見学させてもらう。校内戦や練習試合、独立リーグの試合等、候補選手を調査する為に1日何試合も観戦する。候補選手をリストアップした後は、その選手の特徴と長所、短所、将来性や即戦力性を纏めたレポートを作成し、各担当地区のスカウトマンが一斉に集うスカウト会議で情報共有を行う。ドラフト候補になる選手だけでも軽く100人を超える。その中から、現状のチームに足りない戦力、3年から5年後を見据えた戦力となる選手を絞り込んでいく。相当量の根気、体力、何よりも決断力を必要とするだろう。「スカウトは靴底と精神をすり減らす仕事だ」とは、マリンズ入団直後にルイから聞かされた言葉である。
「球団によってスカウトの組織体制は異なるんです。基本的にスカウトマンは現場を知る元プロ野球である場合が多いんですが、北海道ソルジャーズのように民間アナリストを雇っている球団もあります」
「マリンズも独自の仕組みを持っているんですか?」
「ルイ……あー、昔馴染みの話です。マリンズは暦の長いベテランスカウトマンと若いスカウトマンのペアで各地域を担当する、ツーマンセル形式を試験導入することが決まったらしいんです。まずはスカウト補佐の形でベテランと組んで、スカウトマンとしての実力を磨けってことらしいです」
「今の菓子名さんのように1度プロ野球の世界から離れた人がスタッフとして現場復帰するのはよくあることなのですか?」
「うーん、あまり聞きませんね。知名度の高い選手であれば球団側からお呼びがあるケースもありますけど。でもスカウトや球団職員は退団した選手がそのままスタッフになる場合が多いですから」
一度プロ野球の世界から距離を置いた選手は、意図的であるか否かにかかわらず、その世界と縁を切ったと判断される場合が多い。その為、現場復帰を企図する元選手達は再就職の際も何かしらプロ野球の世界に携った職に就こうとする傾向があった。
「俺みたいなさしたる成績を残していない選手が出戻るのはレアケースだと思います。でもそれは、球団側が俺を必要としてくれてるってことで。そのこと自体は光栄に思うんですけど……」
菓子名は野球が好き。その事実は引退後も変わらない。加えて、ルイはプロ野球の世界へと導いてくれた恩人でもある。本来であれば申し出を断る理由はなかった。
「でも俺は、少し考える時間が欲しいって言ったんです」
「どうしてですか?」
「それが俺にもわからないんです」
米神を人差し指で叩く。
「俺は野球が好きです。選手としてプレーするのも、観戦も、野球に関して話をすることも。だから、自分が好きなことの延長線上に職を据えられることは凄い幸せなことだと思うんです。でも俺は即答できませんでした。何か、こう、モヤモヤしたものが胸に詰まったというか……上手く説明できないんですけど、すぐに首を縦に振っちゃいけないような気がしたんです」
ルイの誘いに対し考える時間を欲した。その事実はつまり、野球を職に据えることに対する躊躇いがあったということである。
「昨日からずっと考えているんです。どう答えるのが自分自身にとって正解なのかを」
懐には電話番号が記されたルイの名刺が忍ばせてある。答が出たら連絡して欲しいとの言葉と共に、ルイ本人からもらったものである。
菓子名は自分自身の選択に納得したかった。
「私は野球のことはよくわかりません」
空中で早坂と視線が絡んだ。
「でも、菓子名さんのことは少しだけ知っています。菓子名さんは陽気で明るい人です。一緒にいると、こちらまで楽しい気持ちにさせてくれる人です」
「そう言ってくれると嬉しいです」
「でも、時々さらっと嘘を口にする癖があるのはいただけません」
「それは、あれです。会話を盛り上げる為のスパイスってやつです」
「駄目です」
「すいません」
早坂は小さく口を尖らせることで抗議の感情を示した。先程反射的に紡いだサヨナラホームランに関連する見栄は見破られていたらしい。
「菓子名さんは時々嘘を言います。でも、嘘が下手です。心理学的に見て、嘘が下手な人は自分に嘘を吐くのも苦手だと言われています。自分に嘘が吐くことが苦手なのであれば、自分の感情に正直であるべきだと思います」
「自分の感情に正直であるべき……」
早坂の言葉が菓子名の意識を過去に向けさせた。1軍投手の変化球に全く対応できず、スランプに陥っていたプロ3年目の春キャンプの時である。当時の打撃コーチに「複雑に考えるな。開き直って自分の感情に従え」とアドバイスされた。その助言を聞いて開き直った結果、プロ入り始めて1軍の舞台で2塁打を放つことができた。
菓子名は後頭部を掻いた。どうやら思考の袋小路に迷い込んでしまっていたらしい。
しかし、早坂との会話で今の自分が取るべき行動がわかった。
(自分の感情に素直になる、か)
探すべきは絶対の解ではなく自分自身がどうしたいかという感情。その感情と向き合う為には、自らと会話する必要があるだろう。
菓子名は三十路過ぎの成人男性である。だが、精神の根の部分は初めてボールとバットを手にした野球少年の時から変わっていない。菓子名は野球が好きであり、野球をやる自分が好きであった。そう思っている時の自分は、自分の感情に正直である自分であった。
※
ドラフト8位で千葉マリンズに指名された翌日。菓子名は担当スカウトのルイと話す機会を得た。学校の正門前までルイがやって来ていたのである。
話し合いは学校近くの喫茶店で行われた。来訪の目的は、これからプロ野球選手として生きていく上でのアドバイスを伝えることであった。
金属バットから木製バットへと変わる際、新人野手がぶつかる壁のこと。プロの1流投手が投げる変化球への対応方法等の技術的な内容。1千万円近い契約金の内、向こう数年で何割が税金として消えていくか。プロ野球選手が日々使用するトレーニング機器の一般的な金額、個人トレーナーや栄養士を雇う際の年間費用、先輩選手と付き合う際に消費される飲み代の相場等の金銭的な話。プロ野球という特殊な世界で生きてく上でのアドバイスをもらった。
後から知ったことであったが、ルイは自らがスカウトに携った選手に対し、同様の話をして回っているということであった。プロ野球の世界が如何なるものであることを説くことが担当スカウト最後の役目だと考えていたらしい。
会話の最中、興味本位で菓子名はルイに尋ねた。
「どうして菓子名大地をドラフト指名したの?」
菓子名が通う公立高校はお世辞にも野球強豪校とは言えなかった。4番打者として活躍し、県大会ベスト8まで進出したことが地方新聞で取り上げられたことがあったが、それでもプロのスカウトの目に留まるとは思ってもいなかった。3年生として最後の夏大会を終えた後、遅めの大学受験勉強を始めてもいた。
それでも菓子名は千葉マリンズに指名された。スカウトマンであるルイの推薦があった為である。
ルイはその疑問に答えなかった。スカウティングレポートは当事者に明かさないのがルイのルールであるということであった。長所や短所を伝えることが、余計な先入観となって選手を縛ることを嫌ったらしい。
それでもルイはヒントをくれた。
「菓子名を指名に至った決め手は身体的能力や技術面じゃない。決め手は野球に対する価値観だ。その価値観があれば、プロでやっていけるだろうと踏んだんだ」
ルイはそう言って笑った。各地を行脚した男の年季の入った笑みは今でも菓子名の記憶に焼き付いていた。
ドラフト直後にルイと会ってから3日後、ルイが休職したことを球団スタッフから知らされた。病気療養の為に故郷に帰ったということであった。
その報を聞いた時は驚いたが、プロ野球選手1年目という激動の中でその驚きも押し流されていった。技術的に数段上の同僚達。高校野球とは次元が違うレベルの投球を披露する投手達。とんでもない世界に来てしまったという現実を受け入れ、この世界で生きていく為にはどうすればいいかと考えることに必死だった。当時18歳であった菓子名は現実に対処することに日々を追われた。その中であって、自らルイに紡いだ疑問と含みある返答の真意に関しての記憶は忘却の彼方へと消え去っていた。
※
菓子名は千葉県の生まれである。
だが、野球人、菓子名が生まれた場所は違う。
早坂と野球観戦した翌日の月曜日。たまっていた有休を消化し、菓子名は自らが始めて野球を行った場所へと車を走らせていた。
東京都稲城市。人口約9万人。都心から西南に約25キロ程離れた場所に位置する市である。1970年代のニュータウン建設によって形成された住宅街が多くの土地を占める一方、狸や鷹等の野生動物が生息する里山も広範囲に残っている。都心から30分の距離でありながら大規模な自然と古格ある民家が残る土地である。
京王相模原線稲城駅の近くにある駐車場に車を止めた。
菓子名がこの地を訪れるのは2度目であった。
「俺が初めて野球をやった場所なんだよねぇ、ここは」
菓子名が初めて所属した野球チームは地元である千葉県のリトルリーグであった。小学1年生で7歳の時である。
しかしながら、野球チームに入るより以前、5歳の夏に菓子名は野球と出会っていた。
(家族旅行で長野県にいった帰りだった。ホテルのテレビで野球中継を見た俺は、そのスポーツに夢中になった。だから親父に頼んで、帰宅途中にスポーツ店に寄ってもらったんだ)
その時に立ち寄ったのが稲城市であった。
(旅行の疲れで兄貴と母さんは車の中で寝ていた。俺は親父の腕を引っ張りながらスポーツ店にいって、青色のグローブを買ってもらったんだ)
グローブを購入してもらっても菓子名少年の野球熱は収まらなかった。勢いでボールも購入してもらい、親父とキャッチボールを行った。
(そうそう、店長だったおじいさんが親切でバットも貸してくれたんだよね)
店前の原っぱでキャッチボールを行う菓子名親子に、店長はバットを貸してくれた。
5歳の少年がテレビだけで会得した知識である。投球フォームも滅茶苦茶。バットの握り方もわからなかった。
だが、楽しかった。
白球を投げ、追い駆け、バットでボールを打ち返すことがこんなにも楽しく、人を夢中にさせるのかと驚いた。
打って、投げて、走って……初体験の野球は菓子名を夢中にさせた。いつまでも帰ってこないことを心配した母親が止めにやって来なければ、いつまでも野球を続けていただろう。
菓子名大地の野球に対する原風景であった。
早坂との会話の中で「自分の感情に素直になる」という言葉が出た。その時、自分の出発点に立ち返りたいと思った。
菓子名は生まれて初めて野球を行った場所、稲城市に店を構えるスポーツ店を探していた。
(自分のルーツである場所で今後のことを考えてみたい)
野球を初めて行った地で野球人としての今後の立ち振る舞いを考える。そうすれば何かしらいい考えが浮かぶかもしれない。行動1つ1つに意味を付与したがるのは菓子名大地の悪癖である。ナルシシズムに傾倒した発想だなと思う。だが本質的に目立ちたがりな自分らしいと妙に納得したのも事実であった。
過去の記憶を頼りに周囲を歩き回る。以前訪れた時にはなかった団地街や複合型ショッピングセンターが視界に映る。ショッピングセンターのすぐ向こうにゴルフ練習場が見えた。緑色に塗装された柱とネットは25年前にも見た記憶があった。
「確か川のすぐ側に店を構えてたんだ。グラブとボールを購入してすぐに裏の原っぱに飛び出して、そうそう、あのゴルフ練習場の鉄塔目がけてボールを打って……」
川や橋等の風景を目印にスポーツ店を探していく。近隣を何度も往復している内に、徐々に記憶が色を帯びていくのがわかった。
「親父が放ったボールを力一杯振り切ったんだ。ボールは山なりに飛んでいって山の方向に……あれ?」
菓子名はスポーツ店の位置を思い出した。同時に1つの疑問が浮かび上がってくる。
「えっと、後ろがすぐ川で前に山が見える。そうなるとここに原っぱと店があったはずで……」
眼前に広がる光景は記憶と異なっていた。キャッチボールを行った場所はその様子を大きく変えていた。原っぱにはショッピングセンターが建設されていた。敷地内には立体駐車場が建設されている。スポーツ店の姿はどこにも確認できない。
「あの、すいません。ここら辺に昔、小さなスポーツ店があったと思ったのですが……」
犬の散歩をしている婦人に菓子名は話しかけた。
「名前は忘れてしまったのですが、野球のポスターがたくさん貼られていた店だったと記憶しています」
「あぁ、高虎スポーツ店ね」
「そう、そんな名前でした」
「あそこは閉店しちゃったのよ」
「閉店……ですか」
「店長のお爺ちゃん、凄い元気な人だったんだけど3年前に病気で亡くなっちゃってね。ちょうどあの場所に店が立っていたの」
婦人が指差した場所にはショッピングモールの立体駐車場が立っていた。
「暫くは空き家だったの。でもあのショッピングモールの建設が決まった時に取り壊されたわ」
婦人に礼を言った菓子名は近くの階段に腰を下ろした。
正直ショックだった。野球人としての原風景を見れば何かいい考えが浮かぶかもしれないという淡い期待があった。
その淡い期待はあえなく霧散してしまった。
「そうだよなぁ……25年も経てば街だった変わるよなぁ」
マリンズのスタメンメンバーは3年でほとんど変わった。人もチームも刻々と変わっていく。街だけが変化と無関係であるはずがない。
階段に座った状態のまま、菓子名はただ時が流れるのに身を任せた。当てが外れた以上、この街でできることはない。とは言えこの場をすぐに離れる気も起きなかった。
(気持ちを持てあますってのはこういう状態なのかな……)
太陽を隠す入道雲がその形を変えていく様をただ眺め続けた。
どれ程その場にいただろうか。
「柄にもないことをしとるのぅ」
菓子名を現実に引き戻したのは聞き慣れた声であった。
聞き慣れて尚驚きを覚えた理由は、その声主がここにいるはずのない人物であった為である。
「ふやけた麩のような表情がいつものお前じゃろう。いつになく真面目くさった顔しよってからに」
「千歳、何でここにいるのさ?」
声主、久慈風千歳は口を尖らせた。
「何じゃその疑問は。我が我のいきたい場所に出向いて何が悪い。暇をもらうと貴様には言っておいたじゃろうが」
「だって千歳は、人に会いにいくっていったじゃないか」
「偽りはないぞ。我の出会い人はこの地が出の人物じゃからの」
「それじゃあ俺と会ったのは偶然だって言うのか? 偶然同じ場所に、偶然同じ時間に居合わせたってこと?」
「大体はそうなるのぅ」
千歳は掌をヒラヒラと振って見せた。相変わらず人を食ったような立ち振る舞いである。
1つの偶然ならわかるが、2つも偶然が重なることなどあるだろうか?
首を傾げる菓子名を尻目に千歳は軽い動作で階段に腰掛けた。
「それで? 真顔で黄昏趣味なんて柄にもないことをする理由は何じゃ?」
「俺だってたまには悩んだりもするよ」
「見たところ、その悩みには答えが出ているように見えるがのぅ」
思わず千歳に顔を向けた。
「無闇に歳月を重ねてきた訳ではない。知己の心情の機微くらいは推測がつくわ。大方、あのスカウトマンの誘いに関してじゃろうて」
見透かされているなと諦念めいた感情が広がった。年の功か。或いは千歳が会得した審査眼が成せる業であろう。
菓子名は悩むフリをする季節が過ぎ去ったことを自覚した。
菓子名はベンチから立ち上がり、その場で軽くジャンプした。
と、全力で前に向かって走り出した。
だが、20メートル近く走ったところで動きを止めた。両足に走った痛みが下半身の自由を制限したのである。
「これが今の俺。俺の限界」
両足を引きずる形で菓子名は千歳の下へと戻って来た。
「俺はルイさんの誘いに即答できなかった。スカウトをやるか、やらないか。そのどちらが俺にとっての正解かわからなかったから……でも本当は違った。俺はさ、野球が好きだ。だからプロ野球に関わる仕事ができれば、それは凄い幸せなことだと思う。でも俺は、怖いって思ってしまったんだ」
「怖い?」
「変わってしまった自分を見るのを怖いと思ったんだよ」
両足の怪我は晩年のプロ野球選手時代に負ったものである。プレー中の両足アキレス腱断裂という大怪我は、菓子名の選手生命を絶つ直接的な原因になった。怪我から3年が経過した。日常生活には支障のないレベルにまで回復しているが、先のような全力疾走はまだできない。蓄積された疼痛が両足にブレーキを掛けるのである。
「俺は昔から0か100でしか動けない男なんだ。力配分が苦手なタイプという自覚もある。それに、やるからには全力を尽くすってのが信条でもあったから」
右足に手を当てる。
「昨日マリンズの試合を観て、再認識したんだ。あぁ、俺はもうああやって全力プレーできない人間なんだなぁって」
現役を引退してからプロ野球の試合を観る度、薄々思っていたことであった。その事実を深く考えないようにしていた。
プロ野球選手に未練がないという思いに偽りはない。
それでも、大怪我をしなかった菓子名大地であればどこまでやれただろうか? という可能性を思わなかった訳ではない。プロ野球の試合を観ると、その可能性に自然と思いを馳せる自分がいた。
「全力を出せない俺がチームに戻ったとして、俺は昔みたいにチームの為に動けるのかって思ってしまったんだ」
「考え過ぎじゃろ。お前さんが実際にまたプレーする訳じゃないじゃろうに」
「確かに俺は選手じゃない。だけど、仕事に対するスタンスとしての問題でさ。全力で動けない男が選手達を見てどう思うかなって」
選手としての自分とスタッフとしての自分は違う。見えてくる世界も変わってくるだろう。そんな中で、身体を全力で動かせない自分がグラウンド上の選手を見た時に如何なる感情を抱くだろう?
「全力で動けない自分に負い目を感じて……もしかしたら選手に嫉妬するかもしれない。自分を卑下して、凄くネガティブな人間になってしまうかもしれない。そう思うと、即答できなかった」
チームも街も月日と共に変わっていく。その中で自分自身だけが例外であるとどうして言えるだろう。
(俺は、変わってしまった自分を見るのを恐れている)
心のどこかでその事実をわかっていた。だからこそルイの提案に首肯を返すことができなかった。プロ野球の世界に戻れば、嫌でも過去の自分と今の自分を比べることになるとわかっていたから……。
と、菓子名は反射的に腕を伸ばしていた。千歳が何かを投げて渡して来た為である。
投げ渡されたものの正体は千歳が封印されていたバットであった。どうやら家から勝手に持ち出してきたらしい。
「千歳、勝手にバットを持ってきて……」
「素振りしてみろ」
「急に何でさ」
「いいから」
不審に思いつつもその場で素振りを行った。
千歳は得心がいったという風に頷いた。
「やっぱりお前さん変わらんのぅ。昔のままじゃ」
「そりゃ変わらないよ。引退してからフォームを変える必要、ないんだから」
「構えの話ではない」
千歳は人差し指を立てた。顔に浮かべられた微笑は人を小馬鹿にするものではない。積年を感じさせる年長者の笑みであった。
「菓子名。お前さん、自分は変わったと言ったな。じゃが我の見る限り、お前さんは昔から何も変わっていない」
諭すような口調で千歳は言葉を紡いでいた。
菓子名は千歳の言葉の真意を尋ねようとした。
だが、不意に鼓膜を叩いた音に意識を奪われた。羽音にも満たない微かな音であった。そうであって尚明確な音だと認識できた理由は、その音が菓子名にとって日常生活に溶け込んだものであった為である。
ベンチから立ち上がり、音が聞こえた方角へと顔を向ける。視線の先にはゴルフ練習場が見えた。目に見える光景の中で25年前と変わらず残る唯一の建造物である。
「間違いない。あれは、野球の音だ」
言うや菓子名は音が聞こえた建物へと歩き始めていた。
乾いた短音が無意識的に四肢を突き動かした結果であった。その音が聞こえたということは、その場所は菓子名にとって意味がある場所なのだという確信があった。
自然と上がった口角に気付くことなく、菓子名は早足でゴルフ練習場へと歩み始めた。
「野球馬鹿よのぅ」
期待で足取りを軽くする菓子名の背後で、千歳が呆れた声を漏らしながらついて来ていた。
※
住宅街の中央に位置する形でその建物はあった。
「随分と年季の入った佇まいじゃな」
看板を見上げた千歳が率直な感情を漏らしていた。
白を基調とした2階立ての建物にエコーゴルフセンターの看板が取り付けられている。迫り出した形の玄関を見た菓子名は、ゴルフセンターというより民宿のようだなという印象を覚えた。千歳の言葉を参考にするまでもなく、年号が変わるより以前に建造されたであろう事実は容易に推測できる。色の変化した外壁や錆そのものが模様のように見える看板からは、この地に建造されて長い事実を暗黙的に示唆するものであった。
「エコーゴルフセンター……ってことは、ゴルフ練習場ってことだよな」
遠目に見ても特徴的な緑色のネットとポールは、打ちっぱなし場のそれである。
だが、時より鼓膜を叩く乾いた音は、間違いなく金属バットが野球ボールを叩く音であった。
半信半疑で玄関を潜る。
セピア色を覚える光景に足が止まった。
クラブハウスを思わせるカウンターテーブルと赤紫色のソファーが置かれている。壁面には額縁に入れられた賞状が肩を寄せ合っている。向かいの壁にはサインが書かれた色紙郡が見える。その脇には眼科でよく見る視力検査表の紙が貼り付けられている。木目がくっきりと浮き出た棚の上には何かのアニメのキャラクターと思われるフィギュアが無数に配置されている。棚の下には様々な雑誌が隙間なく入れ込まれたラックが並列配置されていた。
統一感のない内観でありながらも、なぜか各々置かれたものが調和を感じさせる不思議な空間が広がっていた。
どこか懐かしさを感じさせる空間を前に、好奇心を刺激されるのがわかった。
(何だろうな……不思議な感じだ。居心地のよさというか懐かしさというか……)
部屋の奥には天井まで伸びるガラス張りの棚が置かれていた。
菓子名はなんとなく気になってガラス張りの棚の中を覗き込んで見た。
雑多というのが第一印象であった。猫をモチーフとしたと思われるぬいぐるみ、針の止まった壁掛け時計、独特な形状の酒瓶……そしてなぜかSLのナンバープレートが鎮座していた。旅行のおみやげ品をそのまま飾ったような印象を覚える。
菓子名は懐かしさの正体に思い至った。
(昔遊びにいった祖父の家に似ている。室内の構造というより、雰囲気がどことなく)
本棚に敷き詰められた分厚い本。棚の中に逆さ向きで重ねられた茶碗。湖底に堆積した雲母のような歳月を所々から感じ取られる空間。そんな祖父の家を思わせる空気感がエコーゴルフセンターの室内に漂っていた。
「昭和の匂いが残る場所じゃな」
千歳は時代を感じさせる1人掛けのサロンチェアを撫でていた。
「いらっしゃいませ。何をなされますか?」
カウンターテーブルの奥から店の人がやって来た。恰幅のいい青年男性である。
「えっと、野球をやりに来ました」
自前の木製バットをポンと叩くと、店員は「あぁ」と納得の首肯を返した。
「野球であれば100円になります」
100円を手渡すと1枚のコインが差し出された。模様も何も印字されていない。コインというより銀の丸板と表現したほうがしっくる代物である。
セピア色の部屋を通り抜けて外に出る。開けた視界の遥か前方に緑色のネットと鉄柱の存在を確認できる。思う存分確保された開放感ある空間は、ただ眺めているだけでも気分がスカッとするから不思議である。地面にはゴルフボールが点々と転がっている。
「兄さん、ちょっと通してくれるかい」
背後から声を掛けられた。入り口で周囲を見渡していた為、通行の邪魔になっていた。
「あ、すいません」
老人に一礼して脇に退いた。
老人は肩に掛けていたゴルフバックからマイグラブを取り出していた。慣れた手付きでティーとボールを準備してく。このゴルフ練習場の常連なのだろう。
見れば、エコーゴルフセンターには先客達の姿があった。
ベンチに腰掛けて缶ビールを煽る男性がいる。その隣では青空将棋に勤しむ2人の男性の姿があった。
と、老人の笑い声が菓子名の鼓膜を震わせた。初老の老人達が顔を突き合わせて何やら言い争っていた。
「お前さん半世紀近くゴルフやってるのにちっとも上手くならないの」
「ハッ、パターがど下手なヘボゴルファーに言われたくないわい」
ベンチで文庫本を読む老人が呆れの表情を浮かべているのが見えた。
「よくも毎日そうやって口喧嘩ができるものだ。育ちの悪さがわかる」
「うるさいぞエセ作家。貴様、わざわざ本を読みにここまで来たのか」
「釣りだよ。日課なんでな」
文庫本をしまった老人は釣竿を持って近くのドアを潜り抜けていった。扉の向こうには小さな池が広がっていた。エコーゴルフセンターは釣堀が併設されているらしい。ビュンビュン飛び交うゴルフボールの近くで釣竿を垂れる客達の姿を確認できた。
眼前の光景を菓子名は呆然と眺めていた。
「今って月曜日の昼間だよな……」
心中の感情が言葉となって口から零れていた。
眼前に広がる光景が俄かには信じられなかった。
青空将棋を行う男性はスーツ姿である。齢も40を超えたばかりのように見える。糊の効いたシャツと光沢ある革靴がやり手の営業マンと言った雰囲気を漂わせている。外回りの途中で立ち寄ったのだろうか? 釣り糸を垂らす者の中にも会社員と思える風貌の人間が無数にいる。働き盛りの年代に見える釣り人達が老人衆と楽し気に会話を交えている。先程口喧嘩を行っていた老人達はいつの間に仲直りしたのか、笑顔で缶ビールを突き合わせていた。
(ここは、俺の知らない世界なんだ)
平日の午前中。思い思いの時間を過ごす人達の姿があった。菓子名が知らない時間を生きる者達の世界が広がっていた。
「兄さん、野球しに来たんだろ?」
呆けた表情を浮かべる菓子名に声が掛けられた。先程入り口ですれ違った老人であった。髪の色と同じく白く染まった眉毛は長く、完全に瞼を覆っている。積年により腰はくの字に曲がっており、顔には深い皺が幾重にも刻み込まれている。
「あ、はい。そうです」
「野球やるならこっちだ」
老人はゴルフ練習場の奥に向かって歩き始めていた。
曲がった背中を追う形で菓子名は響ゴルフセンターの奥へ奥へと進んでいった。
そこで菓子名は見た。緑色のネットで仕切られた空間の向こうに金属バットが立て掛けられている。網目の向こうには一目見て年代ものとわかる鉄色の機材郡が鎮座している。地面の上に転がっている球体のそれは、間違いなく野球ボールである。
(なるほど。このゴルフ練習場はバッティングセンターも兼ねているのか)
エコーゴルフセンターのバッティングスペースはゴルフ練習場に併設される形で建設されていた。併設といってもネットで仕切られただけの簡易的なものである。
「ほぅ、手書きの看板とは今日日珍しいのぅ」
各ゲージに取り付けられた球速表示の看板は千歳の言う通り手書きであった。速度表示と右打者、左打者の打席表示が黒いマジックで書かれている。
「それで? どうするのじゃ?」
千歳が菓子名を覗き込む形で口を開いた。
「野暮なことを聞くじゃないか」
菓子名は笑顔で自前の木製バットを掲げた。
眼前に野球をやる機会がある。それを見過ごす菓子名ではない。
バット片手に「高速」の看板が掲げられた打席へ入る。
打席の中も外見宜しく年代物であった。壁に立て掛けられた防護マットとホームベースには数え切れない数の傷が刻み込まれている。かつては白かったであろう備品達は燻されたハムのような色を帯びている。恐らく創業時から使用され続けているのだろう。
と、打席の傍に設置されている錆だらけの箱が目に入った。
不思議に思って顔を近付けると、上面に500円玉程の穴の存在を確認できた。
(ははー、この穴にさっきのコインを入れてくれって訳か)
田舎で時々見る無人野菜販売所のような仕組みだなと漠に思った。
穴の中にコインを落とす。開始ボタンを押すと前方の投球機が軋みを上げて動き始めた。
ホームベースに向かって白球が投げ放たれた。
外角低めに放り投げられた白球はしかし、低過ぎた。地面スレスレを飛ぶボールにバットを強引に繰り出した。乾いた音と共に打ち返された打球は力なく地面を転がっていった。
2球目の球は先と違って大分高いコースに放たれた。内角高めの球は見逃せばボール球である。
構うことなく菓子名はバットを振った。薪割を思わせる豪快な縦振りで球を叩く。フラフラと打ち上がった打球はほとんど前方に飛ぶことなく地面にポトリと落ちた。
菓子名は軽く口笛を吹いた。
(球のバラツキが凄い。じゃじゃ馬、荒れ玉投手って感じだ)
上下左右、投球機から放たれるボールのコースは1球1球がバラバラであった。
(例えるなら好不調の波が激しい豪腕投手。調子のいい時は9回完封16奪三振とかやるけど、悪い時は3回8失点、7フォアボールとかであっさり大炎上する。シーズン成績8勝8敗、防御率4.19。貴重な戦力だけど貯金を作れない先発4番手投手って感じかな)
怪我や疲労、精神面でのバランスが少しでも崩れれば投球フォームは歪になる。その意味、ベストコンディションで登板日を迎えられる投手はほとんどいない。だからこそ、不調であれば不調なりに試合を作れる投手がプロでは1流と称される。プロ野球のペナントレースは6ヵ月間130試合以上を戦う長丁場。完封と炎上を交互に繰り返すようなムラのある投手よりも、どんな状況であっても6回3失点で試合を壊さない投手が信頼を獲得する。
それでも菓子名は荒れ玉投手が好きであった。投げた後のボールの行方はボール自身に聞いてくれ。そう思わせるある種の潔さは見ていて気持ちがよかった。
(さて、次はどんな球を投げて来る?)
1人ニヤリと笑った菓子名はバットを握り直した。体内のエネルギーをグリップテープ越しにバットに流し込む。
5球目のボール。やや低めであったが打ち頃のコースにボールが飛んで来た。
コンパクトなバッティングフォームで繰り出したバットがボールを叩いた。
打ち返されたボールが宙に舞う。大きな弧を描いたボールは遥か彼方まで飛んでいった。
やがて勢いを失ったボールが地面に落ちた。
その時、新鮮味と郷愁がない交ぜになった感情が心の底より湧き出て来た。
「こういうバッティングセンターもあるのか」
ボールの落着点が見えるバッティングセンターを菓子名は始めて見た。
ゴルフ場に併設している為にその敷地は広い。そのおかげで打ち返されたボールがグングンと空中を進む様子を、そして何よりも、落下したボールが地面を転がり停止するところまでを見届けることができた。
その光景に野球少年の記憶が蘇った。ただボールを遠くに飛ばすことに夢中になった日々の記憶である。父親に投げてもらったボールに我武者羅にバットを繰り出した。ボールにバットが当たれば嬉しかった。打ち返したボールが綺麗な放物線を描いたものならばその場でジャンプして喜んだ。打ち返したボールがどこまで飛んだかを確かめる為に落着点に向かって走り、拾い上げたボールを父親に向かって誇らし気に掲げて見せた。25年前の記憶である。
投球マシーンから再度ボールが投げ放たれた。
低めに抜けたボールであった。ストライクゾーンからは外れている。試合であれば間違いなく見送るボールである。
(関係ないね)
菓子名は迷いなくバットを振り切った。ドライバーを振るゴルファーのようなアッパーフォームから繰り出されたバットが白球を叩いた。
打ち返されたボールが青空に吸い込まれていく。やがて重力に引かれた白球が芝上へと落ちて来た。ワンバウンドしたボールはコロコロと転がり、先程打ち返したボールの約1メートル先で停止した。
自然と笑みが浮かんだ。
距離にして1メートル。たった1メートルである。
先程よりも遠くにボールを飛ばすことができたという事実がただ嬉しかった。もっと遠くへいきたい。もっと先へいきたい。距離の長さが導く原初的な喜びがあった。
荒れ玉投手のコントロールが改善されることは最後までなかった。ストライクゾーンに入ったり外れたり、時には胸元近くを抉るコースにも放り投げられた。連続で同じコースに決まるボールはなく、その事実がどこか投球機に人間味を与える要因となっていた。適度にばらけたボールを打ち返している内に、菓子名はまるで生身の人間にボールを放ってもらっているような錯覚を覚えた。
もっと遠くへ飛ばしたいという欲求に突き動かされた菓子名は無我夢中でバットを振り続けた。
気付いた時には1コイン分のボールを打ち終わっていた。
両足の古傷が注意を喚起した。我を忘れて両足に体重を乗せ過ぎてしまったらしい。
「わかってるって。やり過ぎるっなってことでしょ」
通路に出た菓子名は近くのベンチに腰を下ろした。
打ち終わった後の爽快感があった。単純に楽しかったという感情が自然、笑みとなって顔に現れていた。
童心に返るとはこういうことを言うのだろう。
「だらしない格好しおってからに」
ベンチで大の字を作る菓子名を見た千歳が呆れた声を漏らした。
「三十路過ぎの男がする格好ではないのぅ」
「いいんだって。今、俺の心は少年に戻っているんだからさ」
やはりバッティングセンターには菓子名にとって心を震わせる何かがあるのだ。それは新たな発見である時もあり、再発見の時もある。そして今回は後者だった。生まれて初めて野球を行った地、その地で見付けたバッティングセンターで野球の楽しみを思い出す。奇縁と呼べるものであろうか。
プシュっという耳に心地いい短音が鼓膜を叩いた。
音のほうを見ると、缶ビールを煽る千歳の姿があった。普段アイスクリームばっかり食べている千歳にしては珍しいチョイスである。
「おい、ずるいぞ」
愛飲家と呼べる程に酒を飲みはしない。それでも、運動で汗を流した後に飲むビールの旨さを知らない大人ではない。千歳の喉が上下する度に聞こえる水音が意識とは無関係に唾液腺を刺激した。
「何がずるいじゃ。ちゃんと店先に硬貨を置いてきとるわ」
「俺にもちょうだいよ」
「たわけ。貴様は車で来たのじゃろう。飲酒運転の片棒を担ぐ気はないわ。それに、じゃ。少年に戻った男にアルコールを勧める訳にはいかんからのぅ」
千歳はこれみよがしに缶ビールを煽って見せた。
「少年は少年らしくジュースでも飲めばいいじゃろうて」
車を置いて電車で帰る訳にもいかない。ビールを諦めた菓子名は近くの自動販売機でコーラを買うことにした。
驚いたことに販売されているコーラは瓶であった。
(瓶のコーラを飲むなんて何年振りだろう)
エコーゴルフセンター。行動する度に懐かしさと驚きを覚える不思議な場所である。
瓶のコーラを煽る。硝子の持つヒンヤリとした感触が唇に心地いい。刺激を帯びた液体が体内を流下していく。
「美味い」
個性のない言い回しだと思ったが、素直な感想を美辞麗句で飾り立てる必要もないだろう。
一息吐いた菓子名はベンチに座った状態で響ゴルフセンターを眺めた。
平日の午前中だという事実はこの場所には関係ない。皆が皆やりたいことをやり、楽しみたいことを楽しんでいる。ゴルフの打ちっ放しに興じる者。湖面に釣り糸を垂らす者。何をする訳でもなく集まって談笑に興じる者。邪気も打算も抜きに、自らの感情に素直に向き合った人達の姿があった。
穏やかな光景が広がっていた。
歴史に溶け込み、歴史そのものになったような場所。多分に詩的な表現だなとは思ったが、そう思わせる不思議な時の流れを感じたのも事実であった。
きっと、この穏やかな光景が何十年も変わらずに続いているのだろう。
金属バットがボールを叩く音がした。
見ると、先程、先導役を務めてくれた老人がバッティングゲージの中にいた。ゲージには「中速」と書かれた看板が飾られている。
バットを構えた老人に向けてボールが投球された。
腰の曲がった老人は齢80近く見えたが、打撃フォームは驚く程に豪快であった。ピンと垂直に立てられたバットが、綺麗なダウンスイングでボールを捉えた。
カキンという音を残して宙を舞った白球はバンカーを越えていった。芝上を転々とした白球は菓子名が打ち返したボールより先で停止した。
「ナイスショット」
自然と口が動いていた。野球にショットはないなと言ってから気付いた。ゴルフ場に飛んだボール故に反射的に出た言葉であった。
声に反応した老人が振り返った。
邪魔をしてしまったかなと一瞬思ったが、やや見ると、唇からほんの僅かに白い歯が覗いていた。
「嬉しいことを言ってくれる」
目元が僅かに緩んでいた。
菓子名は笑顔と共にコーラ瓶を掲げた。
※
響ゴルフセンターを後にした菓子名はルイへと電話を掛けた。
「もしもし」
3コールの後、ルイが電話に出た。
「答えを聞かせてもらえるのか?」
「スカウトの件、遠慮させていただきます」
暫しの沈黙があった。
「理由を聞いてもいいか?」
「もう少し野球を勉強してみようと思いまして」
「スカウト活動をしながらでも勉強はできるだろう」
「何にも所属していないフラットな状態だからこそ見える野球の風景があると思うんです」
落着点が見えるバッティングセンターがあった。そこにはプロ野球選手であった菓子名が知らない時間を生きる人達の姿があった。腰がくの字に曲がっている程に高齢でありながらも快音を響かせる老人の姿があった。新しいバッティングセンターにいく度に新しい発見がある。その事実が好奇心を刺激し、次はどんな発見があるのだろうかと心を奮わせる。
「野球をもっと勉強して、野球人である自分自身に自信を持てるようになったら、また違う道を考えてみたいと思います」
時の流れで自分が変わってしまったとしても、野球に携わっている自分を信じられるようになりたい。どれだけ時が経とうとも、野球人である菓子名大地が変わらないことを誇れるようになりたい。そうなる為には、菓子名大地はまだまだ野球を知らなさ過ぎる。
電話越しでルイが笑うのがわかった。
「野球のことを話すお前は実に楽しそうだ。その性格は今でも変わっていないようだ」
「俺は野球が好きなんですよ」
「ドラフトで指名した時から思っていた。菓子名大地のような性格のプロ野球選手は珍しいとな」
「ルイさん、俺はもうプロ野球選手じゃありませんよ」
言葉には含みがあった。ドラフト指名直後、ルイが紡いだ疑問の答を知る機会を得たと感じた為である。プロ野球選手になる人間にドラフトでの指名理由を教えない。余計な先入観を与えたくないというルイのポリシーであった。そして菓子名はもうプロ野球選手ではない。真意を聞いても問題ないだろう。
「そうだな、もう時効だろう。スカウティングレポートの第1報に何を記したか。今でも覚えている。菓子名大地。長打力はないが、柔らかいリストを使用したバットの振り方には非凡なものあり。力みなくスムーズにバットが出る打撃フォームはプロ向き。プロ投手のストレートにもパワー負けしないだろう。球際に強い内野守備も魅力。数年2軍で鍛えれば1軍内野陣の一角に食い込める可能性もあると感じた」
「可能性……ね」
自虐は趣味ではない。だが、プロ野球で通用しなかった事実は客観的に見ても明らかである。可能性という単語に込められた真意を理解することができた。
「突出した能力ががあるかは重要な判断基準だ。打撃力、走力、守備力、何でもいい。高校3年生の菓子名は確かに高校離れした実力の持ち主であったが、ドラフト指名するには決め手に欠けた」
「それでもルイさんは俺を球団に推挙しました。なぜです?」
「ドラフト候補リストにどういう選手を加えるかはスカウトマンの個性が反映される。甲子園優勝投手。大学リーグの三冠王野手。そういう選手は誰だって見付けてこられる。スカウトマンをやっていて1番楽しいのは、誰も知らない無名の選手を自分の足を使って見付けた時だな」
電話越しでも声音からルイの表情が崩れているのがわかった。
「菓子名大地はよくやってくれた」
「でも俺の通算安打数はたったの60本ですよ」
「確かに目立った成績は残せていない。だが球団こそ違えどプロ野球選手菓子名は10年以上に渡ってプロ野球選手であり続けた。私のスカウトマンとしての推挙基準は、その選手が10年以上プロ野球選手でいられるかどうかだからな」
プロ野球の平均在籍年数は約9年と言われている。各球団を転々と移り続けたものの、菓子名は10年以上プロ野球でいることができた。その意味、ルイのスカウトマンとしての目は確かだったということになる。
「菓子名は人の成功を心の底から喜べる人間だった。それが菓子名をドラフト指名した決め手になった」
「え? それが理由?」
「そうだ。プロ野球選手はチームの一員であると同時に個人事業主だ。その事実がある以上、同じチームメンバーでもライバル。それが同じポジションの選手同士となれば思うところもあるだろう。年俸格差、契約形態の違い、その時の監督が求める選手像に合っているか否か。プロ野球選手と言えど人間だ。待遇差に対して感情に波風立つのは仕方のないことだと言える。だが、その手の感情や思惑はチームの和を破壊し組織を機能不全に陥らせる。ドラフト指名時のマリンズは新監督の就任とベテラン陣の引退、主力選手等のトレードもあってチーム内の新陳代謝が急激に進んでいた。打算と思惑が滞留するチームの雰囲気をいい方向に持っていく為には菓子名のような男が必要だと思ったんだ」
「顔と性格くらいしか取り柄のない男ですよ?」
「そういう台詞をおくびもなく言える男が当時のチームにはいなかった。言動で負の感情を掃える切符の良さがお前にはあった。組織の中で人と人を繋ぐ有機的な結合剤となれる人間は多くない。お前はいい意味でも悪い意味でもわかり易い男だった」
「その意味でマイペースな男なのだろうと」ルイはどこか懐かしむような口調で言った。
「菓子名大地と出会った時、お前は高校2年生だった。どこかの高校と練習試合をやっていた。お前は味方のプレーに一喜一憂していた。見ているこっちが呆れる程のオーバーアクションでな」
「チームメンバーが活躍したら喜ぶのは当然でしょう。野球はチームスポーツなんですから」
「私はこれまでのスカウト人生で数多くの高校球児を見てきた。プロの世界で活躍を期待される原石達だ。入団後すぐに1軍レギュラーを勝ち取れるだけの逸材もいたし、野球をすることをこよなく愛する若者達も多く見てきた。だがな、菓子名程『野球を観ること』を全力で楽しんでいる男はいなかった。お前は他人のプレーを純粋な感情で迎えた。そこには嫉妬も打算もない。そういう見ていて気持ちのいい男は組織にとって益になると判断した。そして菓子名はチームにとって確かに益になった」
「あまり……実感はありませんね」
「素で自分の外見を賛美するような性格の男だからな。意識的ではなく普段の立ち振る舞いがムードメーカーの役割を果たしていたということだ。菓子名。今現在、マリンズの球団運営、スカウト人事部長クラスの人間はお前がよく知る元マリンズの先輩選手達だ。そいつ等が私の我侭で野にいる元野球選手をスカウトとして雇いたいと言った時、皆が皆口を揃えて「菓子名なら大丈夫だろう」とゴーサインを出してくれた。書類審査も面接もなしでだ。何年経とうともあの男は変わらないと皆が知っていたからだ。この信頼はお前がプロ野球選手として獲得した成果だろう」
菓子名は苦笑と共に首筋を掻いていた。通算60安打の男が皆の記憶に残っていたという事実は素直に嬉しいと思う。とは言え、自分で自分を褒めることは多いが、他人から正面切って褒められることはあまりない。ルイの言葉に柄にもなく照れているという自覚があった。
「人の成功を心の底から喜べる人間は稀有だ。そういう男と共に仕事がしてみたいと思ったし、そういう男がどういう選手を見付けてくるのか興味があったのだがな。とは言え、不勉強を自覚する若輩に向ける言葉を私は1つしか持ち合わせていない」
「何でしょう?」
「励め」
小さな笑い声と共に電話が切られた。
※
不思議と喜色の感情が湧き出てくるのは、知識欲が刺激されたが故であろうか。思い返して見れば、自ら勉強の言葉を口にしたのも久しぶりな気がした。
「馬鹿にも色々いるが、お前の場合は野球馬鹿となるの」
毒の効いた千歳らしい言い回しである。
「そいつは俺にとって褒め言葉だね。そりゃあ、子供の頃から野球をやっていれば野球馬鹿にもなるさね」
「三つ子の魂百までと諺があるくらいじゃ。その性格、そう簡単には直りそうにないのぅ」
ベンチに座った千歳はスッと目を細めた。
「もっとも、お前さんが野球を始めたのは5歳の時じゃったか」
千歳の言葉に疑問を覚えた。
「俺が野球を始めた時のことって話したっけ?」
「直接お前さんから聞いた訳じゃない。ただ単に知っていただけじゃ。菓子名、お前と会うのは3年前が初めてじゃないのじゃ」
「それ以前に会っているってこと?」
「そうじゃ」
「プロ野球選手時代?」
「もっともっと、ずーっと前じゃ」
皆目見当が付かない。
「そのバットのグリップテープを外してみることじゃ」
霊体の千歳が長年依り代としていた木製バットのグリップテープは長期間の使用で黒ずんでいる。長年使用されたバットは皆このように燻されたようになる為、その外見を特別気にすることはなかった。
疑問を覚えつつもグリップテープを外す。半世紀近く外気に触れていなかったであろうグリップ部分は、本来の木の色を残していた。
飴色の木肌にはマジックペンで文字が書かれていた。
高虎スポーツ店。
書かれた文字は網膜以上に記憶を刺激するものであった。かつてこの地にあったスポーツ店。探しても見付からなかった店。菓子名大地が野球を初めて行った場所。だが、どうしてその店の名前がバットに記されているのかわからない。
「少し昔の話をしようかの」
千歳は静かに語り始めた。
「我は霊として1世紀以上現世に留まり続けてきた。じゃが、100年以上の時をずっと実体でいた訳ではない。時より依り代の中で休眠状態でいなければならない時期がある。3年前まで我は30年近くそのバットの中で過ごしていたのじゃ」
「じゃあ、バットの中にいる状態で高虎スポーツ店に?」
「ああ。店主の高虎とは腐れ縁じゃ。バットに身を宿した状態で各地を転々としている内にあの店に辿り着いた。あやつも野球好きでの。テレビ中継や酔いの席での野球談義等、多方面で野球の識を得ることができた」
店主が優し気な笑顔の持ち主であったことを菓子名は思い出していた。
「ある日のことじゃ。初めて野球をするという親子がやって来た。グローブとボールを購入した後、店近くの原っぱでキャッチボールをしておった。じゃが、子供の好奇心はそれだけじゃ満たされなかったようでの。その心を感じ取ったらしい高虎が子供にバットを貸してやったんじゃ。25年も昔の話じゃな」
「このバット、あの時に借りたバットだったのか」
「一途で頑固な子供じゃった。握り手もわからない構えでひたすらにバットを振っていた。母親が迎えに来てもまだ野球をやっていたいと駄々をこねていたわ」
千歳は微かに目を細めた。
「3年前に高虎が死んだ。店も取り壊しが決まり、その場に残ることもできなくなった。幸いと十分過ぎる程に休眠したおかげで、依り代の外で動ける程の力も戻っていた。新たな地に出向こうと思った時、ふとあの時の子供のことを思い出しての」
「どうしてそんな昔のことを?」
「印象的な子供じゃったからじゃよ。我は1世紀近く野球を観てきた。プロ野球も高校野球も大学野球も草野球もじゃ。我が観てきた野球選手の中で、あの時の子供程楽しそうな笑顔を浮かべる者はいなかった。じゃからな、会ってみようと思ったのじゃ。あの楽しそうな笑顔を浮かべる野球少年が今どうしているかをの」
「会ってみてどう思った?」
「野球少年が野球青年に変わっていただけじゃったよ」
千歳は白い歯を覗かせた。
「今日は高虎の命日でな。墓参りにこの地を訪れたという訳じゃ。墓の位置が変わったという話を以前耳にしていたからの。新しい墓地がどこかを調べるのに1日かかってしまった。この地はお前さんにとっても縁のある場所じゃ。いつの日か別々に訪れる可能性は考えてもいた。もっとも、同じ時間帯で出会ったのは偶然だったがの」
千歳が浮かべる笑みは年長者のそれであった。人生を積み重ねた者が持つ徳を感じ取ることができた。
「1世紀以上現世にいるとの、移り変わるものを数多く見る機会がある。人も街も風景も、何もかもが変わる。でもそれは当たり前のことじゃ。未来永劫同じものはない。変わって、なくなって、別のものになって……そうやって廻っていくのが世の理というものなのじゃからな」
千歳の笑みには自嘲が帯びているように感じられた。霊体として現世に留まる自身が理に反している。その事実に対する自虐かもしれないと菓子名は漠然と思った。
「じゃがの、その事実があるからこそ変わらないものに尊さが生まれると思うのじゃ。いつの時代も変わらない場所だからこそ人はそこに帰ることができる。再会した旧友が変わってなくて嬉しく思うのは、美徳とも言えるその人の本質がそのままであった事実故じゃ。何があっても変わらない場所。変わらない人。そんな存在がいたほうがこの世も面白いというものじゃ」
過去に向けて投射されたであろう遠望の視線には、外見に不釣合いな程に達観した粒子が内包されていた。
考えてみれば、久慈風千歳という人間のことをほとんど知らない。野球とアイスが好きな毒舌家という事実以上のことを知らない。霊体であることを「そういうもの」と深く考えずにいたが、現世に留まっているということは何かしらの未練があってからなのだろうか。そのような考えに思いを馳せるに至ったのは、盆を間近に控えた季節が成せる業なのかもしれない。
菓子名は近くのコンビニに向かった。
戻って来た菓子名の手にはワンカップの日本酒が握られていた。
「何じゃ、結局飲むのか」
「俺の分じゃないよ。供物がコーラじゃ締まらないからね」
意図を察した千歳は口角を上げた。
「高虎さんのいる墓地の場所を案内してよ」
「1度しか会ったことのない男の墓参りをしてくれるのか?」
「高虎さんがこのバットを貸してくれなければ、俺はボールを打ち返す楽しみを知らなかったかもしれない。野球人菓子名が生まれるきっかけを与えてくれた恩人だからね」
特段、運命論者ではない。だが、生涯で初めて野球を行った場所で当時を知る人物と偶然の邂逅を果たした。更にその日が恩人の命日という偶然が合わされば、生者を呼ぶ為に霊体が囁いたのかもしれないという「縁」に思いを馳せずにはいられなかった。
菓子名は振り返り、手にしたワンカップを前に突き出した。
「老人の充実した生涯に」
伸ばされた腕は、かつて高虎スポーツ店が存在した方角へと向けられていた。